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3/21/2012

中学一年生の諸君へー国語の学習を始めるにあたって

1983年4月、それまで小学6年生と中学生の数学を担当していましたが、はじめて数学のほかに、中学1年生の国語も担当という事になり、わたしは喜び勇んで、まず最初の日に向けて準備をしたのがこの文章で、これは、ものすごい効果を発揮しました。わたしの意図は最初から完全に汲み取られたのです。この1年の大成功が私に非常な自信を与え、その後の教育・指導に絶大な影響を与えました。はじめが大事です。当時、補習校では小中と同じ校舎で勉強していたので、あたらしい引き締まった気分で新学年を迎えるというのがむつかしく、だらだらと過ごしかねないので、その姿勢を正そうと努力した次第です。
ともかく、自分の子供のころを思い出しながら、一生けん命書いた文章です。

村田茂太郎 2012年3月20日

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中学一年生の諸君へー国語の学習を始めるにあたって

 中学生になると、算数は数学と名を変えるけれども、国語は同じ国語である。しかし、教科書を見てわかるように、とても分厚くなり、字も細かくなり、内容も豊富になった。覚え、理解しなければならない漢字や語句の量も、小学生のときとは比べ物にならないくらい、多くなった。従って、諸君も今までと同じような心構えでいれば、授業についてこれなくなる可能性がある。中学生らしく、気を引き締めて、決意を新たにして、国語の学習にのぞむことが、なによりも大切だ。

 国語は数学と同様、教科の中でも、最も大切な科目である。そして、数学と同様、スキップして学習することは出来ないものなのだ。諸君は、コツコツと、まめに、漢字や語句と取り組み、徐々に学び覚えていくしかない。国語の学習に楽な道はない。自分がふだんから、自由にしゃべっている言葉であるにもかかわらず、是を正しく理解し、自分の考えを正確に表現し、相手の感情の動きや考え方を正しく把握することができるためには、絶えず努力して学習を続けることが必要である。

 何についても言えることであるが、国語の学習に於いても、最も大切なことは、国語に関するものを皆好きになることである。教科書に書いてあることだけで満足しているような人は、いつまでたっても自分の能力に気付かず、才能を発揮することもできないであろう。何にでも興味を持ち、人から言われなくても、自分から進んで取り組んでいくことが、学習において一番大切なことである。単に文学書にとどまらず、自然科学の本であれ、ミステリーであれ、なんでも興味を持ったら、ドシドシと片っ端から読みこなしていくことが、国語力をつける上で、一番役に立つ。特に、諸君の年代は、記憶力も一番強い時期だから、何でも読み、何でも暗記していくことが大切である。

少し、私自身の体験を話してみよう。

 私が“百人一首”を知ったのは、小学三年生の冬であった。隣の家での正月のゲームではじめて知り、興味を持って、早速、母に買ってもらった。最初にとりかたを教えてもらった札が紫式部であったため、それが私の十八番(おはこ)となった。その冬に、百枚のカードを全部暗記してしまい、それ以降、百人一首は自信満々、誰と遊んでも一番だった。あるとき、学校でする事になった。四つのグループに分かれてやった。私が居たグループで、バラ取りで、私は一人で八十枚以上取り、得意であった。今、思っても、この事ほど、恥ずかしく感じさせるものはないくらいだ。百人一首をよく知っている人達の中で、そういう成績をあげたのなら得意になっても当然だが、当時、全然知らない子供達だって沢山いたのだから、私がもう少し落ち着いて、思いやりのある態度をとり、知らない子供たちにもっと親切に指導してあげるべきであった。もちろん、当時から、私は教えるのが好きで、人にわかりやすく説明することはしたが、教えることと指導することとは違う。とにかく、この思い出は、私の幼稚さを示し、いつも恥ずかしくなってくる。それは、ともかく、この“百人一首”の暗記は、その後の学習(国語・社会)に、どれだけ助けになったか、はかりしれない。

 十五歳の時には、白居易の漢詩“長恨歌”(七言古詩、百二十行、八百四十字)を全部暗記してやろうと考えた。漢詩というのは、対句などが多く、調子も良いので、覚えやすく、漢詩の中では最大といわれるこの詩を、一ヶ月ほどで全部暗記し、意味もすべて理解した。いったん覚え始めると、寝ても覚めても、頭の中で漢詩が浮かびあがり、何度も何度もくりかえして思い起こすかたちとなるので、多分、忘れにくくなるのであろう。あれから、二十五年近く経ち(1983年現在)、そのあと、ほとんどこの詩と接したことがないにもかかわらず、かなりの部分をいまだに暗記しているし、忘れてしまった部分でも、少し見れば、あざやかに全文が浮かび上がってくるほどである。私は、高校の時の漢文のテストで、たしか、八十五点以下はとったことがなく、漢文はたいがい満点に近い成績であったと記憶しているが、その秘密は、この私の、一見、無意味に思える膨大な努力の集積によると、私は考えている。いったん、困難を克服して、何かをやり遂げると、ふつうの物事は、非常に易しく感じられるものである。

 日記に関しては、中学校の時に嫌な記憶がある。たまたま、嫌いな担任にあたってしまい、強制的に日記を書いて見せろといわれて、渋々書いて出したところ、“キミの字は、読みにくいネ”といった非難ばかりで、全然ほめてくれなかったため、それからは、何も書かなくなった。京都大学に入ってから、ある時期から、自発的に日記を付け出したところ、自分の考えを自由に表現できるのが楽しくてたまらず、ある頃は、毎日二、三時間かけて、大学ノートに、多いときには七、八ページも書いたりした。これも、習慣の力で、いったん書く癖がつき、好きになると、全然、気にしないで、いくらでも欠けるものだ。日記は、そのときは何も思わなかったり、つらいとか、くだらないと思っても、後になってみると、自分が生み出した最高の宝物となってくる。

 川端康成が、自分が子供の頃につけていた日記を見出して、大人の成熟した目でもても、素晴らしいものだと感じ、“十六歳の日記”という題で、出版したのは有名な話であり、この日記を読んで、影響を受けた人も居るほどである。

女性の精神分析学者カレン・ホルネイという人も、十二歳の頃から日記をつけ始めた。彼女が書き始めた理由は、その最初の頁に書き記した。彼女によれば、青年期に入り出した今、自分の身辺では、すべてのものが興奮に満ちていて、そのすばらしい感動を日記に書き付けておけば、きっと年をとって眺め返したときに、その頃の思い出があざやかに蘇ってくるであろうというものであった。

 日記は、しかし、単に、想い出の記にとどまらない。自分の成長の記録であり、魂の発展の証拠でもある。諸君も今、このすべてが新鮮な時期から、将来の自分自身のために、今からコツコツと日記をつける習慣を作って欲しいと思う。国語に習熟するには、読むだけではダメで、はじめはまずくとも、自分で書いていくことが、何より大切だ。日記こそ、その、書く力をつける最も身近で手軽な手段であり、最も価値ある行為である。

 そしてまた、国語の教科書を、元気よく、声を出して読むということ(音読)も、非常に大切な行為である。声を出して読むと、自分自身のためになるだけでなく、まわりの人にまで良い影響を与える。昔、電気が発明されない頃、人々は暗い中で生活しなければならず、ランプやローソクも貴重であったので、文学の好きな人々は、家の中やサークルで、一人の人が朗読し、他の人々は耳をすまして聴くという形態をとっていた。読み上げる人も熱心に読んだし、聴く人も真剣に聞いた。この効果、あるいは特典に関しては、私には次のような記憶がある。

 中学生の時に、私は高校生の姉が国語の教科書を読むのをいつも聞いていた。姉は、特に、自分の気に入った作品があると、何度も声を出して力強く読んだ。そんな中で、私は、たとえば、中島敦という作家の短編に“山月記”というすばらしい作品があることを知った。一度、傍で聞いただけで、一生心に残るような感動的な名作であり、これだけで、私は中島敦という人を特別に見るようになった。

 すばらしく感動的な本を朗読すると、読んでいる本人だけでなく、まわりで仕事をしている人も、それとなく気を引かれ、思わず、その想像力の世界に引きずられてしまう。特に、アメリカに居ると、日本語の発音に、耳で接する機会が少なく、機会を見つけて、大きな声で誰でもわかるように発音することが大切である。自分の声を自分の耳で聞いて、その発音の正確さを自分で確かめながら読むということは、ぜひ、実行してもらいたい。そうすれば、まちがって読んでいれば、訂正してもらえるし、スムーズに読むことが出来れば、一層、自信もつく。ともすれば、断片的な言葉しかしゃべる機会がない日常生活の中で、まとまった文章を読み上げて、日本語の美しさを充分に味わうことが出来る意義はきわめて大きい。

 漢字の学習については、小学校・中学校の時に、しっかりと取りくんで、正確に覚え、理解するようになしなければならない。漢字だけは何度もノートに書き出して覚え、その後も、何度も見直して、いつも記憶をあらたにするように、努めなければならない。漢字のテスト用に、直前に必死になってやる形をとっていると、テストはよくても、すぐに忘れてしまう。記憶というものは、浅い部分と深い部分から出来ているようであり、いったん覚えた事柄は、そのままでは浅い部分にとどまっているから、少し時間が経てば忘れてしまいやすい。何度か繰り返し学習していると、覚えた事柄が記憶の深部に達し、いったん、そこまで届くと、少しくらい時間がたっても忘れることはない。繰り返しと継続が大切な理由はそこにある。また、そのことが、正確に覚えることが如何に大切かを示している。いったん間違えて覚えると、その間違い癖を直すのが容易でない。

 たとえば、こんな例がある。“存”という字は、どう続くかによって、“実存(じつぞん)”とにごって読んだり、“存在(そんざい)”とにごらずに読んだりする。私の知人で京都大学の学生が、人前で演説をしていて、“人間存在”(にんげんそんざい)をニンゲンゾンザイと発音しているのを聞いて、私は彼に発音の間違い(これは、明らかに、子供の時の覚え間違いによる)を、注意してやるべきかどうかと迷った。

 私自身に関しても、いくつかの漢字の筆順を覚え間違えていて、何度かこれではいけないと注意するのだが、最近ようやく“飛”の字が正しく書けるようになった具合で、いったん、間違って覚えこんでしまうと、訂正するのが大変である。その点、諸君は、今、身に付けている段階だから、今なら、間違ってもスグに訂正して、正しく覚えることは、それほど困難なことではないし、脳細胞も新鮮・柔軟で、いくらでも覚えられるはずだから、今から、しっかりと勉強して、正しい知識を習得するようにしてもらいたい。どうでもいいようなことだが、人前で書いたり、しゃべったりするとき、恥をかくのは自分である。中学生の時こそ、正しい基本を身に付けておく最後の機会だから、漢字の学習をバカにしないで、漢字そのものと、筆順、ハネのあるなしなど、正確に覚えるように努力しよう。

 “習うより慣れろ”とか、“読書百遍、意おのずから通ず”と、昔から言われている。みな、同じような意味で、はじめに難しく思っても、コツコツと取り組んでいると、いつのまにか慣れ親しんで、わかるようになってくるということを言っている。国語の学習は、ある意味では、数学よりもむつかしく、ただただ、地道に一つ一つ身に付けていくしかない。読み・書き・話し・暗記し・考えるという人間の活動力の全領域にわたるのが、国語という教科であり、まともな大人として自由自在に社会の中で自分を表現できるように、今から、その基本を身に付けようとしているわけであるから、好き・きらいなどどと言っておれない。ただ、がむしゃらに取り組めば、時が経つうちに、いつのまにか何でも良くわかるようになっているといえると思う。

 私が中学二年の時の習字のテキストに、与謝野晶子の短歌が達筆で載っていた。“清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵会う人 皆美しき” という歌で、当時、この歌のよさも何もわからず、ただ暗記しただけであった。高校の教科書に、もう一度出てきたとき、国語の先生は、何事も美化しがちであったロマン派の特徴があらわれている歌として紹介され、祭りの人ごみの中で、汗に汚れた人の様子を、このように外から美的に表現しようとしたところに、この派の特徴があるといった説明をされたことを、私は今でも覚えている。

 ところが、私が京都の大学に通うようになり、吉田山の裏や、一乗寺下り松に下宿するようになって、祇園祭やいろいろの祭りをみかけるようになると、私はこの歌を大好きなった。私は、楽しい祭りの、高揚した気分や人々の様子を、これほど美しく、そして鋭く描写した短歌はあまりないのではないかと思うようになり、平和な街の、祭りの、賑わいに満ちた、興奮した人々の楽しそうで、しあわせな表情を、この歌は本当に美しく表現していると思うようになった。今では、私の好きなお祭りの光景に接するたびに、この名歌がすぐに浮かび出てくる始末だ。

 文法は、諸君の苦手なものの一つである。私も中学生の時は、あまりよくわかっていなかった。よくわからない人が多かったから、逆に、わかっていれば、人よりも、ずば抜けた成績を取れたに違いないと思う。それがわかったのは、私の場合、高校の時だった。高校一年の時、私はすぐれた教師の指導の下、黙々と文法の勉強を続けていた。どんなものでも、基本から徹底して努力すれば、そのうちにわかるようになってくるものである。一つ一つの文章を文法的に分析して読解する方法を身に付けたとき、私は自分の国語力が、高校でトップクラスに達しているのを知った。理由はいうまでもなく、基本文法に対する理解が、古文の理解を容易にし、おもしろく、好きにならせたのである。それからは、国語には絶対の自信を持ち、ますます熱を入れて取り組むようになった。私が国語学者や文法学者にならなかったのは、たまたま、ギリシャ文学や哲学により興味をそそられたからに過ぎない。それほど、国語はよくできるようになった。

 この場合、私の秘密とは、文法に対する絶対的な自信であった。たいていの生徒は、文法は苦手だから、文法を好きになれば、それだけ有利なわけである。

 では、文法とは何か。改まってたずねると、むつかしいようだが、実はちっともむつかしいものではなく、ただ、今までそれと知らずに使ってきた言葉が、実はこういう具合になっていると納得するだけのことである。文法が出来て言葉が発生したのではなく、言葉があって、その言葉をうまく整理してみると、こういう具合にまとめられるという形で、文法がでてきたのであるから、正しい言葉をしゃべっていれば、それを元にして、文法的に正しいかどうかを自分で検討できるものなのだ。そして、文法が正しく身についているかどうかが明らかになるのは作文においてである。従って、感想分や作文が上手に書けるかどうかは、ほとんどその時点での国語力の総合的評価を示しているといえるのだ。中学生で習うのは口語文法といって、私たちが日常使っている言葉についての規則だから、身近であり、比較的わかりやすいので、恐れずに、努力して、マスターしよう。

 随分、長々と書いてきたが、目的は、私自身の例を挙げて、国語の勉強の要領をつかんでもらうことであった。ここに、簡単にまとめてみたい。

教科書は声を出して読む。
漢字や語句は、毎日、練習し、短文を作って、用法を身に付ける。

日記をつけ、感想文を書き、作文を書く

教科書以外の本を何でも良いから、ドシドシ読んでいく

詩・短歌・俳句など、気に入ったもの、好きなものは、何でも暗記していく

国語辞典・漢和辞典を活用する

文章を読んだ後、何を言っているのか、どこが最も大切なところか、なぜこういう表現を使ったのか、について、じっくり考える習慣をつける

これらを学習法の基本としておき、自分自身で興味を持ち、好きになり、繰り返し繰り返し学習するように努めれば、どこにいても国語力は着実に伸びていくはずである。
今後の、私の計画・方針を簡単に記しておこう。

·        漢字と読み仮名のテスト           毎回

·        日記・または作文・感想文等の提出   月一回

·        文法 必要に応じてわかりやすく説明したあと、宿題またはテスト

·        教科書 本文 要旨把握、朗読 等

·        参考資料(詩・短歌・俳句、 文法 等)コピー配布

·        教科書 総合テスト 何回か

·        詩・短歌・俳句 等の暗唱

  など。

 これからの一年を充実した年にするために、私も一生懸命にばんばるから、諸君も真剣に努力してついてきてほしい。ロサンジェルスでは、やり方によっては、日本よりもすばらしい授業を持つことも可能な筈なのだから。

(記                  198341日)村田茂太郎

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