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4/07/2012

“英才教育論―序説 ”

 参考資料の題名がわからないので、躊躇していましたが、この際、Openすることにしました。ひとつは京大の数学者小堀憲の”大数学者”だったと思いますが、問題は英語の数学史の本で、特にウィリアム・シディス の情報ががどこからきたのか知りたかったのですが、今本を整理しているので、そのうち見つかるでしょう。ほかの天才たちは資料はどこにでもあるので、別に小堀憲でなくてもいいのですが、まあ、参考にしたのはたしかです。今なら、Wikipediaで探せば、比較的かんたんに見つかるのですが。

 中学1年2組の国語のクラスの生徒の求めに応じて書いたもので、参考になってくれたのであれば、うれしいのですが、私自身にとってはこれが契機となってファインマンなども教育的に読むようになり、自力型天才がでてこれるようになったという環境の変化がわかり、そのあと、すでにOpenした補足のエッセイを書く事になりました。

 私のブログを開いて、28年前に接した文章だと懐かしくおもってくれる教え子たちが居れば、Openした価値があります。

 わたしが30年前から展開した様々な教育論について、基本的に今も間違ってはいないと思っています。それは自分の体験を踏まえて書いているので、確かな強みがあり、よい教育を受けてきて、批判的に受容してきたので、基本的に誰にも参考になる筈だと思っています。

村田茂太郎 2012年4月7日

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“英才教育論―序説                                                                                      

孟子が君子の三楽の一つとして“天下の英才を得て、これを教育する”をあげているのは有名である。天才教育と英才教育とは異なると思うが、既に、歴史上、事実として残っている天才教育の成功と失敗の例を見ていく中から、何が大切なのかを探求する方向をとろうと思う。

まず、失敗例として

ウィリアム・シディス (1944年 死去)

父親はハーヴァード大学精神科学教授。息子は父親による天才教育の実験材料となる。

主な略歴

生まれて6ヶ月 アルファベットをマスター

2歳 英語の読み書き

4歳 英語とフランス語のタイプ

5歳 歴史の特定の日の曜日を当てる公式を作る

6歳 はじめて学校へ行き、半日いただけで、3年までの内容を全部終了していることがわかる。6歳の後半 半年で7年のコースを終了する

8歳 読み話すーギリシャ語、ラテン語、ロシア語、フランス語、ドイツ語

9歳 1年以内で4年の高校のコースを終了して、ハーヴァード大学に入学願書提出。教授会は9歳の子供を18-19歳の学生と一緒にする事に疑問を抱き、2年待つように言う。

11歳 予定通り、ハーヴァード大学入学

14歳 数学教授たちを前にして数学の講義をする。その他。



無意味な天才教育の例として

ウィリアム・ロウアン・ハミルトン (伯父による教育、 天才数学者)

3歳 英語を読み、算数。

4歳 地図、地理をマスター

5歳 ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を読みこなす

8歳 イタリア語、フランス語、ラテン語を自由にこなす

10歳 アラビア語、サンスクリット語、マレー語、ベンガル語等。

13歳 既に13ヶ国語をマスター

17歳 数学上の発見

18歳 はじめてトリニテイ・カレッジを受験して1番で入学(それまでは、叔父による教育のみ)

22歳 トリニテイ・カレッジ 天文学教授となる。そして、アイルランドが生んだ最大の天才数学者として、ニュートンの再来とうたわれ、数学と天文学史上不滅の名を残す。



成功した天才教育



ノーバート・ウィーナー

11歳 タフト・カレッジ入学

14歳 ハーヴァード大学大学院入学

父親はシディスの同僚で、ハーヴァード大学教授

ノーバートはMIT教授となり、オートメーション、サイバネチックスのアイデアの生みの親となる。



シャンポリオンの場合(言語学者、古代エジプト文字の解読)

5歳で解読らしきものをする。地元の学校ではダメだったので、10歳年上の兄が自分で教育する。

11歳 ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語

13歳 アラビア語、シリア語、カルデア語、コプト語

兄は弟の天才をみとめ、自分は生理学者として一流になっていたが、弟の教育のために、自分の人生を犠牲にする。

17歳 エジプトのファラオ王国に関する本の概論を書き上げる。名門リセに入学を試みる。教授会の前で“ファラオ治下のエジプト”という自分が書く予定の本のスケッチを述べる。そのとき、この古代エジプトについてシャンポリオン以上に知っている教授はどこにもいなかった。教授たちは圧倒され、即座に少年を教授会に加える事を決定。学長は“君の今日までの達成をもって、我々は君をリセのメンバーに加える。しかし、今後の君の発展にははかりしれないものがある。君が将来名を成したとき、君の天才を最初に認めたのが誰であるかを君は忘れないに違いない。”という演説を行い、彼を抱きしめた。リセの大学に転入するつもりが、一挙に卒業しただけでなく、教授として迎え入れられたのである。

19歳 教授の一員として、2年前には一緒に机を並べていた学生を前に講義を始める。その他、いろいろ。

最終的には、ナポレオン軍がエジプトで発見したロセッタ・ストーンの解読に成功。シャンポリオンは自分の天才の開花が兄のおかげである事を世間に知らせるために、いつも自分の事をシャンポリオン・ジュニアといっていた。



アーベルの場合 (スウェーデンの天才数学者)27歳 死去。

高校生のときに、優れた教師ホルンボエがアベルの天才を発見し、特別指導を行う。つまり、先に進み、高等数学の本を貸してやり、一緒に高等数学の研究を行う。

ガロアの場合 (フランスの天才数学者)20歳 死去。(決闘)。

高校生のとき、天才的な教師リシャールがガロアの天才を発見する。リシャールはすぐにガロアがフランスのアーベルである事を認め、無試験でポリテクニック入学を許可されるべきだと説くが、シャンポリオンの場合とは時代が30年ほど違っていたためか、受け入れられなかった。リシャールは学力に合った教育を施し、自分自身も大学の研究室に通って。常に新しい学問を取得しようとしていた。リシャールの生徒の中から、世界的な業績を上げた4人が生まれた事から見ても、彼の教育法がすぐれた、天才的なものであったことは明らかである。海王星の存在を予言したルヴェリエ、解析学の王者エルミト、群論のガロア、高等代数学者セレー。

17歳 方程式論

19歳 代数方程式論

20歳 群論。決闘。死。



リーマンの場合 (リーマン幾何学―非ユークリッド幾何学の創始者、アインシュタインの相対性理論を数学的に支えたもの。)

高校生のときに、校長のシュルフースが、リーマンの天才を認め、リーマンに高等数学の本を全て自由に貸し与える。激励する。



ガウスの場合 (数学の王者)

8歳 ビュットネル先生をおどろかす。ビュットネルはガウスに特別教育を施す。助手バルテルス そして ギムナジウムのチンメルマン教授の説得で、父親はレンガ職人への道をあきらめ、大学へゆかせる。



ジョン・スチュアート・ミルの場合 (哲学者・経済学者) 自叙伝 推定IQ=200

父親ジェームズ・ミルも経済学者・哲学者として有名。息子に有名な天才教育を行う。

特に、幼少年期の特別教育の重要性について指摘したものとして、“ミル自伝”は発達心理学から見ても重要な古典である。

父親は3歳のときから息子にギリシャ語を教え始める。父親の教養も高く、ギリシャ語もラテン語も自由に読みこなし、偉大な経済学者リカードの親友の一人として、父親自身も経済学に関する本を書き、インド史に関する本を書くというひとだったので、はじめから、息子の教育には力を入れ、一人で面倒を見る。

8歳 ギリシャ語でヘロドトスやクセノフォンやプラトンを読んでいた。ラテン語も学び始める。

12歳ごろまでには、ギリシャ語とラテン語の本は何でも読む。12歳の頃から深く考える本、アリストテレスの哲学書などを学び始める。

13歳 リカードの経済学の本を父が散歩中に内容説明し、一つのテーマが終わると、子供が本当に理解したかどうか知るために、要点のまとめやコメントを書かせて、それを父親が見直し、本当によく理解し、文章も正しく、明晰になるまで、何度もやり直させた。この方法によって、大学生や大人になってようやく身に着け始める学問―経済学や哲学を12歳13歳のころに身につけ、しかも、しっかりと自分で考える方法を父親から学んでいた。“ミル自伝”の中で、ミルは“自分がやってきた事は、普通の能力を持っていて健康な少年少女なら誰でもできたことである。自分はたまたま幸運な環境にあって、父親によって同時代人よりも25年も早く始めることが出来ただけである。”と書いている。

ジョン・スチュアート・ミルは後年、学者達による推定知能指数200といわれたひとである。しかし、既に見た、ハミルトンなどとくらべると、同じようであっても、それ以上には思えないから、ミルと同じような能力を持った人はもっともっと沢山いたと思われる。彼らが無名の氏と異なったのは、立派な指導者が常に傍らについていたからである。ミルの“自由論”は福沢諭吉など幕末から維新にかけて大きな影響を与えた。



さて、天才教育の例は以上で終わりにして、それでは、それらの例から何を学ぶ事ができるか見てみよう。



ウィリアム・シディスの才能は14歳で頂点に達し、それ以降、下り坂になった。彼の心理が異常になっていったのである。12歳でハーヴァードに入るだけの頭の良さを自分でも得意に思った彼は、他人をばか者扱いにし、そのため、交友も無く、だんだん内部に閉じこもっていった。スポーツもせず、特に何もせず、ただ自分は天才なのだとうぬぼれていたので、女性を軽蔑し、人間嫌いになり、無責任になり、思考に疲れ、たいした仕事もなにもせずに、一人孤独に死んでいった。一方、シディスより3最年長で、やはり11歳で大学に入学したウィーナーは、天才としての人生を無事に努めた。彼は数学史の上でも哲学的思考においても不滅の業績を上げた。二人の違いはどこにあったのか。二人の父親は共にハーヴァード大学の教授であった。違いは父親の考え方にあった。シディスの父親は、人間の才能というものは、感情や肉体を離れて独立に発展し成長するものであると信じ、その証明を自分の息子への実験を通してやろうと試みた。14歳までの異常な天才的な発達振りは父親の理論の正しさを証明したかに見える。しかし、その後の息子の変化は、彼の方法に少し無理があった事を証明する事になった。ウィーナーの父親は天才教育に努めたけれども、常に息子を普通の子供達と同様に扱うよう心がけ、スポーツや社交等、あらゆる通常の行事には参加させた。後年、ウィーナーは不幸な天才シディスを追想し、彼の悲劇は父親が生んだものである、天才性ばかり気にかけていて、子供である事を忘れ、子供に必要な遊びやスポーツや友達付き合いがどんなに大切かに気がつかなかったのだ、と言った。ウィーナーの場合、注意深い父親のおかげで、才能を発展させると同時に、男女の交際も楽しみ、スポーツに読書にデートにと楽しい学生生活を送る事ができた。シディスの場合、知だけが発達し、肉体や社交性や感情面の教育が完全に忘れ去られ、バランスの崩れた異常な怪物となってしまい、自分で崩壊していったのである。



それでは、ここから、どういう結論が導かれるか。

まず言える事は、失敗した例も成功した例も、明らかに特別な天才教育が行われたと言う事である。では、天才教育とは何か。それは、まず、優れた指導者による才能の発見を第一とする。才能が発見されたら、あとはその進展にふさわしい教育をバランスに気をつけながら施せばよい。充分な資料を与え、相談に乗ってやり、才能が自由に発展するのを助けてやればよい。才能は発現の機会を求めている。発芽さし、才能を発見するのも、すぐれた教師の仕事である。そして、優れた教師とは、単に“知”だけを伸ばす人ではなく、人間として立派に成長するように必要な心配りを行う人である。シディスの父親が失敗したのに、ウィーナーやミルの父親が成功したのは、彼らが息子の才能だけでなく、人間としての全体の成長に気を遣ったからである。シディスの例によって、我々はあきらかに、人間は頭脳だけで出来ているのではないこと、知、情、意、精神面と肉体面、個体性と社会性という両面を備えた、バランスの取れた、全体的な存在であるということを確認する事ができる。



中国の唐の詩人 韓愈は“世に伯楽有りて、しかる後に千里の馬あり。千里の馬は常にあれども、伯楽は常には有らず。”と書いた。この世には、名馬を見分ける鑑定人が先にいて、そのあとで、名馬が見出されるものである。一日に千里を走ると言う名馬はいつもいるのだが、それを見抜ける鑑定人はいつもいるというわけにはいかない。韓愈がこの文章を書いたのは、能力のある人を見抜いて採用し、充分に才能を発揮する機会をあたえてやろうとする名君や名宰相がいないことを激しく批判しようとしたからである。しかし、これは、そのような場合に限らず、一般に才能の発見と言う事に通用すると言える。才能を発見し、教育するということの、むつかしさを示している。ガウスなど、明らかに、ビュットネルやチンメルマンがいなければ、レンガ職人として、一生を終えたであろう。ガロアの師リシャールの優秀さは、彼の弟子から四人も世界的な数学者・科学者が出た事からも明らかである。リシャールは規定のものを教えるだけで満足せず、それぞれの生徒の学力に応じて知識を授けた。アーベルの師ホルンボエも熱のこもった講義をし、ありきたりの内容ではなく、生き生きとしたものであったので、それが、このスウェーデンの大天才の中に眠っていたものを目ざますことに成功した。才能を発見したホルンボエは直ちに、アベルに特別指導を施し、高等数学へと順々に教えて行き、二人で難解な書物を一緒に研究するほどになった。ホルンボエはこの天才の勉学を助けるために、走り回って、資金を提供してくれる人を探した。シャンポリオンの場合は、10歳年上の兄が、弟の最初の発見者であり、兄は弟の天才が開花するためには、自分の人生は犠牲になってもかまわないと考えた。そして、12歳くらいの弟の勉強を自分で見てやり、弟の天才が人目にもわかるようになっても、なにかにつけ弟を助けようとした。ハミルトンの場合は母方の天才の血を引き、これも言語学的天才であった叔父に養育されたため、13歳になる頃には13ヶ国語を読み書き話すという怪物少年となってしまった。この異常さは、その不滅の業績にもかかわらず、私生活において不幸であり、妻が逃げ出した後、野垂れ死にのような死に方をしてしまったということと関係が有り、例のシディスの不幸と似た型であるといえる。天才性をただそれのみ追求したときには、バランス異常となり、不幸な人生を送るようだ。



さて、まとめてみよう。

優れた指導者による熱のこもった講義。それを聞いた子供の才能の発現。優れた指導者による、その子供の才能の発見。特別教育(資料の提供、手助け、相談、伸びるだけ伸ばす機会の提供)。と、同時に、並行して、普通の子供と同じ、バランスのとれた指導(健康、スポーツ、読書、交友、娯楽)。そして、本人の努力。これらが、天才の発現とその成功に必須な条件だといえる。



さて、英才教育という言葉で、私は、天才ほどではないが、非常な能力を持った人の指導という風に解釈し、それについて考えてみたい。



私自身を振り返ってみても、もう少しうまく教育してくれれば、1-2年はスキップできたのではないかしらと思うからだ。別に一番を通したわけでもない私が言うのだから、あつかましい話しだが、自分を反省してみて、たしかに数学などもっと伸びるだけの余裕が充分あったときに、同じようなやさしい問題ばかり解かされていて、私の頭脳の進歩が止まったと思ったような事も、当時既にあったからである。私が数学指導において、常に、難問や上級の入試問題、時には高校や大学の問題を生徒諸君に与えたりするのも、自分自身の苦い体験を踏まえての事である。京都大学の森毅教授が言っておられるように、理解していれば、1年か2年うえのレベルと取り組む事は特に大切だと思う。文部省による教科書システムにならされているおかげで、その学年の教科書をやっていれば、それでよいと考えがちだが、何度も言うように、教科書というものは、文部省がその学年で、これだけは知っておいてもらいたいと考える最低限のことが述べられているのにすぎないのだから、教科書で満足していれば、とんでもないことになる。ハミルトンが叔父と一緒に勉強して学校へ行かず、はじめて大学入試を受けたらトップで入学したというのも、個人教授で、才能の発展にあわせて、無理なくドシドシ先に進んでいけたからである。



従って、教科書制度にある現在における英才教育とは、教科書の内容は完全にマスターしてしまって、その上で、能力に応じて、1年か2年上の内容に進んでいくということになる。

さて、これもまた指導者が大切である。すぐれた才能のある子をまず生み出すような魅力ある授業をもつことが基本であり、才能を見つければ、力づけてやり、出来るだけ才能を発揮できるように、積極的に反応する事が大切である。子供のためには、好奇心が満足できるように資料はそろえてやり、質問に対しては誠実に対応する事が大切である。出来れば家庭教師等の個人指導でもって、無理しないで進んでいけるようなら、2年でも3年でも先へ行くべきである。私は数学授業でそれなりに試み、例えば連立方程式の解法のところで、“行列”による解法を紹介したが、無駄だったようだ。国語に関しては、随分積極的な反応があり、私は少しは活気のある授業をもてたように思い、生徒達に感謝している。授業の質を上げるのも下げるのも生徒次第である。私はどのような授業でも行えるが、情況の特殊性を踏まえて、内容のある授業を持ちたいと考えるので、特別な形の授業をもつ事になるが、もちろん生徒諸君の反応を見ての話である。



私は、一時、家庭教師をしていて、英才教育を試みたことがある。月、2回。3ヶ月間だけであったが、小学6年生であったにもかかわらず、部分的には中学3年の数学の内容まですすめることが出来た。本人が堅実で優秀であったからである。私は前回に教えた事をチャンとマスターしていることを確かめながら進んでいった。私の都合で、3ヶ月できってしまい、今から思えば残念でもある。1年間やっていれば、中学1年で高校1,2年のレベルまで進んだに違いないと思う。私はまず説明をし、例題を説いて見せ、それから易しい問題、難しい問題、特別な問題へと移っていく。そして、必ず、前回の復習テストをして、学習度(習熟度)を確かめながら進んでいく。丁度、ミルの父親が、12,13歳の息子にリカードの難解な経済学を説明してやり、今説明した事が本当に息子にわかったのか調べるために、息子にまとめや感想を書かせ、それを添削しながら、息子の理解度を完璧にし、思考能力を鍛え上げていったのと方法的には同じだと思う。ミルの父親は、息子が、単に何でも暗記して、よく知っているということで、偉そうにする事を心配した。大切なのは自分で考える能力であることを何度も息子にいってきかせた。



天才教育とか英才教育とかを問題にするとき、どうしても、学校のシステムの限界が見えてくる。しかし、それが果たして限界かどうかも問題である。。何がその人間にとって幸福かは人によって異なるし、学校のよさは単なる知能の教科だけでなく、友人との交友や教師との接触の中で、段階的に社会性や情操面を教化していけるからである。



例えば、私は大阪の生野高校というのんびりした高校に入り、男女混合のフォークダンスをしたり、歌をうたったりして、楽しい高校生活を送った。私の京都大学での友人のひとりは、京都の名門、私立の洛西高校から入学してきたが、楽しい事は一つもなかったとつぶやいていたのを聞いたことがある。英才教育などというのは、紛らわしい言葉だ。考えてみれば、殆どの人は、すぐれた教師の指導次第で伸びたり縮んだりするのである。何が何でも東大や京大へというのは悪い風潮で、その人の人生のしあわせとは何の関係も無い事なのだ。



子供をよく見分け、余裕をもって先へ進んでいけるようならば、先へ進ませる。そして、それに必要な教材は充分に与える。もし、それほど興味を持っていないようであれば、無理をしないで、子供の好きなようにさせる。つまり、教科書だけはマスターさせる。此の程度の事しかやれないのではないか。子供を頭脳だけでなく、全体で評価する事が大切なのであり、あくまでも子供であり、人間なのであるという根本を見忘れない事が大切である。



孟子が、英才を教育すると言ったとき、それは単に知能だけの教育をさしていったのではなく、道徳的にも社会的にも完成した人間を目指しての教育であり、それに耐えうる人が英才であったのであって、ちょっとした才気を持った人の意味ではなかったのである。



(完   記 1984年2月21日) 村田茂太郎
 

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