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5/11/2016

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集 まとめ


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集-まとめ

 この日本の歴史上の人物をめぐる私の感想文・紹介文集もブログに散らばっていたのでは読むのが大変だと思い、ひとつにまとめました。

 これは Word File で50ページ足らずで、問題なくブログにコピーできました。

 今読み返すと、当時の記憶が蘇ります。当時、子供たちの歴史への関心をかきたてたのは事実で、私は苦労した甲斐があったと思ったものでした。

村田茂太郎 2016年5月10日

この私の「日本の歴史」拙文集ーまとめ の補足として、拙著「寺子屋的教育志向の中から」に載せた、「”日本の歴史”を学ぶ意味」という文章を本から転載しました。自分の書いた本なので、転載はOKだと思います。
2016年5月10日
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“日本の歴史”を学ぶ意味

    
 日本に居る小学生・中学生・高校生が“日本の歴史”を習うのは別に不思議でもないが、このアメリカにいて、アメリカ生まれで、永住権・市民権をもっている子供が、なぜ“日本の歴史”を学ばねばならないのか、この疑問に答えておかなければ、“あさひ学園”での授業の効果もあがらないであろう。どこに行っても名所・旧蹟・史跡にぶつかる日本の子供と異なり、アメリカに居て日本の歴史に興味を持とうとすることが、すでに困難なわけで、ただ名前や年代を覚えるだけの日本の歴史なら、勉強する必要もないといえる。


 それでは、簡単に、歴史とは何か、そして私たちはなぜ歴史を勉強するのか、そして特に日本の歴史をどうして学習しなければならないのかについて私の考えを述べてみよう。


 歴史とは、人間社会の移り変わりの様子を史料を元にして記述したものである。そして、人間社会の特に“何か”について記述すると、“科学”の場合は“科学史”が、“文学”の場合は“文学史”が出来上がり、それが“ある国”についてであるとき、“アメリカ史”とか“日本史”という具合になり、場合によっては“東洋史”とか“世界史”となったりする。また、時代区分によって“古代史”とか“現代史”とかというわけ方もあらわれる。それが、ある個人の場合は、“ニュートン伝”とか“チャーチル伝”といった形であらわされることにもなる。


 では、そうした歴史を勉強することがなぜ大事なのか。それは、現代という私たちが生きている時代が、遠い過去から延々と継続した人間社会の、そのすべてのものの結果としてあるわけであり、過去からのその遺産の影響を受けて存在しているから、今までに至る人間社会のさまざまな出来事を理解することが、現在から未来へと生きていく私達に貴重な教訓を示してくれるからである。歴史を学ぶことによって、私たちは自分をよりよく知ることができ、また、この現代世界をより深く知ることができるようになる。


 歴史は鏡といわれてきた。それは、鏡のように、人間社会におきた偉大な出来事も、おろかな行為も、すべて映し出し、それによって、ちょうど自分の顔を見るように、人間社会の様々な出来事が良くわかり、それに対してどう対処すべきかという積極的な方針を見つけ出すのに大いに役立つからである。この現代に至る膨大な歴史の移り変わりの中には、悲惨な出来事や失敗の記録がたくさんある。それらはすべて、私達に現代社会をよりよくするための貴重な教訓を示してくれている。


 今から約二千四百年ほど前、古代ギリシャでツキュヂデス(Thukydides)という人が、“ペロポネソス戦史”という本を書いた。彼は、スパルタとアテネという古代ギリシャの二大都市が戦争状態に入っていくとき、今、自分の目の前で演じられている出来事は、世界的に見てものすごく大きな事件であり、これは正確に記録していけば、きっと後世の人に役立つであろう、なぜなら、歴史は繰り返すものであり、人間のおろかな行いもまたその例外ではないからと、はっきりと自分の役割を自覚して、その歴史を記述し始めた。今も、彼のこの“戦史”は、それ以降のあらゆる歴史書とくらべても、ベストのひとつに数えられている。そして、実際、私達は、彼の本によって、様々な教訓を引き出せるし、なぜギリシャが没落していったのかといったような大きな問題解明の手がかりもつかめるわけである。そういう次第で、歴史を深く勉強すると自分自身、現代、そして世界というものがよくわかるようになり、ハッキリと自分の位置を見据えて、将来への指針を立てたりすることができるようになる。


 それでは、なぜ、日本の歴史を学習しなければならないのか。

まず、別に、その国の人間でなくても、歴史はいろいろなことを教えてくれるから面白いし、役に立つ。従って、私など、一度も訪問したことはないが、ギリシャ史とかローマ史、あるいはイギリス史、フランス史、アイルランド史、ポーランド史といったものに興味を持っている。最近は現代世界を理解するためにはイスラム教の世界や歴史も知っておかねばならないと切実に思いはじめ、“Muhammad伝”(マホメット伝)に取り組み始めているくらいである。その国の人間であろうとなかろうと、“歴史”は面白く、また現代社会をよりよく理解するうえで大いに役立つのである。


 しかし、特に、“日本の歴史”をここで学ぶのはなぜか。それは、ひとつには諸君が何らかの点で日本人の血を受け継いでいるからである。100%の人も居れば、50%の人もいるかもしれない。いずれにしろ、日本人の血の一部を受け継いでいるかぎり、諸君は自分のルーツから抜け出せず、自分のルーツをハッキリ知っておくことが、この現代社会で生き抜いていく上でなによりも大切だからである。どの国の歴史も面白いが、日本の歴史も、ものすごく面白い。その中には悲惨な出来事やおろかな出来事、日本人として恥ずかしいと思うような出来事もあるが、また、一方では、誇りに思えるすばらしい行為にも満ちている。そして、将来日本に帰る人も、アメリカにずっと居続ける人も、日本人のひとりとして自国の歴史をよく知った人は、誇りと自信を持って生き続けていけるであろう。日本の歴史はそれに値するものを生み出してきたのだから。


 日本の歴史を学ぶもうひとつの理由は、日本という国の世界に占める重要性から指摘することができる。昔、小さな島国イギリスが、ユニオン・ジャックの旗をひるがえして七つの海を支配した。日本もイギリスと同じような島国である。そして、現在、日本という国が世界政治や経済面で占める位置、あるいは与える影響の大きさは他の国とくらべると信じられないほどである。何が今日ある日本を生み出したのか。現代社会の動きに関心のある人は、すべて、日本と日本人というものに大いに興味を持っている。今では、世界の各国で、日本語や日本文学そして日本史を勉強しようとしているひとが沢山居る。なかには、日本文化に引かれて、日本研究の専門家となった人たちも沢山出たほどである。日本人でなくても、現代世界で、ほとんどあらゆる領域で貢献をしている国 日本 をよりよく知ろうという人が増えている。彼らには日本語という大きな障害がある。しかし、日本語はまた大きな魅力でもある。そして、今までにも、沢山の人が日本語と日本人そして日本文化にひかれて、一生懸命その勉強に取り組んできた。


 アメリカに住む日本人(あるいは日本人の血を引くもの)として、以上述べた理由によって、諸君は日本の歴史をしっかりと勉強しなければならない。私は子供のころ、歴史学者になりたいと思ったことがある。それほど“歴史”は面白い。そして、どの国の歴史も面白いが、諸君がまず学ばねばならないのは自分のルーツ(Roots)といえる“日本の歴史”である。その上で、アメリカ史やメキシコ史、スペイン史、イタリア史、イギリス史といった国の歴史の学習へ移っていかねばならない。
 それでは、歴史の勉強はいかにすすめるべきか。まず、何よりも大切なことは興味を持つこと、関心を持つこと、好奇心を持つことである。手がかりは、マンガ日本史とかマンガ人物伝とかから始める。そして、いくつか興味ある人物や出来事にぶつかったら、図書を利用して、もう少し詳しい伝記や歴史に関係のある本を読む。大事なことは、中途半端にしないで、興味を持ったら徹底的に調べるということである。たとえば、アメリカでは今ガン・コントロールが問題になっているが(1994年ごろの話)、いろいろ障害があってむずかしい。みごとに武器がコントロールされている日本から何か学べるかと考える人は、ただちに豊臣秀吉の“刀狩”や明治9年の“廃刀令”が浮かぶはずである。アメリカで“刀狩”方式は無理かもしれないが、“廃刀令”方式は参考になるのではと私は考えたりする。


 ともかく、“歴史”は面白く大事である。日本の歴史は本当に面白い。教科書だけに満足しないで、どしどし本を読み、歴史の勉強をがんばろう。
(オリジナル 記 3/20/1994          



小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集

はじめに、

 19944月から7月はじめまでの約3ヶ月、わたしは“あさひ学園”サンタモニカ校で中学2年生の国語と小学6年生の社会を担当していた。7月中旬に仕事の関係でエルパソ、テキサスに移る事になり、丁度15年つとめた“あさひ学園”を途中でやめざるをえなかった。自分の人生の大事な一部となっていたので、つらいことであったが、生活のためには仕方がなかった。

 その3ヶ月の間に、小学6年生に“日本の歴史”への興味をもってもらえるようにと、わたしは自分の子供の頃の読書を思い出しながら、そして、あさひ学園のサンタモニカ校にある備え付けの図書の資料を利用しながら、日本歴史から、何人かの人物を択んで、その概略を私個人の感想を交えながら、短い文章を書き上げた。(約19編)。1ページの場合と2ページの場合と。

 すべて手書きで、漢字すべてに読み仮名をふるという形で、あまり漢字をしらない生徒でも、ともかく読めるようにと私なりの努力をした。(きれいな字でなかったのが残念)。

 そして、高校の教科書にも出てこない“赤穂浪士”や“曽我兄弟”、“宮本武蔵”の話まで盛り込んで、いかに日本の歴史には面白い人物や事件があらわれたかを知ってもらおうとした。

 その3ヶ月たらずの私の“日本の歴史”授業がそれなりの効果を発揮したと自分で確認できたのは、その資料作成のために膨大な時間を費やしたわたしには、とても大きな喜びであった。

 エルパソからロサンジェルスを訪問したとき、一度、あさひ学園サンタモニカ校を訪問した。主事や他の先生方と歓談し、丁度、子供をPick upしに、親達が校庭に集まってきている頃であった。校庭を歩いている私の姿を認めた一人の母親が、近寄ってきて、“先生、ばっちりですよ!”と声をかけてくれた。わたしはすぐに何を言っているのか了解した。

 わたしの“日本の歴史”の授業で自分の子供が日本の歴史に興味を持ち、自分で勉強し始めたということであった。

 今、ここに、この私のブログに、そのわたしの文章を採録し、また必要があれば補足して公開しようと思う。あれから、18年ほど経ち、当時の生徒はもう30歳になっているに違いない。いつか、わたしのブログをのぞいてみるチャンスがあれば、この私の日本の歴史をめぐる雑文をみて、若かりし頃のあさひ学園の生活を思い出し、なつかしく感じてくれるだろう。

 また、日本の小学生・中学生やどこか異国にいる日系人小学生・中学生が、私の文章に接して、日本の歴史上の事件や人物に興味を持ち、自分で調べてみようという気持ちが生まれたら、望外の幸せである。(ここでは、ふりがなをうてないのが残念である。ルビをうつやりかたを知らないし、うしろに括弧でいれると、文が長くなって読みにくくなるので、あきらめる。)

まず、わたしの当時の歴史授業関係の文章の目次を示し、人物伝の目次を紹介し、それから、目次の順番にWordにうちこみ、Blogにコピーして公開してゆきたい。

なぜ、日本の歴史を海外に居る日本人、日系人が学ばなければならないかという文章も書いてあったが、それは既に拙著「寺子屋的教育志向の中から」の中に含めたので、ここでは省略した。

―――目次―――

わたしと歴史

歴史と人物

歴史年表

歴史と年代

歴史カルタ

歴史上の人物をめぐって

1  源為朝(みなもと ためとも)

2  赤穂浪士

3  蒙古襲来(元寇)

4  武士と風流 

5  細川ガラシャ(玉子)

6  太閤記

7  宮本武蔵

8  徳川家康

9  伊能忠敬

10 高杉晋作

11 芭蕉

12 義経と頼朝

13 曽我兄弟

14 桂小五郎

15 楠木正成

16 足利尊氏

17 真田幸村

18 勝海舟

19 福沢諭吉


わたしと「歴史」



 私は小学生の頃、大人になったら何になりたという夢をいくつかもっていた。

ひとつは歴史学者・考古学者になりたいというもの、ひとつは天文学者・地球物理学者になりたいというもの、ひとつは生物学者になりたいというもの。結局、今になってみると、私はそのどれにもならず、小学時代の夢からみれば、失敗の人生となった。しかし、この小学生の頃の夢というのは大事なもので、伸ばし育てるようにしないといけないとつくづく思う。



 私は大学時代、最終的に哲学を専攻し、その哲学において、私は自分の小学生の頃の夢であった私の“関心”の対象が統一されていくのを味わうことが出来た。宇宙の発生から地球の誕生、そして人類社会の発展という全宇宙史的に人間社会を捉えようとする私の視点は、小学生の頃の関心をそのまま発展させる形となっていた。



 したがって、「歴史」は子供の頃から大好きで、ラジオで当時放送されていた“私は誰でしょう?”の歴史上の人物というのは、ほとんど答える事ができた。当時、小学生であったけれども、“歴史”に関しては、高校や大学入試テストで登場する人物のことまで私は詳しく知っていた。本が好きで、貸し本屋の本を借り出して、片っ端から読んでいたせいである。



 では、そのキッカケは?私はソロバン塾に小学2年生から中学3年生のはじめまで通っていた。今、思い出しても、これはなつかしく、すばらしい記憶の一部となっている。そのソロバン塾に図書が備えてあった。その中に、時代物のマンガがたくさんあった。楠木正成や山中鹿之助、平賀源内や中江藤樹、そして大原幽学や樋口一葉まで、みんなマンガで興味深く、時代や人物が描かれていた。大原幽学などという大学入試の勉強で初めて登場するような人物のことを私が小学生の頃、詳しく知っていたのも実はマンガのせいだったのである。



 ともかく、マンガ人物伝で興味を覚えると、より詳しく知りたいために貸し本屋へ行き、単行本のそれぞれの伝記を借り出した。私はなんでも徹底的に自分で納得するまで調べるたちなので、随分、いろいろな本を読み漁った。また、家の中には、「源平盛衰記」という本があった。これはマンガではないので、小学低学年の頃はむずかしかったが、高学年の頃には愛読していた。



 歴史の面白さというのは、こうした人物と歴史の動きを全体的に知って、はじめて味わえるもので、源平の時代の興味深い動きを知らないで、年代と人物名と事件だけ覚えてもつまらないし、意味もないと私が思うのも、人物の動きと背景を知るとイメージで生き生きとその時代を捉えることが出来るのに対し、名前だけではイメージがうまれてこないからである。



 ともかく、そろばん塾の歴史マンガは私の歴史への関心を育ててくれた。今も私は“歴史”は大好きであり、日本だけでなく、各国の歴史に興味を持っている。また、私は人物の伝記や自伝・日記・研究書も大好きである。すぐれた伝記を読むと、その人物だけでなく、関係してくる人物や時代の流れ、社会の動きといったものが、イメージとして捉えられるほどよくわかる。そして、歴史は鏡であり、人物伝もまたそうである。それらは、将来への方針や取り組む対象、あるいは刺激や情熱を生み育ててくれる。諸君も、あさひの図書を大いに活用して欲しい。



1994422日 執筆



村田茂太郎


歴史と人物 -伝記・自伝・研究書を読もう



「歴史はそれぞれの時代の一人の天才や英雄の力でつくられたものではない、彼らはそういう風な時代の流れを代表しただけである」という風に考える人が居る。しかし、はたしてそうであろうか。アレキサンダー大王なくして、マケドニアの発展は考えられないし、ナポレオンの代わりを誰か他の人がやったとは考えられない。いい意味でも悪い意味でも、たとえばナポレオンという人間が世に言う“ナポレオン時代”をつくったのは明らかである。



アメリカの基本の政治形態としては、世界でも最も民主的な三権分立制をとっているが、このアメリカの基本性格を作ったのは、明らかに建国期独立戦争から大統領制へと移っていく中で登場した何人かの人物達であり、彼らがそれを支える人たちとの協力でなしとげたものであった。



どの国においても、動乱の時代には、それにふさわしい英雄・天才がたくさん登場する。アメリカ独立戦争から憲法制定へと動く中でも、たとえば、フランクリン、ワシントン、アダムズ、ジェファソン、マヂソン、ハミルトンといった超一流の人物が登場し、大活躍をした。独立戦争の英雄となったワシントンが、他の国ではナポレオンのように皇帝になるとか国王になるとか、第一の権力者になるとか、ともかく権力を握ることを第一とするのに、そうはしないで、おとなしく引退したというニュースをきいたイギリスの国王ジョージ三世は、当然権力を握れる立場に居て、そうしないで、あっさり投げ出してしまえるよいうようなエライ人物を歴史上、まだ見たことはない。ワシントンという男が、あっさりそういうことが出来るのなら、彼は今まで存在したどの英雄よりも偉大な人物だといった、といわれている。



ナポレオンと違って、ワシントンであったから、アメリカはデモクラシーの方向にまっすぐ進む事ができた。ジェファソンもマヂソンも、みな、立派なデモクラシー(民主制)の国を作ることを願い、努力したからである。



動乱の時代は、どこの国においても、英雄・天才がたくさん登場し、大活躍をする。したがって、他の時代に比べて、動乱の時代は読み物として特別に面白い。日本も、平和な時代と体制が大きく変わりかける動乱の時代をいくつかもった。



源平の時代、南北朝の時代、戦国時代そして幕末である。源平の時代は「平家物語」や「源平盛衰記」に、南北朝時代は「太平記」に描かれた。戦国時代は、それぞれのヒーローに対して、「信長公記」 とか「太閤記」とかといったものがあらわれた。(幕末に関しては、特に司馬遼太郎という作家が、すぐれた人物小説・歴史小説をあらわしている。)



歴史の勉強は、ただ事件が起きた年代や登場人物の名前を知るだけでは終わらない。いろいろな出来事が起きたとき、それはナゼ、どのようにして起きたのか、そして登場人物たちはどのように反応し、社会全体の動きはどのようになっていったのか、そうしたことが全体像として生き生きと感じられるようにならないと歴史が面白くなる筈がない。そのためには、歴史を代表する人物達の伝記を読み、ひとつの事件、ひとつの決断の背後に、どれだけの苦労や悲しみ、喜びがあり、それぞれが、いかに全力を尽くして向かっていったかということを知ることが大切である。



さいわい、“あさひ”の図書には、歴史関係の本がたくさんある。この1年の目標は、まず“興味”をもつ、“探求心”を伸ばすということである。それは、本当に面白い日本歴史の登場人物の伝記を読みすすめば、自然と芽生え出るはずである。しっかり頑張って、片っ端から読みすすめよう。



1994422日 執筆



村田茂太郎


歴史年表について



今の時点に立ってみると、時間は過去から未来へと流れ、歴史は過去から現在へと至っているのがわかる。過去から現在へと向かって流れる時間の地平において、人類は様々なものを体験してきた。それをある見方でまとめると、膨大な歴史をうまく整理することができるということがわかってきた。そうして、時代区分が生まれ、各種の年表がつくりだされた。過去から現在への流れを単純に明快に示してくれるものとして“年表”がある。



年表は、ひと目で、たとえば日本の歴史がどのように変化発展してきたものかを教えてくれる。大まかな年表から、各種内容別(文化史、政治史、経済史、文学史・・・)そして、各国との比較年表まで、それぞれ用途に応じて年表がつくられている。



たとえば、私は“Science Timetable”というのを持っているが、それは”科学“に関して、古代からつい最近までの、科学的研究・発見の業績を、分野別(生物、物理、化学、数学、技術、医学・・・)に整理した年表で、ところどころ詳しい解説があり、とても参考になり、面白い。同時代の各種分野での発展と関連がよくわかる。



年表は各国史として可能であるだけでなく、テーマ別に自由民権運動史とか政党史とか、ナポレオン時代といった形で可能であり、それぞれがその目的をはたす。ともかく、複雑な歴史の動きを、大まかとはいえ、整理してわかりやすくしてくれるのが年表である。従って、諸君も、資料集にのっている年表などはいつも見て、自然と歴史の莫れを身に付けるようにしてほしい。



いろいろな年表を自分で作ってみるのもすばらしいことである。教科書には郷土の歴史を調べて年表にしようとかというのがあるが、ともかく自分で作ってみることはいいことである。



私が小学生の頃には、教室の中の正面の壁(黒板の上)に、年表が張ってあって、毎日それを眺める形となったため、いろいろな事件や人物名を自然と覚えてしまったし、日本の歴史の流れも、ちゃんと頭の中に入ってしまった。そのため、年代を覚えるということ自体はそれ程意味をなさないが、歴史の流れを理解するのに、年代を覚えていると、いろいろな意味で便利だということを知った。年代など年表をながめていると肥前に覚えてしまうのである。



6年 社会科資料集” には“特集日本歴史年表”が収められている。これは、時代区分m世紀、重要年代、主な出来事、そして主な人物が載っている。主な出来事も、政治・社会と文化と外国関係とマークで区別されている。簡単な年表ではあるが、大事な出来事や人物は、大体のせられていて、それぞれを見て、その背景のイメージがつかめるように勉強するための指標として役立つ。毎日眺めるようにしよう。漢字も一緒に覚えよう。



1994422日 執筆 

村田茂太郎

歴史と年代



 昔から“歴史”は“暗記もの”だといわれ、そのため好きな人ときらいな人にわかれるのが普通であった。そして、ただ試験に出るからということで、名前と年代を暗記するような歴史の勉強の仕方に対しては否定的な人がたくさん居た。私も、よく、バックグラウンドや内容も知らないで、ただ人名や年代を記憶するのは味気ないと思う。ただ、基本的な年代というものがあり、それらをよく知っていることは、いろいろな状況において、自分自身にとって有利な場合が多いというのも事実である。



 私は中学3年の高校受験勉強の時に、理科で地球の半径(赤道変形 6378Km, 極半径 6357Km)暗記した。従って、今も、本で調べないで、こうして書いているわけであるが、この半径の記憶は私にとっては非常に役立つことであった。この二つの数字を知っていることで、すぐに地球楕円体の構造の説明や大気圏の薄さ、円周と光の速さの関係等が生徒に黒板で説明できたのである。



 そういうことで、わたしはよく知っていれば、出来るだけなんでも暗記した方がよいと考える。百人一首や漢詩に限らず、何でも暗記していれば、それは確実に自分の実力の一部となるのである。



 年代に関しては、中学生の頃、時々購入した“中学時代”とかという雑誌の付録に、歴史の年代の覚え方というのがあり、それに従って、いくつかを覚え、おかげで今もスラスラ出てくるのが次に挙げるいくつかである。

645年 大化の改新 ムシゴひき、にげていく大化の改新

710年 平城京 ナをトレと平城京に移りたり   奈良時代始まる

794年 平安京 ナクヨうぐいす平安京                     平安時代始まる

894年 遣唐使廃止 ハクシにかえす遣唐使

1185年 平家滅亡 イチイチ ハシゴ 落ち

1192年 鎌倉幕府 イチイチ クニ支配



といった調子である。傑作は794年「鳴くよ うぐいす 平安京」で、いかにも平安遷都にふさわしい。ふつう、私はゴロあわせでなく、ダイレクトに、そのまま覚えてしまう方だが、このようにゴロ合わせ的に覚えてもよいわけである。若い頃はその人の一生の中で、一番記憶力にすぐれ、若い頃にしっかり覚えたものは一生忘れない。少し頑張って、何でも覚える意気込みで取り組もう。



1994429日 執筆



村田茂太郎


歴史カルタ



 教科書〔上〕P130に、“歴史かるた をつくろう”とある。6年の歴史の学習が終わった時点で、ふりかえって、歴史上の主な人物・出来事をカルタにつくろうというのである。

教科書にはサンプルとして

               か - 鎌倉に幕府開いた源頼朝

               て - 天下分け目の戦い 家康の勝利

               み - みんなして 輪になり語る自由民権

               く - 国あげて救う願いだ 奈良の大仏

といったものが、かるたの絵の方と並べてあげられている。



 私は、マンガ日本史、マンガ人物伝、そして伝記や平家物語、太平記とならんで“歴史かるた”もとても大切なものだと思う。私が歴史の中の様々の人物に興味を持ったのも、実はマンガのほかに、歴史カルタを、当時(小中)全部暗記していたからである。



 家には、太平洋戦争の頃、忠君愛国心を高めるために出版したと思われる金言名句集等2冊の黒い表紙の本がおいてあり、密かに私はそれを全部読み上げた。特に歴史カルタに関しては、なども眺めて全部暗記したはずであった。あの頃から、もう35年以上経ち、全部思い出せないのが少し残念だが、サンプルをあげると以下のようなものであった。順不同。5・7・5調。



る 類なき 名将 源義家

ゆ 弓勢(ゆんぜい)するどき 源為朝

に 新田義貞 稲村ガ崎

け 謙信切り込む 川中島

も 毛利元就 弓矢の教え

せ 船上山に 名和長年

ら 蘭丸ふるう本能寺

え えびらに梅さす 梶原景季

の 乃木・東郷は 国の花

ふ 福島正則 賤ヶ岳

ね ねいじん退く 和気清麻呂

う 宇治川の先陣 佐々木高綱

い 一家一門 忠と孝 菊池武時

は 博多の神風 亀山上皇

つ 月夜に しょう吹く 新羅三郎

え 絵筆に名高き 渡辺崋山

わ 別れは哀し 桜井の役 (楠木正成、正行)

や 山鹿流陣太鼓 大石良雄                                                          〔以下、省略〕

といった調子である。



 気がつくのは、文化人はほとんど入っていなくて、いわゆる英雄・豪傑・武将・忠臣といった人たちばかりがとりあげられている。ヒロイズムとそのモラルを売り込もうとした、戦中の政策を反映しているものと思われる。



 しかし、私にとっては、様々な人物を知り、より深く調べるキッカケをつくってくれたのは事実で、こうして何十年たったあとでも、スラスラと出てくるものがある程、覚えやすく、リズミカルにつくられていたわけである。中には伝説まで歴史におりこんでしまっていたようで、



おー鬼の腕とる 渡辺綱  とか、                             ぬーぬえ退治する 源三位(頼政) 

とかというものまであった。



 私は、父と銭湯(大衆浴場―風呂)に行った時、“和気清麻呂って、何をした人?”とか、“名和長年って、誰”といった調子で、あまり聞きなれない名前にぶつかると、いつも父にたずねた。たいがいのものは、一般常識として、父は知っていたが、くわしいことは貸し本屋で調べなければならなかった。父との風呂屋での歴史談は、私にとっては懐かしい思い出となっている。



 これは、ただ、すでにつくられてある「歴史カルタ」に親しんだだけのことだが、この程度のものを自分でつくろうと思うと、名前と出来事だけでなく、その人のいろいろの逸話・伝記を知っていなければつくれない。なぜ、源義家が“類なき名将”なのかは、義家にまつわる様々な話を知っていて、はじめて納得がいき、また作り出せるのである。



 教科書にも出ているくらいだから、教科書程度の歴史カルタを各人がつくりあげるつもりでいて欲しい。興味を持って取り組んでいけば、自然と、大体の日本歴史の動きがわじゃってくるから、上巻が終わる頃には、イメージとして、自分のカルタをつくれるようにはなっているだろう。カルタを作るときには、誰を択ぶか、何を択ぶ、名前〔人名〕が先か、後か、リズムがあって覚えやすいかといったことに注意しなければならない。そして、えらぶ対象も、かたよらないで、いろいろな時代、様々な分野の人物を択ぶようにした方がよいし、リズムにもバラエティをもたせる工夫が大切。でも、こうして自分で作るつもりで歴史に取り組む時、日本歴史は本当に面白いということを発見できるであろう。



1994429日 執筆



村田茂太郎


源為朝(みなもとのためとも)をめぐって



 先日、「弓勢(ゆんぜい)するどき 源為朝」という歴史カルタを思い出したあと、保田予重郎という人の書いた“木曽冠者”という文章を読んでいて、しきりに源為朝について書いた本を読みたくなった。“あさひ”を出る前に、図書から「為朝物語」(岩崎書店、井本農一)と太平記(偕成社、福田清人)を借り出して読む事にした。「為朝物語」は実は二つの作品から作られていて、ひとつは源為朝が主人公といえる保元物語(保元の乱1156年)、他の一つは源義朝(みなもとのよしとも)とその長男悪源太義平(あくげんた よしひら)を主人公とする平治物語(平治の乱 1159年)であった。



 私は平家物語や源平盛衰記は子供の頃から親しんだが、平治物語は読んだことがなかった。このたび、子供用に書かれた「為朝物語」を読んで、あまり知らなかった源義朝の周辺の事情がなんとなくわかるようになった。



 1156年の保元の乱は、平清盛と源義朝という二人の武士の棟梁が権力者として登場し、古い貴族の世界が無力であることを示し、武家政権成立のための重大な第一歩を占めた事件であったが、このとき、源氏側は大きなあやまちを犯した。



 私は日本歴史のなかで、武家政権の成立過程ほど陰惨で暗い時代は無いと思ってきた。そして、そのはじまりは、この保元の乱の事後処理からと思ってきた。保元の乱の時、源氏は源義朝以外はみな敗れる崇徳上皇(すとく じょうこう)側についたため、義朝の父為義(ためよし)や弟にあたる為朝など全員がつかまった。その時、義朝は為朝以外の父や弟全員斬罪で殺してしまった。このため、源氏の血統は義朝一族だけになった。



 平治の乱で義朝一族を滅ぼせば、あとは実力を持った武士として、平清盛を頂点とする平家だけになったわけである。そのあと、約30年で平家が滅びると、義朝の子供の頼朝(よりとも)が武家政権を確立するが、その間、腹違いの弟の源範頼(のりより)や義経(よしつね)を攻め滅ぼし、結局、源氏の正統は頼朝とその子供だけになった。頼朝なきあと、頼朝の妻北条政子は自分が頼朝との間で生んだ子供、二代将軍源頼家、三代将軍源実朝をいろいろな手段を使って殺してしまうのである。



 そのため、源氏の正統は三代で断絶してしまい、建武中興期になって、義家の次男の系譜にあたる新田義貞(にったよしさだ)と足利尊氏(あしかがたかうじ)が源氏再興を企てるまで、平氏である北条政権が生まれた。従って、この保元の乱から実朝暗殺(1219年)までの63年間に、親子兄弟親戚関係で権力の把握をめぐって陰惨な殺し合いが行われ続けた。そのはじめとなった源義朝による父親為義斬罪こそ、非情な歴史のもとであると長い間、私は思ってきた。



 今、「為朝物語」を読んで、実は源義朝が一族を皆殺しにするように仕向けたのは、どうやら平清盛のはかりごとであったらしいと知った。平清盛はおじの忠正だけが敵になったため、戦いが終わって、甥の清盛に助けてもらおうと思って逃げてきた忠正を残罪に処した。一方、義朝の方は、義朝一族以外の全員が敵となったため、清盛と同じ処分をすれば、全員斬り殺すことになったわけである。(為朝は流罪)。



 俳人芭蕉は“義朝の 心に似たり 秋の風”という句をつくった。私は、60歳を超え、出家までして逃げようとしていた父親を殺してしまえる義朝の心のすさまじさを芭蕉はうたったものと思っていた。しかし、もしかして、清盛がおじを殺したため、義朝は自分だけ親や弟を助け出すことができなくなり、孔明の“泣いて馬しょくを斬る”という形に追い込まれた心境をうたったものかもしれないと思うようになった。



 結局、古い貴族の世界から新しい武士の世界へ移っていく途中で、上皇・天皇・貴族・武士という四者がからまりあって権力闘争を行っていたため、血縁関係よりも新しい権力機構の設立が優先せられた結果生み出された悲劇といえるかもしれない。



 保田予重郎は、“木曽冠者”の中で、源頼朝は、豊臣秀吉・徳川家康二代に渡ってやっと統一した仕事をひとりでやりとげた英雄であり、専制君主の理想像であると説いている。たしかにその通りかもしれない。政治家としての頼朝は、清盛や義経やのちの足利尊氏などをはるかにしのぐ、超一流の人物であった。



 この「為朝物語」の最後のほうに、平治の乱で敗れた義朝一族が逃亡する場面で、12-13歳の頼朝が立派な行動をする様子が描かれている。保田予重郎の感想では、平家物語に頼朝が登場する場面は、わずかであるが、どれも偉大な将軍の貫禄を充分に示している。「凡そ頼朝は天造物ともいうべき人物であった。」



 そういう次第で、「為朝物語」を読んで、保元・平治の乱という大事な事件の内容がなんとなくわかった。また、第一の主人公ともいえる、源為朝の姿が本当に豪快で、明るく頼もしく愉快に描かれていて、子供の頃、そろばん塾で読んだマンガを思い出した。



 源平の時代は多くの英雄を生んだが、なかでも源氏の系統にすぐれた英雄が続々と現れているのは、興味ある現象である。平家は清盛一人といえるのに対し、源氏は義家以来魅力ある人物として、為朝、義平、木曽義仲、義経、実朝と、たくさんの天才・英雄を生み出してきた。



 為朝の「その心のさわやかさも、朝明になりわたる鏑の響きに似ていた、こういう人物は、平家にはなかったのである。」(木曽冠者)。また、「平家物語」のような、日本民族の生み出した比類ない名作は、世界中みわたしてみても匹敵するものがほとんど無いといえるほどである。ホメーロスの「イーリアス」を超えているのではないか。ぜひ、読もう!   5/6/1994


赤穂浪士“をめぐって   「物語日本史(学研)」



 「あさひ」の図書に学研「物語日本史」10巻がある。裏の貸出票を見ると、誰も借りていない。これはまことに残念なことである。立派でむずかしそうな本なので、手にとって見ようとも思わなかったのであろう。ところが、この本はおとなでも楽しんで読める歴史の本であり、ある時期やある人物達を物語として描く事によって、名前と年代と出来事だけで終わりかねない日本史の背後に広がるすばらしい人間像を上手に伝える事に成功しており、しかも全漢字にフリガナがふってあるので、ひらがなとカタカナをマスターした小学1年生以上は、誰でも読むことが出来るのである。



 たとえば8巻を見ると、「勇将山田長政・赤穂浪士」となっている。私はこれは素晴らしいと思う。私が子供の頃、そろばん塾のマンガで親しんだ山田長政や由井正雪などは、高校日本史でやっと名前だけ出てくる程度であり、赤穂浪士―大石良雄となると、いまだに教科書にも出てこない。コンナ状態では、日本史の教科書が面白くないのも当然である。



 忠臣蔵として名高い赤穂浪士による吉良上野(きらこうずけ)襲撃事件は、五代将軍綱吉の時代、つまり元禄文化の最盛期に起きた異様な事件であり、当時の人々に衝撃と感動を与え、それ以降、現代に至るまで、庶民に最も人気のある劇となり、映画となった。



 現代の日本史の教科書はデモクラシーの形式だけを重んじるあまり、忠君愛国に生きた忠臣蔵の世界など子供に紹介するに値しないと思っているのであろうか。情け無い話である。忠臣蔵の話は、主君の仇を討つというある目的に向かって、ある集団が、困難を乗り越えて、とうとう見事にその目的を達成するという話であり、あの太平の世で、しかも幕藩体制という身動きの困難な時代に、権力を持った実力者を打倒するという困難をやりぬいた人間達の生きた感動が、今、「物語日本史」赤穂浪士 を読んでも伝わってくる。そして、大石良雄という男が、実はこの忠臣蔵という大事件を演出したのだということがわかると、人間というもののもつ魅力にうたれることになる。もし、大石良雄という人間によるマネジメントのたしかさがなかったら、元禄のこの大事件も起きていず、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)はバカ殿様の切腹という記録だけで終わっていたであろう。



 人間とは不思議なものである。この赤穂浪士たちは成功し、そして切腹して、華々しく散っていったが、人々の心に大きな影響を与え、感動をいつまでも与え続ける事になった。成功しなくても、意志を示した事によって、政治政策に大きな影響を与えたケースもある。由井正雪の乱とか“慶安の変”といわれる事件である。私にとっては、由井正雪など小学校の頃から馴染み深く興味ある人物であったが、中学校の教科書にも出てこなかった。中2の頃、日本史の中で、思い浮かぶことといわれて、他の人が参勤交代とか荘園とかといっていたとき、私は”慶安の変“などと発言したが、教師でさえよく知らなかったのか、全然問題にされなかった。大学受験用日本史の中で、はじめて由井正雪と慶安の変が載っているのを見て、やっと私は満足した。今の日本史の教科書を見ると、ちゃんと載っているが、忠臣蔵、赤穂浪士、大石良雄はまだである。



 由井正雪の乱は、乱が起きる前に陰謀が露見して、由井正雪は事前に切腹自殺、丸橋忠弥らはつかまって処刑された。だから、たいしたことではなかったはずなのだが、実はこれは江戸という将軍の居るところで、はじまったばかりの江戸幕府を転覆しようという異常な事件であったため大騒ぎになったわけであり、これが教科書に載るようになったのは、由井正雪の行動を挫折した革命運動と見るようになったからではないかと思う。



 江戸幕府創立期は、徳川政権安定のために、不信のある大名達をとりつぶることに必死になったため、主家を失った浪人(ジョブレス・ホームレス)がわんさかと巷にあふれた。社会福祉法など無かった当時、武士は失脚すると、傘はりの内職や寺子屋の教師、剣道指南などで細々と生活をしたが、それも出来ない人がいっぱいいたわけで、由井正雪は、こんなメチャメチャな社会はダメだと思い、変革を試みたが失敗をした。しかし、この失敗は意味があったわけで、徳川政権も反省し、あんまり浪人ばかり生み出すような政策はこれを最後にとりやめにした。そして、元禄期の平和で安定した文化の時代へと移っていくわけで、失敗して自殺しても、やはり、世の中を動かすことが出来たのである。



 ともかく、教科書からはなれて見ると、日本の歴史には、本当に面白く楽しく、すばらしい人物と出来事がいっぱいつまっているのがわかる。歴史を学ぶときに大切なことは、ひとつの法律、ひとつの制度、ひとつの事件の背後に、どれだけ多くの人間の苦悩と歓喜、悲哀と絶望が詰まっているかを知ることであり、そうした、一見ムダに見えるような、絶望的な苦労を積み重ねながら、一歩一歩住みよい社会を作る努力を重ねてきたというところに、人間の偉大さがあるということを実感として悟ることである。過去の人間の成功と失敗、苦悩と悲哀と歓喜を反省することは、現在を生きるうえで、大きな力となり、支えとなるであろう。



赤穂義士47名、1702年 元禄15年12月吉良義史を討つ。忠臣蔵。

由井(由比)正雪 慶安事件 1651年 慶安4年。慶安太平記。



1994年5月9日 執筆 




蒙古襲来(元寇)をめぐって



 学研「物語日本史」の第4巻は「モンゴル来たる、太平記物語」となっている。

日本という国は、四方を海で囲まれた島国であるおかげで、ヨーロッパの小さな国々や朝鮮半島のように、いつも大国の侵入におびやかされるという危険がほとんどなかった。ほとんど文化といえるものを持っていなかった日本に、何度も戦争状態におちいった朝鮮半島から高度な技術と文化を持った人々が移民してくる中で、日本の発展が生み出されてきた。そして、おどろいたことに、古代日本人は3-4世紀に日本を統一すると、もう海の向こうの朝鮮半島に軍隊を送って植民地を作ったり、あるいは同盟国(友邦国)に援軍を送るぐらいになっていた。その後、中世になって、倭寇という海賊として、中国や朝鮮沿岸を荒らしまわったりして、中国の皇帝から、なんとか取り締まってくれと泣きつかれたりするほどであった。



 戦国時代から南蛮文化が入りだすと、たくさんの人が東南アジアに進出して、日本人町をアチコチにつくり、山田長政のようにシャムの国王に信頼されて王女と結婚し、軍隊の最高長官の位置を占めたりする人が現れた。そして、その少し前、豊臣秀吉は朝鮮征伐といって、実は侵略戦争を二度も行った。こういう外国へ侵略する傾向と発展する傾向という二つの性向を併せ持つのが日本人の特性のひとつで、今は、ユダヤ人ほどでは無いが、全世界に散らばって、日本人は活躍しており、フジモリ氏のようにペルーで大統領になった人もいるほどである。



 そういうわけで、日本は海外に出かけることはあっても、外国から本格的に攻められるというイヤな経験は他の国々にくらべて少なく、中世のモンゴル(元)による襲撃と、第二次世界大戦の時だけである。従って、蒙古が日本を攻めてくるというニュースが入ったときは、日本国としては、初めての国難の時であった。その時、鎌倉幕府で執権として政治の頂点にいたのは、相模太郎とよばれた北条時宗であった。わずか18歳で今の総理大臣の位置に着いた時宗だが、当時の誰よりもすぐれた指導力と判断力、そして強固な意志力をもった偉大な指導者であった。彼はこの未曾有の国難に当たって、モンゴルに対して断固として戦う姿勢を一貫して示し、日本人民の精神的支柱として、そして実務処理において偉大な役割を果たしたのであった。彼は、モンゴルが戦いに疲れず、また、やってくるに違いないと思って、今度は襲来を待つのではなく、日本から朝鮮半島に上陸作戦を展開するよう指令を出し、具体的に計画を出したほどで、積極的に日本防衛作戦を展開したのであった。



 「博多の神風、亀山上皇」という歴史カルタは、亀山上皇をはじめとする僧侶、庶民が神に必死に祈ったおかげで、神風が吹いて、蒙古船団が二度にわたって全滅に近い被害を受け、日本は蒙古軍上陸をまぬがれたとうたっている。しかし、第4巻にも書かれているが、北条時宗の指示の下、九州の武士達が一致団結して勇敢に戦い、二度目の時には石塁を築いて準備怠りなく行ったうえで、ところどころで全滅しながらも、激しく防御戦を展開し続けたから、夜になると、蒙古軍は船に引き上げていかねばならなかったわけで、もし、逃げまくっていれば、蒙古軍はゆうゆうと博多に上陸し、宿営していたであろう。そうなっていれば、神風―台風で船が全滅しても、10万のモンゴル・中国・朝鮮人兵士が既に上陸しているわけで、日本の歴史は大幅にかわっていたかもしれない。既に終わってしまった歴史的事実に対して仮定は意味をなさないが、このときの九州男児の活躍が日本を救ったという正当な評価を下すのには役立つかもしれない。



 この「モンゴル」の巻は、ただ二回元寇があったというだけで終わってしまいがちな歴史の学習の裏を、いかに大変な出来事であったか、アチコチの島に上陸した蒙古軍のために、老若男女すべての日本人が虐殺されていったこと、防備にどれだけ苦労したか、九州の武士達がいかに勇敢に戦ったかといったことを、とてもリアルに、興味深く描いてあり、私もはじめて、なるほどと思ったりしたほどである。



 執権時宗は、この二度にわたる国難をまともに引き受けて心身疲労しきってしまい、元弘の後、しばらくして、33歳の若さで亡くなった。そのあと、執権の北条氏に人材は出ず、鎌倉幕府は滅亡に向かって衰退の一途を辿った。



 鎌倉時代は、源氏三代から北条執権成立期の陰惨で混沌とした時代を通り越すと、執権北条泰時とか北条時頼とか北条時宗といった非常に優秀で偉大な人物が続出したため、比較的政治も安定して、武家政治が軌道に乗り出すことができた。北条氏はもともと平家で、源氏ほどの統率力=カリスマはもたないため、源氏三代が絶えた後は、仮の将軍をもってきて、政治権力だけは握るという執権政治をとらざるをえなかった。しかし、上にあげた執権たちが公正な政治をめざしたため、武士も庶民もついていったとは、勝海舟も指摘しているところである。



1274年、文永の役。1281年、弘安の役。

「相模太郎(北条時宗)の肝っ玉は坂東太郎(利根川)よりも太い」といわれた北条時宗をこの未曾有の国難の時期に執権としてもったことは、日本人としてはしあわせなことであった。



1994年5月9日 執筆。




武士と風流」 日本人の好みの一類型



 「月夜に しょう吹く新羅三郎」。私が小学生のときに覚えた“歴史カルタ”のひとつである。新羅三郎(しんら さぶろう)などという名前は小中高の教科書はもちろんのこと、大学入試にも出たことは無いから、知っている人は少なかったに違いない。新羅三郎=源義光は、源義家=八幡太郎の弟であった。“前九年の役”の勝利の後、一時鎮まっていた奥羽地方が清原家の騒乱で荒れだし、その沈静に向かった源義家が苦戦しているといううわさを京都で聞いた弟の義光は、兄を応援するための許可を朝廷に願い出たが許されず、義光は検非違使(けびいし)の役を投げ捨てて、兄の援助に向かったのであった。



 その義光を追いかけて、途中から合流したものがいた。豊原時秋といい、しょうの名人豊原時元の子供であった。近江から相模の国まで来たとき、新羅三郎義光は時秋の心の中を察し、1087年8月、丁度、足柄山の山の中で、明月の夜、しょう の秘曲を吹いて、時秋に伝授し、同時に、名人時元から譲り受けた しょう も時秋に与えた。義光は、時元の子供がまだ幼かったため、秘曲を時元から受け継いでいたのだが、決死の覚悟で、兄義家の救援に出かけたので、時秋が秘曲を教わりたいとの決意であとをつけてきたに違いないと読み、その希望をかなえてやったのである。



 そして、その後、義光は兄義家と無事再会し、“後三年の役”といわれた戦いを勝利に導くことが出来た。朝廷は、この戦いは清原家のうちわの戦いとみたため、義家が戦争を終わらせても、ほうびを与えなかった。義家は私財を投げ打って部下に与え、かえって義家の人望は天下に鳴り渡った。雁の乱れに、伏兵を知り、戦争を優勢に導いたといわれるのも、この戦いであり、“前九年の役”の時の、安倍貞任(あべのさだとう)との歌のやり取り、「衣のたては、ほころびにけり」、「年をへし、糸の乱れの苦しさに」 における、合戦の中での武士の情けといったものも踏まえて、「類なき名将 源義家」という歴史カルタは作られていた。



「月夜に しょう吹く 新羅三郎」も、足柄山明月での秘曲伝授と、兄義家援助の旅という逸話を踏まえてつくられていたわけである。この話は、その当時、既に有名であったらしく、源義経が奥州を抜け出して、挙兵した源頼朝に合流しようとしたとき、頼朝は、義家と義光の再会を思い出したのであった。こういう話は、日本人はみな常識として知っていたに違いない。そして、人々は文武に優れた人間に魅力を感じるのが常であった。さむらいの親分のひとりが、明月の夜に しょう という楽器を演奏するという事実の中に、ただ武力を鍛えるのでなく、文化にも力を注いだ人間達の人間的な魅力を発見していたわけである。



そして、こういう、いわば、風流志向は、同じ歴史カルタの中の「えびらに梅さす 梶原景季(かじわら かげすえ)」というふだにもあらわれている。梶原景季は、源義経にとっては、命取りとなった頼朝方の監察梶原景時の子供であり、有名な宇治川の先陣を佐々木高綱と争って、佐々木にやりこめられた男であるが、この景季が、矢を入れる筒である えびら に梅の枝を折って、差し込んで、戦場に出たという逸話をかるたに取り入れ、武人が武人に終わらず、人間的なセンスを持っていたらしいという点を可としているわけである。



 そして、武人と文化という組み合わせを考えると、三国志の有名な魏の曹操(孟徳)(そうそう そうもうとく)のことが浮かんでくる。魏という邪馬台国(倭)と関係の深かった国の皇帝(武帝)として、蜀や呉と戦って、勝ったり負けたりしていた曹操は、同時に「短歌行」などというすばらしい傑作の詩を作る天分にも恵まれていた。内政においては、“九品中正の法”などという世界で始めての官吏登用試験制度を採用し、外交においては日本(邪馬台国)と交流し、という具合で、歴史上、文武に優れた英雄として有名である。その息子の曹ヒに至っては、世界で始めて、文芸の世界が政治の世界とは独立した、男児にとって一生を託するに足る立派な事業であると宣言したほど、この皇帝一家は文化面への天才を保持していた。



850年ほど後の詩人・政治家蘇軾(そしょく)が曹操の赤壁での戦いを舞台に不滅の「赤壁の賦」をつくり、さらに900年ほどあとの私達現代人を喜ばせ、感激させている。



月明らかに星稀に、ウジャク南に飛ぶ 此れ曹孟徳の詩にあらずや・・・

酒をしたみて江に臨み、矛を横たえ詩を賦す、まことに一世の雄なり。・・・(蘇軾 前赤壁の賦)



 学研「物語日本史」第3巻『源平の合戦、三代将軍実朝』の巻は、ただ源平の合戦だけでなく、源氏の棟梁として発展の土台を築いた源義家や保元・平治の乱から、源氏が三代で絶えていくまでが記されていて、この私が覚えていた歴史カルタ「月夜に しょう吹く・・・」の場面まで描いてあった。なんだか、懐かしい友人と出会ったような気分で、うれしくなった。本当に、この「物語日本史」はすばらしい。どの巻から読み始めても良いから、このクラスの6年生全員に読んでもらいたいと思う。



1994年5月13日 執筆


「細川ガラシャ」をめぐって



 「物語日本史(7)」〔ザビエル渡来物語、島原の乱〕の巻には、“細川ガラシャ”の話が収められている。今、私が小学生のときに親しんだ歴史カルタを思い出そうと努めているが、あのカルタは英雄・豪傑・名将といった人が中心になっていたため、女性はほとんど登場していなかったように思う。しかし、その中に、この細川ガラシャが唯一人「・・・・ 忠興の妻」という形でカルタに入っていた。丁度、古代ローマでルクレチアのストーリーが貞節の鑑として有名になったように、細川忠興の妻ガラシャ=玉子のストーリーも、形は異なるが、貞節の鑑として取り上げられたのであろう。



 今年の(1994年当時)、大学入試問題には細川家に関する問題がいくつか出されたという。連立内閣の首相となった細川護煕(ほそかわ もりひろ)は、細川家の子孫にあたる。この細川家は、旧くは清和源氏にまで至る名門の出であるが、歴史に大きく登場し始めるのは南北朝の頃からで、中でも、三代足利義満(あしかが よしみつ)の補佐となった細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、文武に優れた当時最高の人物として、室町幕府の安定化に絶大な貢献をしたのであった。「人生五十 功無きを恥ず」という彼の作った漢詩は特に有名である。



 そのあと、例の応仁の乱(細川対山名)によって、勢力は後退してしまったが、戦国時代になって現れた細川藤孝(幽斉ゆうさい)は、明智光秀(あけち みつひで)の親友であり、文武に優れた武将であった。百人一首に関する著書など、たくさん本を書き、当時、最高の知識人・文化人のひとりであった。その子供が忠興(ただおき)で、やはり文武に優れた武将であり、大名であった。織田・豊臣・徳川につかえた戦国大名であると同時に、和歌・絵画・茶の湯に通じ、千利休七哲の一人に数えられ、著書を著した。



 この忠興の妻が玉子(たまこ)であり、クリスチャンになってガラシャと名乗った女性である。玉子は明智光秀の娘であったため、本能寺の変で光秀が主君織田信長を討つという謀反(むほん)が起きたとき、苦しい状況に陥ったが、しばらくして秀吉に許された。そして、クリスチャン大名・高山右近の影響もあって、熱心なキリスト教信者となった。夫の忠興は、いつのまにかクリスチャンとなった妻に驚いたが、秀吉の禁止令をおそれない信仰の固さに感銘を受け、ひそかに保護してやった。



 秀吉が死んで、天下が徳川家康に傾きそうになったとき、秀吉の忠臣石田三成は対徳川戦をしかけたが、その準備として、大名の奥方(妻)を人質として大阪城にとめておこうとした。徳川方の忠興の動きの邪魔にならないようにと細川ガラシャは、石田三成のとり方を前に、家に火を放ち、自殺したのであった。この細川ガラシャのストーリーにウイリアム・アダムズ(三浦按針みうら あんじん)をからませて小説―TVドラマにしたのが、クラヴェルの「ショーグン(Shogun)」であった。



 忠興は関が原の戦いで徳川方につき、軍功によって九州の大名になった。その子供が細川忠利で、これもまた名君の誉れ高い人物であった。沢庵和尚に師事し、また佐々木小次郎との決闘で名高い宮本武蔵を保護した。天性浪人の人武蔵も、細川忠利だけには心を許し、兵法35個条を献呈したり、五輪書の執筆に取り組めたのであった。忠利の病死は、武蔵にとって大きな損失であった。このとき、殉死をめぐって、森鴎外の名作で有名な「安部一族」の事件が起きた。殉死の風は、古代卑弥呼の時代から見られたが、徳川時代になっても、まだ行われることがあった。許可も無いのに殉死してしまった阿部氏の事後処理が安部一族全滅の騒ぎとなった。



 忠利以来、細川家は熊本藩主として善政に努めたが、中でも9代将軍家重のとき、39年間執政を行った細川重賢(ほそかわ しげかた)は、さまざまな改革を行い、その治世は宝暦の改革と呼ばれたほどであった。外様大名としては、終始有力な大名として存在したわけである。明治になって、侯爵となって終戦(1945年)を迎え、1947年日本国憲法によって華族制度が廃止され、普通の平民となったが、熊本では有力な市民であり、知事になったりした。



 こうしてみると、新田義貞(にった よしさだ)などは、やはり清和源氏の名門の出ではあるが、南北朝の頃に活躍して、その後、あまり歴史に登場して来なくなるのに対し、細川家が戦国時代の激動期を無事に勢力を伸ばしながら成長していけたのは、幽斉・忠興親子の政治的判断力とその判断を貫徹する意志力の強さのせいであろう。明智光秀の娘玉子を妻とした若き忠興に対して、光秀の方から、織田信長を倒したから、自分の方に味方すれば、もっと大きい領土をやるといわれたとき、冷静に判断をして、ハッキリと断り、しかも妻玉子を粗末に扱うことはしなかった。秀吉の死後の天下分け目―徳川対石田の情勢に対しては、これもクールに反応し、玉子もそれをよくわきまえれ、歴史に残る人物となった。



 細川護煕(ほそかわ もりひろ)はどうであったか。丁度、アメリカのジミー・カーター大統領のように、運の良い男で、知事から議員になり、そして信じられないような状況が出現して、連立内閣の首相にまでなった。しかし、彼の先祖の名君達に匹敵するだけの政治力はなかったのか、任期1年に満たないで、後退せざるをえなかった。光秀の三日天下よりは長かったとはいえ、彼の場合は、ただ運が良かっただけということかもしれない。



1994年5月20日 執筆


「太閤記」をめぐって



 私は日本史の常識として、‘源義経(牛若丸)をめぐる源平の興亡“、”楠木正成たちをめぐる南北朝の動乱“、”「太閤記」を中心とした、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康への政権移動期“、そして”坂本竜馬・高杉晋作・勝海舟・西郷隆盛たちをめぐる幕末・維新の動乱期“について、単に名前と年代だけでなく、時代と人間の動きを知っておくことととらえる。



 この4つの時期は、どれも、政権が交替しようとする激動期であり、それにふさわしい天才・英雄・豪傑・名将といった人々が大活躍をし、それにともなって悲惨な出来事もたくさん発生したわけで、人間として体験する喜びや悲しみのすべてが、この時期の登場人物達をめぐって、極端なまでに正直に現れた。私は従って、ただ教科書に出てくるちょっとした記述だけでなく、本当に面白く、また哀しい時代と人間の動きを、様々な本(平家物語、太平記など)によって、みんなに知ってもらいたいと思う。そうすると、はじめて、日本史の動きというものが、生きた人間の活動として捉えられることになる。そうすることによって、日本人の心情とかといったものまで、なんとなくわかるようになる。



 いくら日本史の知識をふやしても、事件と人名と年代をただ覚えているだけのような知識では、日本の歴史の動きを理解したとはいえない。日本人の心の動きがつかめるのは、時代と人物をその全体の動きの中で知り、苦悩や喜びを共感できたときである。従って、「赤穂浪士」の事件なども、日本人の常識として、みんな知っておいてもらいたいと思う。そして、これらは、すべて本当に興奮するほど素晴らしい物語であり、出来事なのである。



 「平家物語」などは、私は叙事詩の中で世界最高の傑作であると思う。これは、ホメーロスの「イーリアス」や「オヂュッセイア」あるいはドイツの「ニーベルンゲンの物語」やフランスの「ロランの歌」などすべて読んだあとの、私の感想である。



 日本人といえる人が、平家物語や源義経をめぐる世界、あるいは、日吉丸から木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と、まるで出世魚(ツバス、はまち、メジロ、ブリ)のように名前が変わっていった太閤記の主人公をめぐる戦国武将の息詰るような興味深い世界を知らないでいるとしたら、何か大事なものを身に付けないで、成長していくようで、かわいそうに思う。



 たとえば、私はアメリカの南北戦争には興味をもっており、いろいろな本を集めて読んでいる。その中にはBruce Cattonの「Stillness at Appomatox」のような名著もあれば、Grant将軍のメモワールやSherman将軍のメモワールのような名著もある。どれも素晴らしい本で、南北戦争をただ人名と年代だけで知っているだけでは、結局、何も知らないに等しいことを確認させてくれる内容に満ちている。このように、ある事件、ある時期、ある人物をめぐって様々な本を読み、いろいろな角度から人物と時代の動きをつかめるようになって、はじめて、人間が生きている歴史というものがわかるようになり、また、一層、それぞれの出来事に対して、興味も益すのである。

 “あさひ学園”の図書には、いろいろな「太閤記」があるようだ。太閤記の原本に当たるものは、江戸時代に娯楽用として登場し、とても詳しくて膨大な量になるそうであるが、その中から、いくつかの逸話を取り出して一冊にまとめあげたものが子供用の「太閤記」である。今回、私が手にしたものは、岩崎書店 日本古典物語全集19高藤武馬著「太閤記物語」というもので、わりと簡単なものであったが、それでも大体常識的な話はすべて書かれているし、織田信長や徳川家康などについても、大体、人物がつかめる程度には描かれていて、やはりこういう本も読んでおいた方がよいと思った。ふりがなはふってあるが、そのページで一度ふりがなをふると、アトはふらないという方針になっているようで、「父」や「母」までフリガナがふってあるわりには、一見むずかしそうに見えるのは、「緒戦」(ちょせん)や「美濃街道」(みのかいどう)まで、ともかく、一度、フリガナをふると、アトはふっていないため、何となく漢字が多く見えるためであると思う。これも、ひとつのやり方で、すべてにフリガナをふるよりは、学習のために役に立つかもしれない。あまり、いつもサービスが良すぎると、漢字を読まないで、フリアガナを読んでしまう人が多くなることもある。



 太閤記の物語は、才気と度胸をもったひとりの男が、あの戦乱の世の中を見事に生き抜いて、ついに天下を取る話で、源義経のような悲劇ではない。義経の場合は、まさに軍事的天才・英雄として、見事な活躍をしながら、頼朝と貴族の政争にまきこまれて、いくつかのまちがった行動のため、肉親の一族でありながら、結局、兄に殺され、同時に愛人静御前の生みたての子供まで殺されるという悲劇が読者の共感を呼んで、“判官びいき”という現象が「義経記」以来出現した。太閤記にも悲劇はあるが、主人公・豊臣秀吉自身は、ほとんどいつも見事に難局をのりきって、百姓・足軽出身から関白となり、太政大臣となって天下統一を達成した成功談である。



 その晩年には、権力者としての欠点がたくさん現れたが、天下統一に至るまでの苦労談は、波乱万丈で、本当に面白く、またいろいろな意味で参考になり、国民常識として知っておかねばならないと言える。ほとんど悲劇で満ちている日本史のなかで、戦国の激動の時代を見事に生ききったこの男の生涯は、私達に人間の可能性のひとつの典型として明るい光を投げかけてくれる。この人物の行動が生き生きとイメージで描けるようにならないと、生きた歴史の面白さは味わえない。教科書にとどまらないで、ドシドシ本を読もう。あさひ図書にも、いい本はいっぱいあるのだから。



1994年5月25日 執筆


宮本武蔵 をめぐって



 世界偉人伝39偕成社版「宮本武蔵」浅野晃 をあさひの図書から借り出して読んだ。宮本武蔵という、いろいろな意味で傑出した人間の生涯を上手にまとめあげていて、それなりに楽しめる本であったし、武蔵が単に剣の道において偉大であっただけでなく、絵画や彫刻はもちろんのこと、人間として偉大であったことが読者に伝わるように描かれていて、子供用の伝記とはいえ、さわやかな読後感を生み出してくれるものであった。小1の基本漢字以外は全部フリガナがふってあるので、ほとんど誰でも読める本であるし、ふりがなをとおして、様々な難しい漢字と親しむチャンスであり、生徒全員の一読をすすめたい。



 「宮本武蔵」に関しては、小説家吉川英治に名著「宮本武蔵」という大作があり、これも読める人には読んでもらいたいと思う。これは有名な佐々木小次郎との船島での決闘までなので、ふつう、そのあとのことについては、あまり知らない人が多い。それで、小山勝清という人が、「それからの武蔵」という小説を書いた。“それから”とは吉川英治の「宮本武蔵」が佐々木小次郎との決闘で終わっていることを意識して、その後の武蔵を史実を踏まえながら、娯楽小説としてまとめたもので、細川忠利とのやりとりや島原の乱、安部一族の事件、五輪書の執筆など、武蔵に関係ある史実はすべてとり扱われていた。この‘それからの武蔵」は1960年代に日本のテレビ映画で毎週30分放映され、宮本武蔵を月形龍之介が演じて、見ごたえのある、楽しい映画となっていた。この本は私の愛読書のひとつで、文庫本で5-6冊だが、わたしは既に2度読み終わり、今度また読み直そうと思っているほどである。娯楽小説のなかでも、優れたものと思う。



 武蔵は1584年に生まれ、1645年に亡くなったと伝えられている。丁度、秀吉による天下統一から、鎖国に入っていく頃まで、つまり豊臣から徳川への政権交代とそのための戦争(関が原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣)と島原の乱が起きた激動期に生きたわけで、ほとんど浪人の身で無事生き延びただけでなく、様々な領域に偉大な業績をのこした、その自分の生きかたを“独行道”という19ヶ条の遺書(?)にまとめた。“我事に於いて後悔せず”という有名な言葉も、その一つである。



 宮本武蔵は絵画や彫刻ものこし、それらは重要文化財・国宝級の作品といわれている。そして“兵法三十五箇条”や「五輪書」を著し、思想家としても重要な位置を占めている。それほどの力量をタッチしたすべてにあらわした武蔵であるが、自分の絵や彫刻が、剣の道で到達した地点にはるかに及ばないと嘆いた。剣聖とあがめられるに至った武蔵の真の恐ろしさは、一流の人間の持つ気迫(すべてに真剣に立ち向かう)と努力で、あらゆる困難を克服し、しかも最後まで探求者であり続けたところにあるといえる。



1994年5月25日 執筆


徳川家康 をめぐって



 偕成社 世界偉人伝23「徳川家康」を読んだ。わたしは大阪生まれの大阪育ち。地元郷土史は大阪城を築いた豊臣秀吉や金剛山で活躍した楠木正成の話で満ちていた。そうなると、これらの英雄達の悲劇に感動して、日本史の中で、足利尊氏や徳川家康ほど悪いやつは居ないという感情(偏見)が生まれる。ある中学社会の教師は岩倉具視を加えて、三大悪人と言ったりした。私も子供の頃、足利尊氏が憎かったし、徳川家康も好きになれなかった。歴史や人物を冷静に客観的に評価するということは、なかなか難しいものである。



 もちろん、徳川家康は人物としても、政治家としても、世界的なレベルの偉人である。約260年にわたって天下泰平の世の中の基礎を築き、高度に洗練された繁栄都市を築き上げたと言うこと自体、世界的に見て、全く類例が無いほど見事な演出であった。関が原の戦いが終わって、徳川家康の天下統一が確かになった頃作られた狂句“鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、 鳴かぬなら鳴かせてみしょうホトトギス、鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス”は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の個性を簡潔に、そして鮮やかに描ききっているが、この“鳴くまで待とう”というところに、家康の忍耐強さと息の長い堅実な生き方がよくあらわされている。家康には、有名な遺訓というのがあり、その中で“人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。・・・不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば、困窮したるときを思いいだすべし。・・・”と言ったが、全く、家康の生きかたをまとめたものであった。



 この本には、竹千代と呼ばれた人質時代から、織田信長の盟友として、丁重に扱われるに至り、本能寺のあと、あらゆる面で秀吉以外の第一の大名ぶりを発揮しながら、豊臣政権確立には協力し、秀吉によって関八州江戸中心の大名にさせられても、文句もいわず、常に堅実に実力を貯え、しかもチャンスがあれば、チャンスを掴もうとする慎重な人間の長い一生(74歳)が上手にまとめられている。戦国時代の総まとめであり、同時にウイリアム・アダムズや田中勝相まで登場する。



 家康は頼朝を手本にして武家政権の確立を確かなものにしようとした。そして、単に武士の支配だけでなく、五つの街道の整備や政治・経済・外交とあらゆる方面にわたって立派な土台をつくった。豊臣家を滅ぼすための計略―方広寺鐘銘事件や大阪冬の陣講和条件違反など、ずるがしこい策略をのぞけば、見事な生き方といってよい。豊臣家滅亡は徳川政権安定化のためには、家康存命中にやりとげねばなならないことであった。ここから、家康嫌いが生まれる事になった。



1994年6月2日 執筆




伊能忠敬 をめぐって



 伊能忠敬を私は昔から尊敬していたが、先日、“あさひ”の図書でその伝記を借り出して読み、忠敬の偉さを確認した。伊能忠敬の生き方は、様々の人に、生きる勇気を与えてくれるものである。



 現代でこそ医学も発達し、環境も良くなって、日本など、男女とも世界最長寿の国になり〔1994年時点〕、まともにいけば、誰も75歳以上は生きれると常識的に考えるようになっているが、つい少し前までは、ソウではなかった。50歳以上生きれば長生きした方であり、20代30代40代で死ぬのはあたりまえであった。日本史の中の有名人の没年を調べてみたが、たとえば芭蕉は50、漱石49、聖徳太子48、木戸孝允44、高杉晋作28 という具合であり、病気以外の横死、つまり暗殺・処刑・討ち死になどの場合、西郷隆盛50、大久保利通48、大村益次郎44、織田信長48、坂本竜馬32、吉田松陰29、源義経30、木曽義仲30といった具合である。従って、人生は50、“人生五十功無きをはづ”(細川頼之 ほそかわ よりゆき)ということになるのである。従って、これらの人々は、全部、死ぬまでにやるべきことをやっていた。坂本竜馬の場合、薩長連合と大政奉還という維新の回天の中心部分を見事にやり遂げて、京都見廻り組・佐々木唯三郎(?)などに暗殺された。



 伊能忠敬の半生(50歳まで)はビジネスマンの人生であった。忠敬は酒造家・伊能家の傾いたビジネスに全力でぶつかり、家業を再興させ、すべてがうまくいったのを見届けて、50歳の時に家督を譲り隠居した。隠居して余裕があれば悠々自適の生活に入るのが普通だが、ここが普通の人と異なった。忠敬は子供の頃から算数や測量、天体観測が好きであった。そして、ビジネスに精を出す一方、暇があれば、そうした好きな学問をほかの人に遠慮しながら、コツコツとやりつづけた。そうした下準備を踏まえて、50歳で晴れて自由の身となった忠敬は、自分の子供の頃からの夢であった測量の方向に本格的に打ち込むために、その時、日本一の天文学者であった高橋至時(たかはし よしとき)に弟子入りした。



 何でも緻密に、そして正確・堅実にやりこなしていく忠敬の才能と性格を直ちに認めた至時は、西洋暦法や測図法など、自分の知っている知識をすべて忠敬に注ぎ込んだのであった。そうして、まともな地図がない一方、日本の沿海に外国船が出没するという泰平の夢を破る情況をハッキリつかんで、日本の地図をつくろうと決意した。



最初は、カラフト樺太や北海道だけのつもりが、いろいろな妨害が加わったため、かえって日本全国の沿岸地図をつくろうという大きな目標が定まり、それに向かって、60歳70歳の老齢に鞭打って、測量をし終わった。そうして「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽん えんかい よち ぜんず)は完成した。この地図が、当時の外国の科学技術関係者を驚嘆させ、感激させ、日本の科学技術文化の高さを世界に示したことはいうまでもない。

しかし、何よりもすばらしいことは、50歳以降の第二の人生においてさえ、人間は何か大きなことをなしうるということを実地に証明したことであり、それを可能にしたのは、子供の頃からの夢を立派に持ち続け、準備を怠らなかったということである。



1994年6月3日 執筆


高杉晋作 (たかすぎ しんさく) をめぐって



 幕末から明治維新にかけて日本にもたくさんの天才・英雄・豪傑が現れた。

維新への回天は薩長連合(薩摩と長州が手を組んだ)が成立した時点で、ほとんど達成されたも同然であった。西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)が京都薩摩屋敷において、その歴史的な連合を達成した。この連合の事実上の立役者は、土佐の坂本竜馬であった。しかし、こうして長州が薩摩と手を組むに至るためには、長州内部の藩論を討幕派で統一しておかねばならなかった。これを事実上、ほとんど独力で(もちろん、高杉晋作のつくった奇兵隊を率いてではあるが)なしとげたのが、高杉晋作であった。桂小五郎は高杉晋作のなしとげた成果の上に立って、それ以降の偉業を達成できたのであった。高杉なくしては、長州の運命も、また違っていたかもしれない。無数の俊才が登場した幕末において、私が手放しで賛嘆するのは坂本竜馬と高杉晋作である。



 高杉晋作がまだ倒幕が完成する以前に28歳の若さで病死したとき、その最後に書いた一句が「おもしろき こともなき世を おもしろく」であり、衰弱のあまり、アトが書けなくなった。看病していた野村望東尼(のむら ぼうとうに)が「すみなすものは 心なりけり」と、あとの句をつけると、高杉は“おーもーしろいーのうー”と言って息を引き取った。私はいつも、この{こころなりけり}では、高杉は不満であったに違いない、「行為なりけり」でなければならないはずだと思ってきた。



 高杉晋作という天才と行為を切り離すことは出来ない。高杉は行動の人であり、機を見るのがうまく、感じるとたちまち行動に移すことが出来、そして、ほとんどあやまちはなかった。



 危機の長州藩を救ったのは若干27-28歳の高杉晋作であり、危機的状況において、藩主親子が最も頼りにしたのは高杉晋作であった。高杉は正確に幕府の実力を測り、誰も思いがけない行動をやり、みごとに成功した。その機を見て、スグに実行に移せる高杉の行動力は天下一品であり、文久3年(1863年)正月5日のお成り橋通過は、高杉の面目を示すものであり、箱根の関所を破るという大胆な行為も、高杉ならではの行為であった。彼には、天下におそれるものなど、なかったわけであり、それ以上に、正確に、幕府の器量・実力をはかることが出来たのである。そして、日本で初めて、サムライだけではない、百姓・町人も含んだ奇兵隊を組織し、ここから幾多の優秀な人材が生まれたのであり、長州を討幕派でまとめることに成功したのであった。



(国土社 「高杉晋作」細田民樹著)



1994年6月2日 執筆


芭蕉 をめぐって



 私が択ぶ日本の五大古典は万葉集・源氏物語・平家物語・徒然草・芭蕉(特に「奥の細道」)である。それほど、芭蕉については高く高く評価し、敬愛し、私淑しているにもかかわらず、どうしたことか、私は松尾芭蕉の伝記というか、若い頃のことについては、ほとんど何も知らなかった。今度、「芭蕉物語」麻生磯次 日本古典物語全集21を読んではじめて芭蕉が俳諧の道にはいっていく様子がよくわかった。



 伊賀上野は藤堂家の領分であった。その侍大将新七郎の若君良忠が芭蕉より2-3歳年上であったが、芭蕉はその良忠の小姓として友達づきあいすることになった。そしてその情の深いつきあいが10年以上続いた。良忠は当時流行していた俳諧の熱心な愛好家であり、京都の有名な学者・俳諧師北村季吟の弟子になるために芭蕉を派遣し、蝉吟(ぜんぎん)という雅号をもらったほどの人物であったが、その若君がある日突然病死した。時に、芭蕉は23歳であった。



 そのショックで虚脱状態に陥り、一時は死にそうにまでなった芭蕉が、新たに自分の人生を自分で択ぼうと考えたとき、若君と共に、楽しく学んだ文学・学問・俳諧の世界が目標として浮かび上がってきたのであった。



 それから、亡くなるまでの27-28年の歳月は、まことに天才のみ可能な成長・発展の記録であり、特に晩年の10年は驚異的な展開を示し、遂に極北にまで達したのであった。蝉吟亡き後、芭蕉は主家を脱走した。37歳で芭蕉庵に入るまでの芭蕉の生活はほとんどわかっていない。この「芭蕉物語」によると、京都の北村季吟の弟子になって俳諧をやりながら、勉強したのではないかとなっているが、別の説では、禅寺に入って学問を身に付けたにちがいないという。いずれにしても、よくわからないわけだが、この間の放浪生活を経て、芭蕉の人生観や俳諧が著しくみがきあげられていった。



 あらゆるものを吸収しながら、徐々に自分の俳諧を見出し、確立していったわけで、その間、前人未到の境地に歩み入る人間としての、孤独も迷いも絶望もなめつくしたはずであり、その上で蕉風が確立され、しかも、それが旅を経るごとに、見事な展開を見せる事になった。



 生涯の大半を旅で過ごして西行を慕った芭蕉は、強健でもない身体に鞭打って、いくつもの大旅行を試みた。その最高傑作は「奥の細道」として完成したが、辞世の句を問うた弟子に、自分の句はすべて辞世の句といえる、いつもそのつもりで作ってきたと応えた芭蕉の芸術と人生が融合した生き方は、その後、どの俳人も真似できないほど壮烈で、真剣で、確かなものであった。1694年50歳で病没したが、モーツアルト同様、すべてをやり遂げた上での死であった。



1994年6月3日 執筆


「義経と頼朝」をめぐって



 先に「義経・弁慶物語」を読み、今回、「源氏の旗風」(義経物語)北川忠彦 平凡社名作文庫を読んだ。常盤御前(ときわごぜん)の話、牛若丸と弁慶、金売り吉次、熊坂長範、伊勢三郎との出会い、藤原秀衡(ふじわらひでひら)、そして頼朝との会見。ひよどり越え、一の谷、屋島、壇之浦から、頼朝による義経追討、吉野、勧進帳、佐藤継信・忠信の母親との会見、奥州で藤原泰衡のため、高館で攻められて自殺するまでを上手にまとめて、全体の動きがわかるように組み立てられている。平家物語と義経記からもとめあげたもので、特に頼朝との関係がどうしておかしくなっていったのかが何となくわかるようになっている。平家にしても義経記にしても、結果がわかったうえで書かれたものだから、それらしき理由をそれとなく配置しているといえなくもないが、義経と頼朝との関係はまことに悲劇的で、義経が悲劇に向かって突っ走っているのがよくわかり、読んでいてアドバイスをしてやりたいと思うほどである。



 頼朝側からの参加者である梶原景時をめぐる義経とのやりとりは、どう見ても、景時の方が言っていることは正しい。有名な鵯越(ひよどりごえ)の時の理屈など目茶目茶である。有名な「鹿も四足、馬も四足・・・」などというのは、唱歌にまで取り入れられたほどであるが、ここで大事なのは、義経の“気合い”であり、これがまさに天才的で、義経が登場すると、どの合戦でも、驚くほど簡単に終わってしまうのだ。



 義経の景時に対する対応は、景時に恨みを残すようなものであった。従って、もちろん影時だけが理由とは言えないが、頼朝が義経追討の決意をするに至るひとつの手がかりとはなった。武家政権の確立を目指し、京都の公家・朝廷とは距離をおこうとしていた頼朝は、まさに政治的天才であって、すべての権力構造を読み取っていた。そして、武家政権確立のための礎石を着々と踏み固めていっているのに対し、戦争の天才義経は、政治には疎く、京都の後白河法皇という大陰謀家の計略にあっさりとのみ込まれてしまったのである。



 九郎判官として有名になった検非違使(けびいし)の役職も、兄頼朝の許可もなく、勝手に頂戴してしまうといううかつさがあった。そして結局、腰越状での兄への説明・弁明にもかかわらず、直接兄と話し合うチャンスもなく、罪人として全国に指名手配されるに至る。母親が異なるとはいえ、父義朝の子供として、そしてどちらも常人よりははるかにすぐれた天才をもっていたので、もし、協力して武家政権確立に向かったいたら、歴史もまた違ったものとなっていたであろう。しかし、義経には政治的判断力が欠けていた。戦争は天才と言えるほどうまかった。これも、結局ネガチブに作用した。頼朝が心配したのだ。すべて頼朝の指導に従っていれば、それ程のことはなかったが、勝手に貴族・朝廷から役職や官位をもらうようでは、コントロールが内側から崩れていくわけである。景時の一方的な説明は、頼朝の考えを確認するものとなったに違いない。



 かくして、義朝のときに、源氏の一族がほとんど処刑されていったように、頼朝の意図に反する連中は、肉親であれ、誰であれ、殺されねばならなかった。そして、それは源氏三代で絶滅する結果を招いた。



 頼朝と義経の関係は、本当にたまらないほど悲劇的である。従って、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅のひとつの焦点を“夏草や つわものどもが 夢の跡”という絶唱でまとめたわけであり、義経のまわりにいたために死んでいったサムライ達にかなしみの涙をそそいだわけであった。



 “あさひ”の図書の中に、学研実用特選シリーズで、「見ながら読む無常の世界 平家物語」がある。絵巻物や情景写真をふんだんに取り入れた素晴らしい本である。「平家」に関係のある場所や人物の写真・絵がいっぱいあって、その中に、藤原隆信筆という源頼朝像というのがある。鋭い目、強い意志を備えたたくましい指導者の姿であり、武士の棟梁としての貫禄充分といえる。同じ本の中に、ヘンな感じの源義経像がある。二人の違いがあきらかである。



 「平家物語」には静御前(しずか ごぜん)のことについては記述が無いが、義経記からもまとめあげたこの「源氏の旗風」には静も登場する。頼朝の前で「静や静 静のおだまき繰り返し むかしを今になすよしもがな」と詠い、「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と詠い、舞った静御前に対し、頼朝はカンカンに怒ったが、頼朝の妻北条政子は、女の愛を全面的に出した大胆さに女性として、かえって感動し、頼朝の怒りをなだめた。



 義経はある意味では、いろいろと対応を間違い、自分で蒔いた種を自分で刈らねばならなかったわけで、悲劇的とはいえ、仕方が無い面もあるが、義経に忠実な部下たちの義経に対する献身的な生き方は全く感動的であり、武蔵坊弁慶に限らず、佐藤兄弟や伊勢三郎、増尾十郎兼房、和泉三郎忠衡などが義経のために戦い、義経のために死んでいく姿が、私にとっては最も感動的であった。



1994年6月2日 執筆


「曽我兄弟」 をめぐって



 曽我兄弟の物語は日本では昔から有名であって、私は貸し本屋でその伝記を読んだし、東映時代劇の映画も見た。今度、あさひの図書で、「曽我兄弟物語」というのを見つけ、それこそ小学生の頃以来、約40年ぶりに読み返してみた。あの頃は、ただ仇討ちに向かっての興味だけで、あまり時代感覚はなかったようだ。今度読んで、とても面白いと思ったのは、鎌倉の頼朝をめぐる人物のやりとりやその年代であった。つまり、物語は、伊豆に流された源頼朝が、まだ源氏再興にたち上がる以前の流人時代からスタートし、頼朝が鎌倉幕府を開いて、やっと全国平定、これで安心ということで、大好きな狩猟をアチコチで大規模にやっていた1193年までを扱い、その間、名前しか知らなかった和田義盛や梶原景季あるいは畠山重忠といった頼朝付きの武将達の言動が描かれていて、義経と頼朝との血みどろの一方的な格闘を知っている私には、ことに興味深いものであった。



 この仇討ちは、赤穂浪士の事件と並んで、ほとんどの日本人が知っている程有名なものとなったが、その中身は、単純に賞賛されるようなものではない。曽我兄弟(五郎と十郎)の祖父にあたる伊東祐親(いとうすけちか)は随分あくどいやり方で、工藤某の土地をとりあげたり、いろいろ悪いことをした。伊東も工藤も親戚関係でいて、争いばかりしていたのである。そこで工藤は子分を使って、伊東やその子河津をやっつけようと狙い、河津を殺すのに成功した。五郎十郎は河津の息子で、父を殺した張本人の工藤をやっつける事を心に固く誓った。



 伊東は平氏方であったため、勢いをつけた頼朝に討たれてしまった。その時、頼朝をかつて伊東の襲撃から救った伊東のもう一人の息子河津某を、自分は平氏で、助けられても、また頼朝に敵対することになるだけだから殺してくれと頼んだのに、頼朝は、自分を助けてくれた人間の首を切ることなどとても出来ない、平氏に属してまた頼朝征伐に向かってきてもかまわないと言って許してやる。頼朝というひとは、義経に対したりするときは、残忍なほどにクールで事務的に処理するのに対し、自分が恩を被った相手に対しては、驚くほど寛大で、広量な器量を示す。



 こうして、伊東は平氏で滅んだのに対し、工藤祐経(くどう すけつね)は頼朝付きの有力な武将となっていく。工藤は確かに河津をやっつけたが、少なくとも、その河津の父伊東を狙うだけの理由はあったのである。さて、兄弟が12-13歳頃になったとき、頼朝はこれで平氏はみないなくなり、源氏の政権も安定したと、部下に誇らしげに述べたとき、工藤は「イヤ、まだ二人残っています。平氏であった伊東の孫、曽我兄弟です。」といったものだから、頼朝は怒って、「何、まだそんなやつが残っていたか、スグ浜辺で首をはねろ」ということになった。物語の中でも、最後と並んで、最も有名な場面で、あやうく首を切られるという寸前に、畠山重忠の頼朝への説得が働いて、危機一髪のところで、助かるのである。つまり、曽我兄弟は、頼朝などを狙っているわけではない、工藤が復讐を恐れているから、デタラメな報告をしたのだということを頼朝にわかってもらうわけである。



 その後の、兄弟の苦労は大変なもので、仇を討って死ぬということが理想と思われていた時代の青年の生き方が、今の感覚で言うと、信じられないほどむなしく、あわれに思われるが、それを正当として、ただそれだけのために二人は生きる事になる。



 仇の工藤祐経が頼朝に信頼され、大きなパワーをもっているため、接近することさえ大変である。工藤は静御前が頼朝の前で踊ったとき、その鼓をうつほどの文化人でもあった。いろいろと探し回っても、なかなかチャンスがない。とうとう、1193年頼朝が富士の裾野で大規模な狩をやったその最後の夜、二人は仇敵工藤を殺す事に成功した。そして、そのあとの戦いで兄は死に、弟はつかまった。頼朝の前に引き出された弟は、工藤祐経を追う事が彼らの一生であったその経過を説明し、もう仇を討ったから、殺してくれと頼む。話を聞いた頼朝は感心して、助けようとするが、結局、頼みを拒みきれず、クビを切る。



 このあと、この曽我兄弟の仇討ちとそのための苦労は、ひとつの生き方のモデルとみなされ、武家社会にもてはやされた。



 この曽我兄弟の仇討ちのニュースがまちがって伝わり、源頼朝が殺されたと聞いた頼朝の弟、義経の兄にあたる源範頼(みなもと のりより)は、頼朝の妻北条政子に、“姉上、ご心配なさるな、私がいます。”というような言葉を発した。それを聞いた頼朝は、さては範頼め、チャンスがあれば、天下をとろうと狙っているなと疑って、たいした理由も無いのに、範頼を殺してしまった。敵には時には寛大であった頼朝は、肉親には、冷たく、疑り深かった。曽我兄弟の武勇伝のために、とんでもない人間まで死ぬ事になった。



1994年6月13日 執筆


桂小五郎 をめぐって



 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三名を“維新の三傑”という、あるいは“維新の元勲”。江戸幕府が倒れ、明治維新が生まれるためには、もちろんこの三人の力だけで充分であったわけではない。たまたま、明治まで生き残ったからであって、それ以前に病没した高杉晋作や暗殺された坂本竜馬など、もし生きていれば、違った政府が出来上がっていたに違いない。また、三傑は、みな討幕派を指しているわけで、この過渡期に大きな役割を果たした勝海舟も忘れてはなるまい。



 倒幕に最大の力を発揮したのは西郷隆盛であり、明治維新以後の専制国家確立に最大の貢献をしたのは大久保利通であった。しかし、二人とも、それぞれ違った形で無理をしたため、西郷は西南戦争で討ち死に、大久保は西南戦争終了後、その冷徹な処理能力をきらわれて島田一郎に紀尾井坂で暗殺された。



 この薩摩出身のふたりにくらべて、木戸孝允の果たした役割は、それ程大きくないように見える。しかし、彼は過激な革命家ではなかったが、穏健な改革派として、いろいろな過激派にブレーキをかけながら、良識ある知識人として、日本がデモクラシーの方向に向かう上で、大切な基礎固めをした。明治維新後の“五箇条の御誓文”や版籍奉還、廃藩置県などは、みな木戸孝允が中心になって行ったものであった。



 しかし、私にとって何といっても魅力あるのは、木戸孝允と名前を替える前の頃、つまり桂小五郎と名乗っていた頃の動きである。



 幕末の京都といえば、坂本竜馬や桂小五郎がスグに浮かぶくらい、桂の名は私には心地よく響く。長州から江戸に出た桂小五郎は、斉藤弥九郎の練兵館道場で剣の修業を行い、たちまち塾頭になるまで上達した。とても思慮深く、慎重な桂は、その後、いろいろな学問も身に付け、長州藩の中でも若くして長者の風格をもつに至った。そして、あるとき、刑場で解剖を行っていた村田蔵六を認めた。



 桂小五郎のもった才能のひとつに、人物を認める能力があった。村田蔵六は長州出身の蘭学者で、福沢諭吉さえ一目おいたほどの秀才であった。しかし、医者として、蘭学者として日本有数の人物になった後も、ほとんど誰も彼の才能を買おうとするものはいなかった。そんなとき、桂は村田蔵六の驚くべき才能をみつけ、しかも彼が同じ長州出身であることを知って、蔵六を雇うのに成功した。桂は年上の蔵六に「先生」をつけて常に接し、蔵六は、はじめて本格的に自分を認めてくれた桂小五郎を終生の恩人と思い、この人のためには死んでも良いと思うくらいに、厚い友情を桂に捧げた。村田蔵六はのちに大村益次郎となのって、倒幕戦争では事実上の参謀として大活躍をし、倒幕を成功に導き、維新後、列国に負けない軍隊制度をつくる布石を敷いたが、薩摩の旧藩士から狙われ、暗殺された。桂がその死を悲しみ、惜しんだのはいうまでも無い。

 桂小五郎は「逃げの小五郎」といわれるくらいに上手に逃げまくった。坂本竜馬とちがい、慎重すぎるほど慎重であった桂は、様々な危機をみごとに逃げきった。新撰組に追われたとき、後に妻となった芸者の幾松が機転をきかして、うまく逃がしたこともあれば、自分で見事に逃げきった場合もあった。桂は剣は免許皆伝の腕前であったにもかかわらず、一人も殺さず、危険だと思えば、あらかじめ避ける方向をえらんだ。これも私が桂をエライと思い、好きな理由のひとつである。



 高杉晋作が統一した藩論を率いて、長州を指導していく人材として、誰もが期待したのが33歳の桂小五郎であった。第二次長州征伐を勝利に導く指導を行いながら、小五郎は京都薩摩屋敷で坂本竜馬が下ごしらえした薩長連合の歴史的提携を西郷隆盛との間でとりかわした。そのとき、長州のその後の動きに疑問を持っていた西郷に対して、桂は明快に、権力を朝廷に返すと宣言し、この一語で西郷も納得し、連合は成立し、そして事実上の倒幕が成ったのであった。



 桂小五郎は何をしても一流に達する秀才であったが、やはり政治が一番向いていた。そして、人と付き合うときは、いつも対等の人間として友達づきあいをし、権力をかさにきて、エラそうに威張り散らすことはなかった。



 岩倉具視や大久保利通と一緒に外国を見てまわったあと、日本の内政の充実を願い続け、西郷を警戒しながら、わずか44歳で病没した。思慮深く、穏健で、慎重なこの改革家を明治維新にもったことは、日本人にとってしあわせなことであった。



1994年6月3日 執筆







楠木正成(くすのき まさしげ) をめぐって



 私は日本人の中で、卓越した兵法家として三人を択ぶとき、源義経、楠木正成、真田幸村をえらぶ。みな悲劇的に死んでいる点も共通しているといえる。楠木正成と真田幸村に関しては、子供の頃から好きであったが、今もやはり同じで、スゴイと思う。真田幸村の活躍ぶりなど、全くみごとなもので、他のものが彼のいうとおりに従っていれば、徳川家康も殺されて、天下の様相も変わっていたに違いない。しかし、楠木正成の場合と同様、上のほうは彼らのアイデアを採用せず、従って、負けて死ぬとわかっていて、それに逆らうこともせず、精一杯戦い、そして死んでいった。人間の悲哀というものをつくづく感じさせる生き方であり、死に方であった。



 私は大阪生まれの大阪育ち。楠木正成の逸話ははやくから親しんだ。小学5年6年の夏の林間学校では、吉野に2泊3日の旅行を楽しんだ。吉野は軟調の史跡が豊富なところであり、それは常にかなしみに満ちている。如意輪寺の戸にきざまれた楠木正行(まさつら)の歌「かへらじと かねて思へば あずさ弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という辞世を見て、感動したり、村上義光(よしてる)というひとが、切腹して、腸を掴んでなげつけたという話をバスのガイドからきいたりして、足利尊氏を憎たらしく思ったりしたものであった。



 大阪の豪族・楠木正成は北条政権を転覆させようと計画していた後醍醐天皇側に付き、常に忠実な部下として大活躍をした。建武の中興が成立し、公家を中心にした社会となっても、特に不満をわめきたてることはしない、本当に信頼できる部下であった。北条をめぐる戦術は天才を発揮して、わずかな軍勢で、北条軍をいためつけ、足利尊氏が北朝側として敵にまわった時も、やはり、チャンスがあれば見事に戦うことが出来た。しかし、京都の公家が彼のアイデアをとりいれなかったとき、今度は死を覚悟して、ベストを尽くし、そして死んでいった。



 正成の子供の正行の場合も同じであった。このあまりにも忠実な楠木父子の在り方に感激した水戸光圀は、うずもれていた楠木氏を激賞し、ここに大楠公・小楠公への忠君愛国の崇拝が始まった。しかし、そういう衣装を取り払って、単純に見ても、やはり楠木父子には魅力を感じ、悲しみを感じる。太平記もやはり、哀しい世界である。



1994年6月13日 執筆


足利尊氏 をめぐって



 私は楠木正成が大好きであったため、そしてまた南朝の史跡に富んだ吉野で南朝側からの解説を何度も聞かされたため、足利尊氏ほど憎たらしく、いやなやつはいないと思って育った。郷土愛から来ていたともいえるそういう考え方から抜け出すのは大変難しく、冷静に尊氏を評価できるようになるには、随分時間がかかった。



 今は、私は、源頼朝ほどの政治的統率力とか偉大さはないが、あの時代としては、やはり、最も優れた人物の一人であったと思う。



 天皇方にはむかうときには、日本の武将は誰も苦労する。承久の変を起こした後鳥羽上皇のときも同じであり、頼朝による“ご恩と奉公”を説く頼朝の妻北条政子の“イザ、鎌倉”の号令が必要であった。この政子の指揮ナシでは、出来たばかりの武家政権はもろくも崩壊し去っていたかもしれない。



 出来上がったばかりの建武の新政に反抗した足利尊氏の場合も、もともと、後醍醐天皇に逆らう気はなかった。微妙な関係にあったとき、引き金を引いたのは尊氏の弟直義(ただよし)であった。1335年、中先代の乱を平らげた足利尊氏は、京都の朝廷からの呼び戻しに応じず、鎌倉にとどまっていた。この時点では、尊氏に謀反の考えはなかったし、後醍醐天皇も尊氏を信頼していた。もし、尊氏に弟直義がいなかったら、歴史は全く違ったものとなっていたのは確かである。



 尊氏が鎌倉にとどまっている間に、直義は高師直(こうの もろなお)とはかって、尊氏に無断で、全国の豪族に、同じ源氏一門の新田義貞(にった よしさだ)追討の御教書を発した。そのことを知った天皇は、尊氏を朝敵として、新田義貞に追討を命じた。朝敵となってしまったことを知った尊氏は、おどろき、絶望して、坊主になるといいだした。このあとも、尊氏は苦境に陥るたびに、自殺しようとしたり、逃げ出そうとする。彼にはあくどい行動は出来ない性格があった。



 そのたびに、弟や周りの家来がいさめ、はげました。このときも、直義は、ニセの布令書を示し、「尊氏は朝敵なので、たとえ僧侶になっても、首を取って手柄にせよ。」という内容を尊氏に見せて、坊主になっても、今では後の祭りなので、この際、新田義貞を打ち破って、朝敵の汚名を返上するしかないと説いた。



 ここに至って、尊氏は断固として起ち上がる決意をし、策略を用いて、新田義貞を箱根竹の下の戦いで破った。その後、勝ったり負けたりしながら、源氏の名門として勢力を伸ばし、北朝の天皇をたてて朝敵の汚名を除き、楠木正成、新田義貞、名和長年、北畠顕家など、南朝の武将を滅ぼし、弟直義も、最終的に滅ぼして、京都に幕府を開く事に成功した。(室町幕府)。



 弟の策略ゆえに、天皇に対抗した尊氏は天竜寺を建てて天皇の冥福を祈った。尊氏は頼朝に政治的には劣ったが、人間的には器量も大きく、暖かかったようである。



1994年6月14日 執筆


真田幸村 (さなだ ゆきむら)をめぐって



 真田幸村の名前は日本の教科書(小・中・高)に登場しない。しかし、歴史の面白さを知り、日本の歴史への関心が大きく沸き起こるのも、こうした人物の行動を知ったときである。子供用に書かれた真田十勇士といった本が、私の小学生の頃にあり、フィクションをまじえて、楽しいお話となっていた。忍者猿飛佐助とか霧隠才蔵とか、胸をわくわくさせながら読みふけったものであった。



 教科書には登場しないが、少し歴史を調べると、真田昌幸・幸村父子が歴史の流れを替えるほどの影響力を持っていたことがわかる。この父子は戦術の天才であった。そして幸村は特に日本戦争史の中ではベスト・ワンと思われるほどの戦争の天才であった。父昌幸は死ぬとき、幸村が若くして九度山に蟄居したため、世の中に幸村の軍事的天才が知れ渡っていないことを残念に思い、幸村の将来まで正確に予見することが出来た。



 1600年、天川分け目の関が原の戦いが始まったとき、真田家は二つに分かれた。信州上田城の昌幸・幸村父子は豊臣方に属し、昌幸の長男信幸は徳川方についた。家康の軍は東海道を辿ったのに対し、家康の長男徳川秀忠の軍は中山道をとった。信州の真田昌幸をやっつけながら、美濃に合流しようというのであった。しかし、数万の秀忠軍は、わずか数千の真田軍にいためつけられ、身動きできず、とうとう打ち破れなかっただけでなく、秀忠軍は関が原の戦いに参加できず、遅れて到着した。小早川秀秋の裏切りによって、一挙に勝利にもっていくことができたが、それがなければ、家康は負けそうなほど苦戦していた。



 このように、真田昌幸は前後二度、徳川家康・秀忠の大軍を打ち破り、一度も負けたことは無いという誇りを持ち、その名声は天下に聞こえていた。この昌幸が豊臣方の大将になれば、みな彼の指示通りに動くであろう。しかし、昌幸以上の才能を持つ幸村でも、名を天下に知られていなければ、人もついて来ない、それを父は悲しんだ。真田父子を恐れた家康は、信幸の嘆願で殺せないため、和歌山県高野山近くの九度山に幽囚とした。



 1614年、大阪冬の陣がはじまって、幸村は登場した。父の予見したとおり、天才的な幸村の策謀も、豊臣秀頼方の採用にならず、心ならずも部分戦を演じるしかなかった。しかし、この冬の陣、夏の陣でも、真田幸村の活躍はめざましく、家康ももう少しで殺されそうになったのであった。



 昌幸・幸村と豊臣秀吉に大恩を感じていたため、豊臣家の衰亡に歩調を合わせねばならなかったのは、誠に惜しいことであった。



1994年6月15日 執筆




勝海舟 をめぐって



 幕末から明治にかけて大活躍をした勝海舟は、柔軟さと剛直さを兼ね備えた豪傑であり、人間的にも政治的にも世界的なレベルの人物であった。勝海舟に心酔した小説家の子母澤寛(しもざわ かん?)は、「父子鷹」、「おとこ鷹」、「勝海舟」という小説をあらわした。勝海舟の父小吉(こきち)からはじまっているわけである。



 勝海舟の叔父の養子が剣聖といわれた男谷下総守信友(おだに しもうさのかみ のぶとも)であり、勝海舟の剣の師・島田虎之助の先生であった。海舟はオランダ語の勉強を必死にやり、辞書を全部書き写したとかという有名な話がいっぱいあるが、晩年、洩らした感想では、剣道ほど真剣にやったものは無かったということであり、その剣の道において、師の島田虎之助から免許皆伝を受けたほどであった。しかし、刀は切るものではないという信念のもとに、刀が抜けないように紐でしばっておいたという。幕末、暗殺が大はやりの時代に、そして自身、何度も狙われた時代に、海舟のとったような行動が出来たことは、まさに人物の大きさを示して余りあり、全く驚嘆に値する。



 この海舟の肝っ玉の太さで直ちに子分を作り上げた例が有名な坂本竜馬との出会いである。1862年のある冬の夜、勝海舟(麟太郎りんたろう)の家に二人の武士が面会に来た。坂本竜馬・千葉重太郎という。二人は開国論者・勝海舟を切り捨てようと訪れたのであったが、勝にそれを見抜かれ、先手を制される。そして、地球儀をまえにして、有名な日本とイギリス、海軍と軍艦、鎖国と開国に関する説教をきかされる。天才・坂本竜馬は直ちにすべてを理解し、しばらくは勝つの一番弟子として活躍し、そして後に薩長連合・大政奉還という二大業績を達成して、暗殺される事になる。勝は坂本竜馬の天才を愛し、その死を惜しんだ。



 能力がありながら、一生職につけなかった父・勝小吉は、すべての夢を子供の麟太郎(海舟)に託して亡くなった。それからしばらくして、勝海舟の人物を聞き知った幕府目付・大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)の援助で、老中安部正弘の注目するところとなり、海軍の仕事に関係するようになった。それからは、どんどん才能を発揮して、海軍奉行、はじめて太平洋を渡った幕府軍艦咸臨丸(かんりんまる)の艦長などの大役をこなし、勝安房守(かつ あわのかみ)という、父小吉が生きていればびっくりするような役職にまでつくに至る。14代将・軍徳川家茂からも信頼され、また、15代将軍になる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)からも信頼された。このことが、のちに西郷と勝との江戸城無血開城の談判につながることになる。



 勤皇思想の濃厚な水戸出身の15代将軍慶喜は、朝廷から朝敵という汚名をもらうことに耐えがたかった。この慶喜の態度が、幕末の鳥羽伏見の戦以降の戦争の性格を決定した。薩長の討幕隊に対して、幕府側は対戦組と恭順組とにわかれ、勝は恭順組の代表であった。そして将軍慶喜も恭順派であったため、勝海舟にそのための権力を与えた。小栗上野(おぐり こうづけ)達対戦組の立てた作戦は、徳川幕府衰えたりといえども、まだ薩長連合軍を打ち破る戦力も方法もあるというもので、アトでその作戦を知った薩長軍の参謀・大村益次郎は、もし、幕府軍が作戦通りにやりとげていたら、討幕軍は負けていたであろうと、事なきを喜び、またその作戦に感心したのであった。だが、作戦は実行されなかった。それは、慶喜が恭順派であったし、勝海舟も恭順の必要を痛切に感じていたからであった。



 勝が何よりも恐れたのは、戦争のどさくさにまぎれて、外国の勢力が日本の政治をかき乱し、日本の領土が外国勢によって、分割されることであった。勝にしても、徳川軍がまだ軍事的には薩長連合軍に対抗できることは知っていた。しかし、フランスが幕府を援助し、イギリスが薩長を援助するということになれば、どちらが負けても、勝った方に援助した国は、それ相応の報酬を求めるはずであり、それがいかに悲惨な結果を生むに至るかは、アヘン戦争やその後の太平天国の乱の事後処理で、中国がどんなにみじめな状況に追い込まれたかを知っている勝海舟には、そのような事態に至ることは、なんとしても避けたかった。



 従って、幕府代表・勝安房守海舟対倒幕軍代表・西郷隆盛の歴史的な会見が生まれる事になる。1868年3月14日、江戸田町の薩摩蔵屋敷で行われ、江戸城無血開城が決定された。しかし、この会見に備えた勝は、談判決裂に対する準備は完璧に整えていた。1812年のナポレオンのロシア遠征とロシアのクツーゾフ将軍のモスクワ焦土作戦を知っていた勝海舟は、合図ひとつで、江戸全体を火の海にする手配と同時に、江戸市民を救済する作戦を立てていた。



 また一方、この勝・西郷会談が成立する上で力があったのは、幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)であった。北辰一刀流の達人で、幕末最強の人といわれ、春風館道場を開き、明治になって、各地の知事や明治天皇の侍従などを歴任した、温厚・誠実・大胆な人物で、この山岡が勝海舟を訪ねて慶喜の恭順を西郷に伝える相談にきたことから、勝と西郷との会談が成立するに至った。



 勝海舟はこうして、1899年77歳で亡くなるまで、その才能と胆力を発揮し続け、豪快で偉大な人生を生きつづけた。その才能は、剣や政治やオランダ語に限らず、漢詩・俳句・短歌・随筆・書道・茶道等の何でもこなし、趣味・情操豊かに、まさに充実した人生を生きたのであった。 (1823年ー1899年)。



国土社 勝海舟 勝部真長著



1994年6月22日 執筆


福沢諭吉 をめぐって



 勝海舟が咸臨丸の艦長であったのに対し、咸臨丸に付き人として乗り組んだ一人に福沢諭吉がいた。福沢諭吉の人生もまた充実したみごとなものであって、その人生を“福翁自伝”という自叙伝にあらわしたが、これは自伝文学の傑作であって、江戸幕府の滅亡と黒舟による開国という大動乱期を、一人の頭脳明晰で開明的な知識人が、如何に生きたかを示したもので、ものすごく面白く、いろいろ勉強になる素晴らしい本である。



 大分県中津生まれの下級士族の子供が、自分の頭で納得のいくまで考え、実験をし、モーレツに勉学しながら、異常な時勢うぃ、悠然と過ごすまでの、様々の体験は、自伝の中にユーモアをもって描かれ、いつまでもあざやかな印象を残す。



 大阪緒方塾(適塾)で蘭学の勉強をし、村田蔵六とならんで、トップに立ったが、福沢は世界の動向がオランダ圏ではなく、英語圏のほうに向かっているといち早くキャッチすると、直ちに英語の勉強に向かう柔軟さをもっていた。ここが、村田蔵六とことなるところであるし、なによりも、後に兵法の大家になる人と、慶応義塾という学校を作る教育者・思想家になる人との違いであった。



 普通、福沢諭吉といえば、「天は人の上に人を作らず、人の下にひとをつくらず」と言う言葉をあげて、諭吉の自由平等思想の代表的表現のようにみなしてきたが、もちろん、これは諭吉風の表現になっているが、このアトに、「といへり」と言う言葉が続いているため、実は諭吉は自分なりに引用しているのだということがわかる。では、なにを引用して、あのように訳したのかということで、いろいろな研究家が調べて、結局、Thomas Jeffersonジェファソンのアメリカ独立宣言の冒頭の文章からに違いないということになった。



 いずれにしろ、この有名になりすぎた言葉で始まる「学問ノススメ」やいろいろの本を著して、明治維新で思想が混乱し、どうしていいのかわからない当時の知識人に文明化とその方向を力強く指し示したのであった。日本が世界の文明国の仲間入りするには、どうすればよいのか。それを日々の日常生活の中で実践していく道として諭吉は“独立自尊”を説き、“自立”を説いた。そして、大げさな政治の面ではなく、生活と思想の面で、近代日本の建設に、かけがえのない大きな仕事をしたのであった。大げさな政治ではなく、まじめな思想がいかに社会を動かすかを身を持って示した偉大な人物であった。



1994年6月22日 執筆


小6社会 別れにあたって



 この小学6年1組の「社会」を担当して、私は本当にしあわせであった。活発な君達の反応に接して、私は久しぶりに、教える楽しさを味わうことが出来た。そして、「日本の歴史」という大切な課題を充分理解してもらえるようにと、私は毎週、真剣に“歴史”と取り組み、必死になって君達に日本の歴史や歴史上の人物への関心を呼び起こしてくれるようにと、たくさんの文章を書いてきた。クリップで閉じてみて、たった3ヶ月の間に、随分書いたものだと自分でも感心するほどである。それは、それ程、このクラスが私にとって楽しみであったこと、私が本当に真剣に取り組んだことを示しており、いまや私は自信と誇りをもって、このクラスとの3ヶ月を思い起こすことが出来る。それは、私だけの努力でなしとげられたものではなく、君達の真剣で積極的な反応があったからこそ可能なことであった。従って、この私の文章とこの小6のクラスの生徒達の思い出は、私の心の中で堅く結びついている。



 そんなに大切なクラスであるのに、私は、たったの3ヶ月で放り出して、“あさひ”を去ろうとしている。これからというときに、こんなことになって、本当に申し訳ない。また、こんなに素晴らしい生徒でいっぱいのクラスに出合う事などめったにないので、心から残念である。しかし、君達は、きっと、これからは、私がいなくても、自主的に“あさひ”の図書と取り組んで、自分のための歴史の勉強をすすめてくれるであろう。



 学習において、何よりも大切なことは、興味・関心・好奇心であり、それがあれば何事に対しても自主的に、意欲的に取り組むことが出来る。そして、私は、たったの3ヶ月ではあったが、“歴史”に関しては、そのための土台は据えたと信じている。



 期末テストの歴史へのコメントで、たくさんの人が、「日本の歴史」を勉強することが“とても面白い”と応えてくれた。私はありがたいことだ、私の膨大な時間と努力は無駄ではなかったと心から感謝した。



 歴史の勉強は、とても大切である。日本人の血を引く者にとっては、自分のルーツの国・日本の歴史を知ることは、きわめて大切である。あらゆる困難を乗り越えて、しっかりと勉強して欲しい。



1994年7月3日 執筆


小6社会と私とあさひ図書



小6社会を13年ぶりに担当する事になって、私は久しぶりに日本の歴史への関心がかきたてられるのを感じた。学問において大切なことは自主的に取り組むということであり、そのためには面白くなければならない。面白くなるためには、好奇心や探求心をかきたてるものでなければならない。好奇心・関心をもつことが出来れば、人間は他の人から、とやかく言われなくても、自分で調べ、学習していくものである。だから、教育において、特に、小・中教育において、最も大切なことは、ここの知識を増やすことではなく、生徒に課題(それぞれの教科)に対する興味を呼び起こさせることである。



私はどの学科の指導にあたっても、それぞれの情報量を増やすことよりも、それぞれの学科に対して興味を持ってとりくめるように、好奇心・探求心を育てることを最大の目標としてきた。いつも、私の希望通りに事が運んだわけではないが、科学を教えるときには、一人でも多く科学者になりたいと思う生徒が出ることを願い、国語の場合は、国語ほど面白く大切な科目はないと生徒が思ってくれるように願い、数学の場合は、数学ほど面白いものは無い、数学者になりたいと思う人が出てくれるかもしれないと願いながら指導し、歴史を教えたときも、歴史ほど面白いものは無い、将来、歴史学者になりたいと思う人が出てくれるかもしれないと期待しながら取り組んだ。



私は、もし、生徒の中から、今まで無関心でいたのが、それぞれの科目に対して興味を持って取り組める生徒がうまれれば、ペーパーテストがどんなに悪くても、私の教育は成功したと言えるととらえていた。



今も、「社会」の担当となり、歴史を中心とする様々な事に、生徒諸君の関心を高めようと努力し、毎週、「歴史」に関係のある情報を流そうと努力している。みんなに、あさひの立派な図書を読んでもらいたいと思い、率先して、私もまた図書と取り組んでいる。おかげで、既に知っていた情報は整理できるし、まだまだ知らないことがあったことも知り、いろいろ学びながら楽しんでいる。子供の頃に楽しんだ太閤記や山田長政・源義経などにまた会うことができ、子供の頃を懐かしく思い出すことにもなった。そして、日本史というのは、本当に面白く、日本の歴史はすばらしい人物や出来事でいっぱいだということを確認した。しっかりと本に取り組んで欲しい。



1994年6月3日 執筆








あさひ図書 「日本の歴史」関係



*学研 まんが人物日本史(いろいろ)

*学習漫画 日本の歴史 1~17 集英社

*おはなし日本歴史―全漢字 ふりがなつき 1~24

*わたしたちの歴史 偕成社版―やさしい字はフリガナなし 1~18

*学習よみもの 人物日本の歴史―やさしい字はフリガナなし

*日本古典物語全集(岩崎書店)-むずかしい字だけフリガナつき 1~30

*日本の古典文学(偕成社)-太閤記、太平記、平家物語 など。

*ジュニア版古典文学―原典つき 平家物語など 漢字むずかしい(フリガナ限られている)

*学研―人物学習事典 1~5

*平凡社 名作文庫 -むずかしい字はフリガナつき

その他

社会科学習文庫―日本の歴史

子どもの伝記全集―ポプラ社

世界伝記全集

*学研 物語日本史1~10 全漢字 フリガナつき


記 1994年6月3日



上記、あさひ図書のリストは、1994年現在、サンタモニカ校で調べたあさひ図書。



今、現在〔2012年〕、このような本がまだ出版されているのか、学校図書館に備えてあるのか、わたしにはわかりません。



コンピューターの時代になり、電子書籍がでまわるようになり、昔と今とはアクセスの仕方も、全く異なるかもしれません。



漫画雑誌は、今は昔以上に膨大に量産されているようですが、この種の歴史の勉強に役立つ本はどうなのか、私はわかりませんが、1994年ごろは、私が調べた限りでは、かな さえ読めれば、日本の歴史の勉強は可能だと思いました。



2012年11月2日


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