Translate 翻訳

2/29/2012

心霊現象の科学をめぐってーその6

 
心霊現象の科学をめぐってーその6

”予知”のつづき

 きのうはM.B.Dykshoornの予知の能力の例をあげました。まだ5歳にならない子供のときに、どこかで2週間後に男が首吊り自殺をするという忌まわしい予言でした。本人も父親もそれが事実になってびっくりしたわけです。、オランダ人でGerard Croiset も大変なサイキックで、Professor Tenhaeff が彼の能力を検証するために長い間つきそっていたので、資料がたくさん残されているようです。

 今、わたしの、古本屋で買ったペーパーバックの Croiset The Clairvoyant という本をみると、わたしがどこかの日本語の新聞記事をカットした端切れがはさんであって、何年のことかわかりませんが、その中で、Croisetが日本に招かれたときに、千葉県の行方不明の少女が、家の近くのダム付近にいると予言、そしてその後すぐに予言した場所で水死体がみつかったといいます。それまでは述べ750人の警官と警察犬を動員して捜査していたのだがという報告記事がありました。Croisetは自分が子供のときに水死しかかった経験があるためか、超能力のうちでも、特に水死体の発見がうまく、何百人もの死体を発見したといいます。私の本は1977年2月に読了とメモしてありますから、その前後のことでしょう。

 これは、予言とはいいながら、すでに死んでいたわけで、予知ではなく、テレパシーとか透視とか、そういった能力を働かせたのでしょう。

 ここで述べる”予知”は、Croisetのもっとも異常な、驚くべき超能力の発現で、この現実世界が見た目に見えるほどSimpleではないということを証言しているように思われます。では、最も有名な”Chair Test”とは何か。

Chair Test
 簡単にいえば、あるときの、ある会場のある席に誰が座るかを予言するもので、時間的には1時間後から26日後までのあいだの座席に座る人を推定するもの。これは、共謀すれば簡単に実行できそうなので、そのコントロールは厳密・厳格に行われ、Croiset本人があらかじめ知ることは絶対にないように準備して実行されました。

この本の205ページ目、第11章はChair Testと題されています。

Croisetの予言の際の人物像はきわめて具体的で、なんとなくといったぼやけた言い回しではなかったそうです。

 The Utrecht sensitive's impressions are never vague or general but precise and detailed about the future seat-occupant's stature, facial appearance, hair, hands, body marks, manner of dress, as well as personal incidents from this designated individual's life.

 Croiset's tape-recorded predictions are placed in a sealed envelope or locked in a safe and not opened until they are brought to the meeting. they are checked point by point, after the audience has been seated, through carefully controlled questioningof the person sitting in the selected seat. Croiset's statements have proved so accurate that they cannot be explainedaway by chance or coincidence.

 時にはCroisetは全然、Impressionがえられないこともあり、そのときには、実際、その席はあいていたということでした。また、イメージがぼやけてしまうときがあり、そのときは結果から見れば、ひとりでなく、何人もがその席に座ったりしたということでした。

 では、ひとつ具体的にCroisetはどのような予言を行ったのか、Chair Test のサンプル例からみてみましょう。

まず簡単なケースから。Case 3- The Empty Seat
 On October 15, 1952, professor Tenhaeff was preparing a chair test to be held four days later in Rotterdam. The Professor picked chair Number 18.
"I see nothing." mumbled Croiset.
"Are you sure?"
"Absolutely."
 This perplexed his parapsychological Boswell. Until then, Croiset had achieved near-perfect results.
 Dr. Tenhaeff tried another number-Chair 3. Croiset smiled, saying quickly,"There will sit a woman. She has scars on her face. I see these scars have something to do with an automobile accident in Italy."
 On the night of the meeting, it snowed in Rotterdam. Of the thirty person invited to attend, one couldn't come. The empty chair? Number 18-where Croiset said "I see nothing."
 But in Cair 3 sat a woman with a visible scar upon her face. "Why, yes," she admitted. "I was in an automobile accident in Italy two months ago. But tell me, how did you know?"
 After the experiment, Tenhaeff corroborated Croiset's image with testimony from the woman's husband, a neurologist.

 逐語訳はやめますが、このケースは、Professorが18番の席のイメージはと訊ねたら、Nothingと答えたので、奇妙に感じ、では3番はと訊くと、顔に傷のある女性で、その傷は多分、イタリアで自動車事故にあったものだろうとこたえた。当日になると、雪が降っていて、ひとりだけ参加できなかった、空の席は18番だった。3番には女性が座り、顔の傷も事故もみなCroisetがいったとおりで、その言葉はあとで夫の証言で証明された。

Case 1-last-Minute Ticket
1950年3月6日の午後、アムステルダムのジャーナリストがオランダでCroisetの特技が有名になってきているので、ひとつその証明を記事にしようとCroisetに電話した。
”あと二日したらユトレヒトの心霊学会でChair Test をするから、そのときの座席ナンバーを適当に言ってくれ” ”Raw 7, third chair from the right,"(7列目の右から3つ目の席)。
”All right," "Please make a note of these impressions that I am now giving you. I see on this chair will sit  a lady with gray hair. She has a slim figure and is a lean type. She likes tp help people, but calls everything she does <Christian social work>."
When these facts were checked under Dr. Tenhaeff's supervision on the evening of March 8, this particular chair was found to be occupied by a Protestant Sister of Mercy, Sister L.B., who, indeed, did Christian social work. Croiset's description of her was a direct hit. It couldn't possibly have fitted anyone else present. それではメモしてくれ。灰色の紙をした夫人が座るだろう。彼女はスリムな身体をしていて、細長いタイプだ。彼女は助けるのが好きだが、彼女はそれをクリスチャンの奉仕だとしている。この事実をDr.Tenhaeff監督のもと3月8日にチェックしたところ、このいすにはプロテスタントのSister L.B.が座り、その姿かたちはCroisetのいったとおりだった。出席者の中で彼女以外にCroisetの記述とあう人は居なかった。

Sister L.B. acknowledged the paragnost's description of her as being accurate. She said that she had almost stayed at home, and her choice of the seat was unpremeditated.
It was purely accidental that she received an admission ticket as late as 5:40 PM on March 8. Croiset gave his information to journalist when participants of the test had not yet received their invitations. Moreover, the person who gave sister L.B. her ticket did not know any of the facts furnished by the paraagnost. L.B.はCroisetの言ったことはすべて正しいと認めた。彼女はほとんど家に居るつもりだった、それで座席はまえもって決めてあったわけではなかった。彼女が入場券を受け取ったのはほとんど偶然で、3月8日の5時40分だった。CroisetがJournalistに彼の印象をかたったとき(3月6日)は、まだ誰も入場券を受け取っていなかった。そしてSister L.B. にTicketを与えた女性はCroisetの事に関しては何も知らなかった。

つ まり、このケースは、3月8日に座る女性がTicketをもらうほとんど2日前に、彼女が座ることを知っていたわけである。しかも、偶然にTicketをもらった女性が座ることを。

 これらが、有名なCroisetの Chair Test といわれるもので、Dr. Tenhaeffは何百ものケースStudyをFileしているという。

 これは、完全に予知であり、テレパシーとか透視などとちがって、おそろしいくらいです。これはEinsteinの4thDimentionとか Parael Universeとか、いろいろな考えもしなかったことを考慮にいれないと説明がつきません。一番簡単なのは神の決定論とか宿命論とかで、すべては前から決まっているというもので、危険で救いの無い論理です。

難しい問題です。

村田茂太郎
2012年2月29日

高群逸枝<火の国の女の日記>を読んで

九州への旅は高校の修学旅行のときと、20歳のころ霧島韓国岳登山まどをしたときだけだから、もう50年近くになります。小林秀雄の墓は2003年東慶寺に参ることが出来、ひとつの願望は達成しました。わたしの友人は若いころにヨーロッパ旅行をして、ちゃんとイギリスに在るマルクスのお墓に参ったという絵葉書を送ってくれました。わたしにはもうヨーロッパ旅行はできるようには思えませんが、日本への温泉旅行は出来れば実施したいし、九州由布院などの有名な温泉を尋ねるチャンスがあれば、熊本へもたちより、水前寺公園だけでなく、高群逸枝のお墓にも参りたいものです。

 1983年といえば、もう30年近く前になりますが、わたしは本当に真剣に全エネルギーを集中して、中学1年生の国語指導に献身したものでした。この文章を読み直すと、当時の生徒の一人ひとりの姿が浮かび上がります。補習校で週に一回だけであったけれど、日本の学校では学べないものをマスターしてもらおうと必死でした。

 高群逸枝などという名前を聞いたことなどない人が多かったはずですが、この私の紹介の文章ですくなくとも、すごい人が居たものだということはわかってくれたと思います。

村田茂太郎 2012年2月29日

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 私がいつか日本に行く機会があれば、鎌倉の東慶寺にあるという小林秀雄のお墓参りを是非したいと思っている。今度、この<火の国の女の日記>を読んで、完全に彼女の偉大さに魅せられた私は、熊本県松橋町にあるという、彼女の“望郷の碑”も必ず訪れたいし、お墓参りもしたいと思った。
 これは、素晴らしい本である。こんなに感動的な本にはめったに出会う事がない。私が日記や書簡集に興味を持っている関係から、ある日、友人に、題名を見て、興味を覚えて送ってもらう事になったが、それまで、このような本がある事すら知らなかった。読み始めるなり、大きな感動が私をとらえた。友人には早速、感謝の手紙を書いた。

 “日記”となっているが、日記を中心にして、著者の死の一年前から執筆された自叙伝であり、死後、夫の手により完成された。私は、今、この自叙伝を読み終わったばかりで、彼女のライフ・ワークに接していないが、ここに書かれていたことから察すると、彼女の日本歴史上に占める位置は、“源氏物語”を書いた紫式部に匹敵すると言える。彼女の日本女性史に関する三十年に及ぶ緻密で膨大な研究は、まさに天才的といって言い過ぎでない。
 ところが、この自叙伝の魅力は、そういう、彼女の天才性だけにあるのではない。多事多難で波乱に富んだ充実した生涯を鮮やかにも美しく生ききったところにある。実社会の動乱にもまれても、常に天性の気品を失うことなく、純粋な詩魂を維持しつづけ、大きく成長していった、そのまれにみる人間性の美しさが、激しく胸に迫ってくる。私は朝の通勤バスの中で下巻を読了したが、その間、感動に襲われて、何度か目頭があつくなり、時々湧いてくる涙をぬぐわねばならなかった。こんなに感激したのは、本当に久しぶりの事だ。私は高群逸枝を大好きになった。こんな素晴らしい女性が、実在していたということを知ることは、人間としても、男性としても、限りない喜びである。この本は、一人の人間の成長の記録であり、明治から昭和までの社会史であり、そして、夫婦和合の最も美しい記録である。

 高群逸枝は明治27年、熊本県下豊川村に生まれ、昭和39年に70歳で亡くなった。父勝太郎は小学校の校長で、人徳を慕われる暖かい人間性と高い教養を身につけた人であった。この父と母の夫婦愛はきわめてこまやかで、終生かわることがなく、このすぐれた両親の下に育った彼女は、その点ではなによりも恵まれていたといえる。早くから漢学の教養をたたきこまれ、詩才を縦横に発揮した。(この日記には、ほとんど全編に、詩・短歌・俳句があふれている。)彼女は病弱であったため、熊本師範を退学し、最終的には熊本女学校を卒業した。(大学へは行っていない。)
23歳で婚約してから、37歳でハッキリと目標を日本女性史に据えて、孤独な研究生活に入るまでは、お互い(夫婦)の成長にとって、欠くことが出来なかったに違いない激しく劇的な体験がおりこまれねばならなかった。

 二十歳(はたち)そこそこの若さで、一人、西国八十八箇所の巡礼に出て、途中、七十過ぎの老人と連れ合いになって、最後まで貫徹していく姿は、感動的な美しさをもっている。家族・友人との交友の細やかさも、心温まるばかりである。お互いにひと目で愛し合った夫婦であったが、思想も信条も違う夫との生活に調和できず、何度か家をとびだしたりするが、彼女の一途な性格の純粋な美しさと彼女の稀有な才能が、ついに夫を目覚めさせるときが来た。彼女が37歳の夏、夫は自分のこれまでのあやまちを反省し、今後は彼が後援者になり、生活の保証はするから、彼女は自分の長所と才能を生かし、女性史の体系化につとめるべきだと説き、その実行にかかった。そして、一作を生み出すのに七年とか十三年とかという膨大な努力をつみかさねて、三十数年にわたって、それまで誰も手をつけなかった女性史の研究を完成させていった。
 “母系性の研究”、“招婿婚の研究”、“女性の歴史”、“日本婚姻史”と、男女の関係の在り方、家族制度という最も重大でありながら、誰も解明できずにいた問題に、科学的に厳密な解答を与えたのであった。古代・中世の漢文日記や和文日記をすべて緻密に読解していく彼女の、その能力と徹底した方法は、その結果をきいただけでも恐れ入って頭が下がるばかりである。人はその業績をきくと、彼女はガリ勉型のコチコチの魅力の無い女性と判断しかねない。事実は、多感すぎるほど繊細で可憐な、それでいて、単に優れた表現力だけでなく、冷静な分析力と判断力を備えて、しかも、ニワトリの生死に一喜一憂する心優しい女性なのだ。

 <火の国の女の日記>に載っている、いくつかの短歌・俳句などをとりあげてみよう。

そこはかと 美しき山 はびこりて 

焔のごとき 少女なりしか

これは、大人になってからの回想に違いないが、子供の頃の美しさをよく歌い上げている。

コバルトの 空の下なる 明かき野に

手を打ち群れて 父上を待つ                                           〔十三歳頃の作〕

非常に家庭的で、家族そろって送迎をする光景を明るく歌っている。

 巡礼の中でうまれた歌には、感動的な作品が多い。

さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい

境の谷の 夕ぐれの みち

双の眸に あふるるほどの なみだして

ゆう日 美(く)わしき 山をみるかな

十重二十重 遠きはとけて 雲に入る

わがこしかたの なつかしき山

秋晴れの すすきの野べの 昼の道

風に吹かれて 物も思わず

 この遍路の日記は、文語文で書かれ、古典的とも言える名文である。

恋愛と結婚、そして、その後の苦悩を経て、彼女の短歌は定型(31文字)から破調(自由律)となる。

人の声 野の声 人の声

道遠く 秋の響す

きょうの日は 暮れぬ

まずよろこばん きょうの日を

父への墓碑銘も、彼女が書いた。

叱られた こともありしか 草の露

母系性の研究“にとりかかった年の賀状に

新年や 机の前に われひとり

書斎日記から

苦しみも楽しみにして むりをせず

生きて行かむと 思うこのごろ

 彼女は日曜も返上して、一日平均最低十時間の勉強を課し、三十数年にわたって実行した。

野ざらしの 心をもちて 勉強す

 ゲーテが“天才とは努力する事が出来る才能だ。”と言ったそうだが、単身、こつこつと難解な古文・漢文にとりくんでいく姿を見ると、まさに至言だと思う。




“学問と花”

学問はさびしい

途中で一二度世間の目にふれることもあるが

すぐ雲霧のなかに入る道

この道を こつこつゆけば

路傍の花が “わたしもそうですよ”という

春は なずなの花が

秋は 尾花が そういう


未知の国へ

永遠に旅するこころ

それこそは

わが生涯の姿である

旅はひたむき

路傍への期待はない

進んで進んで

ぐんぐん進んで

ひたむきに 進み入ろう

雲白い 未知の国へ


 これらは、前人未到の探究へ踏み出した自分を励まそうとした詩である。

 幸いな事に、彼女の労作は、生前から評価され始め、日本はもちろん、世界の国々にまで彼女の名前と業績は知られるに至った。彼女が生まれた町は、彼女を文化功労者として表彰し、後に彼女の作った“望郷子守唄”の碑を建てた。日本のあらゆる女性運動は、その女性解放への理論的根拠を解明したものとして、高群逸枝に最大の敬意を払った。

 しかし、今にして、ふりかえれば、ただ単に高群逸枝一人が偉かったわけではない。自分の妻の偉大さを誰よりも早く発見し、この人のためには自分は捨石であっても良いと考え、それに徹する事によって、妻の天才の開花を成功させた夫、橋本憲三の彼女への愛なくしては、すべてが空しく終わったに違いない。はじめから、しっくりと合っていた訳ではないこの二人の愛が、お互いの成長を通して、夫婦一体といった真に美しい和合のあり方を示すに至ったのは、真に賛嘆に値する。

 二十歳の橋本憲三は、はじめて高群逸枝に逢った感想を次のように日記に記した。

“昨夜は人間の普通の概念と見かたでは表現する事のできない女性に出会った。彼女は異様に美しかった。はっと心を躍らすものがあった。その特徴は、けがれを知らないその瞳にあらわれていた。・・・自分はこの娘と生涯結び付けられるだろう宿命を直観した。そして、なぜか、われにもあらず、せんりつを禁じ得なかった。これは、自分の二十年の生涯にはじめて与えられた、いわば運命の恩恵とでもいうべきものかも知れない。この恩恵を生涯けがさないことを、ここに、正直に誓っておく。”

 そして、逸枝37歳の夏、憲三は逸枝に言った。

“あなたは、長い間、私に従順であってくれた。あなたの持っている才能などは惜しげもなく、いってきして、それとはまったく裏腹な、売文稼業で、家計を助けるため、自己の能力をすりへらしても悔いはなかった。・・・あなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野生的な美貌―これらの抑圧されていたものが、一時に輝き出た事は、まさに驚嘆すべき現象だったと思う。・・・それは、私をまったく魅了するものだった。私はそういう名状しがたい、しかも、ふだんは隠されている本来の美質をもったあなたを絶対に失いたくなかった。私は跪いて、あなたのしもべになっても悔いるところがないと思った。どんなことをしても、あなたを手放したくなかったのです。・・・あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それは、むしろ、天来のものだ。私はそれをこの目で見てきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも。それは、私が八代駅の出会いで見た最初のあなたの印象とすこしもかわりがないものだ。・・・あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた、女性史の体系化だ。生活は私が保証する。”

 そして、そのあと、憲三は自分の誓いを忠実に守って、彼女の天才の開花のために献身して悔いを感じなかった。二人の愛は、ますます純粋になり、透明になっていった。

(完                  記 1983年9月22日) 

村田茂太郎 2012年2月26日

California Coast の写真紹介

California Coast の写真紹介


カリフォルニア海岸の写真を紹介します。
山の写真もすばらしいものですが、海の写真もすばらしい景観が展開します。
私たちはロサンジェルスからSanta Barbara、San Luis Obispo, Morro Rock, Big Sur, Carmel, Montrey、Salinas, San Francisco, Petaluma と通り、Point Reyes National Seashore を見て、Napa, Sonoma のWine Country経由、Old Sacramento,そしてLake Tahoeへのドライブを何度も楽しんだものでした。Lake TahoeからSierra Nevada山脈の東側をロサンジェルスに向けてドライブするルートもVery Scenic ですばらしいものです。ルート395はNatinal ParkやNational Monument その他のScenic Spotsに向かう大事な道路です。今回は海岸線の写真をお目にかけます。

ただ写真を羅列するだけですが、そのうち、やり方をみつけて徐々に写真の説明を追加するつもりです。

村田茂太郎
2012年2月29日








McWay Falls


Point Reyes National Sea Shore




Morro Rock


Monterey, Torrey Pine




Morro Bay










McWay Falls

Point Reyes Light House










Malibu Creek State Park






オーラ についての感想ーその1

オーラ についての感想ーその1

 先に、Eileen Garrettというすぐれたサイキックは子供のころからオーラーで動植物のすべてがすぐに健康状態かどうかがわかったという半自叙伝のなかのお話を紹介しました。(その3)。

 わたしはサイキックでもなんでもありませんが、彼女の話は信じます。
見える人には見えるということであって、それはたとえば赤外線写真を撮れば人でも動物でも、とくに発熱体である温血動物は熱を発しているのが写真に写るので証明できます。人間は動物のなかで、知的に一番発達したため、大事な機能を退化させていったように思います。

 したがって、オーラという、人や動植物など生体を蔽うカバーのようなものがあってもふしぎでないし、それを見える人が居てもおかしいとは思いません。よく、健康な人のオーラは明るい色をしているが、病気を持っている人や死にそうな人は暗いオーラを示しているといいます。本当だと思います。

 わたしたちはみなある程度はサイキックで、強弱の違いが在るだけだと思います。
たとえば、幸せに満ちた家をおとずれたとき、あるいは不幸な家をおとずれたとき、私たちは言われなくても、この家はあかるい幸せな家庭だなとか、金持ちだけど不幸な家庭だとか、それとなくわかるものです。

 さて、誰もが経験するものに、「背後に視線を感じてふりかえったら誰かが凝視していた」というケースがあります。これは頻繁に誰もが体験しているはずです。イギリスの生物学者であたらしいScience、Morphogenetic Fields の説を唱えている Dr. Rupert Sheldrake は表題に「The Sense of Being Stared At] という題名の本を発表しています。世界中からのそうした背後に視線を感じたケースの報告を集めて、何か在るのかをしらべようとしています。 表題のつづき”And other aspects of the Extended Mind" という名前から見て、Extended Mind の働きと見ているようです。主に、統計データーで埋められた本ですが、彼はイギリス本場の正当科学の領域で、異端と見られながら、たくましく自説を展開している興味深い学者です。

 そこで、この背後からの視線を感じる というのは探偵小説では特に重要な働きをしていますが、どういうことでしょうか。

 私の理論は、このオーラ説を背景にして、人間は自分では感じなくても丁度、ヴァン・アレン帯のように、自分の身体をオーラの遮蔽幕が蔽っている、そして誰かが見つめる視線が放つエネルギーをその自分のオーラの幕がキャッチして、なんとなく第六感が働く、そういうことではないかと思っています。いつか、オーラをCatchできるほど科学が進化する日が来るのか、ただの妄想で終わるのかというところですが、わたしはある種の人、Eileen Garrettその他たくさんいますが、彼らの能力の方を信じます。M.B.Dykshoornなどもそういう能力、普通の人には信じられないような超能力をすべての領域にたいして保持していたようで、”人間”の解明のためには重要な存在であったと思います。

村田茂太郎
2012年2月29日

Big Lake - Arizona の紹介

Big Lake - Arizona の紹介


 わたしは、アリゾナ Big Lake周辺に関しては既に写真入の紀行文は完成しています。それで、ここでは、写真を紹介させていただきます。
Big Lake Area は私の大好きな自然で、何度かテント・キャンプも実行し、のちに同僚を案内したときにはモーテルで泊まりましたが、どのような滞在の仕方であろうと、ともかく満足して楽しめるところでした。

 Zane GreyがこのWhite Mountains Area を小説の中心として設定しているのを知って、没頭して読み、満足しました。そのころは、まだアリゾナでGrizzly Bear は絶滅していなかったのです。いまだにWildが残っている場所ですから、100年前となると、もっとWildですばらしいところだっただろうと思います。

 いくつかの自然のLake,あちこちに散らばる大森林、そして広大な草原とその上に広がる空、雲、高原に散らばる牧牛。心がのびのびするような自然が広がっていました。あるときには、夕立の後の雨に濡れた翼をみんなで日光浴でかわかしているRed Hawkの一群を見かけたこともありました。

 White Mountains はIndianの聖地として保護されているので、山は鬱蒼と繁って、あらされていません。地肌が荒れた山を見るのは哀しいものですが、その点、このWhite Mountainsは自然がそのまま保存されていて、心の和む光景です。

以下、付近の写真を見ていただきます。

村田茂太郎 2012年2月29日