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3/16/2012

漢詩の試み

あさひ学園の中学1年生を相手に漢文教育や百人一首でつどう、楽しく、私にとって充実した1年を送った、その興奮のさめないうちに、漢詩を作っておこうと努力した、その第一作です。
まあ、もちろん上手ではありませんが、こういうものを作りたくなるほどに生き甲斐を感じたという私自身にとって大切な思い出となっています。

 このあと、もう一作、3月に植村直己氏がマッキンレーーで遭難というニュースに接して、漢詩を作成しました。いずれお目にかけます。感想文を生徒にサンプルとして示し始めたのが、教科書の植村直己の文章に接してのことだったからです。

村田茂太郎 2012年3月16日

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漢詩の試み

 この年になって、生まれて初めて私は漢詩を作った(41歳)。小・中学生の頃から漢詩を作り始めていた漱石や鴎外とくらべれば、随分遅い。しかし、今からでもつくりたいと思うようになったこと(そのきっかけは中一の二の諸君への漢詩紹介であったが)を、私は自分で喜んでいる。

 明治の頃には、まだ漢詩・漢文創造の基本を一般教養として深く身に付ける風習が残っていた。従って、露伴や漱石のような大文豪に限らず、高群逸枝の父親・小学校長 高群勝太郎のような人も、機会があり興趣がわく毎に、漢詩を作り、詩文集をのこした。最近、私は長谷川伸の名著“日本捕虜志”を読了したが、その中に幾篇かの漢詩が引用されており、それらは日露戦争出征中の一将校や一兵士がつくったものであることを知り、当時の文化の質の高さ、教養の高さを改めて知った。小学校を中退しただけの学歴の長谷川伸が、漢詩・漢文を充分に読みこなしているのにも感心した。現代の大学卒業生でも、よほど特殊な限られた人しか、それだけの能力は身につけていない筈である。

 万葉集を読んでも、昭和万葉集を読んでも、感心するのは、一般民衆の中に確実に認められる表現力の高さ、いわゆる隠れた教養の高さである。私は日本人は世界的に教養ある、すぐれた国民であると思っているが、その理由は、大学の数や数学教育のハイ・レベルの故ではなく、大学も高校も出ていない農民や豆腐屋のオヤジや山小屋の管理人が、私などには、はるかに手が届かない短歌や俳句を人生の伴侶として創出してきているという点にあり、その認識の上に立って、アメリカなどは、ほんの特殊な一部において突出しているだけの、野蛮な精神状況に居る国だと思うのである。世界的に高い、日本の教養レベルは、俳句・短歌といった日本の伝統的文芸に親しむ中で築かれ維持されてきたものであり、農村や山村でコツコツと創造しつづけている人々の力こそ、文化のレベルを表示するものなのだ。それは、万葉の昔からそうであったのであり、万葉集をひもとくたびに、私はその中におさめられた地方の農民や防人の歌に感動し、当時の文化の高さに驚かされる。

 さて、私の世代では、漢詩はただ鑑賞するだけになってしまっていた。私が今はじめて作ったというのも、その辺の影響のせいである。これは大きな欠陥である。やはり、漢詩をつくれるだけの教養をつけてほしかったと私は思う。なんでもそうである。短歌も俳句も自分でつくってみて、一層、名句や名歌の良さが理解できる。また、創作の境地に立って、はじめて理解できるものがある。

 私は人がなんと言おうと、たとえば、ロサンジェルスのダウンタウンでバスを待っていてつくった俳句                   バスを待ち 忽然として 冬を知る                  を、自分の名句だと思っているし、中学二年の国語の時間に作って、喜び勇んで黒板に書きに行った短歌

天高く 皐月の空に ゆうゆうと 舞うは数多の 鯉のぼりかな                    を、当時は流暢な名歌だと思っていたが、今では駄作もいいところだと思っている。

 しかし、ポイントは、こういうものを作る中で、何かを作り出す楽しさや困難さ、創作の境地といったものを、理解できるようになったことである。

 漢詩に関しては、いままで鑑賞一方であった。このたび、諸君に漢詩教育の初歩、つまり、名詩紹介と暗唱を共にすすめていく中で、私は自分も漢詩をつくってみたいと考えた。

 もちろん、文学や芸術というものは、何についてもそうだが、知識だけでは生み出せない。感動体験が基本となっている。私の感動とは、この中一の二のクラスのまとまりと反応のよさ、感度の良さということであった。もうすぐ終わろうとしているこの一年を、私は興奮と感動の中で過ごしてきた。私の始めての漢詩、最終的に出来上がったものをお目にかける。

与於生徒諸君                                 七言絶句            生徒諸君に与う

此級青年多俊才                                                           この級の青年俊才多し

共遊倶学忽時回                                                           共遊 ぐがく こつじにして回る

春秋何恐耐辛苦                                                           春秋 何ぞ恐れん 辛苦に耐えんことを

遥夢生成之楽哉                                                           遥夢 生成 これ楽しき哉


 第一作であまりゼイタクは言えない。随分苦労した。漢詩の厳格な規則から逸脱しないようにしたため、その規則に合った漢字を探さねばならず、初めに浮かんだ句とはまったく違ったものになってしまったところがある。“男女”も平仄の関係から使えず、しかたなく“青年”に男女の意味を含まさざるをえなかった。漢和中辞典で一字一字平仄をチェックするという大変な作業であったが、この苦労のおかげで、私は漢詩作成の大体の要領を掴み得たように思う。それと同時に、杜甫や李白といった天才たちが、厳格な規則に従いながら、“春望”や“登高”といった格調高く、美しく調和のとれた名詩を続々と生み出していったことに対して、心から賛嘆の思いが湧き上がってきた。

 感動を表現する方法には、さまざまなものがある。和歌と俳句は、その最も身近なものとして古来から親しまれ、愛され、創出されつづけてきた。どのような表現法でも身に付けていれば、何時いかなる時にも、その、ムードにあった感動表現を行うことが出来る。

 私はかって、諸君に、夏目漱石が伊豆の修善寺での有名な大喀血のあと、五言絶句を作ったことを紹介した。あの時点で、漱石の心境を最も適切に表現しうるものが漢詩であったととることができる。短歌・俳句・詩・川柳・狂歌と日本語によるすぐれた創造芸術の伝統の上に、明治まで一貫して日本文化を築く土台となってきた漢詩・漢文の役割を、今一度、見直すべき時に来ているのではないだろうか。

 最近読んだ河上徹太郎の名著“吉田松陰”(武と儒による人間像)から感じたのも、日本文化のみならず、日本人の形成に、中国文化・中国史学・哲学が絶大な影響を与え続けてきたということであった。

 中国人の知人に、私の漢詩を見せたところ、彼女は直ちに理解し、日本人が漢詩を作るということに驚嘆したようであった。台湾でも、高校までは、漢詩の創作は教えていないということであった。私は学校から与えられるのを待つのではなく、自分からすすんで取り組まねばならないという学問の基本は、漢詩学習にも通用すると悟った。
(記                  1984年1月)村田茂太郎

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