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10/31/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(20)桂小五郎


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(20)桂小五郎
 
桂小五郎 をめぐって

 

 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三名を“維新の三傑”という、あるいは“維新の元勲”。江戸幕府が倒れ、明治維新が生まれるためには、もちろんこの三人の力だけで充分であったわけではない。たまたま、明治まで生き残ったからであって、それ以前に病没した高杉晋作や暗殺された坂本竜馬など、もし生きていれば、違った政府が出来上がっていたに違いない。また、三傑は、みな討幕派を指しているわけで、この過渡期に大きな役割を果たした勝海舟も忘れてはなるまい。

 

 倒幕に最大の力を発揮したのは西郷隆盛であり、明治維新以後の専制国家確立に最大の貢献をしたのは大久保利通であった。しかし、二人とも、それぞれ違った形で無理をしたため、西郷は西南戦争で討ち死に、大久保は西南戦争終了後、その冷徹な処理能力をきらわれて島田一郎に紀尾井坂で暗殺された。

 

 この薩摩出身のふたりにくらべて、木戸孝允の果たした役割は、それ程大きくないように見える。しかし、彼は過激な革命家ではなかったが、穏健な改革派として、いろいろな過激派にブレーキをかけながら、良識ある知識人として、日本がデモクラシーの方向に向かう上で、大切な基礎固めをした。明治維新後の“五箇条の御誓文”や版籍奉還、廃藩置県などは、みな木戸孝允が中心になって行ったものであった。

 

 しかし、私にとって何といっても魅力あるのは、木戸孝允と名前を替える前の頃、つまり桂小五郎と名乗っていた頃の動きである。

 

 幕末の京都といえば、坂本竜馬や桂小五郎がスグに浮かぶくらい、桂の名は私には心地よく響く。長州から江戸に出た桂小五郎は、斉藤弥九郎の練兵館道場で剣の修業を行い、たちまち塾頭になるまで上達した。とても思慮深く、慎重な桂は、その後、いろいろな学問も身に付け、長州藩の中でも若くして長者の風格をもつに至った。そして、あるとき、刑場で解剖を行っていた村田蔵六を認めた。

 

 桂小五郎のもった才能のひとつに、人物を認める能力があった。村田蔵六は長州出身の蘭学者で、福沢諭吉さえ一目おいたほどの秀才であった。しかし、医者として、蘭学者として日本有数の人物になった後も、ほとんど誰も彼の才能を買おうとするものはいなかった。そんなとき、桂は村田蔵六の驚くべき才能をみつけ、しかも彼が同じ長州出身であることを知って、蔵六を雇うのに成功した。桂は年上の蔵六に「先生」をつけて常に接し、蔵六は、はじめて本格的に自分を認めてくれた桂小五郎を終生の恩人と思い、この人のためには死んでも良いと思うくらいに、厚い友情を桂に捧げた。村田蔵六はのちに大村益次郎となのって、倒幕戦争では事実上の参謀として大活躍をし、倒幕を成功に導き、維新後、列国に負けない軍隊制度をつくる布石を敷いたが、薩摩の旧藩士から狙われ、暗殺された。桂がその死を悲しみ、惜しんだのはいうまでも無い。

 桂小五郎は「逃げの小五郎」といわれるくらいに上手に逃げまくった。坂本竜馬とちがい、慎重すぎるほど慎重であった桂は、様々な危機をみごとに逃げきった。新撰組に追われたとき、後に妻となった芸者の幾松が機転をきかして、うまく逃がしたこともあれば、自分で見事に逃げきった場合もあった。桂は剣は免許皆伝の腕前であったにもかかわらず、一人も殺さず、危険だと思えば、あらかじめ避ける方向をえらんだ。これも私が桂をエライと思い、好きな理由のひとつである。

 

 高杉晋作が統一した藩論を率いて、長州を指導していく人材として、誰もが期待したのが33歳の桂小五郎であった。第二次長州征伐を勝利に導く指導を行いながら、小五郎は京都薩摩屋敷で坂本竜馬が下ごしらえした薩長連合の歴史的提携を西郷隆盛との間でとりかわした。そのとき、長州のその後の動きに疑問を持っていた西郷に対して、桂は明快に、権力を朝廷に返すと宣言し、この一語で西郷も納得し、連合は成立し、そして事実上の倒幕が成ったのであった。

 

 桂小五郎は何をしても一流に達する秀才であったが、やはり政治が一番向いていた。そして、人と付き合うときは、いつも対等の人間として友達づきあいをし、権力をかさにきて、エラそうに威張り散らすことはなかった。

 

 岩倉具視や大久保利通と一緒に外国を見てまわったあと、日本の内政の充実を願い続け、西郷を警戒しながら、わずか44歳で病没した。思慮深く、穏健で、慎重なこの改革家を明治維新にもったことは、日本人にとってしあわせなことであった。

 

1994年6月3日 執筆

 

10/30/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(19)「曽我兄弟」


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(19)「曽我兄弟」(そがきょうだい)

「曽我兄弟」 をめぐって


 曽我兄弟の物語は日本では昔から有名であって、私は貸し本屋でその伝記を読んだし、東映時代劇の映画も見た。今度、あさひの図書で、「曽我兄弟物語」というのを見つけ、それこそ小学生の頃以来、約40年ぶりに読み返してみた。あの頃は、ただ仇討ちに向かっての興味だけで、あまり時代感覚はなかったようだ。今度読んで、とても面白いと思ったのは、鎌倉の頼朝をめぐる人物のやりとりやその年代であった。つまり、物語は、伊豆に流された源頼朝が、まだ源氏再興にたち上がる以前の流人時代からスタートし、頼朝が鎌倉幕府を開いて、やっと全国平定、これで安心ということで、大好きな狩猟をアチコチで大規模にやっていた1193年までを扱い、その間、名前しか知らなかった和田義盛や梶原景季あるいは畠山重忠といった頼朝付きの武将達の言動が描かれていて、義経と頼朝との血みどろの一方的な格闘を知っている私には、ことに興味深いものであった。

 

 この仇討ちは、赤穂浪士(あこうろうし)の事件と並んで、ほとんどの日本人が知っている程有名なものとなったが、その中身は、単純に賞賛されるようなものではない。曽我兄弟(五郎と十郎)の祖父にあたる伊東祐親(いとうすけちか)は随分あくどいやり方で、工藤某の土地をとりあげたり、いろいろ悪いことをした。伊東も工藤も親戚関係でいて、争いばかりしていたのである。そこで工藤は子分を使って、伊東やその子河津をやっつけようと狙い、河津を殺すのに成功した。五郎十郎は河津の息子で、父を殺した張本人の工藤をやっつける事を心に固く誓った。

 

 伊東は平氏方であったため、勢いをつけた頼朝に討たれてしまった。その時、頼朝をかつて伊東の襲撃から救った伊東のもう一人の息子河津某を、自分は平氏で、助けられても、また頼朝に敵対することになるだけだから殺してくれと頼んだのに、頼朝は、自分を助けてくれた人間の首を切ることなどとても出来ない、平氏に属してまた頼朝征伐に向かってきてもかまわないと言って許してやる。頼朝というひとは、義経に対したりするときは、残忍なほどにクールで事務的に処理するのに対し、自分が恩を被った相手に対しては、驚くほど寛大で、広量な器量を示す。

 

 こうして、伊東は平氏で滅んだのに対し、工藤祐経(くどう すけつね)は頼朝付きの有力な武将となっていく。工藤は確かに河津をやっつけたが、少なくとも、その河津の父伊東を狙うだけの理由はあったのである。さて、兄弟が12-13歳頃になったとき、頼朝はこれで平氏はみないなくなり、源氏の政権も安定したと、部下に誇らしげに述べたとき、工藤は「イヤ、まだ二人残っています。平氏であった伊東の孫、曽我兄弟です。」といったものだから、頼朝は怒って、「何、まだそんなやつが残っていたか、スグ浜辺で首をはねろ」ということになった。物語の中でも、最後と並んで、最も有名な場面で、あやうく首を切られるという寸前に、畠山重忠の頼朝への説得が働いて、危機一髪のところで、助かるのである。つまり、曽我兄弟は、頼朝などを狙っているわけではない、工藤が復讐を恐れているから、デタラメな報告をしたのだということを頼朝にわかってもらうわけである。

 

 その後の、兄弟の苦労は大変なもので、仇を討って死ぬということが理想と思われていた時代の青年の生き方が、今の感覚で言うと、信じられないほどむなしく、あわれに思われるが、それを正当として、ただそれだけのために二人は生きる事になる。

 

 仇の工藤祐経が頼朝に信頼され、大きなパワーをもっているため、接近することさえ大変である。工藤は静御前が頼朝の前で踊ったとき、その鼓をうつほどの文化人でもあった。いろいろと探し回っても、なかなかチャンスがない。とうとう、1193年頼朝が富士の裾野で大規模な狩をやったその最後の夜、二人は仇敵工藤を殺す事に成功した。そして、そのあとの戦いで兄は死に、弟はつかまった。頼朝の前に引き出された弟は、工藤祐経を追う事が彼らの一生であったその経過を説明し、もう仇を討ったから、殺してくれと頼む。話を聞いた頼朝は感心して、助けようとするが、結局、頼みを拒みきれず、クビを切る。

 

 このあと、この曽我兄弟の仇討ちとそのための苦労は、ひとつの生き方のモデルとみなされ、武家社会にもてはやされた。

 

 この曽我兄弟の仇討ちのニュースがまちがって伝わり、源頼朝が殺されたと聞いた頼朝の弟、義経の兄にあたる源範頼(みなもと のりより)は、頼朝の妻北条政子に、“姉上、ご心配なさるな、私がいます。”というような言葉を発した。それを聞いた頼朝は、さては範頼め、チャンスがあれば、天下をとろうと狙っているなと疑って、たいした理由も無いのに、範頼を殺してしまった。敵には時には寛大であった頼朝は、肉親には、冷たく、疑り深かった。曽我兄弟の武勇伝のために、とんでもない人間まで死ぬ事になった。

 

1994年6月13日 執筆

 

10/29/2012

Blue Jay (Bird) をめぐってー前の家で

Blue Jay (Bird) をめぐってー前の家で

 友人デボラーさんの話では、サンタフェあたりでは、色のきれいな鳥が庭を訪れるようです。
WildがのこっているNew Mexico、Santa Fe 周辺などでは、クマやスカンクなどもしょっちゅう現れたそうです。

 ともかく、ハイキングやScenic Drivingをしていても、Wild Life野生動物に出遭うのはうれしいものですが、自分の家のまわりで、野生動物が頑張って生きているのを見れるのは、素晴らしいと思います。

 アメリカは都会でもまだまだWild Lifeはみれるので、わたしは喜んでいます。

 以前に住んでいた家では、庭にOpposumが何度かあらわれたりしました。そして、鳥がいっぱい訪問してきて、特に最もPopularな雀とはわたしは仲のいい友達みたいになり、ある期間、毎日、お米やご飯、パンなどを裏庭にまいてやったので、私の姿を見ると、食事の時間だと、気がついたすずめが、(感心な事に、自分だけ食べようとしないで、)みんなに合図して、当時、裏庭の真ん中にあったオレンジの木のまわりにぱらぱらとおりてきました。ふつう、雀は人の気配がすると、すぐに逃げ出すので、今まで、Surviveしてきたはずで、わたしは雀たちがわたしを信用してくれているのを嬉しく思いました。この辺の話はすでにこのブログの”雀”で紹介しました。かわいいものです。砂場では砂浴びをしたり、親すずめが子雀に食べさせている場面をみたり、竹のすだれをまいたところに、巣をつくったので、家の中から観察できたりと、雀のような日常的な生物でも、観察するとたのしいものでした。

 そして、家とその周辺には、季節によって、Mockingbirdがおとずれたり、Blue Jayがやってきました。Mockingbirdは羽の色と鳴き方(まさにMocking!からかう!)で、すぐわかり、ほかに青い色と鋭いくちばしのBlue Jayが目立ちました。

 Blue Jay も Mockingbirdも、子育ての時期は子供の安全を確保するため、随分攻撃的になり、うちには雀やMouseを捕まえるのが上手な猫Eureka あるいは、そのまえは Sasha (19歳で亡くなる)がいたので、5月前後の季節には、庭に出ると鳥の攻撃に遭い、まさにヒッチコックの有名な映画”Birds"がリアルに感じられたほどでした。

 Blue Jay も Mockingbirdも、ほかのとりも警戒し、今の家の周りでも、わたしはMockingbirdが2羽でカラスを攻撃しているのを目撃しました。カラスは大きくて、たくましいので、小さな鳥の卵や雛は食べてしまうので、彼らが警戒するのもわかります。

 ここでごらんいただく写真は、前の家でのBlue Jayの猫への監視振りを示すもので、電線にとまってみつめるだけでなく、猫が家の中に入ってしまっているのに、キチンの窓際に来て、テーブルにいる猫を執拗に監視していたのにはおどろきました。鳥は良い目をしているので有名ですが、ガラス越しに猫の動きをじっと監視しているのには感心しました。

村田茂太郎 2012年10月29日





























小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(18)義経と頼朝


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(18)義経と頼朝(よしつね と よりとも)
 
「義経と頼朝」をめぐって


 先に「義経・弁慶物語」を読み、今回、「源氏の旗風」(義経物語)北川忠彦 平凡社名作文庫を読んだ。常盤御前(ときわごぜん)の話、牛若丸と弁慶、金売り吉次、熊坂長範、伊勢三郎との出会い、藤原秀衡(ふじわらひでひら)、そして頼朝との会見。ひよどり越え、一の谷、屋島、壇之浦から、頼朝による義経追討、吉野、勧進帳、佐藤継信・忠信の母親との会見、奥州で藤原泰衡のため、高館で攻められて自殺するまでを上手にまとめて、全体の動きがわかるように組み立てられている。平家物語と義経記からもとめあげたもので、特に頼朝との関係がどうしておかしくなっていったのかが何となくわかるようになっている。平家にしても義経記にしても、結果がわかったうえで書かれたものだから、それらしき理由をそれとなく配置しているといえなくもないが、義経と頼朝との関係はまことに悲劇的で、義経が悲劇に向かって突っ走っているのがよくわかり、読んでいてアドバイスをしてやりたいと思うほどである。

 

 頼朝側からの参加者である梶原景時をめぐる義経とのやりとりは、どう見ても、景時の方が言っていることは正しい。有名な鵯越(ひよどりごえ)の時の理屈など目茶目茶である。有名な「鹿も四足、馬も四足・・・」などというのは、唱歌にまで取り入れられたほどであるが、ここで大事なのは、義経の“気合い”であり、これがまさに天才的で、義経が登場すると、どの合戦でも、驚くほど簡単に終わってしまうのだ。

 

 義経の景時に対する対応は、景時に恨みを残すようなものであった。従って、もちろん影時だけが理由とは言えないが、頼朝が義経追討の決意をするに至るひとつの手がかりとはなった。武家政権の確立を目指し、京都の公家・朝廷とは距離をおこうとしていた頼朝は、まさに政治的天才であって、すべての権力構造を読み取っていた。そして、武家政権確立のための礎石を着々と踏み固めていっているのに対し、戦争の天才義経は、政治には疎く、京都の後白河法皇という大陰謀家の計略にあっさりとのみ込まれてしまったのである。

 

 九郎判官として有名になった検非違使(けびいし)の役職も、兄頼朝の許可もなく、勝手に頂戴してしまうといううかつさがあった。そして結局、腰越状での兄への説明・弁明にもかかわらず、直接兄と話し合うチャンスもなく、罪人として全国に指名手配されるに至る。母親が異なるとはいえ、父義朝の子供として、そしてどちらも常人よりははるかにすぐれた天才をもっていたので、もし、協力して武家政権確立に向かったいたら、歴史もまた違ったものとなっていたであろう。しかし、義経には政治的判断力が欠けていた。戦争は天才と言えるほどうまかった。これも、結局ネガチブに作用した。頼朝が心配したのだ。すべて頼朝の指導に従っていれば、それ程のことはなかったが、勝手に貴族・朝廷から役職や官位をもらうようでは、コントロールが内側から崩れていくわけである。景時の一方的な説明は、頼朝の考えを確認するものとなったに違いない。

 

 かくして、義朝のときに、源氏の一族がほとんど処刑されていったように、頼朝の意図に反する連中は、肉親であれ、誰であれ、殺されねばならなかった。そして、それは源氏三代で絶滅する結果を招いた。

 

 頼朝と義経の関係は、本当にたまらないほど悲劇的である。従って、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅のひとつの焦点を“夏草や つわものどもが 夢の跡”という絶唱でまとめたわけであり、義経のまわりにいたために死んでいったサムライ達にかなしみの涙をそそいだわけであった。

 

 “あさひ”の図書の中に、学研実用特選シリーズで、「見ながら読む無常の世界 平家物語」がある。絵巻物や情景写真をふんだんに取り入れた素晴らしい本である。「平家」に関係のある場所や人物の写真・絵がいっぱいあって、その中に、藤原隆信筆という源頼朝像というのがある。鋭い目、強い意志を備えたたくましい指導者の姿であり、武士の棟梁としての貫禄充分といえる。同じ本の中に、ヘンな感じの源義経像がある。二人の違いがあきらかである。

 

 「平家物語」には静御前(しずか ごぜん)のことについては記述が無いが、義経記からもまとめあげたこの「源氏の旗風」には静も登場する。頼朝の前で「静や静 静のおだまき繰り返し むかしを今になすよしもがな」と詠い、「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と詠い、舞った静御前に対し、頼朝はカンカンに怒ったが、頼朝の妻北条政子は、女の愛を全面的に出した大胆さに女性として、かえって感動し、頼朝の怒りをなだめた。

 

 義経はある意味では、いろいろと対応を間違い、自分で蒔いた種を自分で刈らねばならなかったわけで、悲劇的とはいえ、仕方が無い面もあるが、義経に忠実な部下たちの義経に対する献身的な生き方は全く感動的であり、武蔵坊弁慶に限らず、佐藤兄弟や伊勢三郎、増尾十郎兼房、和泉三郎忠衡などが義経のために戦い、義経のために死んでいく姿が、私にとっては最も感動的であった。

 

1994年6月2日 執筆

10/28/2012

SFV 盆栽クラブ Bonsai Club 2012年10月28日 例会報告

SFV 盆栽クラブ Bonsai Club 2012年10月28日 例会報告

 本日、10月28日、恒例の盆栽クラブ第四週例会がありました。
集まったのは十数名で、今日は自分の盆栽を持ち込んで、先生方からご指導をえる日でした。
わたしはオリーブの木を2本もってきて、見ていただき、指導していただきました。

 立体的な枝振りを示している木は初心者でも扱いやすいのですが、平面的な木は素人には大変です。

 ワイアーをかけて、枝をねじるという技術を今日は教わりました。
ワイアーをかけると枝や幹に無理をしないで、望む方向にまげることが可能になるのですが、その枝を希望する向きに替えるために、すこし、枝全体をひねる形で向きをかえるということが実行されました。

 ほかに、樫の木の短く小さいものを持ってきている人がいて、その小さなOakを大きな岩を利用して、そこに植えて、岩山の上に一本木が生えているような、風情のある盆栽つくりとしたのを見る機会がありました。

 盆栽の集まりでは、自分の盆栽を扱うのも大事ですが、人の盆栽を見るのも勉強になるので、大事です。

 12時ごろになると、盆栽を片付けて、テーブルに付き、ビールやPurified Waterを飲みながら、簡単な話合いをもちますが、今日は、いつものようなドライなおつまみだけでなく、おいしいご飯つきの料理をお皿に乗せたのをいただきました。手作りの料理のおいしさを味わいながら、時間をかけて用意してくださった方に一同感謝の礼をのべました。

 最初の1年は、わたしはいつも早く出かけて、いろいろお手伝いをしたものですが、今はいろいろな理由で、参加するのがおそくなって、みなさんのヘルプにはなっていません。ただ、会計の仕事だけは、ちゃんとやるように心がけています。

 お世話になったひとりの盆栽の先生に、前回わたしの著書を差し上げたのですが、今日、約三分の一ほど読んだという報告をされ、Positiveな感想をいわれたので、嬉しく思いました。わたしは日本では、勉強している子供たちに大いに参考になる筈だと思っていたのですが、なにぶんにも、宣伝も何もしていないので、知らない人も多く、日本では、まだ百部足らずが売れただけだそうです。わたしは2年経って、売れ残った本は学校に寄付するつもりでいるので、売れ残りを心配しているわけではありませんが、読む人が少ないということで、少し、残念な気もします。このブログでも、本から洩れた教育的なエッセイをたくさん紹介していて、それはあるものは読んでくださっているのはわかりますが、やはり、難しすぎるのかしらと思ってしまいます。原文を書いた頃は、読者は中学1年生や3年生、高校1年生が対象のつもりで書いていたはずですが、今はあまりまじめに勉強する人はいなくなっているのかしらと思ったりするほどです。

 盆栽クラブの日は、月一回で、普段は日曜日の怠惰な習慣になれてしまって、出かけるのに、脚が重く感じるわけですが、盆栽クラブのメンバーの皆さんと顔をあわせて、いろいろな話に興じると、やはり参加してよかったと思います。最近は、いつもそんな感じで、積極的な参加ではないのですが、こうして、2010年2月に参加して以来、2年半以上、一度も休まずにすべての行事に参加してきました。これは、わたしがブログを一日も休まずに何かInputし、公開しているのと同じだと思います。一度途切れると、惰性ですぐに緊張が敗れて、結局、途中でやめてしまうことになるのを恐れる気持ちが在るからだと思います。

 ともかく、盆栽クラブは私にとっては大事な交友の場所であり、同時に盆栽技術を学べる大事な場所です。いつまで続けられるかわかりませんが、みなさんと楽しく話し合うだけでも非常に健康的なので、これからも、がんばって続けねばと思っています。

村田茂太郎 2012年10月28日