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2/27/2012

“瓶づめの小鬼”と私とスチーブンソン

 これも最後まで、拙著に入れたいと思っていたものですが、最後に省きました。旧い文章です。
中学1年生の国語の時間に私が読み上げて説明したように思います。
今の国語の指導計画どおりにやるという授業では、とても無理だと思い、いっそう感慨深いものがあります。

わたしは夏の集中授業のあいだも、5日間、毎日、国語の授業は半分だけで、あとの1時間は百人一首ばかりしていた記憶もあります。わたしのクラスの子供たちは覚えてくれているでしょう。わたしは、何でも没頭するほど、そしてどっぷりとつかるほどにうちこまないとものにならにという信念をもっています。それは、拙著のなかの”学習効果を高めるために”という文章で、プランク効果という表現で説明したことにも通じます。さらっと、かすめるだけでは、なにも身につかず、ものにならないというのが、わたしの信念であり、それは私の教育における自信ともなっています。


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 名作“宝島”(Treasure Island)で世界的に名を知られたロバート・ルイ・スチーブンソンの短編に“Bottle Imp”(瓶詰めの小鬼)という傑作がある。私が中学2年生のとき、中学生向け英語学習雑誌を一度買って勉強した事があった。中学生のとき、英語は私の最も得意とする科目であったが、その私にも、この雑誌をその価値相当に読みこなしていく力が無く、無駄な出費になるのを恐れて、一度きりで、それ以上買わなかった。そのため、その中に連載(多分2回に分けて)されていたこのスチーブンソンの“びんづめの小鬼”の結末をしらないままに、その後の人生を過ごす事になった。途中で読むのをやめてしまっても、どうでもいいような作品は世の中に沢山ある。ところが、この“小鬼”は、わたしにとってはソウでなかった。私はいつかこの魅力ある短編小説を英文で読まねばならないと心に決めて、その後の人生を送ってきた。といっても、いつも頭の中に意識しつづけていたわけではない。中学2年のときの断片の読後感が、それほど印象的で、スチーブンソンがそのあとのストーリーをどうしめくくったかという好奇心が心のどこかに残り続けていただけである。その最初の出会いから約20年。
 私がロサンジェルスに住むようになり、アメリカやイギリスで盛んな幽霊物語・怪奇小説・恐怖小説といった小説類に文学的(想像力の問題)・心理学的興味を覚えて、古本や新本を集め始めたある日、ある“怪奇小説傑作集”の中に、R.L.Stevenson “Bottle Imp”という名前を見つけたとき、私はたちまち、中学生の頃から結末を未だに知らないで居たあの作品に出会ったという興奮に包まれ、とびつくようにして買い求め、家に帰り着くなり、即座に読了した。
 そして、私が気になったまま中断していたストーリーを作者はみごとにまとめあげているのを確認した。私は、その興味をひきつける話しの展開やまとまりの良さ、発想の奇抜さ等から、今もこれを文学作品の中で、最も完璧な作品の一つに数えている。(他に完璧な作品として、私は、たとえば、ドストエフスキーの“永遠の良人”、ジェーン・オースチンの“自負と偏見”(Pride & Prejudice,トルストイの“アンナ・カレーニナ”などを思い浮かべる)。
 思えば、カリフォルニアこそ、スチーブンソンにとって、一番大切な場所であったのだ。今では、私は彼の4巻の書簡集を持っている。“R.L. Stevenson In California” によると、彼はここで、十歳年上の人妻ファニー・オズボーンと結婚する事になり、まだ未開の地カリフォルニアと子供達の影響の中で、スチーブンソンは”宝島“や幾多の名作のアイデアを育てていったのである。日本の偉大な作家達、夏目漱石や中島敦等は、スチーブンソンのすぐれた英文から多くのものを学んだ。私は、自分が中学生のときに、英語の勉強のために買った雑誌が、私の心の中にスチーブンソンへの興味を植え付け、二十年も経ってから、作家としてのスチーブンソンの誕生の地となったカリフォルニアで結末を知ることが出来たという事、この私自身の興味の持続ということと、何ものかとの出会いという事に、心から興味を覚える。


―――”びんづめの小鬼“ 簡単な要約―――-
 ハワイから出てきた男は、サンフランシスコの豪華な邸宅に住む男から“びん”を買った。この“ビン”の中に居る“小鬼”は持ち主のどんな願い事でもかなえてくれるが、唯一つ大きな問題がある。その持ち主は、それを、自分が死ぬまでに売り払わないと、永遠に地獄の猛火の中で苦しむというのである。しかも、その売値は、自分が買った値段よりも安くないといけない。同じか高い値段で売っても、ビンはひとりでに家に戻ってくる。ハワイからの男は、そのビンを手にいれ、その話しがすべて事実である事を自分で確かめる、彼はハワイに帰り、たちまち大金持ちになり、何不自由ない生活を始め、厄介ものになったビンを無事に手放す事に成功した。そうして、ある日、偶然、美しい娘を見かけて、魅せられた彼は、その親に会い、結婚の意志を伝える。有頂天になっていたのもつかの間、フト鏡で自分の裸体を見た彼は、世にも恐ろしい病に罹っているのを発見し、愕然とする。愛する娘との恋を全うするためには、あの忌まわしいビンを手に入れ、“小鬼”の力で、元の健康な身体にしてもらうほかないと考えた男は、自分が売った男を捜し始める。そのうちに、転々としたビンの威力で富裕な家々が多い中に、今にも死にそうな苦悩に打ちひしがれた男が立派な家に住んでいるのを見つけたとき、彼はスグに、ビンはここにあるに違いないと悟る。そして、ビンを見つけて喜んだ彼は、その男の買値を聞いて絶望に陥る。最初に彼が買った値段は五十ドルであったが、その男の買値は二セントだと知る。彼がその男から一セントで買えば、もう、次の買いては誰もいず、彼は地獄で永遠に苦しむ事になる。どうすればいいのか。・・・
 ここまでが、私の中学生のときに読んだところである。今朝、バスの中で、もう一度、この短編を読んでみて、今まで気がつかなかったこと、すなわち、英文は語り物の散文詩を思わせる独特の味をもった名文であり、簡潔で無駄がなく構成されていて、その怪奇小説集を編集したRod Serlingも序文で“かって書かれたこの種の小説の中で、ほとんど完璧といえる作品の一つである。”と、私と同様の意見を吐いている事などを知った。
 ロバート・ルイ・スチーブンソンは、そのすぐれた想像力と表現力で、世界的にも偉大な作品を数多く残した。“宝島”、“ジキル博士とハイド氏”だけでなく、この“びんづめの小鬼”や他の短編など、いまだに新鮮さを失わない。
(完                     記 1983年) 
村田茂太郎 2012年2月27日

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