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3/21/2012

“教育環境・指導者・偶然性”

 私のあさひ学園での教育指導はさまざまな私自身の過去の体験を思い出す重要な機会を作ってくれたという意味でも非常にありがたいことであったと感謝しています。
ここでも、いろいろなことを思い出しながら、教育の場というものについて考えてみたものでした。

 わたしはともかく、自分は恵まれていたといつもさまざまな出会いに感謝しています。
村田茂太郎 2012年3月21日


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“教育環境・指導者・偶然性”                                                      村田茂太郎

 1953年、シカゴ大学のアセリンスキーとクライトマンは、“夢と睡眠”に関する重要な発見を行った。眠っている赤ん坊を観察していて、まぶたの下で眼球が素早くくるくると動く事を発見したのである。大人も同様の現象が起きるかどうか確かめる手段として、脳波測定器を取り付けた結果、人間は眠っている間に、いくつかの異なる脳波を生み出し、必ずレム(REM)と呼ばれる眼球急速運動の状態がいくつかあらわれること、その時起こせば、ほとんど必ず“夢”をみていることなどがわかった。これは、夢と睡眠の研究に画期的な出来事であって、これ以降、夢の研究をかなり組織的・科学的に行えるようになったのである。脳波を観察し、REMの状態にあるとわかれば、起こせば確実に”夢“をつかまえられるようになった。

 この情報を私が始めて知ったのは、今から約15年前、ドクター アン・ファラデイの“ドリーム・パワー Dream Power”を読んだときである。(1975年。)そして、私は、その時、ただちに、大学院生アセリンスキーが発見したという幼児の眼球の“回転”を理解した。そして、私は小学生の頃を思い返した。それは、小学4年生の頃であった。ある夏の日曜日、海水浴から帰って、心地よい昼寝に耽っていたときであった。フト、眠っている姉の顔を見たとき、私は、まぶたの下で目の玉がクルクルと回転しているのを発見したのであった。今から、逆算してみると、1953年頃の出来事であった。私は姉にその事をつげた。

 なぜ、私はこのようなことを思い出したのか。大学院生アセリンスキーの発見は、ただちに睡眠研究の大家であった指導教授クライトマンの注目を引き、脳波測定器を使う大掛かりな研究となり、REMの発見、夢の捕獲となり、私のようなものでも二人の名前を暗記してしまうほどの歴史的な出来事となった。一方、私のほうは“夢 見ていたヮ”、“あー、ソウ、映画みているみたいやなァ”という調子で、自分流に納得するだけで終わった。もちろん、アセリンスキーの発見より1-2年遅れていたかも知れず、科学的に発表されても何の価値もなかったかもしれない。しかし、このような孤立した発見は、私だけに限らず、身の回りの出来事を注意深く観察している人には、よく起こる事である。今では、ほとんどの発見がなされてしまっているため、今更、日常世界の中で、独力で何かを発見しても、それらは既に発見され、解明されている事が多い。しかし、大切な事は、すべての対象に関心を持ち、鋭く観察を続け、考察をつづけることである。私の発見が歴史的な発見に至らなかったのは、適当な指導者がいなかったためであると思う。或は、もちろん、私が科学者の卵でもなくて、唯の凡人であったからで、教育環境のせいにするのは間違っているかもしれない。ノーベル賞を受けたリチャード・ファインマンであれば、きっと、徹底的に、誰も指導者がいなくても、自分ひとりで探求し続けたであろう。ファインマンのような自力型の天才は、もちろん、どのような悪環境にいても、なにかを成し遂げる事は間違いないことである。


 しかし、私はやはり、良い師、良い友をもつ事は大切であると思う。“朱に交われば赤くなる”のは事実であり、良い師、良い友と交わっていれば、必ず、プラスする結果となる。教育においては、環境は大切であり、出来れば最良のものを求めるべきである。ファインマンのような自力型の天才が現れうるようになったのは、現代になって、資料が何でも手に入るようになり、才能が有って、ヤル気のある人は、ドシドシと自分で才能を伸ばしていけるようになったからで、19世紀までは、どのような史上の天才にも、必ず、天才の発見と天才教育が必要であった事については、私は既に数年前“英才教育論―序説”において述べておいた。

 適切な指導者の必要は何も英才教育に限らない。これも7年ほど前“予知とテレパシー”という文章のあとがきの中で述べておいた事であるが、1974年ごろ、日本の東北地方の小学6年生が断崖から投身自殺を行ったという記事を羅府新報の中に見つけた。その子供にとっては、それは実は単なる自殺ではなくて、死をかけた実験であった。当時、その子の学校では、幽霊を写真に撮ろうとかといった、心霊現象の探求が盛んであり、学校側では、バカなことはやめろといった程度の対応しか出来ていなかった。その結果、その子は、“あの世”が存在する事を証明するために、何かをどこかに隠し、自分が死んでそれを何らかの方法で伝えるという実験を敢行したのであった。その子はクラスでトップの成績の子であった。探求心旺盛は結構だが、適切な指導者がいなかったために、方法をあやまった不幸な例である。


 朝永振一郎、リチャード・ファインマンと一緒にノーベル賞を受賞したシュウヴィンがーは、もちろん、子供の頃から天才的であったけれども、ノーベル賞科学者の下で研究を続けていたのであった。有能な学者の傍らで研究を続ければ、それだけすばらしい研究対象に出会える可能性が多いわけである。ファインマンのすばらしい回想録を読めば、ホンモノであるとはどういうことか、一流であるとはどういうことかといったことが、はっきりとわかる。芸術でも学問でも、一流に学ぶ事が大切だと昔からいわれていたが、本当である。

 友はもちろん自分で選べるものだが、師もまた過去においては自分で選ぶものであった。ソクラテスやプラトンや孔子を慕った弟子達だけでなく、江戸時代には、良い師を求めて千里の道も遠しとしなかった。ヨーロッパにおいても同じである。近代言語学を確立した天才フンボルトは、敬愛する詩人・大学教授フードリッヒ・シラーの薫陶を受けるために、新婚の妻とシラー家の近くに住み、家族ぐるみの交わりを持って、全人格的な人間教育を受けたのであった。フンボルトはその後、ゲーテとも親しく交わり、ゲーテ最後の往復書簡がフンボルトとの間でかわされたことは、丁度、日本人にとって芭蕉の絶句“旅に病んで 夢は彼のをかけめぐる”を誰も知らぬ人がないのと同様、ドイツ人にとっては常識的なこととなっているという。

 そのようにして、過去においては、指導者の選択は、本人の意思と意欲によった。これと思う指導者の教えを受けるためには、本当に命を賭けて行動した事は、江戸時代の人物伝を少し調べるだけでも明らかである。本人は意欲をもって望み、指導者も、また、その意欲に充分応えた。


 現代において、多少とも選択の自由が残されているのは、大学の選択においてであるが、これも、どちらかといえば、教授を択ぶというよりも、名門大学をとか、ともかく入れる大学を択ぶという形におわっている。昔はそうでもなかったようだ。哲学者西田幾多郎のいる京都大学へとかということが行われていた。私は工学部を退学して、フランス文学かギリシャ文学をえらぼうと考えた。従って、京大文学部が私の希望する大学となった。京大にいる間に、私のほうがかわり、私は、日本で、自分が最も尊敬する学者を他の大学に見つけた。しかも、その学者は既に退官して名誉教授となっていた。日本における経済哲学の創始者、立命館大学名誉教授 梯明秀(かけはし あきひで)である。私は、自分が10年か20年早く生まれていたら、躊躇無く京大ではなく、梯明秀のいる立命館を択んだであろうと思った。遅く生まれすぎた私は、仕方なく、梯氏が時々講義をしているという立命館大学衣笠校舎を一度訪問し、立命の学生の一人の如く、彼の講義を聴講したりした。しかし、こういうことができるのは大学だからであって、小・中・高においては、自由意志による選択が効かず、指導者との出会いは、全く偶然性にまかされている。これは、教師のほうにとってもそうであり、生徒を択ぶことは出来ない。お互いに幸運な出会いとなる事を願うしかない。

 大学となると、個性的な優れた教授をえらぶ自由が存在するが、高校などにおいては、そうはいかず、いい教師にめぐり会うかどうかは、まさに偶然性による。特に、現代のように高等部が受験校化して、個性的な教育よりは、大学入学者数で高等部の価値がはかられる時代にあっては、自分にあった教師を見つける事は非常に困難であるといえる。それほど受験校化していない学校においては、個人の素質、才能を伸ばす、余裕を持った教師もいるに違いないが、タイトなスケジュールをこなす事を強いられている教師にとって、個性的教育は、望んでも実現不可能に近いことかもしれない。そういう意味では、受験をあまり意識していない学校には、素晴らしい出会いが待っているかもしれない。

 私は幸いにして、高校の3年間を田中住男というすぐれた教師に教わる事ができた。1年出会えるだけでも幸運であるはずなのに、私は、担任に2年間もなってもらう事ができ、国語は3年間をとおして教わった。国語に自信をもてるようになり、大好きになったのも田中先生のおかげである。私は此の出会いを本当に心から感謝している。


 さて、自分があさひ学園で生徒指導を行うようになって、教職のすばらしさ、楽しさを充分に味わう事ができた。小・中・高と点々と回される中で、私は幾多の素晴らしい子供達と会うことが出来た。そして、私は子供達との偶然の出会いを意味ある者にしようと、いつも全力を傾けた。そういう中で、私は他にも優れた教師が沢山いる事を知り、子供達も出来るだけ様々な教師に出会うほうが望ましいと考えるようになり、私もまた、沢山の子供達に接して、学問というものに対する私のアプローチを知ってもらいたいと思うようになった。

 私と生徒との出会いは全く偶然のものであり、私の意志でどうにかなるときというのは、やめる決意をするときくらいである。従って、私はできるだけ、この出会いをお互いにとって意味あるものにしたいと考えているが、必ずしも私の考えが父母に理解されるわけではなく、もし、うまくいかなければ、不幸な出会いとあきらめてもらうほか無い。幸いにして、ほとんどは問題の無いケースか、喜んでもらえるケースであったが、一度だけ、私の方法が誤解されて非難の手紙をもらったため、私は事情を説明して、その上で、不幸な出会いと思い、あきらめて、我慢してくれるよう返事を書いたことがある。


 教師と生徒との出会いは、全く偶然性にまかされており、そのほんのちょっとした出会いが運命を変えることになるという意味で、教職という仕事は責任重大であり、また、それだけに、やり甲斐のある、すばらしい仕事である。私は教育環境の重要さや指導者の大切さをよくわきまえているだけに、この偶然性に左右されているといえる出会いを意味あるものとするために、いつも、瞬間といえども真剣にコミットしてきたし、これからも努力して行きたい。
(完                  記 1990年1月31日) 村田茂太郎

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