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4/30/2012

心霊現象の科学をめぐってーその19 犬猫の場合、Nandor Fodorから

心霊現象の科学をめぐってーその19 犬猫の場合、Nandor Fodorから

 ユングやFairies そしてMiraclesの関係で、Nandor Fodorの”Between Two Worlds” を読んでいますが、そのなかに犬と猫の場合に関する話がのっています。

 猫に関しては感動的な話で、この本をご存知でない方も多いと思われますので、簡単にここに紹介させていただきます。

”The Haunter is a Cat" と題するエッセイです。例によって、英文を引用し、意訳をつけます。

 The question of telepathic element is important. Animal lovers will tell you that sometimes they get a message from their pet as clearly as if it were spoken. The occasion usually is that the animal is in peril of life or is actually dying. It is prcisely in such eventualities that in human beings telepathy reaches its highest efficiency. We may, therefore, assume that the mysterious mental operation by which as S.O.S. is sent is the same, whether an animal or human being is in extreme distress.
 テレパシーが働いているのかという問いは重要である。動物愛好者はまるで直接放話しているかのように時々、ペットからメッセージを受け取るという。そういうことが起こるのは、その動物が危機的状態にいるか死にそうなときである。人間の場合も、まさにそのようなときにテレパシーが最高の効果を発揮する。従って、われわれはこの不思議な精神が稼動して、S.O.S.を送るのは、動物も人間も同じようで、危難に面したときであるといえるであろう。

 The late Grindell-Matthews told me a still more extraordinary story. His cat struggling in the arms of a London Veterinary surgeon against suffocation by chloroform, not only sent him an S.O.S. across the Atlantic, but also "televised" the scene of its last moments. In a signed statement Grindell-Matthews syas:
 亡くなったGrindell-Mattewsが私に特別な話をしてくれた。彼の猫がロンドンの獣医によってクロロフォルムで殺されそうになっているときに、S.O.S.をアメリカにいる主人に送っただけでなく、最後の場面をまるでテレビを見るようなかたちで、送ってきたと。

 私は1924年に生後6ヶ月の小さな黒い猫をもらった。彼女は屋根の上で遊ぶのがすきであったが、或る晩、この屋根から8Feet下にころげおちた。番人が見つけてバスケットに入れて自分のところにもってきてくれた。みたところ、歯が折れ、背中が折れているようであった。獣医に電話して、来てもらった。注意深く調べたあと、獣医はできることは眠らせることだといった。わたしが抱いてやると、まるで助けてと訴えているようであった。私は彼女を死なしてはならないと感じ、彼女は苦痛を感じているのかと獣医に訊くと、下半身が麻痺しているようだから、苦痛は感じていないだろうとのことであった。明朝、Xrayで調べて、一体どうなっているのか詳しくみてみるということになった。翌日、X線はあきらかに背骨が折れていることを示していた。獣医はそんなに苦しんではいないだろうとの意見であった。それで、私はあらゆる手段を使ってその猫を助けてくれるように依頼した。約二週間後、わたしが会いに行くと、猫はとてもうれしそうであったので、そのままPick Up して、家に帰った。三週間から一ヶ月、私は二時間ごとにBrand's Essence を夜も昼も与えた。だんだん強くなり、走ったり、遊ぶようになった。そして時々、立とうと努力するようであった。数ヶ月経つと強くなり、よくなっていった。わたしが研究所から帰るのをいつも待ち、一度も私から離れようとしなかった。わたしのベッドで眠り、その愛情のこまやかさは人間的であった。

事故から約一年経って、私はNew Yorkにでかけなければならなくなり、猫を置いていかねばならなくなった。そして、3週間経った或る朝、5時ごろ、冷や汗をかきながら私は目覚めた。

 I had had a most awful nightmare of the cat struggling in the hands of a man in a white smock, with a goatee beard, evidently about to destroy her. The bedroom was reeking with chloroform and when my secretary came at 10 o'clock I instructed him to shoot a direct cable to my flat in London, to which I received no reply, asking if the cat were well. All the rooms of the apartment in New York seemed to me to be flooded with the smell of chloroform though no one else could detect it.
 私はヤギ髭を生やし、白い上っ張りを着た男が、あきらかに猫を殺そうとしており、その男の手から逃げようともがいている猫の恐ろしい夢を見て目が覚めた。ベッドルームにはクロロフォルムにの臭いが充満していた。10時に秘書がやってきたとき、ロンドンの自分の部屋に直接ケーブルを打つように指示した、猫が大丈夫かどうかとの質問であったが、それに対する返事は無かった。New Yorkのすべての部屋がクロロフォルムのにおいでいっぱいであるように私は感じていたが、ほかのひとは誰も感じていなかった。
 
  I made arrangements to leave at the earliest possible moment, and ten days later I arrived in London. During those ten days, I could not get away from the smell of chloroform.On my arrival at the flat, I was told that the cat had pined and refused to eat anything from the day I left London, and the housekeeper thought that it would be kindest to have her destroyed.  She had been asked to give me this news in reply to my cable.
 私はすぐにでも帰れる準備をし、10日後にはロンドンについていた。その10日間、私はクロロフォルムのにおいから逃げることは出来なかった。私のアパートに帰ってきてから、事情を聞かされた。猫はやつれてしまい、ロンドンを去った日から何にも食べなくなってしまった、それで家政婦が死なすのが最善の処置だろうと判断した、そしてケーブルには返事しないで、直接このニュースを伝える事にしたとのことであった。
  Two or three days later I checkd up on the time and date, and they absolutely tallied with the time I had the nightmare in New York. The veterinary surgeon (whom I had never seen or heard of in my life) had a goatee beard.
 二三日後、わたしは日時を調べてみた。私がNew YorkでNightmareを見た日時とぴったりであった。私が一度もあったことも聞いたこともない獣医はヤギ髭を生やした男であった。

 By what manner of means did the agony and death struggle of the cat under chloroform reach Grindell-Mathews's mind? The scent was apparently televised. The cat could not have done it. Mr. Grindell-Matthews's awareness must have been instantaneous. The only possible speculation that fits the case is that those whom affection binds together are, like the trees of a forest, always in contact below the level of consciousness. As the uprooting of a single tree is communicated to the other members of the sylvan community by the vibrations of the soil, so may be the psychic earthquake of death reach one who loved and unite him, at the greatest crisis of life, with the object of affection.
 どういう手段でクロロフォルムで死のうとしている猫の苦痛とそのあらそいが、彼のMindに届いたのであろう?においは明らかに電送された。猫にはやれなかっただろう。彼の察知は瞬間的であった。このケースを説明できるアイデアは愛情でつながったもの同士は、森の木々のようなものかもしれない、いつも意識の下でつながっているのだ。それは丁度、一本の木を根こそぎにするような行いが、大地の震動によって森の共同体のメンバーに伝わるようなものである。死というサイキック的な大地震が愛した人につながり、最大の生命の危機において、愛情という形でつながるから、こういうことが起きるのであろう。

 わたしは Nandor Fodorという ParapsychologistはReasonableなまともな人のように思います。ほかの件でも、彼の言っていることは私を納得させます。
彼が森の木々のアイデアを出して、瞬間的なTelepathicな出来事の説明をしているのは、なかなかすばらしいと思います。

 それにしても、このGrindell-Mathews という人と猫の関係は見事なものです。食べなくなれば栄養注射でもやるべきではないか、と私は思いますが、この出来事は1924年のことだといいますから、仕方がなったのかしら。なんとなく、ひどい話に思えます。

 これでわかるのは、麻酔のクロロフォルムがラクに死ねるものではないということで、別項 自殺に関する文章で、この睡眠薬、麻酔を扱う予定です。

村田茂太郎 2012年4月30日、5月1日

Eureka, Thumper, Hana, Fuchsia etc... 04/30/2012

Eureka, Thumper, Hana, Fuchsia etc... 04/30/2012

 今日は晴天でしたが、すみきったという天気ではなく、写真を撮ると山がうつらないほどの晴れ模様でした。比較的無事に散歩が終わりそうだと思っていたら、No LeashのHanaが尻尾を振ってきえました。急いで戻ると、女性がゲートからでてきたところで、Hanaがしっぽをふって駆け寄ったため、急いでゲートの中に入っいきました。Hanaはしまったゲートの前であけてくれるのを待っているのです。呼んでもこない、仕方なく、Leashをして引っ張りました。本当に、八方美人ぶりには、参ってしまいます。誰かれなく、人を見れば、男でも女でも、しっぽをふって、こんなにすばらしい人は居ないといわんばかりにサービスするので、向こうの人もあきれてしまいます。

 そういう次第で、いつも何かHappeningが起こります。Thumperのほうは、最近はOn Leash なので、すべてノー トラブルですんでいます。

 昨夜も今朝も、最近はEyrekaの機嫌がよく、私の部屋にやってきて、ごろごろといい、ベッドに上がって、寝転んでいきます。これは、カツオのたたき の成果です。ちゃんとお礼を言うのを知っているのです。女房は猫のEurekaが一番頭がいいといいます。わたしも本当に、頭を使っている様子が目に見えるので、すごい猫だなと思っています。

 Thumperは自分の名前も覚えず、Hanaは自分が主人で、私たちを無視する傾向があり、女房の感慨もむべなるかなと思います。

 Dog LicenseがSenior Citizenも有料になり、Hanaは2月にすませましたが、Thumperは5月なので、ビルを見ると、Vaccin証明必要とあり、そうだ、といそいで、ホームドクターともいえる獣医に電話して、つれてゆきました。ドクターはいい毛並みをしている、ベスト Conditionだと誉めてくれ、これからはWeightに注意とアドバイスをくれました。もちろん、わたしもわかっていて、最近、食事も注意しています。来たときの28ポンドから、10ポンドふえて、38ポンド、Hanaが25ポンドほどで重たく感じるのに、Thumperがもたれてくるだけで、重さを感じたのは当然でした。

 最近、本当に、親ばかですが、Thumperもきれいな顔をするようになりました。目もおだやかになり、ますます、見るからに立派な犬に成長しています。

 Tabebuiaは散り、今、Fuchsiaがさかり、そして赤や白のバラが咲き、そのなかを鳥たちがやかましいほどLove Call をやっています。そのせいか、Eurekaがなかなか家の中に入ろうとしません。年をとっても、捕り物の名人で、前の家にいたときは雀や子ねずみをつかまえて持ってきて、見せるのが常でした。食べないのがなによりです。

村田茂太郎 2012年4月30日













































自殺論 その後 (アーサー・ケストラーとその妻の自殺をめぐって) 



自殺論 その後 (アーサー・ケストラーとその妻の自殺をめぐって)

 私が“自殺論―残されたものの痛み”(拙著「寺子屋的教育志向の中から」“ロサンジェルス日本語補習校あさひ学園での15年―瞑想と回想と感想と”所収)を書いたのは1985年であった。個人的な感想を生徒達に恥ずかしげも無く配ったのには理由がある。当時、小学生・中学生の自殺が日本ではやっていた。理由は主に“いじめ”であったと思う。わたしは、本人にとっては深刻な悩みに違いないが、まだまだ若い時点でその後の人生をあきらめて自殺をすると、まわりにも甚大な影響を与えるものであり、早急な決断はするべきでないということを、私の体験(クラスメートの自殺に出遭った苦い体験)を踏まえて、ひとつの参考資料として提供したのであった。

 今、私は、もうすぐ69歳になる。自分ではいつまでも若い気持ちで居て、探求心も相変わらず旺盛だが、やはり年をとったと感じる。68歳といえば、もう大概の過去の偉人というひとは病気で亡くなっていた。わたしは幸い、まだ特にどこか悪いと思えるところは無い。どこか悪いといえばどこも悪いように思えるが、まあ、病院に通わなければならないというような状態ではない。これからも頑張るつもりであり、先日もGranada HillsにそびえるMission Peak という約850メートルの山に登ることができた。体力の衰えはあきらかだが、まあ、まだしばらくは頑張るつもりである。

 23歳の時に出遭ったクラスメートの自殺は、わたしの68年の人生で最大のショックであった。小林秀雄は戦後スグの時期の母親の死が最大のショックであったと“感想”冒頭で書いている。母親が死ぬということは、予期できることであり、驚くようなことではないが、母親との関係次第で、ショックにもなるだろう。音楽家のメンデルスゾーンは姉の死がショックで、結局、まだ若い頃に亡くなってしまった。

 今になって、なにを考えているのかというと、今、私の手元に、Arthur & Cynthia Koestler のStranger on the Square という本がある。その IntroductionHarold Harris という人が書いている。それによると、19833月にケストラーが自殺をしたが、そのとき同時にワイフである Cynthia Koestler も自殺した。丁度、乃木稀典夫妻の自殺を思わせるニュースで、わたしも1983年そのニュースを知って、いろいろ複雑な思いが走った。それをめぐって、わたしのその後の自殺観を展開しようと考えたわけである。まずこの自殺をめぐって。事実関係を。

 アーサー・ケストラーは77歳でふたつの大病(Parkinson’s と Leukemia)を持ち、今、まだ意識がしっかりしている間に決着をつけなければどうにもならなくなるという状態で、苦痛もあり、覚悟の自殺であった。ワイフのシンシアはアーサーより22歳若い、55歳で、健康状態はPerfectであった。

 ふたりはそれぞれ致死量の睡眠剤をのみ、自殺を遂げた。Barbiturates.

 アーサー・ケストラーといえば、わたしの学生時代にスターリンの血の粛清を小説化した名作“真昼の暗黒”Darkness at Noonを読んだだけであった、その後、私のほうはサルトルの弁証法的理性批判などの系統に惹かれたため、ケストラーはサルトルと対極的・保守的な嫌なやつという印象が強かった。

 アメリカに来てから“Roots of Coincidence” などの純然たる科学的読み物をケストラーが書いているのを知り、読んで、興味を覚え、知らない一面を知った思いであった。

 この本の序文とケストラーの略歴を自分で書いているところを読むと、別に驚くべきことでないとわかった。彼はもともと理科系・エンジニアー系の出身であったが、たまたま、ジャーナリズム関係で職に就いたため、そして、Anti-Nazism のムードの中で、Communismが正しいと信じてコミットしていったため、“真昼の暗黒”を書くような情況に追い込まれただけで、彼自身、つねに政治的な面と科学への関心を維持してきたわけで、なんと、いち早く、ノーベル賞を受賞した科学者ド・ブロイ(物質波)にInterviewをしたのもこのケストラーであった。そして、スターリンの血の粛清でCommunismに憎悪を感じて、Anti-Communismにはしるわけで、サルトルたちから見れば、保守・右翼ということになったのであった。

 しかし、今の時点となってみれば、ケストラーがソ連共産党と決裂し、わが道を行ったのは正解であった。そして、戦後、政治のほうを離れて、本来の関心領域に踏み込んでいったわけで、それが様々な, わたしにとっては興味深い科学関係の労作を生む事になった。シンクロニシティのところで、カンメラー Kammererというドイツの科学者の例を挙げていたのはケストラーであった。

 ケストラーの人生は多彩な冒険と苦労に富んでおり、20世紀の知的世界でのGiantのひとりであった。文学的才能と科学的素養と、スターリニズムの苦労と、対ナチズムの恐怖と戦後サルトルらに対抗する生き方、それはまさに激動の人生であった。そしてシンシアという女性は臨時の秘書として広告で雇われた女性であった。

 南アフリカ出身のCynthia Jefferies 22歳の時、Arthur Koestlerの臨時秘書採用広告に応募して秘書となった。その後の6年間、On & Off で秘書の仕事を続け、フランス、イギリス、アメリカがその舞台であった。そして、1955年からKoestlerのテレグラムに即座に反応し、New Yorkでの仕事をやめて、Koestlerのもとへ行った。それは Permanent Job であり、Reunionであった。1965年二人は正式に結婚した。そして、1983年に自殺を遂げるまでの27年(1955-1983)は離れられない関係となった。

 CynthiaKoestlerに初めて出遭ったときは、彼らの年は丁度2倍の差があった(44歳と22歳)。そして、Koestlerは結婚していた。しかし、Cynthiaにとっては、Love at first Sight であったらしい。1955年、Permanent Jobになるまでの6年間は、Cynthiaにとっては、比較的不幸な年であった。この間にCynthiaは結婚し、離婚した。Koestlerのほうは何人もの女性と関係を持ち、離婚してまた別の女性と関係を持つという風だった。

 なぜ、55歳の健康な女性()が、一緒に自殺をしようと決意したのか。(H. Harrisの疑問、そして、わたしの疑問。)

この序文を書いている Harold Harris を引用させてもらおう。Harrisはこの最後の本が未完で終わっているのを編集し、出版した。内容はケストラーの自伝が1940年で終わっていたので、そのあとをいわばCynthiaが手伝いながら1940-19511951-1956と書き続けようとした、その草稿である。第一部はふたりがそれぞれ執筆、第二部はシンシアが執筆。最終的編集はHarold Farris. 以下は序文からの引用 とわたしの意訳。

  As I read through her pages, I felt that they confirmed the answer which I had already begun to form in my own mind to that question `why’. Why had this intelligent, healthy woman of fifty-five ended her life? Why had she written `I cannot live without Arthur’? Other women (and men) have loved deeply and survived the death of the partner. In Cynthia’s case, that cry, `I cannot live without him’, was, I felt, the literal truth.

 わたし(Harold Harris)が彼女のページを読むに従い、私が“なぜ”と抱いていた疑問に対する回答を確認してくれたように思った。なぜ、この55歳の知的で健康な女性が死ぬ事になったのか?なぜ、彼女は“わたしはアーサーなしには生きて居れない”と書いたのか?他の女も(そして男も)深く愛しあい、しかもパートナーの死を乗り越えて生きたものだ。シンシアの場合、あの叫び、“わたしは彼なしでは生きて居れない”というのは、文字通り真実だったのだと感じた。

  He had never made any secret of the fact that he was difficult to live with. He made frequent references to the fact in his notebooks. He never tried to hide his demanding nature, the violence of his moods, his abrupt changes of direction, his obsessional chasing of women (which persisted long after the examples he himself mentioned in Arrow in the Blue). Behind all that was a man of intense intellect, a man who could show enormous kindness and generosity, a man of incomparable humour, and –most of the time –a companion of the utmost charm.

 ケストラーは自分と共に生きるのは困難なものだという事実を決して隠しては居なかった。彼は自分のノートにこの事実を何度も言及した。彼は決して自分の押し付けるような性格や気分に応じてあらわれる荒々しさ、急な方向転換、彼の常習的といえる女性関係(それは彼の自伝の一部である Arrow in the Blue で自分で言っていたことであるが、そのあとも続いていた)といったものを隠そうとはしなかった。これらの事実の背後にあらわれるのは、きわめてインテリで、優しさと寛大さを持ち、ユーモアに満ちた、そして、大概のときは、最高の魅力を備えた伴侶といえる男であった。

 Cynthia was well aware of his faults which he did not try to conceal. Yet, in all the thirty three years of their association, the only times that she was really unhappy were during the first six years when, occasionally, Arthur tried to break the links which bound them together. He did this, as he thought, for Cynthia’s own good, because (at the time they met) he was exactly twice her age and because he knew that no partner of his could ever hope for a conventional ménage. She knew this too – but it made no difference.

 シンシアはケストラーの欠陥はよく承知していたし、彼もそれを隠そうとはしなかった。しかも、33年のかれらの付き合いの中で、彼女が本当に不幸であったのは最初の6年間だけであった、それは、そのころアーサーが彼らをつなぐLinkを断ち切ろうとしたからである。彼はシンシアのために、関係を断ち切ろうとしたと彼は思っていた、なぜなら、(彼らが会ったとき)彼はぴったり彼女の年の2倍の年であったし、彼は自分を知っていて、彼のパートナーとしては普通の家庭は期待できないと知っていたからだ。彼女もそのことは知っていた、しかし、そんなことはたいしたことではなかった。

 There can be no doubt that Cynthia fell in love almost at their first meeting and she loved him for the rest of their lives. From 1955 to the end she shared his life. But even that was not enough. It is hardly an exaggeration to say that his life became hers, that she lived his life. And when the time came for him to leave it, her life too was at an end.

 シンシアが彼らの最初の出会いでケストラーにほれたのは疑いないことである。そして彼女はその後の人生で彼を愛し続けた。1955年から終わりまで、彼女は彼の人生を分かち持った。しかし、それさえも充分ではなかった、彼の人生が彼女の人生ともなったといっても決して言い過ぎではない、彼女は彼の人生を生きたのだ。そして、彼の人生が終わるときが来たとき、彼女の人生も終わったのだった。

この本を読んだ読者は同じような感想を抱くであろう。この本自体は1956年で終わり、二人はさらに27年生きたけれども。アーサーは彼女の献身に報いたであろうか。彼は公衆に自分を見せる人ではなかった、人前では彼は彼女をAngel としか呼ばなかったが。二人は感傷をきらった。もちろん、彼は完全に彼女に頼っていた。アーサーも心からシンシアを愛していた。彼はシンシアが自分の献身に対して彼から何の報酬も期待していなかったのを知っていた。しかし、彼は、死ぬ9ヶ月前に書いた“訣別の辞”の最後に彼が書いた文章をなによりも彼女は献身の報いととってくれたことであろうと感じていた。

“To whom it may concern” - - - `It is to her that I owe the relative peace and happiness that I enjoyed in the last period of my life- and never before.’

“関係者へ、・・・比較的平安にそして幸せにその後の余生を楽しめたのは彼女のおかげである。そしてそれは、それ以前には決してなかったことである。”

つづく。

村田茂太郎 2012年4月30日




4/29/2012

ブログ表紙写真ー10回目 Delicate Arch-Arches National Park など

ブログ表紙写真ー10回目 Delicate Arch-Arches National Park など


10回目のブログ表紙写真、ユタ州の有名な Delicate Arch、 Arches National Park からです。
メモリーが465Kとかで、どうかなと思いましたが、無事、載せられました。
以後は500KくらいまではOKのつもりで、選定します。

ユタ州Arches National Park, Delicate Arch
デリケート・アーチの写真は背後に雪のLa Sal Mountains を入れたものが、丁度、よい具合になるのですが、7月はじめでは、Thunder Stormの時期で、雲に覆われていました。


このDelicate Archの下に来るまでのハイキングが大変で、往復3マイルのハイクがこたえました。
この辺、Moab周辺は暑くてドライでしたが、はやく涼しいところに移りたいとLa Sal Mountainsの横を通ってコロラドに入りました。コロラドはThunder Stormでユタとえらい違い。3000メートルのLizard Head Pass を越える頃には、土砂降りでしたが、いい経験でした。わたしは雨でも雪でも、なんでも得がたい体験だと喜ぶ人間で、怪我をしたり死ななければ体験はすべてプラスととらえるのんびりしたところがあります。雨や雪のGuadalupe Mountains National Park にわざわざ、出かけて行ったほどです。


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 2012年2月22日、私のブログOpen以来、毎日、なにかのブログを投稿して、今日で300件を数えました。70日で300件。まあ、用意してあった写真集やすでにWordに書き上げてあった教育関係のエッセイなどをコピーして投稿したこともありますが、この2ヶ月ほど、毎日Inputして、本当にブログに専念していました。久しぶりに楽しみました。


 おかげでタイミングよく、”心霊現象の科学” 関係の文献を読み直したり、あらたに書き続けて、わたしの年齢で、なんとなく心のおちつく情報が得られたように思います。たまたま、すばらしい知人が亡くなられ、本当は哀しいのですが、そのわりにはEileen GarrettやRosemary Brownの情報のおかげで、心が慰められたりしたのも、たまたま、ブログで心霊現象の科学を展開することができたからだと思います。


 これまで、わたしの稚拙なブログをご覧くださった方々、ありがとうございました。
これで終わりになるわけではありませんが、お礼を申し上げておきたいと思いました。


 あと、10回くらい写真の紹介、そしてそれ以外は、時々、犬猫の話、そして心霊現象の科学を書き続けるかもしれません。あるいは、英語のBlogをOpenして、アメリカ人を相手にするのも刺激になるかもしれないと思っています。


 このGoogle Bloggerには本当にお世話になっています。無料でこんなに厖大な写真やエッセイを載せてくれるのですから、感激するばかりです。


 最近、ようやく、ダブルに入っている写真の削除などがわかり、だんだん、気に入ったようにカスタマイズできるようになりました。マイクロソフトのWordファイルなどをブログにコピーしたり、逆も可能ということで、データー保存という意味でも安心しました。あと、PDFファイルをそのままコピーきれば満足なのですが、うまくいかないようで、PDFファイルをWordにうつしても、後の処理が大変であきらめました。わたしはDr. Linus Paulingに書いたわたしの英文の手紙とその返事をPDF Fileにうつしてあるのですが、それをブログに載せようとしてうまくいかなかった次第です。


70日で300件! 自分でも驚くばかりです。今日はThumperとふたりでビールで乾杯します。


 このブログの概要統計というのがあり、それを見ると、Page Viewerの国別というデーターがあって、一週間分なのか一日分なのかよくわかりませんが、

 アメリカ50、ロシア48、日本35、ドイツ1 というときもあれば、
 アメリカ58、ロシア72、日本24、ドイツ1、マレーシア1 とかのときもあり、たとえば、今日は
 アメリカ61、ロシア32、日本15、台湾1 となっています。

私が気にしたのは、このロシアが、あるときは、アメリカをこえて、72とかというViewerを示すことで、これが、ロシア在住の日系人やロシアで日本語を勉強しているロシア人のみなさんに、日本語の勉強ということでお役に立っているのであれば、うれしいのですが、今のところ、なにもわからず、どういうことかしらと興味と疑問をもっています。

 あるとき、検索で なになに効果 という題名の小さなエッセイが原因ではないかと思いつき、一回だけ、そのエッセイを削除しました。科学者たちが何か疑問を抱き、誤解して、このブログをのぞいていると、彼らの時間の無駄になると思ったからです。拙著のなかの”学習効果を高めるために”というエッセイを要約した文章だったので、まあ、削除しても、本体は本の中にあるので、いいだろうと思った次第です。

 わたしは寒いロシアの国のみなさんが、このブログでアメリカの大自然の一部を知ることができれば、それはそれですばらしいと思います。なにしろ、国立公園や原生林保護法など自然保護を法的に最初に確立した国がアメリカなのですから、アメリカの自然保護の実体を知っていただき、それぞれの国で、自国の自然を保護していっていただきたいと思います。プラス アルファで日本語の勉強に役立てば本当に嬉しいのですが。

 今はKGBの心配などは無いと思います。わたしは政治活動はしていませんが、思想的にはAnti-Stalin ism,  Anti-Totalitalianism、 Anti-Mao ism なので、Jefferson, Washington, MadisonなどのDemocracyを好みます。私のエッセイの中にスターリニズム化のサーカスを風刺したものがあり、わたしとしては、自分ではよく書けているつもりですが、Stalinistが読めば怒るかもしれないので、ロシアの統計をちょっと気にしたときがありました。サーカス自体は立派なもので、まさに何でもホンモノはすごいと感じたものでした。

村田茂太郎 2012年4月29日 投稿70日で300件を記念して。












Hana, Thumper, Eureka, Tabebuia 04/29/2012

Hana, Thumper, Eureka, Tabebuia 04/29/2012

 今日もよい天気でした。
散歩はショート・コースで、何も起きず、無事平穏に家に帰り着きました。
ThumperはOn Leashで、HanaはFreeで。
たまたま、Tabebuia(Trumpet Tree)のコースであったので、また見るチャンスがありました。
大分、花びらが散って、やはり昨日が最高だったとわかりました。

 Eurekaは毎日、カツオのたたきをもらえて、満足そう。今日は朝方、私の部屋を訪問し、しばらくごろごろ喜びをあらわしていました。

 表のバラの花も満開。ありふれたバラですが、裏庭から移植して、日当たりがいいので、去年も満開でしたが、今も見事に咲いています。裏庭のりんごの木にやっと若葉がでてきました。寒かったり、暑かったりで、とまどっているたのがよくわかりました。

 今、裏庭に出ると、鳥たちのラブコールでやかましいほどです。5月ごろにはこどもが育ち始め、Mockingbirdなどは忙しく猫を追い散らすでしょう。去年はキチンのまえのバラの枝に鳥が巣を作り、そのうちに気がついて、成長を見守りました。リスやカラスがくるから、鳥のほうも慎重に巣を作らねばなりません。ハワイの島々では、蛇が増殖して、そのために鳥が絶滅していっているとかという、悲しいニュースをきいた覚えがあります。卵を蛇に食べられればそれで終わりですから、蛇退治はハワイ島では、鳥類保護には欠かせない作業かもしれません。

ブログ、投稿数300件目の公開。

村田茂太郎 2012年4月29日