Translate 翻訳

3/21/2012

“教え子”

 補習校で指導中、精神意欲の消耗感に襲われた私は、この文章に書いたように、自分を元気付けようと、わたしが黄金時代と呼んだある時期の教え子からもらった詩をさがしだして、額にかざりました。丁度、拙著の中の「ワン・チャイルド」に書いたTorey Heyden がシーラという女の子からもらった詩を壁に飾ったというのと同じです。Heydenのシーラとの関係はすさまじいもので、Heydenにして初めてシーラの閉じた心の窓をあけることができたようです。、わたしは私の国語指導を喜んで、積極的に反応してくれた生徒からのいわばThank you card をひとつの私の方法的信念の確証としてとらえ、意欲をかきたてようとしたわけです。

ともかく、宮沢賢治の詩もゲーテのファウストの言葉もわたしはよくわかりました。

もう、25年ほど前の話です。

村田茂太郎 2012年3月20日

-------------------------------------------------------------------
“教え子”

 宮沢賢治に“生徒諸君に寄せる”と題する詩がある。賢治の作品らしい、宇宙的な規模に満ちた溌剌とした詩で、青年への期待と意欲を喚起する内容に富んでいて、私はよくクラスの生徒たちに朗読してきかせたものであった。

  この詩には前書きがある。わたしは“毎日を鳥のようにうたってくらした”や“この仕事で疲れを覚えたことはない”という言葉を読んだとき、賢治の表現を素直に鑑賞することができた。

  私もまた、同じようなすうばらしい体験を味わっていたからである。最近、私はとても疲れを感じるようになった。そして、自分で、率直に、何年か前を振り返ってみて、その気力と体力とに驚かされるばかりである。

  ほとんど毎日のように、会社で残業を続けながら、暇さえあれば、膨大な書物を読みこなし、一方では、作文評注に全力を注ぎ、また一方では、夜九時か十時から、三、四時間を集中して、国語教育や意欲を喚起するはずの文章を書き続けてきた。一時、二時に寝て、七時前に起きる生活がいつものことであった。

  今では(1988年現在)、十二時を過ぎて寝たりすると、翌日、心臓の衰えを感じるほどである。当時も、確かに体力的には、かなり無理をし、ほとんど限界に来ていたが、やる気力だけは充分すぎるほどあり、そのおかげで、今では信じられないと思われるほどのことがやれたのだと、私は今思う。今も、私は過去に試みたのと同じようなことを試みているのだが、どうしたことかうまくいかない。だんだんとヤル気力が減退していくのである。

  そして、私は、そのうちに、かつて読んだ“ワン・チャイルド”という本の中で、著者が、その驚くべき教え子シーラから受け取った詩を壁に貼っていたというのを思い出し、何年か前の手紙の束をのぞきこんだ。私が受け取った一篇の詩を探し出し、額に入れて机の前に飾ろうと思いついたのである。

  詩はすぐに見つかった。と、同時に、当時の思い出が鮮やかに蘇ってきた。

すこし 時間があったので 詩を書きました。


村田先生                                                  ABC

  この中一の国語の時間を教えてくれた先生

  漢詩などを教えてくれた先生

  百人一首を遊びだと教えてくれた先生

  生徒に作文の楽しさを教えてくれた先生

  文法を教えてくれた先生

  生徒がわからないと、最後まで教えてくれた先生

  あそびながら教えてくれた先生

  一生けん命 教えてくれた先生

  この一年間生徒と楽しんだ先生

  おこる時もあるが やさしい先生

  なににでも まじめにおしえてくれる先生

  この一年間を楽しませてくれた先生

  村田先生 ありがとう

 この詩は、初めて自分で思いたち、書いた詩です。今まで、詩と言えば、宿題で書いたものだけでした。

村田先生 本当にありがとう。

 私が“黄金時代”と呼ぶ国語のクラス(中学一年二組)の生徒の一人ABC君が、自主的に書いて、送ってきてくれたもので、その時、私は高等部の数学と国語の担当ということに決まっていた。このクラスの生徒は、男の子も女の子も、よく私の掛け声に対して、率直に、敏速に、溌剌として反応してくれた。

  私は、全力を尽くし、生徒達もスポンジが水を吸うように、私の発言や試案に注目してくれた。今でこそ、私は、漢詩や百人一首を堂々と教えるようにしているが、当時は、文部省や派遣を気にしながら、私の信じる教育を行っていた。ABC君の詩にでてくる漢詩・百人一首・作文そして文法は、私が自信を持って教えようとしたものであり、沢山の生徒が、それに対して、生き生きと反応してくれた。ABC君のお母さまからは、八月の休み中に、ABC君が一週間で百人一首を全部暗唱し、自分の能力を発見して驚いているという主旨の、感謝のハガキが届いた。

  今、この詩を見ると、感無量の思いに襲われる。たったの一年間であったが、すさまじいばかりの興奮の波が私を捉え、生徒と一体になって、一生悔いることのない、最高の時を生むに至ったのだ。当時、私は、ゲーテの“ファウスト”のほとんど最後のところに出てくる、“時よとどまれ! お前は、あまりに美しい!”という文句を思い出しながら、ファウストが最後に味わった満足感・陶酔感は、きっと、今、私が味わっているこの陶酔感・満足感と同じであったに違いないと思ったものであった。全力を発揮し、しかも、それが見事に吸収され、実ったという充足感を、当時の私は味わうことができたのであった。

  それから、何度、同じ事を試みたであろう。当時にくらべれば、、私の漢文に関する教養も、作文評注力も、はるかに上達したはずである。それにもかかわらず、私は、年々、否定的な感想を抱かされるようになった。そして、とうとう、国語教育は、もう充分やりつくし卒業した、もう二度とやるべきものではないという感想を持つに至った。そして、それと同時に、このABC君の詩にうたってあることが、すべて本当であったことを確認し、それをとても美しいものに思い、恥ずかしげもなく、ここにかかげるのである。

  当時、私は、せめて、中二の数学でも持って、このすばらしい生徒たちを学問的に指導していきたいと思っていたので、高等部と決まった時は、情けなく思った。そして、この詩を受け取ったので、私は不覚にも涙を流した。喜びの涙であると同時に、派遣の行う勝手な人事移動に対するくやし涙でもあった。

  高等部でも私はがんばった。この最初の年に、私は病気で倒れ、二回休んでしまった。九年を越える(1988年現在)私のあさひでの教育の中で、休んだのは、このときだけである。私は、自分の授業の代行は誰も出来ないと考え、どんなことがあっても、あさひの教育を優先してきた。父母がはじめてロサンジェルスに来た時も、友人がロサンジェルスに寄ってくれたときも、私は、あさひだけは休まなかった。会社の上司にも、私はその旨を伝え、昇役・昇給はあきらめていた。それほど、私は、自分の教育を重視し、生き甲斐に感じ、その手ごたえを感じていた。補習校程度のものに、そのようなうちこみをする私を嘲笑する人もいたが、私にとっては平気であった。私は、自分がやりたいようにヤリ、それ相応の反応があれば、それで満足であった。そして、生徒は必ず反応してくれた。

  この夏、古文読解指導を個人的に行ったXYZ君も、その一人である。彼は、今、京都大学の学生として、充実した生活を送っている。この二月に彼から手紙が届いた。“先生は、古文や漢文、すなわち、日本の文化そのもの、日本の歴史そのものを私に紹介してくれた人です。先生は井戸の在所を指さしてくれました。私は近くまで到りつきました。しかし、この乾ききった咽喉は、未だ水に潤されていないままです。最後にふたたび、先生の力と指導が必要なのです。・・・古文と漢文の古典的教えを授けてくださることが可能でしたら、本当にありがたく思います。”

  この夏の古典指導は、その結果である。どの程度まで役に立ったのか、わからないが、すさまじいまでの彼の吸収力・理解力を見て、私は充分楽しめたのであった。その時、私が示した李商陰の漢詩を見て、彼はスグに、はじめての私の講義で見たものであることを認めた。

  高等部に移された私は、一年の国語四時間と数学一時間を持たされた。たまたま、三年の古典の代行が必要というので、あき時間の私は、喜んで古典のクラスに入り、何も持っていなかったが、いくつか暗記している漢詩の中から李商陰やイオウブツの漢詩を黒板に書き出しながら、古典講義を行った。三十人近くいた生徒も、はじめ騒いでいたが、私が本格的な漢詩講義を始めると、ほとんど全員集中してきいてくれた。

  今から思えば、XYZ君も、その中の一人として、クラスにいたわけであり、何年かたっても、スグに見分けがつくほど、ハッキリと覚えていてくれたわけである。この代講が縁となって、私は三年の古典も担当する事になり、ひとりで六時間休みなく受け持って、私は満足していた。全力を発揮し、充分に吸収されるのを見ると、疲れなど、全く感じないものである。この夏、彼は、自分で作った詩を私にくれた。ノートに書き留めたものであるが、私は失くさないようにと、額に入れ壁にかけた。

  去年(1987年)、高等部へ二度目に移されたとき、私は、古文・漢文を基礎から教えようと意気込んだ。しかし、ここで、私はどうしようもない状況に追い込まれる事になった。ほとんど誰もまじめに学習しようとしなかったのだ。夏休みがあける頃、はじめて私は、あさひを休んで旅行にでも行きたいと考えるようになっている自分を発見し、驚いた。以前は、親友がわざわざロサンジェルスに立ち寄ってくれた貴重な一日でも、案内は女房にまかせて、私はせっせとあさひの授業に向かっていたものであった。しかし、聞く耳を持たない連中が相手では、わざわざ行く必要もないと考えるに至るのも当然である。

  結局、休まなかったのは、国語のためではなく、私だけが担当していた、倫理哲学の講義のためであった。高等国語の二年生の実情に絶望した私は、倫理に全力を傾けた。参加人数は多くなかったが、学年末試験の時、ほとんど全員が、あさひで受けた授業の中で、もっとも楽しく充実していたと書いてくれたし、ある生徒は、私のこの倫理哲学の授業一時間を受けるために、一時間以上ドライブしてやってくると告げてくれた。

  結局、私は自分の長所も欠点も、よく理解する事になった。私は全力を尽くしてやるのだが、もし、誰もまじめに反応してくれなければ、スグにヤル気を失くしてしまうのである。だんだん年をとるにつれ、体力も衰えてくるのか、同じ事を何度も繰り返すのがバカらしくなってくるのか、特にその傾向がひどくなり、現在に至り、とうとう国語はもうこの一年で充分と思うまでに至った。その時、この“ワン・チャイルド”の著者の忍耐心に心から賛嘆を覚えるのである。

  この本を読んだ時の感動は、その頃、簡単な紹介文にまとめた。今、ここに、そのシーラという少女が、トーレイ・ヘイデンに送ったという詩をかかげておく。この簡単な詩の中にも、著者の忍耐が美しく賞賛されている。


In the mail a year ago, came a crumpled water-stained piece of notebook paper inscribed in blue felt-tip marker. No letter accompanied it.

          To Torey with much “Love”

All the rest came

They tried to make me laugh

They played their games with me

Some games for fun and some for keeps

And then they went away

Leaving me in the ruins of games

Not knowing which were for keeps and

Which were for fun and

Leaving me alone with the echoes of

Laughter that was not mine

Then you came

With your funny way of  being

Not quite human

And you made me cry

And you didn’t seem to care if I did

You just said the games are over

And waited

Until all my tears turned into

Joy.                                       

 教育は、医術とともに、最も大切な仕事である。そして、もちろん、教育には、それ相応の能力が不可欠であるが、やはり何よりも大切なのは、忍耐と愛である。私は自分ではみんな充分持っているつもりであったが、どうやらそれは思い過ごしであったらしい。最近、特に限界を感じ始めて、自分でもなさけなく思い、悲しく思うに至っている。

  高等国語を重視する私は、あさひ高等部の実態を残念に思っていた。そして、充実した授業がもてたという実感を味わえないで、高等部国語授業の一年が終わるのかとがっかりしていると、一、二年の国語を担当している教官が、病欠となり、最後の二ヶ月ほど、私が代行で入る事になった。担当時間が三時間から五時間になったが、私は大満足であった。丁度、一年生には、漢文を指導するということで、私ははりきった。そして、半分の満足感を味わえた。私の担当したクラスの生徒数約二十人のうち、十人ほどは、うしろに集まって全然聞こうとしなかったが、教壇の近くに集まった十人ほどは、ものすごく熱心に授業に参加し、休み時間になっても、質問を続けるありさまであったので、私はやっと熱心な生徒に接し、本当の国語授業を行っているという実感を持つことが出来た。

  十二月ごろ、高等部の今後の在り方が問題とされ、毎週のように、何度か校長・教頭も交えて会議がもたれた。私は高等部は去るつもりでいたが、高等部における教育方針の無さや高等部教官の自覚の足りなさが、現状を生むに至っているに違いないと判断していたので、随分、独断的と思われても仕方が無いような意見を吐いた。

  私は高校生であったとき、理科系のクラスに属していたが、それでも、古文・漢文ほとんど何でもわかるぐらいの学力には達していた。いま、あさひにいる生徒が、古文力も漢文力もないまま、理科系の科目などと叫ぶのが、私にとっては異常であった。私は高等国語を、何でも読解できる能力をつける場所と位置づけているが、古文や漢文の読解力をつけないで、すべての日本語の本が読みこなせるわけがないのである。

  従って、日本国内であろうと、外国であろうと、国語力(現代文・古文・漢文読解力)を最高度につけるところとして、高等学校が存在しているはずであり、外国にいる生徒は、環境が不利なため、より一層、古文・漢文教育に徹しなければならないのである。

  結局、孤軍奮闘、空しく、私の意見は採用されなかった。私は何も思い残すことなく、高等部を去ることが出来た。

  三年生の卒業パーティに参加したとき、私が受け持ったほんの三ヶ月程の“国語表現”が、とてもすばらしく印象的であったと挨拶した生徒がいた。ほんのわずかな期間であったが、私は高校三年の国語表現を担当し、クラスの中に、いい加減な生徒も沢山いたが、すばらしい可能性に満ちた生徒がいるのを確かめていた。

  結局、それぞれの生徒の素質、レベル、意欲が、教師との関係を決定するに違いない。いくら教師が真剣にコミットしても、相手にそれを受け止める能力が無ければ、最高のものは生まれてこないのだ。

(記              1988105日)村田茂太郎

No comments:

Post a Comment