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3/10/2012

“二重ラセン Double Helix”をめぐって (Rosalind Franklin ロザリンド・フランクリンとDNA)

 
“二重ラセン Double Helix”をめぐって (Rosalind Franklin ロザリンド・フランクリンとDNA)

 今日、2014年10月14日、私はNew Mexico サンタフェ在住のアメリカ人の友人からギフトとして、いくつかの本を受け取った。そのなかに「The Garden of Heroes & Villains」という本(Noctua Press 2014 Felix Dennis)があった。これはイギリスのSouth WarwickshireにあるShakespeare Countryという丘にあるGarden(Felix Dennis個人所有のガーデン)に集められた歴史上のHeroesやMystical eventまで彫像にしたものを写真で紹介したものであった。Mark TwainやEinstein、 Winston Churchill、Muhammad Ali、Conan Doyle、Stephen Hawking、Billie Holiday など、さまざまな有名な人物のLife-size Bronze Sculpturesが広い庭園のあちこちにすえつけられているらしく、なかなか興味深い。

 そのなかに DNA Double Helix の構造の発見者に関係するものとして James Watson, Francis Crickそして Rosalind FranklinのSculpturesが紹介されている。この本は2014年版であるが、25周年記念と書いてあるから1989年にこのGardenが作られ始めたようだ。いっぺんに今ある全部がそろったのではなくて、毎年2-3体追加されているらしい。このDNAの3人の彫像が設置されたのは2006年と記されている。あきらかに、この彫像家(Allan Sly) と関係者はDNA構造の解明に貢献したのはこの三人だとわかっていたようだ。Rosalind FranklinのDouble Helixを示す解析写真X-ray Diffraction PhotoをWatsonが彼女の許可を得ないで見たことがDNAのDouble Helixの解明に本質的な役割を果たした。別の人を含めた三人がノーベル生理学賞を受賞(1962年)したとき、すでにRosalind Franklinは癌で亡くなって4年経っていた。故人にはノーベル賞は贈られないとはいえ、解明に関係ない人が受賞しているすがたはどう見ても異状である。やはり、今も、DNA発見をめぐるノーベル賞はEinsteinやFeynman、Yukawa、Tomonagaなどの受賞とちがって異状だと感じる。

 この彫像群にしても、DNAの三人が”協力して”という具合には製作されていない。WatsonとCrickが二重ラセンのモデルを前にしているイメージは写真などでも有名であり、ふたりはそのような形でつくられているが、Rosalind Franklin の姿は、離れたところに立って、二人を眺めているという複雑な心境をあらわしている。しかも、彼女の彫像はうしろにまわした手に紙をもっているかたちとなっている。これは、DNA Double Helix 構造解明のためのInspirationを与えたものとして最高に重要な彼女の書類 X-Ray Doffraction Photo をだまって許可なく閲覧して、彼女の貢献に対してOfficialにCreditすることなく展開していったふたりのあり方を冷ややかに眺めていた姿といえるだろう。どうしてDNAの構造が解明できた時点でRosalind Franklin にわびを入れ、正当なCredit評価を与えなかったのか。まことに残念な話である。ノーベル賞競争の中で、若い二人があやまちをおかすことはありうる話であり、問題はそのあとの処理の仕方がより汚かったということである。

 私の下記エッセイは1985年執筆となっている。Anne Sayerの本を読んだあと子供たちにと思って紹介したにちがいない。この彫像の製作者も、多分、このAnne Sayerの本を読んでRosalind Franklinの貢献を確信したのであろう。私とおなじ信念で、本場イギリスの個人所有のGardenで彫像になっているのを確認するのは喜ばしいことであり、ここにこの珍しい本を受け取って、見て、Rosalind Franklinの彫像を見た喜びの日に書き記す次第である。

2014年10月14日、15日 
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 37歳で癌で夭逝した女性科学者ロザリンド・フランクリンをめぐる感想文です。これは、20世紀の大発見といわれているDNA二重らせんの構造を解明したワトソン、クリックと直接関係した話で、わたしは今も、Wilkinsというひとは直接貢献していないので、ロザリンドの代理人としてノーベル賞をもらったと受け取っています。なんとなく気持ち悪いはなしです。ノーベル賞はきまぐれで、長生きが大事ということは、バーバラ・マクリントックが80歳を過ぎて、晩すぎた受賞をしたことでもあきらかです。彼女は男性科学者であったら、40年前に受賞していたでしょう。Rosalind Franklinも37歳で亡くなったため、James Watsonにベスト・セラーDouble Helixで皮肉られても、文句も言えなかったわけですが、親友が見事な名誉回復を断行しました。あわせて読まれるべき重要な本だと思います。旧い文章(1985年)ですが、そのままコピーしました。

村田茂太郎 2012年3月10日
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 最近(1985年)、私は続けて二冊の本を読んだ。ジェームス・ワトソンの“二重らせん”(“Double HelixBy James D. Watson)と アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA” (“Rosalind Franklin & DNA” By Anne Sayre)である。ワトソンとは言うまでもなく、1953年の偉大な発見者=“遺伝子の分子構造”の発見者の一人であり、そのDNA構造模型は"ワトソン・クリック・モデル“として、今では、二十世紀の最大の発見の一つとして評価されている。1953年にはワトソンは若干25歳の青年であった。1962年、ワトソンはイギリスのクリックとウィルキンスと一緒にノーベル生理学賞を受賞した。

 遺伝子の本体であるDNAの分子構造の解明は、1951年ごろから時間の問題となっていた。これを解明したものがノーベル賞をつかむということも、はじめからわかっていた。しかし、この”世紀の発見“は、プランクの量子論やアインシュタインの独創的な相対性理論とは、全く質を異にしていたといえる。特殊相対性理論が発表されてから、一般相対性理論の完成に至るまでに十年の歳月を要したにもかかわらず、アインシュタイン以外の誰も手をつけることが出来なかったのに対し、このDNAの構造の解明は、実力のある科学者であれば、遅かれ早かれ、解明に成功したに違いなかった。そして、はじめから、その競争を意識していたのが、アメリカのワトソンであった。

 1968年に発表されたワトソンの“二重ラセン”は、1951年から1953年の回想記であり、ワトソン・クリック・モデルという生物界最大の発見の当事者による経過記録であり、ノーベル賞獲得への記録ということもあり、誰にも読める体裁をとっているので、ベスト・セラーとなった。“ダーウィンの進化論以来の生物学的発見”の内幕を表明したというのだから、科学に興味ある人が争って読んだのも無理はない。

 この“ワトソン・クリック・モデル”が解明したことは、自然はバランスのとれた見事な構造を展開しているということであり、遺伝の仕組みが、その合理的な秩序だった法則によって展開されているということが、はじめて、誰の目にも明らかに示されたことであった。
 ワトソンによると、彼が最大の好敵手とみなしていたのは、Cal Tech (カル・テック)の天才化学者ライナス・ポーリング(Linus Pauling)であった。この化学界の巨人は、量子力学を化学の領域に適応して、化学結合や様々な領域で重要な業績をあげていた。ポーロングは、既に、アミノ酸結合の形態としてのアルファー・ラセンを解明していた。そして、1954年には化学界における彼の全業績に対してノーベル化学賞が、1962年には、同じく、彼の平和運動への貢献に対してノーベル平和賞が授与された。(これは、単独受賞としては、ノーベル賞史上唯一の存在である。)
 ワトソンの“二重ラセン”は、この輝かしい発見への道を提示したものであったが、それは、この発見への過程における、ある種の曖昧さをも明示するものであった。ワトソンがDNA解明への競争相手として意識していたのが、単にカル・テックの偉大なポーリングだけでなく、イギリスのキングス・カレッジのモーリス・ウィルキンスとロザリンド・フランクリンであったということも明らかである。ケンブリッジ大学のフランシス・クリックと組んだワトソンは、クリックからDNAの構造解明の重要さを学び、若い彼の野心を最大限に発揮するに至るのだが、この“二重ラセン”の中で、ロージィ(Rosy)と呼ばれて登場する女性科学者ロザリンド・フランクリンの存在こそ、彼らの偉大な発見のキーポイントであったと感じさせる。
 だが、奇妙なことに、この本の中で登場するロザリンドは、非女性的な、頑固な科学者であり、ワトソンたちによって毛嫌いされ、からかわれ、皮肉られてばかりいる存在である。ただ、エピローグにおいて、37歳の若さで、癌で亡くなったこの女性科学者に対するワトソン自身の最初の印象がまちがっていたことが述べられ、彼女の科学者としての業績があげられている。
 しかし、いずれにしても、この“二重ラセン”を読んだ限りでは、ロザリンドという女性科学者のイメージは悪く、あるアメリカの高校のPTAの会合で、ある父親が、立ち上がって意見を述べ、高校で女性に理科を教えることはやめてもらいたい、自分の娘が科学に興味を持ち、ロザリンドのような頑固でわからず屋の女性になるようなことになっては困るから、と言ったそうである。
 アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA”は、このワトソンの“二重ラセンによってつくられたロージィという女性のイメージを粉砕するために書かれ、1975年に発行された。アン・セイアーは、ドクターロザリンド・フランクリンの親友であり、ワトソンが伝えるイメージがいかにまちがったものであるかを、確実な資料によって訂正しようとしたものであった。
 1962年のノーベル生理学賞はDNAの分子構造を解明するのに貢献した三人の科学者に授与された。その時、すでにロザリンド・フランクリンは亡くなっていた。栄光は三人の上に輝いた。しかし、もし、ロザリンドが生きていたらどうであったか。ワトソン・クリック・モデルの発見者として、ワトソンとクリックの正当性は誰も拒否できない。しかし、モーリス・ウィルキンスはどうなっていたかという疑問が読者の胸に沸き起こってくる。そして、私も、この著者と同様、ロザリンド・フランクリンこそ、1962年の遅すぎたノーベル生理学賞の受賞者の一人であったに違いないと思う。
 遺伝子の分子構造である“二重らせん”の解明に、最大の手がかりを与えたのが、DNAX線回折であったが、この領域でナンバーワンの実力を発揮し、自身でもらせん構造に気がついていたのがロザリンドであった。ワトソン・クリックの“二重らせん”の発見の手がかりとしても、その証明としても、ロザリンドのX線回折は最も貴重な宝物であった。ワトソンが恐れていたように、分子結合解明の巨人ライナス・ポーリングが、このロザリンドのX線回折を見る幸運に恵まれていたら、ポーリングはまちがいなく、自分で“二重らせん”を解明し、いわば、ノーベル賞を三つ受賞していたに違いない。ポーリングが“二重らせん”をミスしたのは、、ロザリンドのX線回折を見るチャンスがなかったからであり、それ程、ロザリンドの仕事は、この“世紀の発見”において、重要な位置を占めていた。そして、ワトソン自身も、このX線回折を、ロザリンドが知らない間に、いわば非合法に手に入れて、彼らのモデル作成の重要な手がかりとしたのであった。
 ワトソン・クリック・モデルは、明らかに、ワトソンとクリックの独創によるものであったが、彼らはその栄光を独り占めにしてしまい、結局、ワトソンの“二重らせん”の中では、ロザリンドは“らせん構造”の頑固な反対者として描かれている。一体、どうしたことであろう。この生物学界 “世紀の発見”が、相対性理論のようなものとは、全く質が異なると思えるのも、この辺の事情による。
 ワトソンの“本”によれば、彼らが成功したのは、ポーリングのモデル理論とロザリンドのX線回折の結合であったことは明らかである。そして、この本では、ロザリンドはキングス・カレッジでモーリス・ウィルキンスという科学者のアシスタントのような位置に置かれてしまい、ロザリンドとモーリスとの協力関係が曖昧にされている。事実は対等の関係であり、DNAX線回折では、モーリス・ウィルキンスも、ロザリンドに教えを請わねばならなかったのである。そして、ウィルキンスがノーベル賞に浴したのも、“二重らせん”解明の手がかりとして、“X線回折”が果たした役割の大きさのゆえである。そうであれば、一層、ノーベル賞は、当然、ロザリンドのものであったはずだということになる。もちろん、死者には贈られない。ポイントは、この“世紀の発見”への彼女の貢献度を正当に評価することであった。
 ワトソンの“二重らせん”は、それを逆に意識したためか、或は、彼自身の1951-1953年の個人的な回想録として、それが、ワトソンにとって、そういう印象付けられていたということであったためか、ともかく、ロザリンドという女性が、この発見への障害物といったイメージで描き出されており、もし、アン・セイアーの記述が正しいとすれば、この、ロザリンドの友人が、ワトソンの著書に対して怒りを覚えたのも納得がいく。“歴史における科学”を書き、自身、優れた結晶学者であったイギリスのJ.D.バーナルは、早くから、ロザリンドの正当性を認めていた。特に、DNAX線回折においては、世界の第一人者であり、DNAA型と B型の違いを、写真で初めて明らかにしたのもロザリンドであった。このB型が、二重らせんの解明に直接つながっていくのだが、彼女の死後、いつのまにか業績はモーリス・ウィルキンスのものとなってしまった。全てを知っているアン・セイアーが怒りを覚えるのはここである。エンサイクロぺディアにまで、まちがった情報が載ることになった。
 アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA”は、この夭折した女性科学者の人間と業績を辿り、特に、有名な“二重らせん”モデル発見に至る貢献度を解明したものであるが、それは、同時に、女性であって、科学者であるということが、いかに困難なものであるかを示したものであった。当時、戦後すぐの英国では、女性の科学者は稀であり、いわば、男性と平等に扱われる状態にはいなかった。キングス・カレッジでは、食事さえ、女性は男性とは異なる場所であった。そういう情況の中に入っていった優れた結晶学者ドクターロザリンド・フランクリンを待ち受けていたものが、モーリス・ウィルキンスであった。彼がキングス・カレッジでは唯一DNAと取り組んでいて、その共同研究者の一人として、ロザリンドは入っていった。そこに悲劇が生まれた。
 この関係の不幸は、性格の違いにあった。あるドクターは、“Crash Of Character”(性格の衝突)と呼んだ。二人の関係は、最初から、水と油のようなものであり、陽気で議論好きでオープンなロザリンドは、モーリス・ウィルキンスの陰性な性格とは肌が合わなかった。
 イギリスに来たワトソンは、ウィルキンスとは、うまくつきあい、ウィルキンスを通して、ロザリンドという女性科学者を知るようになった。“二重らせんに描かれたロザリンドのイメージの悪さは、一部、ロザリンドと犬猿の中といえた、モーリス・ウィルキンスの色眼鏡を通して語られているのは、間違いないであろう。ウィルキンスは全く自分とタイプの違う女性科学者を扱いかねていた。(アン・セイアーは、この二十年、ウィルキンスが大学院生を指導したのは男性ばかりであるという、いわば、彼の女性蔑視の事実を指摘する。)
 ロザリンドは、しかし、その2-3年の間に、重要なX線回折を行って、ウィルキンスとは決裂し、淋しく、ドクターバーナルのもとへ、去っていった。その後も、重要な研究を発表し、1958年37歳の若さで、癌で亡くなった。既に、結晶学の第一人者といえたロザリンドの病床に、カラカスの研究所から、一年間招聘したい旨、手紙が届いていた。彼女はなくなり、手紙は返事されないで終わった。彼女の論文は、科学誌で最も権威のある“ネーチュアー”〔自然〕にも、いくつか載せられた。女性らしい緻密さと明晰さを示したものであるらしく、それは、DNAX線回折においても、既に示されていた。
 すぐれた女性科学者ロザリンド・フランクリンの名前が忘れられ、或は、ゆがめて伝えられたため、アン・セイアーは、“生き残ったものが勝ちを独占する”という。ワトソンが示したことは、科学的発見や業績の確立のためには、合法であろうとなかろうと、利用できるものは利用し、一番乗りをしたものが勝ちであるという方法であったと彼女は言う。そのため、以降の科学者たちの多くは、これまでの科学者達を支えていた筈のモラルを喪失し、自分の業績のためには、人を押しのけ、蹴倒し、踏みにじって平気といことになった、と。もちろん、ワトソンの業績は偉大である。しかし、その業績が生まれるためには不可欠であったロザリンドの業績に対する正当な評価もなく、彼女の死後、反論も出来ないような状態になってから、私的回想録とはいえ、歪んだイメージをふりまくのは、死者に対する冒涜である。友人としては、この本を書かざるを得なかった、ということになる。
 ワトソンの“二重らせん”は、“発見”への競争という緊張に満ちた劇であり、青年らしい野心と豪放さで生きていた時を、その時の資料を下に回想したものであり。発見が発見だけに、とても興味深く、没頭して読めるものであった。そして、これを読んだ私は、やはり、ロザリンドという女性科学者を頑固で、どうしようもない女性と受け取った。ロザリンド・フランクリンとDNA”を読んで、私は驚いた。ここには、生涯、独身で通し、研究に生き甲斐を見出し、緻密さと独創性を持った、快活で明るく偉大な科学者の姿が描かれていた。さらに、DNAのラセン構造が、ワトソンの主張するのとは異なり、彼女によっても、独立して認められていたこと、ノーベル賞は当然、彼女も値したことなどを知った。
 “二重らせん”構造の発見は、確かに、語られるに値する出来事である。そして、それに至る過程が、ある意味ではスキャンダルに富んだといえるものであったことは、ワトソンの著書によって明らかである。そして、回想録が個人的なものである限り、たとえ、歪んで解釈していようと、文句を言えた筋ではないかもしれない。しかし、事実を歪曲することは許されない。ノーベル賞という科学者として最高の栄誉を掴んだワトソンが、世紀の発見の内幕を叙述する必要を、その解明の当初に感じていたのも当然と思えるが、いくら、その序文で、この“二重らせん”が、発見当時の雰囲気を描くため、たとえ偏見や独断に満ちていようと、自分がその時感じていたように書いたという註釈をつけても、アン・セイアーにその不当ぶりを指摘されれば、文句は言えないに違いない。
 ここで、明らかになるのは、回想記を書く困難さであり、登場人物に対する配慮の必要である。影響力を持った人は、それだけ、一層、慎重でなければならない。特に、既に、死んでしまった人を登場させるときには。
(完                  記 1985年12月15日) 

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