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3/29/2012

補習校における中学社会科教育に関する私見

 私はあらゆることに興味を持っているので、国語や数学を指導していたときも、理科教育や社会科教育について考えていました。そして、すばらしいクラスを指導していて、そのクラスの担任の先生から社会科の授業に対する生徒の反応をきいたときに、これは私の考えをこのすばらしいクラスの生徒たちに知らせておかねばと思って、書き始めました。

 その先生は新潟の雪深い村のご出身で、わたしが彼の育った村の雪の状態などを聞くだけで非常に興味深く感じ、教師から学ぶことはこういう体験談をきいたりすることであって、本・教科書に書いてあり、自分で読めばわかることを教室でRepeatする必要など無いと思いました。その先生の授業に対して、雪深い新潟の村の話でなく、ちゃんと教科書をすすめてくれといったバカな生徒がいたということで、私はなんということだ、まったくわかっていない、新潟の雪の話を聞くほうがどれほどおもしろいかわからないのにと思い、こういう文章を書いてみなに示したいと思いました。

 その教科書希望の生徒は隣のクラスであったのです。それで、母の会頼りに載せてもらってみんなに考えてもらおうと思いましたが、派遣教官の狭量な意見で没になり、自分の教えている国語のクラスの生徒に配ったわけでした。
村田茂太郎 2012年3月29日


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補習校における中学社会科教育に関する私見


 私は、以下の文章を、パサデナ校“母の会便り”に載せてもらうつもりで書いた。私は現在、国語と数学を担当しているだけなので、“社会”について私見を述べるのもどうかと思われたが、私の教育への視野は、中学の全主要教科に対してであり、私の意見を述べる事によって、“社会”担当の先生はもちろん、全員に社会化教育のあり方について考えてもらうつもりであった。

 しかし、私の意図とは別に、<“現在”社会科の担当でもないものが、社会科について口出しするのはおかしい>とパサデナ校の派遣教官から言われて、“便り”への掲載はとりやめざるを得なくなった。他のプリントと同様、このプリントにおいても、単に社会科だけでなく、あらゆる学問に通用する基本的な学習態度とかといったものについても書いておいたので、“便り”には載せないけれど、諸君にぜひ読んで貰いたいと思い、ここに、私自身が直接指導しているクラスの中でも、特に、関心を引く、一年二組の諸君に、国語文集のプリントと同様、私の考え方を示したものとして、提供する事にした。

とはいえ、米山先生には、真っ先に一部を提供した。そして、そのあと、二人で社会科教育のあり方について論じ合った。私の意見は、どちらかといえば、理想論かもしれないという事で一致した。残念な事に、補習校での授業を受ける態度は、教科によっては正規の授業が困難と思われるほどの場合があることは、諸君もよく承知していることと思う。“社会”については特にそれが言えることは、去年、私が体験してよく知っている。

従って、そういうクラスで意味のある社会科授業をもつ事の困難さは、簡単に言葉で表現できない。そういう中で、“社会”の授業を意味あらしめるには、それだけの創意と工夫が必要であり、現在、米山先生が困難に耐えて、諸君を厳しく指導しておられるのを知り、私もなるほどと、うなづいたのであった。

以下の文章は、一応、参考資料として読んでいただきたい。

本論

 私は、現在、数学(中二)と国語(中一)を担当しているが、補習校における中学社会や理科教育とその在り方にも非常な関心を抱いているので、ここに“社会”に関しての私見を述べさせていただく。(理科に関しては、また、別な機会があれば、試みるつもりである。)国語に関しては、パサデナ校の“母の会便り”の1983年二月号にて、ある程度、私の考え方を述べさせていただいた。

 私自身の現在の国語授業は、私の信念に従って、私の書いた線に沿って実施しており、実験的な段階であるが、ともかく私自身としては問題なくすすめているつもりである。今年の成果を見て、来学年はもう少し大胆に、私の考える国語教育をすすめるつもりでいる。

 数学に関しては、また、改めて述べる機会もあると思うが、基本事項さえマスターすれば、あとは比較的問題なくやれる領域でもあり、ここでは、とりあげない。問題は、社会と理科である。今回は、“社会”をとりあげる。私の考え方のいったんは、既に二月号にて述べておいた。“社会”の扱い方は教えるほうにとっても、教わるほうにとっても、父兄にとっても、深刻な問題であり、具体的な指針が要請されている領域であるので、ここに、もう少し詳しく、私の考え方を述べ、ご父兄各位への問題提議としたい。

 まず、教える側と教わる側と父兄という三者の意識を簡単に見てみよう。私自身、去年、中学社会を担当したので、教える側の悩みはよく承知しているつもりである。何といっても、はじめから絶対量としての時間が制約されており、しかも、豊富な内容を何とかうまくこなさなければならないという悩み、さらに、自分の信念に反して、教科書の知識をただつめこむだけの授業をやるべきかどうかといった問題。そして、たえず気になったのは、想像されうる父兄からの期待、つまり、日本での入試等を意識して、何はともあれ、ペーパーテストは良い成績をとれるようにしてほしいに違いないという期待と、ただ知識を詰め込むだけの授業はやりたくないという意識とのディレンマ。

 もともと、時間的に不可能だと分かっている中で、やっているわけなのだから、それなら、何も意味の無い知識詰め込み主義の授業ではなく、もしかして、こういう補習校でこそ可能な問題意識探査的な授業を行うチャンスなのではないかという意識。そういったものが、私の中にあって、二月号の文章となったのであった。

 教わる側にしても、入試・受験を意識している生徒は、つまらないと思いながらでも教科書の固有名詞は覚えようとするだろうし、そんなに意識していなければ、ただ名前だけ覚える授業などつまらないと思うに違いない。歴史の流れとか、世界的視野とか、考える社会というよりも、ただただ個々の名前を暗記していくのに精一杯という形になりやすい。

 それが、私どもが日本で受けた社会科教育でもあった。しかも、それで満足できるわけではなく、高校受験・大学受験となれば、やはり自分でコツコツ徹底的に勉強しなおさねばならなかったのである。それでは、何のための授業かということになる。中には出色の教師がいて、私個人の体験でも、政治の時間の一番最初に、教科書ではなく、夏目漱石の小説“こころ”の話をされて、大いに感動した。その同じ先生は、のちに、戦後史の年表をプリントして教科書とは無関係に授業をされたりして、私は自分が激動する現代史の真っ只中にいるのだという感銘を覚えたことを記憶している。そうした、生き生きとした授業は、結局、教科書を乗り越えた次元においてなされたものであった。

さて、もし、受験勉強自体、個々人において独自に徹底的になされなければならないとしたら、なにも入試を気にして補習校でのほんのわずかな社会の時間を、味気ない固有名の暗記に費やす必要など全く無いのではないだろうか。補習校という自由な特性を利用して、本当に意味のある社会科の授業をやれるチャンスではないだろうか。

実は、教育において本当に大切なことは、単なる知識の暗記ではない。受験には役立つかもしれないが、本当はどうでもいいようなことである。本当に大切なことは、社会現象に対しての、ものの見方や考え方、分析の仕方、批判的判断力等を身に付けることである。自分とのかかわりの中で、問題に目覚め、その問題の解明を目指して探求が深まっていき、その中にはじめて本当の面白さを発見するということである。自分とのかかわりのないところで捉えられた知識というものは、ただ、むやみに記憶した固有名詞の羅列に過ぎず、自分にとっても、誰にとっても、意味を成さないものである。

問題の発見とその解明、つまり、問題意識的探査こそが教育を最も効果的にするものである。

問題とは、自分の身近なところに見つかる問題から、新聞やテレビのニュースをにぎわしている問題まで様々である。人間は、分析を、最も身近な具体的な事実、現象の分析からはじめてきた。個々の具体的な事実の分析を通して、一般的抽象的本質に至るというのが、自然科学の方法であったし、社会科学の方法の一部であった。

現実の具体的事実から問題を掴み取り、それを抽象化していくという作業によって、基本的な核心に到達するとう方法が学問的にも正しく、教育的にも採用さるべき方法であるといえる。本人にとって、意味もなさない出来事を、いたずらに押し付けて暗記させるのではなく、その背後の、現象してくる根本のところからおさえるようにすれば、わかりやすく、意味もあり、興味も覚えるものとなる筈である。

たとえば、国会とか内閣とか総選挙というものについて、ただ知識として教えるのではなく、レーガン訪日や国会解散といった現実に起きている出来事から始めて、それでは国会や内閣の構造はどうなっているのかという具合に見ていけば、重要なポイントはすべて押さえ、しかも現実とのかかわりが保たれるわけである。そうした形の授業をすすめるうえで最適の事件が去年の春に起きた〔1983年〕。

フォークランド紛争である。

この事件は、生きた社会の授業を行ううえで、すばらしい材料を提供してくれた。この事件をうまく扱えば、世界地理、世界史、政治・経済をこなすことが出来る。アルゼンチンとイギリスをめぐる世界の政治情勢、戦争に巻き込まれた日本人移民、アメリカによる経済封鎖、これらは、世界地理の勉強と同時に、経済封鎖の先例としての、ナポレオンによる大陸封鎖の話、それと関連しての現在日本を悩ませている日米貿易均衡と農産物自由化問題、ナポレオン時代のまとめ、移民問題と植民地、こうした事柄がすべて、このフォークランドを基点として展開できるのだ。これは、少し、むつかしすぎて、高校社会の領域ではないかと見る人がいるかもしれない。しかし、去年、私がこのフォークランド戦争とナポレオン大陸封鎖・日本の農産物自由化と日本政治指導部の困難な仕事について話したとき、生徒諸君は他の教科書の授業の時よりも、はるかに活発に質問し、反応してくれた。

これは、端緒である。このようにして、上からまとめた知識を与えるのではなく、教師と生徒が一緒に考え、資料を調べ、考えを深めていく中で、政治や経済や歴史や地理の基本的事項をつかみとり、自分も現実にかかわり、知っている出来事の一部を構成するものとしてつかむようになれば、それぞれの知識が有機的に関連した生きたものとして身についていく事になる。このようにして、一つの事柄に興味を持てば、それは、必然的に、次を喚起し、次々と問題の広まりと深化を見せ、探求も一層面白みを増してくることになる。

そのようにして、社会を見る目をつかんだ生徒は、自由に自らの才能と探求心の赴くままに発展し、成長していくことが出来るものとなる。そのような、視角や方法をつかんでから、整理された社会の諸知識に接すれば、個々の知識は、現在の問題を解明する手がかりとして、わかりやすく理解しやすい姿であらわれる。受験勉強はもちろん必要だが、それだけの準備を済ませ、基礎ができていれば、知識の記憶よりも効果的になされるはずである。

従って、教師は個々の知識を教えるのではなく(それは受験生にまかせておいて)、ある特殊な出来事や身近な事件からはじめて、総合的な見方とか考え方とかを説き明かし、そうすることによって、生徒が具体的な関連性の中で、自分の探求心を深めていけるように努めるべきであるということになる。大切なのは精神のあり方、つまり、探求心・好奇心の養成と方法の伝播である。個々の知識など、教師がいなくても、本さえ読めばわかるものだ。キッカケを与えることが大切なのである。いったん要領さえつかめれば、子供はひとりでに成長していくものなのだ。

たとえば、私が考える高校日本史の授業の構想は次のようなものである。教科書は生徒に任せ、勝手に自主的に勉強してもらう。分かりにくいところがあれば、当然、訊きに行く。教師は独自に、日本史の中から何十件かの最重要テーマをえらびだし、よく研究した上で、毎回、講義を行う。その講義は、かなり詳しく、多角的で、生彩があり、生徒が興味を持つようなものでなければならない。教師は膨大な研究を課せられることになる。しかし、そうしてはじめて生きた興味ある日本史の授業となると思う。

たとえば、古代最大の内乱として、“壬申の乱”がある。これを原因と結果についてくわしく分析すれば、当時の社会が鮮やかに浮かび上がってくるはずであり、天智から天武へという移行の裏に、興味ある出来事がいっぱいあったことがわかり、単に年代と人名と出来事でスグに説明を終えてしまうような授業にくらべて、はるかに好奇心をそそるものとなる。

母の会便り 二月号で述べたように、補習校の学習で特に大切な姿勢は集中・反復・持続である。しかし、何よりも大切な学習の基本は自主性である。自分で興味を持って対象にぶつかっていく態度、これこそ、すべての学習を意味あらしめるものである。

私は二歳年長の姉がいたので、私は姉が買った参考書を利用することが出来た。従って、小学生の時には中学生の参考書を、中学生の時には高校生の参考書を活用することが出来た。小・中学生程度では教科書も参考書もあまり詳しくなくて面白くなかったが、私はこのようにして一、二年上の参考書を利用することが出来たので、自分の探求心はある程度満足させることが出来た。

 去年、新聞紙上で、京都大学数学教授森毅氏が、自分自身の体験を述べて、いつも一年か二年上の本を勉強した、数学など、そのときは難しく思っても、もう一度接してみるとおどろくほどやさしく、分かりやすく思った、というようなことを言っておられた。私と同じ意見だなと思った。


京大現代史科が“歴史としてのスターリン時代”等の著者として当時著名な歴史学者、東大助教授菊池昌典氏を集中講義に招請したことがあった。私も参加したが、そのときの話で印象に残ったひとつは、数学者だけでなく、歴史学者というのも、その才能が発揮されるのは十代から二十代にかけてであるという話であった。私は、ああ、彼は、東大のあの学者のことを言っているに違いないと感じたが、ともかく、その話は、ますます私の信念を強めることとなった。

私は何も歴史学者や自然科学者ばかり育てようとしているわけではないが、何事についてもいえる大事なことは、自分で興味をもち、自主的に探求を推し進めるべきであって、教科書の枠にとどまっている必要など全く無いのだということである。私は、よく、生徒に、教科書というのは、文部省がその学齢で知っておいてほしいと思っている最低限度のことが書かれてあるにすぎないのだから、決して、教科書の次元で満足していないで、早くすべてマスターして、自分から別の本を探して、勉強するくらいでないといけないと言ってきた。菊池氏の話や森氏の話は、私の考え方や体験の正しさを確認させた。

社会科学習の基本はともかく、自分自身が世の中の現象やあらゆる出来事に興味を持ち、自分で自主的に調査していく態度である。その時、必要なのは、かなり詳しい参考書や辞書・事典である。私は心あるご父兄方に、日本史辞典や世界史辞典、日本人名事典や世界人名事典、年表・地図、政治・経済・倫理・社会辞典、中学生・高校生のすぐれた参考書を備えて、子供達が探求心の赴くままに、自分で調査できる環境をつくってあげていただきたく、生徒たちに代わってお願いしておく。

(記                  1984年1月)村田茂太郎

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