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3/23/2012

“経済封鎖をめぐって” 〔政治と歴史〕

 まだ、ソ連崩壊以前のふるい文章です。1986年。
中学生に配った文章で、今から思うと、難しい漢字もつかわれていて、生徒だけではよめなかったかもしれません。私の基本的アイデアは、親子で読んで家庭内での会話が生まれればよいというスタンスで、まあ、時事問題を扱いながら、世の中のすべての出来事に関心を持ってもらおうと思い、また同時にナポレオン時代などの歴史の動きに興味を持ってもらおうとしたわけです。


 もちろん私自身の興味もありました。トルストイの「戦争と平和」 にまで言及していますから、読書案内までかねています。

 いろいろ思い出深いものがある文章です。間違った部分を訂正しました。ゲーテの話のところです。

村田茂太郎 2012年3月23日

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“経済封鎖をめぐって”〔政治と歴史〕           
 昨年〔1985年〕末のウイーンやローマで発生したテロリズムに対して、アメリカのレーガン大統領はリビアの最高指導者カダフィ大佐が陰で操作していると判断し、カダフィによるテロ対策として、国交断絶・経済封鎖の方針を固めた。レーガンは、他の自由主義諸国にも、アメリカ政策に協調するように訴えたが、結果的にはアラブ近隣諸国の団結を固め、アメリカが孤立するような形となっている。アメリカの力を過信した、”経済封鎖“などという、戦術を軽々しく行使した結果である。

 自由貿易が基体となっている現代社会において、一国が政治的な理由で輸出入を禁止し ても、当該国は痛くもかゆくもないのである。数年前、アルゼンチンとイギリスとの間で起きたフォークランド紛争の際にも、“経済封鎖”が適応されたが、貿易相手国がアメリカからソ連にかわっただけであり、個別的には痛手があったかもしれないが、戦争相手国への政治政策としては、ほとんど効果は無かった。

 “戦争論”の著者クラウゼヴィッッによれば、“戦争は政治の継続である”。従って、戦争の中の一戦術或いは戦略として、政治的な“経済封鎖” が行われても、誰も文句は言えない。ナポレオン戦争の渦中に巻き込まれ、“戦争”について“哲学”したクラウゼヴィッッが、戦争は、別な手段による政治であるという結論に達しても、少しも不思議ではない。なぜなら、彼は天才ナポレオンの巨大な政治政策としての“大陸封鎖令”が実施され、それが、ナポレオン自身のその後の運命と如何にかかわっていくかを、つぶさに眺めることが出来たからである。

 大陸封鎖令(Blocus Continental, Continental System)は、ナポレオンによって、まず、ベルリンで発せられた。1806年のことであり、従って、ベルリン勅令(Berlin Decree)といわれる。フランス革命の落とし子といえるナポレオンが、革命政府がイギリスに対して出した経済封鎖の政策を、より大規模に実現しようとしたものであった。しかし、もちろん、フランス一国での封鎖は瞬間的には効果があるように見えても、最終的な目的達成はむつかしい。

 陸上では、天才的な常勝将軍として、自信満々であったナポレオンも、目の上のコブともいえるイギリスに対しては、どうすることも出来なかった。1798年にネルソンの指揮するイギリス艦隊がフランス海軍をアブキール湾で打ち破って以来、ナポレオンは挽回のチャンスを狙っていたが、1805年のトラファルガーの海戦で、またもやネルソン提督の指揮するイギリス艦隊に壊滅的な打撃を被ってしまった。これによって、イギリス上陸の夢は永久になくなったのであった。

 ナポレオンは、その後、革命戦争とも征服戦争とも呼ばれるナポレオン戦争に没頭し、最終的には、イギリスとサルジニア・シシリー島を除く全ヨーロッパを征服したのであった。セント・ヘレナに流されたナポレオンは“もし成功していたら、私は歴史上、最も偉大な人間として知られることになったであろう”という文言を墓碑銘として択んだ。

 16年にわたるナポレオン戦争における死者は百万人を超えたが、不思議にナポレオンの魅力は消えなかった。ナポレオンとはじめて会ったゲーテは感激してしまい、それは終生かわることがなかった。エッカーマンが残した「ゲーテとの対話」のいたるところにナポレオンに対するゲーテの意見・感想―ナポレオンに対する賛嘆、が載っている。「人間の運命がわかれるのは暗愚と開明である。・・・その点、ナポレオンは偉かった。――つねに開明、つねに透徹、そして、決然としていた。そして、どんな場合でも、有利で、かつ必然なりと認めたものを、即刻、実行に移すための精力の貯えに不足しなかった。彼の一生は戦いから戦いへ、勝利から勝利へと向かう半神の歩みであった。彼は絶えず開明の状態にあったといっても過言ではなかろう。このゆえに彼の運命はおそらく、空前にして絶後にも等しいほど、はなはだ輝かしいものとなった。」、「ほんとに、ほんとに、君。彼は偉かった。われわれはもちろん、あのまねはできない。」〔1828年3月11日〕。

主 著のひとつ“精神現象学”を完成した大哲学者ヘーゲルも、その頃、イエナ戦役でプロシアが敗れ、自分が勤めるイエナ大学が閉鎖されるというイヤな目にあったにもかかわらず、馬上のナポレオンの姿を見て、感激したのであった。そして、それは彼の“歴史哲学”にも影響を与えた。

 ナポレオンが単に政治的・軍事的に天才であっただけでなく、文学的にも天才であったことは、今では周知の事実である。スタンダールははやくからそれを認め、パスカルと同様、ナポレオンの文章はコンパスの先端で彫り刻んだようだと賞賛したのであった。人間的な魅力もすごかったのか、大西洋の孤島、セント・ヘレナまで、家族連れで付き従った将軍も居た。

 “もし、成功していたら”果たして、ナポレオンが思うとおりになったかどうかはわからない。ナポレオン戦争の副産物としての諸国での改革が急速に進み、大衆が革命に立ち上がる社会が生まれてきつつあったからである。しかし、もちろん、“失敗”は必然であった。そして、その種は、“大陸封鎖”の考えにあったのである。

 経済封鎖を最も有効に働かすためには、対戦国を完全に孤立させねばならない。当時、イギリスは七つの海を支配し、ユニオン・ジャックの旗は世界中の、どこの港にもはためいていたのであった。海上権でイギリスに完敗したナポレオンは、経済封鎖こそ、イギリスに打撃を与える最後の手段であると信じた。イギリスは貿易でなりったっているような国であったからであり、わずかではあるが、1793年のフランス革命政府の行った経済封鎖が瞬間的にイギリスを困惑に陥れたのを知っていたからである。

 ナポレオンはイギリスを経済的に打倒しようと目論見、そのためには、イギリスに対抗できる一大ヨーロッパ帝国を確立するほかないと思ったに違いない。ともかく、ほとんど完全に孤立させなければ効果はないのである。ナポレオンはヨーロッパ各地を征服し、自分の兄弟をそれぞれの国の王として統治させた。オランダ王、スペイン王、ナポリ王といった具合に。そして、その事によって、この大陸封鎖令が実際に効果を発揮すると信じた。そして、それは、確かに効果はあった。しかし、経済封鎖は両刃の剣であるといえる。ヨーロッパ諸国に対して、イギリスとの通商を禁じた結果、イギリス本土も経済的にかなりの打撃を被った。しかし、ナポレオンの支配下にあったヨーロッパ諸国も手痛い打撃をこうむったのであった。重要な穀物輸出の道をふさがれたロシアは、とうとう、公然と封鎖令を破って、イギリスと通商を始めた。1811年のことである。

 ナポレオン独裁のヨーロッパであったので、封鎖令も徹底されていたが、裏では密輸が半ば公然と行われていた。それにしても、ロシアをそのままにしておくこともできず、ナポレオンは大軍を率いて、ロシア遠征に出発した。ナポレオンはモスクワを占領したと思ったが、それはロシア軍の作戦であった。トルストイの“戦争と平和”は、この出来事を扱っている。ボロジノに続く、べレジナ河の戦いでナポレオン軍は大半を失い、そしてそれは、他のヨーロッパ諸国に独立のチャンスを与えた。無敵の伝説が破れたのである。ライプチヒ諸国民戦争からワーテルローへと、今度は、対ナポレオン戦争がつづき、最終的にナポレオンはセント・ヘレナに骨を埋めることになった。

 このようにみてくると、ナポレオン戦争の正体は、対イギリス戦であり、その実効としての“大陸封鎖”こそ、彼の征服戦争の成功を支えていた精神的支柱であり、また同時に、彼の没落の原因であったということがわかる。それゆえ、どうして、彼の大陸封鎖令が成功しなかったのかを、よく吟味する必要がある。

 まず、制海権を握っていたイギリスを完全に孤立せさることは始めから不可能であった。そして、完全に孤立しなければ、経済封鎖は本当に効果を発揮しない。それは丁度、軍事上の、籠城と包囲作戦にあたる。完全に遮断してしまえば、降伏も時間の問題であるが、抜け道がある限り、包囲作戦は効果を発揮しない。大陸封鎖令で打撃を被ったのは、ヨーロッパ諸国であった。ナポレオンによって武力で征服され、仕方なく、命令に従ってはいるが、ナポレオンがあまりにも支配を強め、内政に干渉していったため、ナポレオン帝国の内部で反抗の意識が強く働きだした。

 1806年のベルリン勅令のあと、イギリスに対する影響はあまりあらわれなかったが、1807年のティルジットの和約で、ロシアとプロシアを制した結果、イギリスに対するプレッシャーは強まり、仕方なく、イギリス政府は“中立国の船”を使うよう指示を出した。それに対して、ナポレオンは、更に、“ミラノ勅令”を出し、“中立はない”と通告した。この時点で、イギリスの経済はかなり沈滞し、このまま行けば、政府も転覆するのではないかと思われた。ところが、その時、ナポレオンはスペイン・ポルトガルの征服に乗り出し、兄弟の一人をスペイン王に据えたのであった。当時、スペイン圏は南アメリカに大きく領土を獲保していたが、それら海外のスペイン・ポルトガル系国家は、ナポレオン支配を認めず、それまで守っていた封鎖令を破り、イギリスに門戸を開放したので、やっと、イギリスも息がつけるようになった。

 ナポレオンが大陸封鎖の決意を固めたとき、彼の頭の中には、世界産業の中心をイギリスからフランスに移そうという考えがあった。また、同時に、海上権を支配するイギリスの暴力的な政策で、これまで苦労をなめ続けてきたヨーロッパ諸国をイギリス支配から解放しようという狙いもないわけではなかった。大陸封鎖などという、敵にも味方にも、苦労と困難を強いる政策を効率よく適用するには、それらの困難に報いるだけの報酬が必要であった。ナポレオンがヨーロッパ全土での自由貿易を目指していれば、ナポレオンに征服された諸国の人々の反応ぶりも、また違ったものになっていたかもしれない。ここで、ナポレオンが失敗したのは、ただ、その政策を“フランス一国のため”に限定し、他の同盟国にもその利益を享受させなかったことであった。そして、イギリスの経済力に対する過小評価もまた、失敗の原因の一つであった。

 イギリスは、丁度、歴史的な産業革命の時期を迎えていた。イギリスのリバプール卿は、ワットが亡くなった時、“蒸気エンジンがなかったら、イギリスはナポレオン戦争に生き延びることは出来なかったであろう。”と言った。フランスと異なった産業社会を構成していたイギリスは、ナポレオンが期待したようには動かなかった。彼は経済危機が社会危機を生み出し、政変につながると考えていたが、大陸封鎖は、逆境を生み出したことによって、イギリス民衆を結束させてしまった。彼らは、困難に耐えるだけの力を生み出したのであった。

 さて、こうしてみると、戦争の一戦術としての“経済封鎖”が成功するためには、ほとんど完全に孤立させることが可能なこと、相手国が貿易に依存していること、(自給自足不可能なこと)、経済封鎖から生じる困難に対する見返りが、同盟国に適用されること、密輸をなくすことが、ほとんど最低限として必要なことである。

 ところで、現代世界を眺めてみると、アメリカ圏(これは、いわゆる自由主義諸国が含まれるが、単純にアメリカに同調していないことは、今回のアメリカのリビア政策に対する各国の否定的見解を見ても、わかる)、そしてソ連圏、第三世界と大きく分けることが出来る。ここで、アメリカやイギリスが経済封鎖を試みても、成功するはずがないのは、この世界構成から見て明らかである。経済封鎖は完全に孤立させなければ意味はないのに、一国やその同盟国が封鎖に加わっても、反対の国からは、いいチャンスとばかりに救援に出られてしまうのである。現に、フォークランド紛争では、アルゼンチンの主要輸出産物は、ソ連によって買い取られるという結果を生んだ。

 従って、現代世界のような構成のもとにあっては、経済封鎖などは意味がないのである。また、戦争意識としても、大国が経済封鎖を行えば、相手国は結束して、どんな困難にでも耐えようとするであろう。封鎖で参ったから、許してくださいなどという結果には絶対に到達しないのだ。

 アメリカのすべての対外政策についていえることは、大国意識から、力で誇示し、解決しようとする傾向があることだ。しかし、アメリカにとって不利なことに、どのような小さな国でも、もし、アメリカが力で解決しようとすれば、そのチャンスを狙っているソ連にすべての利益をさらわれる可能性が、ほとんど、現実的に存在していることである。

 経済封鎖は政治的効果は少ない割には、巻き込まれた部分の末端にまで与える影響は多きい。大統領のいい加減な決断一つで、リビアを強制的に退去させられる会社も家族も迷惑がっているに違いない。もう少し、歴史認識を深め、最も有効な政策を採るように努力すべきであって、思いつきの発想は政治指導者は慎まねばならない・

〔完〕

1986年1月26日 執筆、 一部訂正 2012年3月23日 村田茂太郎

 (補記)

このエッセーは、ベルリンの壁崩壊以前、そしてソヴィエト旧体制崩壊以前に書かれた。

“経済封鎖”に対する考えはかわっていないが、“ソ連”はなくなり、アメリカ、ロシア、中国、ユーロ、アラブ諸国、その他、という世界体制にかわったので、ソ連と書いてある部分はそれなりの調整が必要である。

ムラタ 2008年

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