Translate 翻訳

3/17/2012

“梨の木 エトセトラ”


 もう25年ほど前の文章です。
こういうものでも、こうして書いておくとあざやかにその頃の思い出が蘇ってきます。
中野重治の「梨の花」は未だに読んでいませんが、最近、沢山読んだ大江健三郎氏の講演集のなかに中野重治についての話と佐多稲子の中野重治に関する思い出についての話があり、そのなかで「梨の木」に触れられているので、やはり読まないといけないと感じているこのごろです。

 今の家の近くにも街路樹として梨の木がうわっているところがあり、花の時期だと気がついたときは咲き始めから散る頃まで2週間ほどにわたって、犬の散歩のコースを梨のコースにかえて歩いたりしています。さくらんぼのような小さな実がなるので、いわゆる二十世紀梨とも西洋のPear ともちがうものですが、梨の木であり花であると思います。


村田茂太郎 2012年3月17日
--------------------------------------------------------------

 中野重治の小説に”梨の花“という作品があることは、文庫本をよく買って読んでいた昔から知っていたが、梨の花というものが、どういうものか知らなかったため、二十世紀ナシは大好物であったにもかかわらず、一度も読みたいという気が起こらなかった。梨の花というのをはじめて知ったのは、ロサンジェルスに来てから、しかも、ノース・ハリウッドの今の家(1987年現在)に移ってからである。家の前の庭にあるのが梨の木だということを知らされて、はじめて、私は梨の木とその花を観賞する機会に恵まれた。そして、梨の木の葉っぱと花のやさしさに魅せられてしまった。

 花は通常、一月ごろに満開となって、一見、桜と似たような咲き方をする。京都で一月末ごろが一番寒いと自分で確かめたように、この梨の花も、一月末ごろに例年満開になるのを確かめて、今では、梨の花は一月に咲くものだと納得するに至った。日本では、いつ咲くのだろう。十月においしい二十世紀ナシが出回るためには、五、六月ごろに咲かねばならないのであろう。

 この、夏と冬しかないと思われるロサンジェルスでも、自然のリズムは正しく動いていると思わされるのは、これらの花々の咲き方によってである。去年は、一時、気候がおかしくなったのか、梨の花が十一月ごろから咲き始めたりしたが、通常は、ある時期になって規則正しく咲き始める。花も美しいが、枝振りと葉っぱが、また何ともいえない程やさしく魅力的である。この梨の枝が天を目指して繁り、暑い太陽光線をさえぎってくれるおかげで、家の前には木陰が出来、どんなに暑い時でも、涼しい場所がある。ぺぺ()は、特に暑がりで寒がりなので、暑い日など、パークに散歩に連れて行っても、木の陰から陰へと、陰を探し回って歩くほどであり、家の前では、必ずスグに梨の木の陰に入って寝そべる。

 私は、暑い日々、外に出てもそんなに暑く感じなかったりするのは、まさに、梨の木のおかげであることを心から感じ、いつもこの木には感謝の気持ちを抱いている。二、三年前に強烈なサンタ・アナ風が吹いたせいか、幹が少し斜めに傾いたのをスグに見つけた私は、ガーデナー(庭師)にも、何とかしてやれないか、倒れないかと訊いたが、彼はあんまり深刻に受け止めなかった。気のせいか、私には幹がカサカサになり、年古りてきたように思われる。

 この梨の木が、枯れたり、倒れてしまったら、どんなに淋しい思いがするだろうと思うほどである。私は、結局、梨の木、梨の花の魅力をロサンジェルスに来るまで知らなかったため、とうとう中野重治の“梨の花”をのぞいて見る気にもならなかった。今では、このすばらしい木を表題にするくらいだから、きっと、魅力のある話が書かれていたに違いないと、当時の私の無知を残念に思う。

 アメリカは何でもジャンボ・サイズで、樹木もよく育つ。家の前にあった二本の糸杉が、十年の間に大木に成長してしまい、これは、家に密接した場所で、隠れ場所をつくるので、防犯上よくないと女房がいいだした。そして、女房が絵のクラスで知り合った男性が、市Cityで働き、木を切る仕事をしているとわかったので、庭の木を切ってもらう事になった。

 糸杉はまっすぐに天を目指して伸び、立派に育って切り倒すのはかわいそうに思われたが、もっと大きくなれば、家までこわれるかもしれないということで、仕方なく切り倒すことにした。彼が見積もりにやってきたとき、私はダルマ落としの要領で、根元をバッサリ切れば簡単に片付くと思っていたが、実は大変な仕事だということが分かった。根元でバッサリやった場合、まちがって家のほうに倒れたりすれば、かえって家が壊れて訴訟される事になるので、面倒だが、木の上までのぼって順番に、いくつにも小さく切っていくしかないということであった。

 結局、一本七十五ドルということで、二本切ってもらう事になった。私はこれは唯一のチャンスであると思い、彼が山登りの要領で木にぶらさがって、次々と切り刻んでいく姿を写真におさめた。大きな重いチェーン・ソーを腰にぶら下げて上がり、鎖で身体を幹に縛り付けてから、片腕でチェーン・ソーを始動させ、太い幹を切っていくのである。大変な肉体労働であると同時に、本格的な山登りの技術と慎重さが要求される仕事であった。二時間かけて二本の木を切り倒し、細かく切って片付けていくのを、私は最後まで見つめていた。堂々とそびえていた樹が、何も悪くないのに処分されてしまったわけで、私は、淋しいような、悪いような気がしていた。

 日本にいた時は、樹木はほうっておいても育ったので、あまり気にしていなかったが、ロサンジェルスでは、緑は、ほとんどすべて人口に育成されたものであり、それは飛行機で禿山をみれば、すぐにわかるのである。

 子供の頃、家族で浜寺の海水浴場(大阪府)に行った時、ある海岸べりの一画が、きれいに区画され、その中に、芝生が鮮やかな緑を見せていたのが印象的であった。進駐軍の宿舎があったのである。しかし、その頃、日本的気候の中では、芝生は、特に必要とは思えなかった。ロサンジェルスに来て、私は芝生の効果を本当に知った。芝生は伸ばすために水と肥料をやり、伸びるとすぐに刈らねばならないという奇妙なサイクルを繰り返さねばならない、やっかいなしろものである。しかし、効果は抜群である。

小六の国語の練習問題に、樹木の効果を説明した読解文があったが、それをいつも正しいと思ったのは、このロサンジェルスの日光と芝生との関係をしみじみと観察してからである。芝生は、まず何よりも太陽熱を吸収してくれるのである。そして、音を吸収し、目にはさわやかな印象を残してくれる。空気も浄化してくれ、心をやすめてくれる。ともかく、植物の存在価値をまざまざ示してくれたのが、この南カリフォルニアの気候であった。

日本の四月の桜に匹敵するのが、ロサンジェルスの五月のジャカランダ(ヤカランダ)である。街路樹として、いっせいに咲き誇っているときは、壮観であり、遠くから見たとき、いつも私は“霞か雲か・・・”の歌詞を思い浮かべる。薄紫のやさしい花が、日本の風情をかきたてる。また一年が経ったという時間間隔を誘うのが、このジャカランダであり、サルスベリ(百日紅)である。百日紅の花も、ロサンジェルスにきてはじめて女房からおそわったものである。家には無いが、周囲一画の街路樹となっており、真紅や赤い密生した花をつけ、葉も繁っているため、それだけでも暑い感じがする上に、七、八月の暑い盛りに咲き誇るので、サルスベリが咲き出すと、また、暑い夏を迎えたかという気持ちが生まれるようになった。そのため、私は、あるとき、俳句を作った。

サルスベリ またあかあかと 心にも

というもので、また一年経って、暑い夏、サルスベリの咲き誇る季節にいるという感慨と、暗い状況を脱して、心もまた晴れやかになってきたという気分を読み上げたものである。

梨の木に 謝して水やる 暑さかな

の句も、同じころに作ったものだが、これは、暑い日光を防いでくれる梨の木への感謝をこめて水をやったという、単純な句である。

一方、私も女房も大好きな草がある。濃い紫の小さな花をつけるクリスタル・パリスという草である。暑さに強く、太陽がよく照る場所で、見事に鮮やかに、そして美しく咲き誇る。繁殖力も強く、枯れてしまったことを残念に思っていたら、翌年、思わぬところから咲き出してきたりする。今年は、いい場所で、美しく明るく可憐に咲いている。

カリフォルニアらしく、明るい太陽の下に咲き誇る花が多いのには、今更のように感心させられる。このクリスタル・パリスは、紫の花が群生して、かたまって、鮮やかに目に写るのに対し、隣の家の庭の隅に私が見つけた露草は、同じような青い、小さな花をつけているが、これは蛍が飛び交っているように、ちらほらであり、清純な、みずみずしい花が、いかにも雑草の美しさと強さを示していて、この花を見るたびに、なぜか私は島倉千代子の“りんどう峠”を思い出す。そして、ああいう歌がはやった時代というのは、のんびりして、牧歌的だったのだなあと、今更の如く、小・中学生の頃が懐かしく偲ばれる。

ハイビスカスは熱帯的で、あまり感心しないが、ブーゲンビリアは美しいと思い、女房も好きで、夾竹桃を抜いて、そこに一本植えたところ、またたくまに大きくなり、美しい、くれない色の花をいっぱいつけるようになった。庭の手入れが悪く、ほとんどガーデナーと女房まかせだが、あるとき、咲いている花の種類を数えてみたら、九種類もあった。さすが、地中海性気候の南カリフォルニアだけのことはあると思ったものである。

今、オレンジの木によくとまるのは雀で、毎日、二十羽を越える雀が枝にとまって、私が米を撒くのを待っている。時々、オレンジの花の間をハミング・バード(ハチドリ)が飛び回っているのに気がつく。美しく、愛らしい鳥である。

去年、はじめて、庭に、女房が日本ナスやきうりやトマトを植えた。ナスは大成功で、かなりおそくまで沢山実り、ナスの大好きな私は大満足であった。ナスもまた、紫色の愛らしい花をいっぱいつける。きうりは水のやり方がむつかしいらしく、下手をするとスグに巻いてしまうので、ナスのようにはいかなかった。一番の問題はトマトであった。これが、また、味はすばらしくうまく、自家製のトマトを食べると、マーケットのものなど、バカらしくて買えなくなった。これもよく繁って、いっぱい実がなったが、あるとき、私は新発見をした。大きく立派な青虫が葉っぱや枝についていたのである。トマトの葉っぱはうまいらしくて、よく調べると、大きな青虫がいっぱいついている。道理で、沢山のフンが落ちている筈だとわかった。女房はとってしまえと指示したので、私は一応、ハシでつかんで、とりだしたが、かわいそうで、とても殺せない。昔、私は、小さな青虫をキャベツ畑からとってきて、飼い、蛹になり蝶になるのを観察したことがあった。この大きな青虫は、きっと、青筋アゲハか何かのアゲハチョウになる筈で、蛾になるわけでないと確信していた私は、このような青虫を当時見つけていたら、大いに感激したに違いないと思い、どうしても殺せず、仕方なく、別の箱に入れて飼うつもりになった。

そして、トマトの葉っぱをとって入れてやると、大きな口をあけて、モリモリと食べる。沢山葉を入れておいたはずなのに、翌朝見たら、葉は一枚も残っていなかった。私はまた葉を入れて仕事に出かけた。帰ってきたら、青虫がいなくなっている。どうしたのかと聞くと、もうトマトの葉の上に返してやったという。トマトの葉の間をのぞいてみたが、もう見つかるのはコリゴリと青虫が思って上手に隠れたのか、どこにも見つけることはできなかった。しかし、その後も、方々にフンが落ちていたので、健在なのは確かであった。私はきっといつかはサナギになり、アゲハになる筈だと思い、それとなく注意しながら見守っていたが、とうとう目撃することは出来なかった。沢山やってくる鳥の餌食になったのかもしれない。或いは、私の知らない間に、蝶になって飛び去ったのであろうか。

この青虫は、葉っぱだけでなく、トマトの実もかじった。かじったところや青虫が這ったところは変質していった。従って、うまいトマトを食べることをあきらめて、青虫のためにトマトを提供してやったようなものであった。しかし、昔、自分が情熱を傾けた相手や欲しくても手に入れられなかったものを、簡単に殺すことなどできないものである。

去年のトマトの種から自然と芽が出て花が咲き始めた。本当にトマトの葉はおいしいのか、他にも葉はあるのに、もう青虫らしきものがついているという。大きくなったら、またとれないので、今のうちになんとか除去するしかない。悩みが一つ増えたといえる。それにしても、自然の生命力はすばらしいものである。退屈する暇が無いほど、この世界は変化に富んでいる。

〔記                  198762日〕 村田茂太郎


No comments:

Post a Comment