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4/03/2012

“アメリカの文学”(文学案内)

Originally I am not interested in American or English literature so much. But living in America and getting used to read American authors, specially Ross Macdonald, changed my view on American literature. I read many American woman writer's books.
This is written more than 25 years ago, but my opinion is the same, although I have not read many since then.

S. Murata 04/03/2012

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“アメリカの文学”(文学案内)

 ギリシャ文学やフランス文学を専攻したいと考え、ロシア文学やドイツ文学も大好きであった私は、しかし、どうしたことか、英語圏の文学を専攻する気には全くなれなかった。単独には、シェイクスピアは偉大で、天才で、大好きであり、ジェーン・オースティンは女流作家としては、世界文学の中でもナンバー・ワンに違いないと思い、大好きなのだが、どうしたことか、イギリス文学にもアメリカ文学にも、心から親しみを感じることが出来なかった。


 京大文学部での各教授による、それぞれの学科の紹介の時、英文学の御輿員三(おごし かずぞう)教授が、“英文学は野暮な文学だから、フランス文学等の好きな人は絶対来ないように”と言っているのを聞いて、成る程、彼は自分が何をやっているのかわかっているようだなと思ったものであった。


 “野暮な”という表現が、正確には、どのようなことを意味しているのかわからなかったが、私自身、どことなく没頭できない異質なものを感じていて、それが、うまく言い表されているように思え、“そうか、野暮な文学だから、私はそれにうちこめなかったのだな”などと思った。


 イギリス文学にも、アメリカ文学にも、偉大な作家、偉大な作品は沢山ある。そして、それぞれが、いかにもイギリス的であり、アメリカ的であるという特徴をもっている。スタインベックの“怒りの葡萄”の世界と、ロマン・ロランの“ジャン・クリストフ”の世界とは、ナント違っていることだろう。そして、まさに、カリフォルニアの自然と社会は、“怒りの葡萄”にふさわしい。


 一度、日本に帰ったときに、高校の恩師に、カリフォルニアの写真集をお見せしてあげた。その時、それをご覧になりながら、自分には、やはり、スタインベックの世界よりも“ジャン・クリストフ”の世界のほうが合っている様だとおっしゃり、私もその違いに合意した。


アメリカに住むようになり、アメリカ的風土や社会問題の深刻さがよくわかるようになるにつれ、アメリカ文学に対する私の見方もかわってきた。今、私に大学院に行く余裕があれば、哲学以外に、アメリカ文学を専攻してもいいなと思うに至っている。そして、論文も“アメリカ南部の女流文学者”といったテーマで研究したいものだなと思う。


戦後のイギリス文学がある意味で衰えているのに対し、戦後のアメリカ文学は、特に南部において隆盛と言える状態にあった。しかもその中心は、女性が担っていた。戦後、アメリカ文学は、都会のインテリゲンチャを扱って、ソウル・ベローという傑出した作家を生み出したが、興味深い事に、文学的に優れた作品の多くは、南部出身の作家によって書かれてきた。


南部の問題を深く抉り出した最高の作家はフォークナーであり、まさにアメリカ土着の文学というものを作り出したといえる。戦前から活躍していた女流作家エウドラ・ヴェルティやキャサリン・アン・ポーターは戦後も引き続いて活躍したが、若手の女性たちの活躍は驚嘆すべきものであった。私が最も高く評価するのは、フラナリー・オコンナーであるが、ほかに、カーソン・マッカラーズやシャーリー・アン・グラウ、エリザベス・スペンサーやハーパー・リーといった人達が活躍した。


私は、なぜ、アメリカ南部にすぐれた作品が多く生まれたかについて考えてみたが、結局、南部の持つ問題性というものが、創作の核となり、生命となっているからに違いないと悟った。都会をテーマにしたものには、ソウプ・オペラ的な型にはまった恋愛小説やヤクザな男の遍歴苦労譚、プロレタリア小説といった、どうでもいいようなテーマしか出てこないのに対し、(ソウル・ベローは知識人社会の生態を活写して戦後最高の質に達したし、バーナード・マラマッドはユダヤ人社会の問題を描いて、名作を沢山生み出した)、アメリカの南部においては、南北戦争以前からひきずってきた黒人問題が、市民権運動の中で、一層大きな問題を生み出してきて、いまだに全面的に解決されていない状態であり、他にもインディアン問題とか西部開拓者的要素を持ち、人間の問題を主要テーマとする作家にとっては、限りない創作の泉を構成しているからである。


ヨーロッパを意識していた時代のアメリカ社会の描出はヘンリー・ジェームズによって、完璧なまでに芸術的に表現された。その後、アメリカ文学は自身が抱えた問題をほりさげれば良かったわけであり、カリフォルニア労働問題を摘出したスタインベックや南部のどろどろとした問題を追及したフォークナーが出現する土壌はすでに形成されていたわけである。


三十九歳で早世したフラナリー・オコンナーは、中編小説二編と短編集二冊発表しただけであった。しかし、彼女の作品の質の高さ、表現の見事さは比類が無い。トーマス・マートンは、彼女の作品を、ギリシャ悲劇にたとえたが、まさにその通りだと思う。ただ、彼女も含めて、南部を扱った作品のほとんどは、激烈なとも言えるヴァイオレンスが含まれており、南部の持つ深刻さを示している。


フラナリー・オコンナーの文学は、アメリカの女流文学者の中でも、最高のレベルに達しており、無駄の無い文章で、凝縮した内容を、劇的なまでに効果的に、そして適切に表現しており、一読、まさにギリシャの古典悲劇を読んだような感銘に襲われる。


(Flannery O’Connor, ”Wise Blood”, “The Violent Bear it away”, “A Goodman is hard to find”, “Everything that rise must converge”, “Habit of Being(Letters)”)


オコンナー亡き後、プリンストン大学教授を勤めるジョイス・キャロル・オーツが、現代人の相克と心理描写をテーマに、実験的な、知的な小説を発表して、既に膨大な量におよび、研究者を苦しめている。


(記                     1986年3月22日)

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