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3/21/2012

“私の記憶”-(いじめと愛)-小学1,2年生

 わたしがあさひ学園で生徒指導の機会をもったため、子供のころのいろいろな思い出が蘇ってきました。そのなかにはいい思い出ばかりではなく、いやな記憶もあります。

 現代、小学生でも自殺をする時代になったのを知って、わたしは自分の小学1,2年生のときのことをおぼろげながら思い出しました。この中にでてくる女の子は思い出すまでも無く、いつも覚えていましたが、あるとき新聞で同じ名前を見て、どきっとしました。しかし、それはたまたま同姓同名であったとわかり、ほっとしました。

 私自身がもうすこし、会話の好きな、積極的な子供であればと、子供のころにすでにそう思ったものでした。

村田茂太郎 2012年3月21日
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“私の記憶”-(いじめと愛)-小学1,2年生                                             

 小学校1,2年というのは、教育的にとても重要な時期である。学校が好きになるか、学習が好きになるか、友達づきあいを楽しむようになるかは、この1,2年で決定的となる。担当する教師の責任はものすごく重大である。私に子供があれば、親として、どの教師にあたり、どのような指導を受けるかは、とても気にかかるに違いないと思う。私自身のイヤな記憶があるからである。
 1年、2年と、私は同じ教師の担任の下にあった。当時、日本は敗戦の混乱をまだ続けていたらしく、昭和25年で、まだ二部学級とか合同学級が行われたりした。今から思うと、GHQの指導のせいであったのか、1年の頃から、テン・リトル・インディアンとか、グッドバイとかという歌を習い、踊ったようだ。当時、私は背が高く、大きくて、運動神経も鈍そうで、何かにつけ、よく目立ったに違いない。1年の時も、2年の時もクラス委員をやったが、いつも女の子の方が指導力があり、私は副をつとめるような具合であった。

 クラスには見るからに秀才そうな生徒がいたためか、私は何かにつけて叱られるのが常であった。忘れ物も多かったのかもしれない。その担任の教師は、よく、私を立たせておいて、いろいろとイヤな言葉をみんなの前で投げつけたのであった。今も私が覚えているのは、秀才そうな、お気に入りの生徒と比較しながら、“行いの正しい生徒の目は澄んでいるけれども、ムラタ君のように忘れ物ばかりして、だらしない子の目はドロンと濁っている。そんな子供は成長してもロクな子にならない。”といった説教を何度となく聞かされたことであった。

 私は、そんな風に叱られた事を父母にもいわず、哀しい思いでいながら、心の中では“何を言ってやがる。今に見ていろ。”と、じっと耐えていた。どうしたことか、努力する事とか耐える事とかに対しては、私は自信がある。これは、生まれつきの体質かもしれない。私は表面はおとなしいが、タフな内部というものを小さな子供の頃から持っていて、何を言われようと、それを跳ね返すだけの強さがあった。叱り方ひとつでも、子供をダメにしてしまうことがある。7,8歳という大切な時期に、下手なしかり方をしたその担任は好きになれなかったが、私は学校へは楽しく通った。

 35年たっても、まだ“ドロンと濁った目”などという表現を覚えているくらいなので、7歳の時とはいえ、ショッキングな叱り方であったに違いない。今では、バカな教師に出会ったのは不遇であったけれども、教師の当たり外れは、くじ引きのようなものであり、仕方がない、許してやろうという気になっているが、もし、気の弱い子供であったら、今なら、はやりの自殺を決行していたかもしれないと思う。小学校1,2年というのは、教師の影響をまともに受ける時期であり、教師の責任の重大さは相当なものである。子供をよく知らず、指導の仕方も知らない教師が担当するのは絶対に避けるべきであると思う。まず、なによりも、子供の好きな教師である事が大切である。愛があれば、他に少しくらい欠点があっても、充分カバーできるであろう。

 その担任の教科指導も、デタラメであったことは、折り紙の時間に証明された。私も鶴の折り方を知らず、クラスで先生の指導に従って、一生懸命折っている最中であったのに、その指導についていけない生徒が居たので、学級委員でその子の近くにいた私に“ムラタくん、教えてあげなさい”と言ったので、私は正直に、それまで習ってきたところを教えてやっていた。すると、いつのまにか、教師は私をおいてきぼりにして、ドンドン先にいっているではないか。私が鶴の折り方を、よく知っているのなら、そういう風にやってもよかったであろう。私も、ただ、指示に従って、なんとか折るよう努力していた時に、そのようなことになったため、結局、私は鶴の折り方を身につけないで終わった。子供の頃に、しっかりと覚えたものは、身についてしまって、忘れないが、大人になってからでは、やっている時は覚えているが、しばらくやらないと、きれいに忘れてしまう。私は鶴の折り紙を見るたびに、つまらなく、ばか気たこの出来事を思い出す。そして、いまだに、複雑な気持ちになる。

 さて、なぜ、そんな学校が楽しかったのか。新しい事を学ぶという事のほかに、私には好きな女の子がいた。“永遠の女性”とかという言葉があるが、まさにそれにあたるものであった。

 後年、ダンテを読み、ダンテが有名なベアトリ-チェという“永遠の女性”を見つけたのが、ダンテ9歳の時であった事を知った。このベアトリーチェは、いわゆる美人ではなかったが、教養と品性を身につけた魅力のある女性に成長し、ダンテと再会する事になる。このダンテのベアトリーチェに対する愛は“新生”という詩に結晶化され、街では誰知らぬ人もない程になった。ベアトリーチェは他の男と結婚したが、立派な女性として生き、比較的若い頃に亡くなった。ダンテは結局、“神曲”の天国篇の案内者として、ベアトリーチェを択んだ。9歳の時に見出した愛が、天才ダンテの詩精神を開花させ、イタリア建国の父といわれる傑作“神曲”につながっていくのであった。

 同じクラスの生徒でもなかった女の子といかに親しくなる事ができたのか。私にとって大切なその部分の記憶がない。学芸会で美しい子を見つけ、友達になりたいと思ってから、声をかけ、親しく話をかわせるようになるまでには何があったのか。とにかく、私が小学校の1,2年を楽しく過ごす事ができたのは、その子のおかげであったに違いない。そんなに大事な女の子であったのに、小学3年で、私が新しい学校に移動し、半数ぐらいの子供と分かれてしまったあと、私は、あたらしい学校生活に没頭して、彼女の事は完全に忘れてしまっていた。

 そして、中学校に入り、前の小学校の生徒たちとも合流した時、私は鮮やかに小学1,2年の頃のことを思い出した。そして、私がその女の子を見つけたとき、一層、かわいく、美しくなっているのを知ったが、私が覚えているだけで、誰も覚えているそぶりも見せなかった。結局、初恋の女性とのめぐり会いは、ダンテのようにはいかず、ただ遠くから眺めているだけに終わった。私がもう少し、積極的なハキハキした男の子であったなら、たとえ、クラスが一緒にならなくても、彼女に声をかけ、昔を思い出し、あらためて友達になる事が出来たかもしれない。クレオパトラではないけれど、そうすれば、私の運命もまた違ったものとなっていたかもしれないと思う。“永遠の女性”というものは、各個人にとっては、たしかに存在するのだろう。今も時折、私は彼女の事を考える。
(完      記 1986年2月17日) 村田茂太郎

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