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2/28/2012

“カロリーナ・マリア・デ・イエスの日記”

古本屋で見つけた本の話で、ブラジルの貧しい女性が、たった2年の教育だけで、日記を書いて、それが偶然世に認められたという話で、いろいろ考えさせられました。日本語で2年という場合は、ほとんど、つかいものにならないのではないか(大学での2年ではなく、小学校の2年間)と思います。もちろん、ひらがな・カタカナだけでということも考えられますが、ある意味ではアルファベットというのは、ABCさへマスターして、あと辞書さえあればなんとかなるのかしらと思ったりします。文法は別として。文法は庶民が普通に話すのをきいていれば、自然と正しい使い方は身につくわけですから、それは日本語でもポルトガル語・英語でも同じでしょう。こういう、言語的な意味だけでなく、貧しさを克服する気力その他、内容はすばらしいと思って生徒諸君に紹介しました。
1985年に書いた文章です。

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 古本を探す喜びが、単に値段の安さにあるのでないことは、古本の好きな人は誰でも知っている。特に、アメリカの出版事情の下では、余程のベスト・セラーか評価の定まった古典的な名作以外は、いったん新刊の本棚から消えてしまえば、もう二度と出会えない可能性が多く、私などは、そのため、すぐ読むつもりはなくても、購入しておかねばという気になる。以前、トーマス・マンの書簡集の英訳がハード・カバーで20ドルくらいで出版されたとき、私はどうしょうかとためらっていたため、買い損ね、結局、二度と見つけることが出来ない。そういう苦い経験もあるので、トーマス・マンの日記の英訳が25ドルで出版されたとき、私は今度はためらいもせずに購入した。こうして、私は、日記・書簡・自伝・伝記・研究書といったものを買い集めているが、古本屋で時には50セント程度で、素晴らしい本と出会うことがある。“Child of the dark”The Diary of Carolina Maria de Jesus)という本もその一つだ。ブラジルのスラム街で生活してきた黒人女性の日記であり、ポルトガル語からの英訳のペーパー・バック本は1962年に出版されたらしい。
 彼女は小学校へ2年通っただけであり、3人の父なし子をかかえて、飢えとたたかう生活を送り、それを溝から拾ったスクラップ・ペーパーなどに書き付けていた。それが、ある日、その貧民窟に取材に来た新聞記者の目に留まり、紆余曲折を経て、はじめて新聞に発表されて、一大センセーションを巻き起こした。本になって、一躍、ベスト・セラーになり、結局、スラムを脱出したいと願っていた彼女は、みずからのペンの力で、それを可能にしたのであった。

 わずか2年の教育にもかかわらず、カロリーナの文字に対する情熱は、彼女の貧困との戦いを赤裸々に記録させるだけの力強さを生み出し、ブラジルの貧困との戦いの代表者とみなされるに至り、ブラジルの政治政策をも動かす力をもった。サンパウロ法科大学はフランスの偉大な哲学者ジャン・ポール・サルトルに用意していた名誉会員の称号を、自由のための戦いにおいてサルトルより、はるかに価値があるとみなし、彼女に贈ったという。この日記の一部は、アメリカの、ある、文体研究のテキストにも採用されたほどであり、古本屋の書庫に眠っているには惜しい内容を秘めている。日本語の翻訳が出版されているかどうかは知らないが、わずかな小学校教育だけで生み出されたこの日記は、教育的にも興味深いものを示しているといえる。

 この、本になった日記は、1955715日の記述から始まる。三番目の娘の誕生日なのだが、彼女に買ってやりたい靴も買えず、ガ-ベジの中に見つけた靴を洗って縫いたした、という文章が冒頭にあり、この日記の内容をはっきり性格づけている。

 教育のないこの黒人女性は、しかし、逆境にくじけない不屈の魂と健全な常識と健康なモラルと優れた批判的精神を身につけていた。サンパウロの最低の貧民靴Favela (ファヴェラ)で、仕方なく、みじめな生活を送りながら、福祉の力も借りず、紙を集めて金に換えるという細々とした生活を続けていた。ファヴェラの貧困の生活が、いかに人間を腐敗させていくか、冷静に感じ取っていたカロリーナは、いつか、このファヴェラの生活を抜け出すという目標をもって、飢え死にすれすれの生活を送っていた。彼女には、たよりになる良人もなく、三人の子供を抱えて、飢えと病気と暴力に囲まれた生活を続けねばならなかった。無知で、無学で怒りっぽい周りの連中が、彼女や子供をいじめ、苦しめるとき、カロリーナは子供をかばい、闘いながら、彼女自身の怒りの捌け口を、書く作業にかえて、気をまぎらわせるのであった。

 “彼らが私を逆上させるとき、私はものを書く。私は自分の衝動をどのようにして抑えるかを知っている。私は2年の学校教育を受けただけだ。でも、それで、私の性格を形作るのに充分だった。” “ファヴェラにない唯一のもの、それは友情だ。”“私はファヴェラに住んでいる。でも、もし、神が私を助けてくれるなら、私はここを抜け出すつもりだ。” “がまんならないのは、女共だ。・・・私の神経は耐えられない。しかし、私は強い。私は断じて、何ものも深く私を悩まさせない。私は失望させられない。” “私は朝の4時に起きた。書くために。” “私は自分の子供達に寛容でなければならない。” “彼らは私以外にこの世で誰ももっていない。” “ここでは、すべての女共が、私を標的にしている。・・・神経質になっているとき、私は口論する事を好まない。私は書くほうを好む。毎日、私は書く。”そして、友情のないファヴェラの生活は、とうとう彼女の大事にしている紙を誰かが勝手に焼いてしまう。“今や、警告がなされた。私はそれを怒らない。私は人間のもつ悪意というものに対しては、慣れっこになっている。”

 “私の政治家たろうとする人への忠告は、人々は飢えにたいしてはがまんできないということだ。飢えについて書きたかったら、飢えを知らねばならない。” “飢えは教師でもある。飢えを経てきた人は、将来について考え、子供達について考える事を学ぶ。”“酒でボッーとなれば、私達は歌いたくなる。しかし、飢えでボッーとなると、身体がふるえてくる。私は胃の中に空気しかないということが、どんなに恐ろしい事かを知っている。” “私の口の中が苦味をもちはじめた。私は、この人生の苦味にも、きりがないのかと思う。私は生まれたとき、一生、空腹で行く運命と決められていたのかと考える。” “私はロールパンを買った。食物は何とびっくりさせるような効果を私達の肉体組織にもたらすものだろう。食べる前、私が見た空も樹木も鳥も、みな黄色だった。でも、食べたあと、すべては、わたしの目に普通に見える。” “私は生涯ではじめて食べていると感じた。” “今日は、ランチがあった。私達には米と豆とキャベツとソーセージがあった。私が4品料理すると、私はたしかに何者かであると思える。私の子供達がファヴェラでは手の届かない食物である米や豆を食べているのを見ると、愚かにも私は微笑んでしまう。まるで、目のくらめくような、見世物を見つめていたような気になる。”

 毎日、飢えと戦いながら、彼女は街路から紙を集め、それを売って小銭を稼ぐ生活を続ける。彼女の、この耐え難い生活を支えてくれるのは、子供達の将来に対する夢であり、いつか、このスラムを脱出してみせるという意欲である。彼女は暇を見つけては、紙の切れ端に、見たこと、感じた事を書き付ける。“すべてを見守り、全てを告げ、事実をメモする事がわたしのマニア(熱狂癖)だ。”

 少女の頃、ブラジルを守るために男でありたいと思った彼女は、母親に“どうして、自分を男になるようにしなかったのか”と訊ね、彼女は“もし、お前が虹の下を歩くなら、男になれるだろう”という答をもらう。“虹があらわれると、私はその方向に走り続けた。しかし、虹はいつも遥か遠くであった。それは、まるで、政治家達が人民から大きくへだったているのと同じである。私は疲れ、坐った。そのあと、泣き始めた。しかし、民衆は疲れてはいけない。彼らは泣いてはいけない。彼らはブラジルをよくするために、闘わねばならない。私達の子供が、私達が苦しんでいるようには、苦しまなくてもいいように。私は帰って母に言った。虹は私から逃げていったよ、と。”

 彼女は工場がごみための中に捨てたキャンデーを食べている男に出会う。その男は、すべての苦労を見てきたような苦悩の表情をしていた。彼女は自分の体験から、その男がよろめいているのは、酒の酔いのせいではなく、飢えてボーっとしているからだと見て取る。“ここで待っていなさい。わたしはこの紙を売って、あんたに5クルゼイロあげよう。そうすれば、コーヒーぐらいは飲めるよ。朝にちょっとでもコーヒーを飲むのはいいものだよ。”と彼女は言う。“いらないよ。お前さんは、子供を養っていくために、非常な苦労をして紙を集めている。そして、あんたが稼ぐのは、ほんのこれっぽちなのだ。しかも、お前さんはそれを私に分けてくれようとしている。私は自分がどうなるか知っている。もう、2,3日したら、私はもう何もいらなくなるだろう。・・・私は自分が飢えで死ぬのはわかっている。”と男は応えた。

 カロリーナが、このファヴェラの生活を抜け出せたのは、単に、彼女がすぐれた日記を書く才能をもっていたからではないだろう。お互いが足を引っ張り合い、ますます、心身ともに汚れ沈んでいく生活しかないファヴェラのスラムにあって、彼女自身はいつも心を豊かに、大きく持ち、最低の生活、最高の空腹を体験したものだけがわかる人間への連帯感でもって、自分より苦しんでいる人々に対しては、出来るだけ寛容に、助け合う心の余裕を持っていた。この崇高なモラルこそ、彼女を堕落から支え、最後には、ブラジルの生んだ最高の名著といわれる日記をうみだし、それによって、自分と家族を、より高貴な生活に向ける事を可能にしたものであった。カロリーナは、冷静に自分達の生活やその環境を眺め続けた。それが、この貴重な日記となって残された。人は、どのような環境の中でも生きていけるようだ。しかし、その中から、何を得、何を導き出してくるかは、その人のモラルの高さによると言えるだろう。その証明がこの日記である。

(完                  記 1985年10月14日)

村田茂太郎 2012年2月28日

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