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2/27/2012

“聾唖学校”(ろうあがっこう)

拙著「寺子屋的教育志向の中から」は主に教育的内容に富んでいると自分では思っていますが、そのため、自分の子供の頃を思い出しながら書いた文章が多いので、あちこちに散らばった情報を集めると、わたしの半自叙伝ができあがると思うほどです。ほかに、この本に入れなかった”予備校の思い出”とかもあり、自分のあらゆる体験を思い出しながらあさひ学園での教育に生かそうとしたことがよくわかります。

この文章も小学3年生のときの森田国枝先生がからむ思い出であると同時に現在(当時のあさひ学園教師として)の教育につながるということで、書き上げたものです。
こうしてみると、わたしは本当に立派な先生に恵まれて育ったことがわかります。
   
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 小学校三年の秋も終りの頃であった。私は担任の教師、森田国枝先生から親宛の一通の封筒をいただいた。父母が中を見て驚いたことには、移動・聾唖学校がいつ、どこそこで開かれるから、子供を参加させるようにとの案内状であった。その指定された日に、私は父と連れ立って、その学校へ行った。二つの電車に乗り、降りてからも二十分ほど歩いたところにあった。校舎の中庭には四角い用水があり、枯れ木が浮かんでいた冬枯れのわびしい日であった。本当に、約二週間のこの聾唖学校に、各人が入らないといけないものかどうかを試す簡単な口頭のテストがあった。つまり、自分の名前と住所を述べるのである。私の番がまわってきたとき、私は早口に名前と住所を告げた。そして、それは失敗であった。そして、失敗してよかったとあとで私は思った。
 その日、父兄も集めた部屋で、校長による全体的な説明があった。あまりハッキリ覚えていないが、校長が“あいうえお”の五十音図の説明をし、特に人の前で話すときには、急いで答えようとしないで、まず大きく息を吸って精神を安定させ、ゆっくりとまわりを見回してからボツボツ話し始めればよいといったことを語られた。聞いていた父の方が感心したほどで、これはいい学校だということになった。

 それからの約二週間、私は毎日、学校が終わってから、一人で聾唖学校に通った。そして、終りが近づいた頃、終業式の日に、学級会の劇をみんなで行うという発表があり、私がその劇の中での委員長(司会)の役をふりあてられた。私は家で、落ち着いて発声する練習を行い、自分のせりふを暗記した。最終日の当日は、母がつきそってくれた。終業式と劇は大成功で、立派に発声法を身につけたということで、私は満足して帰途についた。丁度、雪が降り始めていて、寒かったので、桃谷駅の近くの食堂に入り、玉子とじを食べた事がいまだに記憶に残っている。今から、考えると、当時、私は九歳であった。近鉄南大阪線に乗り、省線電車(今の環状線)に乗って、桃谷駅で降り、さらに二十分ほど歩くという通学を、私はすぐになれて平気であったが、これは日本でこそ出来た事であろう。
 たった、二週間の教育であったが、この聾唖学校の教師はプロであり、確実に短期間に、生徒をあるレベルまでもっていくことができた。校長が言われた発声のコツなど、今も時々私は思い返す。そして、私は名前も覚えていないくらいなのだが、立派な先生であったなあという印象をもっている。聾唖学校などというイメージはあまりよくないかもしれないが、父母でさえ、いろいろなことを学べたようであった。私はこの体験で、内容のある教育の効果というものを学んだ。今では、もっと細かい事まで覚えていないのが残念に思われる。

 私は森田先生のことを時折、思い起こす。メガネをかけた、若く、厳しい先生であったが、楽しい先生でもあった。ある時は、クラスの生徒全員を連れて、学校の裏側から、田んぼの間道を通り、一キロ程はなれたところにある白鷺公園まで行き、絵を描かせたり、ぶらぶらとピクニックじみたことをされたこともある。これはあとで先生が校長から叱られたという話を聞いたが、それほど、生徒のためにいろいろと創意にとんだ指導をしようとされた。森田先生は、ふだんの私の言動を観察され、発声に問題があると思われていたのであろう。そして、どこから手に入れたのか、移動聾唖学校の情報を手に入れて、私の両親に連絡されたに違いない。聾唖学校に行けなどと軽率に言えば、親は怒りかねないところである。私はどのような文面であったのか知らないが、理解力に優れた父母は、森田先生を尊敬していた事もあり、すぐにその指示に従った。そして、その結果は、私だけでなく、父にも得るところがあるようなものであった。
 今、私は森田先生の決断を立派なものだと感心する。私はもう“あさひ学園”で生徒指導するようになって七学年になるが、その間、発声に問題があると思われる何人かの生徒にでくわした。国語の朗読をしてもらうと、いつも何とかならないものかと、気になるのだが、私は思い切って注意する事ができなかった。ただ、何とか親に自分で気づいてもらうようにと、家庭内での最低三回の音読はすすめた。どうやら、自分の子供が、どのように発声しているかを知らない親が多いらしいのである。昨今の子供は、全然音読しないのであろうか。正確に、落ち着いて、ハッキリと発声しているかどうか、誰が聞いてもわかる発音になっているかどうかは非常に大切なことである。

 朗読する方としては、正しく、美しい日本語を発声し、自分の耳で確かめるという作業であり、読む練習であるが、聞く方にとっては、子供が漢字や語句を正しく読んでいるかだけでなく、日本語の発声が正確に行われているかを知るチャンスでもある。発声が正常でない理由は、耳鼻咽喉科に関係している場合もあるであろうし、何らかの理由でどもったりする場合、或は、正しい発声法を知らなくて、性急な発声をする場合などいろいろなケースが考えられる。
 しかし、ともかく、簡単な日常会話ではミスしやすい場合でも、教科書や名作の音読を通して、自分の子供が、誰にでも聞き取れる発音をしているかどうかは確かめることができる。もしかして、通信簿のようなものをあさひ学園でも発行するようになれば、担当教師としては、比較的平静に“少し発声に問題あり”などと記入できるかもしれない。私は以前、指導要録に記入した事があるが、これは父兄の手にわたらず、次の学年の担当教師の参考になるだけである。ここは、もちろん、聾唖学校もないのであるが、私が日本で同じような問題にぶつかっても、森田先生のような行動がとれるかどうか自分でもおぼつかない。やはり余程の教育的な信念がないと出来ない事である。私はまだまだ未熟であり、一層、森田先生に対する敬意が増すのを覚えるのである。

(完                  記 1986年2月17日)  
村田茂太郎 2012年2月27日
                                            

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