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3/22/2012

中学生の国語学習

 ともかく、補習校あさひ学園で国語を担当していた期間は10年を超えているわけで、その間、さまざまな学年の生徒指導を行うにあたって、いろいろな教育指導の文章を書いてきたわけで、同じようなことを何度も繰り返していっていることがわかります。基本的に、同じ生徒を2年にわたって指導というのは1-2回しかなかったはずで、みなFreshであったわけです。ただ、地域によって学力差があり、それに対応する指導が必要で、少しずつ違った形で、エッセイがかかれました。

 まあ、おかしいことは書いていないと思っています。

 基本的に、私の書いた文章は、どれも真剣に書いてきているので、10年20年経っても、ほとんど訂正の必要を認めません。

 必ず、役に立ったという自信があります。

村田茂太郎 2012年3月22日
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中学生の国語学習

 日本人として、日常生活において、日本語でしゃべっていれば、自然と日本語は上達し、何でも読めるようになると考えている人がいるかもしれない。しかし、どこの国の国語においても、事はそのように単純なものではない。ドーデの“最後の授業”には、その苦労の一端らしきものが描かれていた。それぞれの国の言語を正しく修得するには、それ相応の、長く忍耐の要る努力が何よりも要請されている。その努力を途中で放棄した人は、日本人の書いたまともな文章の読解も出来ず、自分で正しく意見を述べることさえ出来ないであろう。それぞれの能力は、長い、地道な訓練を経る事によって、はじめて、着実に身に付けることが出来るものであり、国語と数学の学習は、どの瞬間も大切なものであり、けっして、おろそかにしてはいけないものなのだ。

 子供用に、特別に易しく書かれた本は別として、ふつうの大人が読む本や何かの都合で特別に研究するような本を読みこなすには、私の考えでは、高校国語をマスターしておくことが必要である。なぜか。高校国語において、かなり詳しく、古文や漢文を学習するからであり、この古文・漢文に対する読解力や知識を抜きにして、現代文を読みこなし、書きこなしていくことは不可能なことが起こるからである。

 それ程、重要な高校国語の学習も、しかし、いっきに基礎をとびこえてやりとげられるものではない。国語はひとつひとつの積み重ねの上に開かれていく領域であり、せっかく大切な学習に入ろうとしても、中学課程を無駄に浪費してしまった人には、ついていけないものとなる。

 中学国語は、小学六年間の基礎学習を確実に身に付け、それを踏まえて、更なる国語力の充実を図り、一方、古文や漢文学習への導入を図るものとして、位置づけられる。そして、この中学国語をしっかりと、まじめに学習した人だけが、堂々と、そして易々と、高校国語の学習に向かうことが出来る。

 森鴎外などは、十歳の頃、既に今の大学院生並み、或いはそれ以上の漢文力をつけていた。従って、国語の学習(古文・漢文を含めて)は、何も小学生になって、或いは、中学生になってはじめて、始めるべきものでは決して無い。関心さえいだけば、いつ始めてもよく、中学一年で、漢詩でも万葉集でも、本格的に学習してかまわないのだ。イヤ、どしどし取り組むべきだといえよう。小学課程と高校課程をつなぐ最も重要な時期として、中学国語は位置している。中学国語をまじめに学習できなかった人は、高校国語も結局ついていけず、よくわからないままで終わる事になる。そうなれば、現代人が書いたすばらしい文章を理解することも出来ないに違いない。そしてまた、小学国語を充分にマスターしていない人は、中学国語の学習が大変な重荷となっていくに違いない。
 何についても言えることだが、よくわかると面白く、もっと深く極めようという欲望が起こる。そうなれば、外から言われなくても、自主的に課題に取り組み、ますます面白く、ますますよくわかるという筋道をたどる事になる。私は高校国語を担当していたとき、完全に、どうしようもない程ついていけず、授業時間を全く無駄にしている人を何人か見てきた。残念なことであった。


 私は、諸君が、どの国語の時間も非常に大切であることをよくわきまえ、どの時間も真剣に集中して、勉強して欲しいと思う。そうすれば、中学生としての実力は充分に備え、安心して高校に向かえるだろう。


 それでは、次に、中学国語を充分にマスターする上で、大切なポイントを述べてみたい。

1.      漢字・語句      中学生は日本語をまだ身に付けている途中であり、その過程で出会うすべての漢字・語句はマスターしなければならない。君達の頭脳は新鮮で柔軟であり、どのようなものでも理解し、暗記できる能力を持っているので、おそれずに、何でも辞書を引き、理解し、暗記して、毎日、語彙を増やしていこう。一夜漬けの学習は絶対に避けよう。一日だけ良い点をとっても、すぐに忘れてしまったのでは、何にもならない。学習は集中(理解)、反復整理、継続想起という形をとって、はじめて本当に自分のものとなる。反復・継続がぬけていると、その場の暗記・理解にとどまって、まだホンモノになっていないため、時が経つと、スグに忘れてしまう事になる。毎日、十分でよいから、繰り返して学習することが、漢字の学習の場合、特に大切である。


2.      音読      一人でコソコソと朗読するのではなく、親や兄弟姉妹に聞いてもらったり、聞かせてあげるつもりで、大きな声で、ゆっくりと正確に発声することは、とても大切である。日常会話の日本語は、限られた表現で、内容も制約されているのに対し、教科書等の日本語は、場合にもよるが、美しく、内容がある場合が多く、そういう日本語を自分で発声し、自分の耳で確かめながら理解するということは、非常に大切である。森鴎外や中島敦を朗読すれば、日本語の美しさを切実に感じるはずである。そして、親にきいてもらえば、漢字や語句に対する自身の心構えもかわる筈であり、流暢に読めるようにと、あらかじめ辞書で調べる習慣もつくに違いない。そして、自信をもって、朗読できるようになり、それは、国語を好きにならせるだろう。どの程度読めるかによって、大体の国語力がつかめるのであり、私としては、教科書は最低三回、親に聞いてもらって音読して欲しい。そうすれば、親としても、子供の発声上の問題点や特徴を自分でも捕まえることが出来るであろう。また、人が音読しているのを聞く事によって、あらたな知識を得ることがあり、わたしの場合、姉の“山月記”の朗読を聞いて、中島敦というすばらしい作家がいることを知ったし、高校時代には、小林秀雄を夕食時によく朗読したので、家族のすべてのものが、小林秀雄という人物を、よく知るようになったりした。音読はぜひ実行してもらいたい。


3.      読書      自分でせっせと読書することは非常に大切である。フランスに留学したフランス文学者・作家の辻邦生(つじ くにお)は、毎朝三時間は日本語の本を読むという日課を決めていたようである。それは、日本語の文献に触れるということだけでなく、異国で日本語とその感覚を忘れてしまう危険を防止するためでもあった。海外子女についても全く同じことが言える。日本語学校の無い地域に住んでいた人でも、読書が好きで、毎日、沢山、日本語の本を読んでいた人というのは、ある水準以下のレベルにおちることは無い。それ程、日常的に日本語の書物に接し、日本語の語句やいいまわしに親しむことは大切である。しかし、もちろん、いいかげんに、筋だけを追って読むのでは、効果は半減する。漢字・語句・言い回しに注意しながら、辞書を片手に、読み進めることが、まだ日本語の修得期にいる人間にとっては大切である。そして、もちろん、本の内容も、自分が分かるレベルから始めて、徐々に程度を上げていくことが大切である。一挙に難しい本にとびつくのではなく、面白く、楽しく読めるものからスタートして、それに満足していないで、内容を高めていくという方向をとりたいものである。


4.      作文・日記      国語力が本当にどれだけ身についたかは、作文力つまり表現力の中にあらわれる。作文の中に、日本語としての表現の修得度や漢字・語句の使用度があらわに示される。そして、もちろん、そうした技術的な問題だけでなく、最も大切な感性や思考力や情緒反応が示される。文章表現がどの程度なされているかを見れば、その人の総合的な国語力がはっきりと分かると言えるのである。ところで、この表現もスグに身に付くものではない。恥ずかしいと思っても、それに耐えて、堂々と何度も何度も書く練習をしていく中で、はじめて身に付けられるものである。従って、作文は、機会を捉えて、積極的に書くようにしなければならず、出来るだけ良い指導者(親や信頼の出来る教師)に見てもらい、添削してもらうことが大切である。書く機会は、読書感想文として、或いは旅行のあとの紀行文として、或いは、何らかの感動に対する感想文として、いつでも生み出せるはずであり、日記としてあらわすことも、すばらしいことである。大人になっても、まともな文章が書けないということも起こりうるわけであるが、今、中学生の時代に、練習を積み重ねていけば、少々失敗しても、今なら修得期にあたるわけだから、恥ずかしがることも無いのである。私は、この何年か作文指導に関しては、とても印象に残るだけの成果を生み出してきた。今年が今まで以上のものにすることが出来るかどうか、今のところまだわからないが、諸君の努力と意志次第で、私も頑張りたいと思っている。帰国子女が必ず出会う問題が、この作文(論文)=表現というものであり、今から、自己を表現する技術を身に付けていれば、日本へも安心して帰国できるはずである。


5.      百人一首           私は、必ず“百人一首”をあさひ学園でやることにしている。以前は少し遠慮して、有志にだけ暗唱してもらったが、今年は全員に百首全部暗記してもらうつもりである。そして、集中授業の時に、みんなで百人一首のかるたとりに、楽しく没頭したいと思う。その気になれば、百首覚えるのもむつかしくはない。そして、いったんこれを覚えてしまえば、そのあとは、いろいろな意味で、すばらしいことがある。つまり、この百人一首に親しむ中で、日本的な感性のあり方になじみ、微妙な情緒の動きが理解できるようになる。そのほか、歴史的感覚も洗練され、言語感覚も鋭くなる。古語的表現に親しむ事によって、古文への接近と理解が比較的容易に行われる。といった、メリットがあり、また、この百首の暗記は、自信ともつながり、更なる探求心の拡大を生む事になる。また、日本的な美とか文化とか伝統とかといった、教育環境の中で養い育てられるものに、早くから親しむ事によって、自然と、そうした、すぐれて日本的な感性の在り方を理解する機会に恵まれる事になる。私は、百人一首が、日本人の間で親しまれ、行われている限り、地球上のどこに日本人が散らばっても、日本文化は滅びないとさえ思う。ゲームとしての“百人一首”には、記憶力、暗記力、想起力や運動神経や勘、アイデアなどがかりだされ、真剣になれば、いくらでも凄みを帯びてくるすばらしい競技であり、知的な遊びである。最近の林直道氏の研究は、この百人一首が、縦横十種ずつ並べられた“ことば遊び”で成り立っている歌織物だと説いて、私たちを驚嘆させた。経済学者の林氏が、こういう説を展開できたのも、子供の頃から親しみつづけた百人一首への愛着のおかげである。わかりきったように思って、何とも感じなかったこの百人一首が、全く違った角度から眺める事によって、まだまだ、謎にとんだものかもしれないということになり、一層の関心が高まってくる。私は“百人一首”は国語学習上必修の課題と受け止め、諸君にも真剣にコミットしてもらいたいと考えている。


 大体、常識的なことを述べてきたわけだが、今、中学生用の教科書を取って、とうてい手に負えないと感じる人がいた場合の、その人のための学習法について触れておきたい。


 勉強は、必ず、分かるところから始めるというのが、学習の基本である。新しい教科書を受け取って、素直についていけないとすれば、それは、それ以前のどこかで、学習がおろそかになったことを意味している。どうするか。わからないものに取り組んで、わかった“ふり”をするのではなく、どこからわかりにくくなったのか、恐れることなく低学年の内容へと下って、検討を加えるべきである。わからないまま、イヤイヤその学年の授業を受けるのでなく、家庭で、一年か二年か三年前にさかのぼって、わかるところから復習を始めることが、最も重要なことである。復讐はスピード化されるので、まじめに取り組めば、短時日で現在のレベルに追いつくことが出来るであろう。


それ故、今なら、まだまだ追いつくことが可能なので、教科書を見て習ったはずなのに、読めない漢字や意味のわからない語句が沢山あったとき、かならず、一年下の教科書の再学習、或いは、二年下の教科書に取り組むことから始めなければならない。わからない語句がいっぱい詰まった文章を無理して読みすすめる前に、まず、それまでに修得した筈の文章が、スラスラと読め、意味もよくわかるかどうかを確かめねばならない。


国文法はちっともむつかしくないのだが、論理的に理解し、分析する能力が要求されるため、一見するとむつかしく思え、生徒諸君の苦手なもののひつとなっている。正しい日本語を話している人には、無理なく書き表せるものであり、ただ、連用形とはどういう意味かとか、愁色とは何を意味しているのか、なぜ上一段活用というのかといったことがらを理解してしまえば、、すべてがわかりやすくおもしろいものとなるのである。


私は文法は好きで、高校生に対しての古典文法や漢文法も、日本の生徒たちに負けないようにと、必死に教えようとしたし、去年の中三の生徒に対しても、かなりの時間をかけて、口語文法の全体を、わかりやすく説明したつもりである。まじめに学習する生徒が少なかったため、どちらの場合も、よくわからないままに終わった人がいたことは残念である。最初が大事で、基本の説明に対して、理解できないままで終わると、あとが全くわからなくなる。一方、授業に集中していれば、よくわかり、ますます理解が深まるということになるから、真剣に授業に拘ろう。


私の授業は、従って、漢字・作文・文法・朗読・読解の領域にまたがるものとなる筈である。教科書は精読の習慣を身につける適材であり、内容分析・読解力は純分身に付けてもらいたいし、今まで述べてきたことに対しては、特に、注意してもらいたい。出来れば、国語文集をまとめていきたいし、百人一首のかるたとりはもちろんのこと、すばらしい漢詩の紹介なども行いたい。学習は好奇心・探求心をもって、自主的に取り組むとき、もっとも効果をあげるものであり、そのための素材を提供し、刺激を与え、援助するのが教師としての私の役目であり、そのつもりで、この一年頑張るつもりなので、諸君も、充分期待に応えてくれるよう切にお願いする。


(記   198641日)村田茂太郎

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