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3/25/2012

精読 ということ (国語の受験勉強)

 わたしは受験勉強が好きでした。確実に何かを身につけるチャンスだったのです。英語を原典で読むとか、日本古典を原典で読む、など、基礎力をつける大事な機会であったのです。したがって、灰色の受験生活ではなく、何でも学べる楽しい期間であったわけです。

 ”精読”ということを学べたのも、大学受験勉強のおかげです。
大学入試というのは、従って、大事な、自己確立の機会であった訳でした。大学に入学したことよりも、そのための”努力”こそ受験勉強の最大の収穫であったと私は高校の恩師から聞いた事が在るように思いますが、わたしもそれは本当だと思いました。人間は自分が確実にやってきたことだけ自信をもてるのです。受験勉強、大学入試はその貴重な機会を与えてくれます。

村田茂太郎 2012年3月25日

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精読 ということ (国語の受験勉強)

 受験勉強(高校受験であれ大学受験であれ)の持つ積極的な意味の一つとして“精読”の訓練ということがあげられる。ふつう、本の読み方に関連した言葉として、濫読、熟読、通読、翻読、精読といった語彙や“流し読み”とか”斜めに読む“とかといった表現、それに、漫画的な”つんどく“とか”たてどく“(読まないで積んでおいたり立てておいたりする)などがあるが、訓練の必要があるのは、そのうち、精読とか熟読といわれるものである。精読は文章読解上の基本的態度であり、身に付けておくべき基礎学力であるといえる。精読する習慣を身に付けておかないと、読解するうえで大事なものを見落としたりしかねない。そして、この精読する技術を身に付ける大切な機会が、もちろん”授業“であり、また、自分で取り組む”受験勉強“である。

 授業の大切さは、ある人の文章を、まとまった形で扱うことによって、文章の全体の意味や叙述形式を理解することが出来るという点であり、受験勉強のよさは、短い文章を精読することによって、その文章のエッセンスをすぐに掴み取る実力を養う機会であると同時に、数多くの様々な筆者の文章に接する機会に恵まれることによって、新しい世界に対する刺激が得られ、自分でより深化していくキッカケをつかむことが出来る点である。

 私の国語への愛着と理解の増大は、授業への真剣なコミットメントと同時に、自分で様々な現代文に受験参考書を通して接することによって深められ発展せられた。従って、私は受験勉強というものは、主体性次第でいくらでも意味と価値のあるものにすることが出来ると思う。私自身は参考書で断片的に知ったそれぞれの筆者の文章を原本で読んでみようという意欲が、国語に対する関心と理解を深めただけでなく、読書意欲をたかめることになり、自然科学や歴史にまで対象が広まることとなった。そうなれば、受験勉強は強いられた勉強であることをやめ、楽しみとなる。高校三年の後半期には、私は二、三日で一冊の割りで、文庫本や新書本を読みふけった。

 高校の現代国語の学習や受験勉強で身に付けることは、結局、日本人の書いた、誰の、どの文章でも正しく意味を把握することが出来る能力である。そしてそれは、綿密に文章を読み取っていく訓練を経ることによって修得可能となる。そして、そうした細部にまで注意を払いながら読解を深めていくのに、受験問題は手ごろな長さであり、内容である。

 精読を必要とする本というものは、内容的にも高度であり、単に国語力だけでなく、歴史や社会や文化の全般にわたる知識を必要とすることが多い。逆に、すべての知識、すべての見聞が文章の読解に重要な役を果たすといえる。現代文の読解といえども、古文や漢文への理解が要求されることは少しまともな人の文章を読めばすぐに納得される。たとえば、丸山真男(政治学者)や小林秀雄(文芸評論家)の文章を理解できれば、現代日本人の書くどのような文章でも理解できる能力があるということは、はっきりといえる。従って、自己の学習も、安易な段階にとどまるべきではなく、意識的に高度な内容をもった文章に向かう努力をしなければならない。

 私は高校受験であれ、大学受験であれ、それぞれ意味を持ったものだと高く評価している。それは、何も落とすためというよりも、自己へのきびしい試練と受け止めることによって、自分を集中させ、最善のものを発揮させるチャンスを与えてくれるからであり、そうした、自己統御による計画的な集中作業を通して、学習の基本を身に付けるだけでなく、自己の人格形成をもおこなうことが出来るからである。すべて、自己の在り方次第でどうにでもなるといえる。

 私自身は大学受験勉強を通して、最良のものを身に付けることが出来た。生涯にわたる決定的な影響を受けることになった小林秀雄の作品に親しむことが出来たことも、単に、国語教科書だけでなく、受験勉強のおかげであった。何しろ、小林秀雄は、各大学での出題率が他を引き離してトップだったのである。それゆえ、私は受験勉強をしているのだと言って、小林秀雄の作品に没頭することが出来た。

 精読の訓練は受験勉強において可能であるだけでなく、翻訳の際にも可能であり、またある文章やある筆者を批評しようと心がけたときにも可能である。すぐれた翻訳家の仕事は、単に、辞書的な語彙の変換に終わらず、深い内容理解を踏まえた注釈という形でなされている。たとえば、トーマス・マンの“非政治的人間の考察”の翻訳はすばらしいものであり、岩波文庫の“ベートーヴェンの手紙”などもお手本となる立派なものである。泉井久之助博士の“ゲルマニア”(タキトウス)の翻訳などは、その学殖の深さに驚嘆させられるばかりである。漢文や古文の口語訳においても同じことが言える。正しい日本語に対する知識、深い外国語に対する知識と並んで、正確に内容を読み取り、こなれた美しい日本語に移しかえる総合的な能力が必須である。

(記       1986年3月20日) 村田茂太郎




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