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8/20/2018

寺子屋的教育志向の中から - その5 滝沢比佐子”(比佐子その生と死)

寺子屋的教育志向の中から - その5 滝沢比佐子”(比佐子その生と死)


生きることと考えること             “滝沢比佐子”(比佐子その生と死)

 ロス・マクドナルドが亡くなり、小林秀雄が亡くなったとき、私は自分が臆病であったために、敬愛した人たちへの何らかの積極的なアプローチもしないで、邂逅や意思表示の機会を永遠に失くしてしまったことを大いに反省した。そのため、約3年前、日本の代表的な宗教哲学者の一人であった滝沢克己氏訃報の知らせをオフイスの朝日新聞死亡記事に見つけたとき、私はあとで考えれば自分でも大胆だと思った行為を行った。つまり、弔問の手紙を書いたのである。

 いくら私が思い切っても、全然知らない人に対して弔問のカードを送る事まではできない。実は、滝沢克己氏のお嬢さんが、京都大学西洋哲学史科に属し、二年ほど私の先輩であった。藤沢令夫教授のプラトン演習で知り合ったが、同じ教授のアリストテレス演習では見かけなかったので、かえって選択の意思がうかがえて、私の心に残った。

 私はプラトンを途中で放棄したため、特に、彼女(滝沢比佐子)と親しく話す事もなかったが、彼女のほうでは、私を憶えていて、卒業論文提出の頃に、京大生協部地下で出会ったとき、声をかけてきてくれた。私はほとんど話した事がなかったにもかかわらず、彼女だと話が合いそうだと思っていたため、私は論文の題名“哲学の成立次元”を彼女に告げ、ほんの少し内容を説明しかけて、充分に展開しないまま別れてしまった。その時、彼女はヘラクレイトスの論文をまとめたら、故郷に帰るつもりだとかと言っていたのが、私が彼女と話した最後であった。

 滝沢克己氏逝去の知らせに接して、私は彼女の事を思い、“哲学”を生かして、郷里で頑張っているのだろうかと気になり、弔問をかねて、彼女へカードを送ったのであった。私は、もちろん、返事など期待していなかった。特に親しくしていたわけでもなく、ただ、わずかの語らいを通して、私の心に残ったというだけで、彼女が覚えているかどうかも覚束なかった。私は、自分がかって京都で一度講演をきいたことのある滝沢克己氏、あの東大闘争の頃に、山本義隆氏と往復書簡をかわして、真摯に現実の問題を受け止めていた氏に対して、敬意を表明したかっただけであり、それだけで充分であった。そうして、私が大胆なカードを送ってから、何事も無く、二年半が過ぎた。

 1986年12月26日、クリスマスの翌日であった。女房と一緒に犬をパークに連れて行こうとしていた時、郵便が届いた。中に見慣れない名前の封筒があった。差出人はTAKIZAWA SABUROUとローマ字で書かれていたので、最初、私にはピンと来なかった。パークへ着いて、降りる頃、私は中身を読んだ。驚くべき事が書かれていて、私は茫然とした。

 私が2年半前にカードを出した筈の彼女―滝沢比佐子は8年前に癌で亡くなったという。私は、亡くなった彼女の事を知らないで、彼女の父君が亡くなられた、その弔問の手紙を、彼女つまり故人に出していたのである。受け取られた方も、きっと、驚かれたに違いない。

 手紙によると、彼女は、驚いた事に、このロサンジェルスに来ていたのであった。UCLAの言語学科の大学院に入ったばかりで、癌で倒れ、UCLA病院で手術を受け、最終的には故郷に帰り、UCLAのドクターが最初に宣告した通り、発見、手術後、半年で、自宅で逝去したということであった。33歳の若さであった。

 彼女の死後、彼女の遺した文章を父親克己氏が編纂して2冊の本にして出版したという話しを聞き、私は早速、友人の一人に依頼した。滝沢佐武郎氏の手紙によると、出版社の三一書房にも、いまは無いとのことであったので、手に入るかどうか疑わしかった。結局、四月になって、私の手元に、“比佐子 生きることと考えること”と題する最後の作品と、私の依頼に応えるために、他の所持者から借りて、ロサンジェルスに来るところから、死に至る最後の頁までを、滝沢家には無断でコピーをしてくれた、その二百頁ほどのコピーが届いた。これは、“比佐子 その生と死”の下巻の途中からであった。

 私は早速、彼女がロサンジェルスについてから両親に宛てて出した手紙が載っている本の方を読み始めた。彼女がVan NuysSepulveda ブルバードのアパートにいた事を知って、私はスグにクルマで出かけた。そして、距離的に8マイルほど、クルマで10分足らずのところであったことがわかった。私はしみじみとした感慨に襲われた。きっと、縁がなかったということに違いない。彼女が病気で倒れる前にいたというアパートのほうへもまわってみた。私が四年間住んでいたアパートのスグ裏、歩いて20秒というところであった。私がアパートを出たのは1975年、彼女が近くのアパートに入ったのは1978年と隔たりがあるが、私はこのアパートの近くにあるサンタモニカ大通りに面したフランス人経営の古本屋には、しばしば訪れたものであった。今も時々訪れる。そんなにチャンスのありそうな情況であったのに、とうとうお互いにロサンジェルスでの存在を知り合う事も無く過ぎてしまった。私には、彼女の遺した書物(父親の編による)をとおして、彼女のロサンジェルスでの滞在の日々とその生活、思想を追跡する事が許されているにすぎない。

 読み始めるや、私は彼女となら、話が合いそうだと感じた直観が間違っていなかった事を知った。何と言う魅力のある人柄である事か。明るく、率直で、気取りが無い。そして、彼女が書き残していった文章は何とすばらしいことだろう。私は彼女の遺したものを読む過程で、才能豊かで前途洋々としていた筈の彼女の早過ぎた死を心から悼んだ。私は文章のはしばしに、素晴らしい彼女の個性を感じ、まるで彼女と直接話をかわしているような気持ちを抱き続けた。両親への手紙やきょうだい(兄、姉など)への手紙は、本当にほのぼのとして、特にすばらしかった。

 早過ぎた死。しかし、それは、それなりに恵まれていた。親やきょうだいに暖かく見守られ、出来る限りのことはされた上での死であった。しかし、やはり、つらい。ほとんど、何の関係も無かった私でさえ、いろいろ感動し、つらく思ったほどである。死を宣告された人間の余命を知りながら、最後まで間近で心のこもった世話をし続けた肉親の人々の苦悩は想像できないほどである。私が手紙をいただいた末兄にあたる佐武郎氏は、特に、医師として厳粛な事実を知悉して、妹君の最後まで面倒をみられたわけで、思いはまた格別なものであったに違いない。

 翻訳の仕事や音楽関係の仕事をし、一方では、ベビーシッター等をしながら、ロサンジェルスで勉強を続けていた彼女は、UCLAの講義でとったインディアン関係の領域に心をひかれ、インデイアンの言語と文化の研究をライフ・ワークとセットし、大学院に入学を認められ、心をはずませていた矢先、急病で倒れ、解剖結果、ドクターから直接、ガン細胞が見つかった事、こういうケースでは平均的に余命は半年から一年だと告げられた。

 “そして、事実を告げられた自分の反応は、自分でも不思議なほど冷静だった。ショックはいささかもなかった。一瞬、あっけにとられたことは確かである。” “病気と余命については、私は少しも恐怖を感じないし、悲観も楽観もしていない。自分をかわいそうだとも、まったく思わない。十数年間Pending(懸案)にしてきた仕事に、ようやくとりかかるのだ、と意気込んでいたことを思うと、それをやりとげられないのが、残念だという気はもちろんする。しかし、やりとげられないと決まったわけでもない。・・・私は、ともかく、いよいよやろうと意気込んでいたことに、予定通りとりかかるだけである。誰だって、自分の生命の始と終りは知りはしないのだ。・・・人は誰でも与えられた生命を精いっぱい生きることができるだけなのだ。・・・”

 この精神の逞しさ、自分のライフ・ワークへの意欲は、全く驚嘆するほどで、彼女は、ほとんど死にいたる寸前まで、希望を捨てず、UCLAに戻って勉強するつもりでいた。それが、逆に、まわりの肉親を一層悲惨な思いにさせたに違いない。

 以前、“癌と人生”という文章を書き、ドクター ローレンス・ル・シャンのやり方を紹介したが、このUCLAの医者による本人への事実の通告は、アメリカ的であるが、やはり、正しいものであると思う。本人の、生活への反省や心の準備が有効になされうるわけであり、どうしようもない状態になって、いろいろと心を残しながら死ぬよりは、はるかに良心的であり、本人にとっても納得のいくものである筈である。

 少なくと、滝沢比佐子にとってはソウであった。“事実、まったく不思議としか言いようがないが、ドクター ファインの口から事実を聞かされた時から、これまで、このように澄んだ精神状態になったことは、もの心ついて以来はじめてだという実感がある。・・・今も、やはり、できるだけこちらにいて、やろうとしていたあの問題に手をつけたいという気は変わらない。しかし、そこには、もう気負いのようなものはない。ともかく与えられた限りの生命を無意味に流してはいけないのだ、という実感があるばかりだ。誰に対してもほんとにすなおに心を開くことができる。”

 まだ健康で病気など知らなかった彼女が、ある時、不思議な夢を見た。それは鮮明で印象的であったため、彼女はノートに書きとめたほどであった。母親が癌になった筈なのに、いつのまにか自分が癌になっており、男が“もうすぐだ。”と言って焼場の火を指差したという夢である。“自分の未来だとか何かが、こういうぐあいに夢の形で、はっきりつげ知らされることがあるという事実を、今日の科学者達はどう説明するだろうか?”癌の事実と余命の宣告をきいたあとの感想である。

 これは、私の特に関心のあるパラサイコロジー(心霊現象の科学)の領域であり、一般の科学者がどう反応するかは知らないが、そういうケースは沢山報告されているのは事実であり、アラン・ヴォーンといった人たちが真面目に取り組んでいるのも事実である。私は、この予知現象は、哲学的にも重要なテーマであると考えるが、ともかく、まだ現象を集める暗中模索の状態であるといえる。

 まだ、病気を知らない状態の時に書いたと思われる断章の中に、次のような言葉を見つけ、私はひとごとならず感銘を受けた。“一寸先はいつも闇だ、とは、もう十数年来、私にとって事実であった。大学で文学部をえらんだ時に、すでに恐らく一生のたうちまわるだけで終わるであろうことは予想できていたのである。それが現実のことになったからといって、何を今さらうろたえることがあろう、と、一寸先は闇を実感するたびに、私は冷笑してきた。”

 私も静岡大学工学部を三年目の秋に退学する決意をした時、将来、乞食になろうとどうなろうと、私の人生は私が択ぶと親に宣告して、再出発をしたのであった。私は自分の希望通り、京都大学文学部に入学したが、はじめの予定と違って、フランス文学かギリシャ文学かという選択が、ギリシャ哲学へ、そして哲学そのものへと向かったのであった。稼ぎの悪い今の私を女房が批判する時、私はいつも、金儲けに興味があれば、何もはじめから文学部などえらびなおしはしない、私は自分の興味ある事を追求するしかないのだと弁解する。小林秀雄流にいうと、人はそれぞれ自分の宿命をもっており、それに対し、虚心に耳を傾けるしかないのだということになる。

 滝沢比佐子の人生もまた困難なものであったことは、彼女のこの言葉から推察する事が出来る。このあと、彼女は、インデイアンに関する興味を目ざまされ、ライフ・ワークをセットし、経済的には苦労しながらも、なんとか一人で逞しく生き抜こうと決意したのであった。癌へいたる必然性は、従って、きっと、それまでの苦難に満ちた生活の中にあったに違いない。残念ながら、今、私の手元にあるのは、ロサンジェルス滞在とそれ以降の文章で、大学時代からロサンジェルスへの大切な時期が欠如しているため、正確なことわからない。

 “私が全力をあげて関わる仕事、研究が、この現代の世に今生きている私を、そのままで明るくし、生き生きさせるものでなければならない。・・・アメリカ・インデイアンの文化を研究することは、自意識と所有欲によってゆがんで見えるようになった世界の、ほんとうの姿を浮かび上がらせる作業のひとつだと言えるだろう。それは、人間が真の豊かさをとりもどす作業にもなるだろう。”このような意識をもって、人生の再出発をはじめた彼女が死病で倒れることになったのは悲劇としか言いようがない。最後まで、明晰さと明るさを失わなかっただけに、一層悲惨である。

 遺された彼女の文章や詩作品をまとめる仕事は父親に委ねられた。一つ一つの作品や書簡を丹念に読み返し、編纂する仕事は充実したものであると同時に、つらい対面であったに違いない。しかし、みごとな編集のおかげで、私達は、まだ若くして去った彼女の最大の遺産―――生き生きとして知的で個性ある、すばらしい作品群に接する事が出来、癌の宣告にもへこたれることなく、明るく強く逞しく、そして、やさしく生き続けた彼女の全生命をわがものとすることが出来る。

たとえば、次のような詩を読むとき、私は心から感動に襲われ、彼女を失くしてしまったという、とりかえしのつかない損失を心から悔やむ。

インデイアン地区風景
バッファロー

兄弟
いつかおれは 草になって
おまえをたのしませてやるからな

大地

じいさんのはげ頭に
雲の軍団が影を落として
走る 走る

ばあさんの白髪頭に
雲の大将が影を落として
走る 走る

雨が来るかねえ
鼻づらの白い馬が
長い顔をあげてつぶやいたが
仲間はだまって長いしっぽを ふっとゆすっただけだった

 “比佐子 生きることと考えること”には、幾葉かの写真が収められている。癌手術のあと、友人のジョエルとベッドでうつっている写真は、私が大学時代知っていた彼女の面影そのままである。そして、1955年、両親ときょうだい五人の全員で撮った写真がある。みな立派で、しっかりとした顔をしており、この家庭が、彼女の手紙からも察せられるように、思いやりにとんだ、すばらしいものであることを告げている。

 私は、手紙をいただいた佐武郎氏の、まだ高校時代の姿を眺め、妹の死を見つめねばならなかった苦悩を思いやってみる。苦悩は苦悩だが、最悪の事態の中では、最良の環境であったわけで、その点では、彼女は恵まれていたし、家族一同、彼女の死をめぐって大事なものを学んだのは間違いないことである。 比較的、安定していると思われる家族の中で、ただ一人、自分の道を探して苦悩しつづけ、しかも、常に明るさを失わなかった彼女の存在は、肉親達の間でも、ひときわ、かわいく、気になる存在であったに違いない。存在そのものが、人生や現実の真相や断層を赤裸々に露呈するものであったに違いない。あまりにも早すぎた死であったが、彼女と接した人々の心の中では、そして書物によって知る私達の心の中でも、彼女の魂は永遠に生き続けるに違いない。 私の大胆な手紙が思わぬ事態をひきおこした。滝沢克己氏の逝去に際して、もし、私がカードを書いていなければ、私は彼女の死をしることもなく、この感動的な文章に接する事もなかったであろう。遅すぎたとはいえ、私は、自分が思い立って行った行為は、やはり良かったのだと思う。妹の死を最後までみとった医師である兄そのひとから、私は彼女に関する報告をいただき、おかげで、彼女の文章を読んでいても、一層、身近に感じることが出来る。

 今、私の手元にあるのは142頁から351頁までのコピー(下巻のもの)であって、その前の部分は残念ながら無い。そのうち必ず残りを手に入れるつもりである。(コピーではなく、本を。私のために、友人が編著者に無断でコピーした事を、佐武郎氏に謝っておかねばならない。)彼女の生き方と死を知った今、私もまた何か大切なことを彼女から学んだようである。経済的にはほとんど余裕のない貧しい生活だが、私もまた、しっかりと目標をもって、逞しく生きつづけねばと心から思う。そして、死病 癌にさえ屈しなかった彼女の精神の逞しさは、私を励ましてくれる。

記 1987年5月7日 村田茂太郎






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