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9/20/2012

源氏物語 “花散里”をめぐって


源氏物語 “花散里”をめぐって

 光源氏の魅力にひかれて数多くの女性が源氏と愛人関係になったが、〔あるいは、光源氏の好色のせいで、愛人にされてしまったが)、そのなかでも、私が最も魅力的に感じるのは 花散里 Hana Chiru Satoと呼ばれた女性である。

 紫式部は源氏物語に登場する女性達とその成長ぶりを見事に描きわけ、なかでも一番印象的な女性のひとりは“六条御息所(ろくじょう みやすどころ)”と呼ばれた女性であるが、物語の中でも特に光源氏が最も信頼し、いわば女性の持つ母性本能に男が甘えてしまうような、私のような、男としては、もっとも頼りになる女性、安心してふところに飛び込める女性として描かれているのが、登場数はすくないが、登場する場面はすべて印象的なこの“花散里”である。

 貴公子・光源氏にふさわしい才色兼備の最高の女性として登場する事になる“紫の上”はまだ子供の頃から、源氏が養育者として育て、そしてある程度の成長を待って自分の愛人にしてしまうので、現代的な表現ではロリータ趣味というか、なんとなくいやらしさがつきまとうのだが、”花散里”に関しては、そういう嫌味が全くなく、読者も素直にその魅力を感じることが出来る。

 この“花散里”に魅力を感じたか、小説的興味を惹かれたかした人が居て、私は読む機会がないが、円地文子は小説 「花散里」 を書き、フランスの作家マルグリット・ユルスナルも“花散里”を主題にした短編を書いているらしい。ユルスナルは「ハドリアヌス帝の回想」という歴史小説で有名なフランスの作家であるが、瀬戸内寂聴女史の源氏物語に関する短編エッセイをあつめた文庫本の中で、そのユルスナルの“花散里”を主題にした小説が紹介されている。

 今、私の手元にその瀬戸内寂聴の本がなく、勝手に思い出しながら、こういう内容という紹介をするだけだが、いわば、「源氏物語」の光源氏が登場する場面が光源氏の最後を描かず、くもがくれ で終わっている、その 雲隠れ を作家の想像で描いたような作品で、50歳を超えて老衰した源氏を介抱するのが旅の途中で出遭った“花散里”で、彼女にはこれがあの“光源氏”だとスグに気がついたが、源氏の方ではもう相手の正体もわからず、死の床にあって、昔、親しんだ愛人の面影を追いかけている。紫の上、葵上、夕顔、六条御息所、朧月夜、明石の姫君、空蝉、末摘花、・・・つぎつぎと源氏が関係した女性の名前が出てくるが、どうしたことか自分の名前が出てこない。“もうひとり居たでしょう”、となんどもいうのだが、源氏の口からとうとう愛した “花散里” の名前が言い出されることなく、源氏は息絶えてしまうという話らしいが、いかにも 雲隠れに ふさわしい結末といえそうだ。老衰して過去も朧になった源氏の意識に愛人としての“花散里”が登場しなかったのは、多分、源氏にとって花散里“は愛人以上の、いわば母性に代わる存在になっていたからだと私は想像してしまう。多くの愛人の中で光源氏の最後をみとれるひとは、はやり”花散里”をおいて他にはいないように思われる。全人類が美男・美女で満たされているわけではないこの世界、あるがままの天分を生かして、男にとって最高の魅力を発揮できた”花散里”という人物の創造こそ、源氏物語を魅力あるものにしている秘密のひとつといえるかもしれない。

 源氏にとって 花散里 という女性はどのような人物であったのか。それは “花散里” と題する短い一章のなかでホンの少し、そして、“澪標”(みおつくし)、“玉蔓”(たまかずら)、“蛍”(ほたる)、”野分“(のわき)などで少しずつ描かれているが、どの場面でも、花散里の魅力が強く描かれている。

 結局、愛人にはできなかった“玉蔓(たまかずら)”という、夕顔と自分の友人との間にできた子供をひきとって、立派に育てるのはよいが、色気を出してしまう源氏のすがたなど、私には、いやらしく映るほどだが、“花散里”が出てくる場面はいずれも気持ちよく読めて、わたしはこういう女性を描けた紫式部をやはりエライ人だと思う。

 紫式部はいわば人間心理の百般に通じたおどろくべき人間学の達人で、すべてを見事に描き分けているのに感心してしまう。

 “紫の上”は光源氏にふさわしい才色兼備の美女で息子の“夕霧”でさえ、ふと垣間見て魅力を感じて自分でもぎょっとするほどなのだが、その“夕霧”の世話を子供の頃から頼まれた花散里(いわば育ての親)と比較して、夕霧自身、花散里は美人ではないが父源氏が魅力を見出した理由がわかるように思う。また、美人でもない“花散里”を“紫の上”とほとんど対等の地位においている父をエライとも思う。

 いわば、花散里の魅力とは、おっとりとした、おおらかな女性、素直で無欲で、やさしく、地味で、信頼の出来る、きだてのよい、心変わりのしない、誠実な、気取らない女性ということのようだ。従って、光源氏は花散里と一緒に居ると、暖かい母性に包まれたような、自分が素直になれる感じになる。源氏自身が気張らなく、何も気にせず、自由に振舞える相談役ということで、大事な息子の養育も託し、自分もまた彼女のもとでくつろぐのであった。

 “花散里”は光源氏の最愛の女性は“紫の上”であることをよく知っており、自分の分と場をよく知って、足るを知り、源氏を信頼しきっているので、いわば“かげろうの日記”の著者である女性が嫉妬心をむき出しにしたりしたようなことは出来ない女性であった。

 その点、対照的なのが六条御息所(ろくじょう みやすどころ)であって、物語の中では、源氏より年上で、最初は源氏の愛情を受け入れていたが、愛人の一人であるという立場にがまんできず、美貌と教養と身分とを身に付けた女性として、まさに“かげろう日記”の著者と同様の、嫉妬に満ちた反応をしてしまうため、源氏との関係もいつもぎくしゃくしてしまうわけである。そして、“夕顔”の場面では、自分でも知らないうちに“生霊”となって、夕顔にとりつき、いわば源氏のそのときの愛人をショック死させてしまう恐ろしい女という登場をしたりするのであるが、自分でその事に気がつきおそろしいことだと思ってしまうがどうすることもできない。本来は立派な女性がみせる女の執念のおそろしさをうまく描き出して紫式部の力量におどろき、感心する事になる。(心霊現象の科学をめぐってーその14 生き霊など)。

伊東仁斎は“論語”を“最上至極宇宙第一書”と書いているそうであるが(小林秀雄“本居宣長”P.108など)、わたしは紫式部の“源氏物語”こそ人間の諸相を描いた“最上至極宇宙第一書”だと思う。世界文学にはすぐれた作品が多いが、これほど、時間の流れの中で、豊かに人間の諸相を描き出した作品はこの地球上に存在したことがないと思う。日本が生み出した、世界文芸史上最高の傑作である。

 光源氏の父君桐壺帝が愛した女性の一人、麗景殿の女御の妹に当たる“三の君”が“花散里”と呼ばれる女性で、源氏が過去に淡い関係を持っていたことが“花散里”の章のところであきらかにされ、そのあと、おりおり彼女は登場するが、話の展開ぶりからして、彼女は美人ではなく、才気煥発というのでもないが、男が甘えたくなるような、おっとりとした、おおらかな性格を持っていて、足るを知り、素直で無欲なので、源氏も安心して、何でも語り合えるわけで、自分の息子夕霧の育て親として養育を依頼するだけでなく、亡き夕顔の忘れ形見、玉蔓があらわれたとき、その後見人を花散里に依頼するほどで、如何に源氏が彼女を信頼し、尊敬していたかがわかるわけである。

 “蛍”の巻では“おほどかに聞え給ふ”とか“のどやかにおはする人ざま”と書き表され、“澪標(みおつくし)”では“のどやかにてものし給ふけはひ、いとめやすし。”とか、“いとなつかしう言ひ消ち給へる・・・おひらかにらうたげなり”という調子で、おおらかで、穏やかで愛らしい人格が表現されている。

橘(たちばな)の 香をなつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ

 という光源氏の歌にあわせたのは女御のほうであったが、これ以降、妹の三の君のほうを“花散里”と呼ぶようになった。“ほととぎす” は源氏で “花散里” が三の君であると源氏はいうのである。

 ともかく、美人とは言えない地味な人だが、やさしく、おおらかで信頼できる女性というのは、当時も珍しかったのかもしれない。すべての事情に通じた紫式部のことである、才気煥発や美人の女性よりも、自分でもこのタイプの女性が気に入っていたのであろう。ともかく、"花散里"がでてくる文章表現で、批判的な言葉には出会わない。源氏だけでなく、紫式部も愛した女性といえそうだ。そうして、わたしも、源氏物語の中で一番好きな女性である。

紫式部の人格に関して、「紫式部日記」で同時代の評判の女性達 清少納言や和泉式部、赤染衛門などを手厳しく批判しているので、有名であり、また意地悪と見られたりしているが、はっきりいって、清少納言と紫式部ではレベルが違いすぎるわけで、これは天才にだけ許された放言といえるであろう。実際、紫式部の目には世の中も男女の中もすべてわかりきっていた様子で、なにごとも確かな筆さばきで描き分けていく様は天才のみがなしえたことであろう。

わたしは本当に、“源氏物語”がこの地球上に生まれた最高の小説だと思う。

小林秀雄の「本居宣長」のなかに、つぎの引用を見つけた。”彼は「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)という。”(新潮文庫P.140)。

 わたしは最近〔8月)、Tony Hillermanの Navajoナバホ Indian Tribal Police Detective  を主人公にしたDetective Storyを読んでいて、第二作目のエドガー・アラン・ポー賞を受賞した「Dance Hall of the Dead」のなかにでてくる、なんとなく気になる若い女性”Susanne”をImageしながら、”花散里”に似ていると思った。ヒッピー風で若いけれども母性豊かで、信頼できるという感じである。学歴や貧富・経歴をとわず、男はどうしてもそういう女性を慕うのかもしれない。わたしにとっても、そういう女性が物語の展開の中に登場すると魅せられたように夢中になる。最後をうまく結んでくれるとよいが、Pendingのような終わりかただと、いつまでも気にかかる。
 
田辺聖子の”新源氏物語”とその続編”宇治”は源氏物語の魅力をうまく伝えた作品で、与謝野晶子の”女王”という場違いな表現が出てくる”源氏”よりは素直に感動が伝わる作品である。与謝野晶子の源氏もすばらしいが。わたしは文庫本、玉上琢弥「源氏物語」10巻〔角川文庫)から、わずかながら、原典の引用を行った。
 

村田茂太郎 2012919日、20日

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