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4/07/2012

感想(高等部に来て) 1987年

あさひ学園高等部にたいする私の感想で、1987年の話です。
2011年に臨時代行教師として、高等部に何度かはいりましたが、よりまじめになっていたのは確かです。今も指導教科に問題はあるというのが私の感想ですが、以前よりは改良されているのは確かです。でも、今も確実に問題だと思います。校長には臨時代行をやめるまえに、提案書まで提出しましたが。
村田茂太郎 2012年4月7日

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感想(高等部に来て)

 私は教える方にとっても、教わる方にとっても、学問をする上で大切なのは意欲であり、情熱であると思う。社会科学者マックス・ウエーバーは“職業としての学問”の中で、“いやしくも、人間としての自覚ある者にとって、情熱なしに為しうるすべては無価値だ”とまで言う。ウエーバーの学問への情熱、その姿勢を語る言葉である。そして、私は、人間が関係するすべてのことについて妥当するものであると思う。

私にとっても、あさひ学園の教育は、生き甲斐といえるほど、楽しく充実したものであった。私は、あさひのために膨大な時間とエネルギーを費やし、それに見合うだけの喜びを引き出すことが出来た。

ところが、二年前〔1985年〕、はじめて私は手ごたえの無さを体験し、希望をかなえてもらって担当しているところで、やめるとは言い出すわけにもいかず、三月まで健康を理由に休職にしてもらおうと考えるに至ったとき、同僚の先生も同様の意志を表明されたため、私は母親たち全員に実情を訴えた。一時騒動になりかけたが、主事の働きなどにより、うまくおさまり、生徒たちの態度も少しはよくなった。次の年、私は中一を担当し、真剣で熱心な生徒を相手に全力を発揮した。私は生徒の態度や反応振りから、私の努力と情熱に対する確かな手ごたえを感じていた。

夏休み明けの国語文集をつくるのに、私は毎晩、三時間以上を評注に費やし、二週間、三十時間以上かけて、一つの文集をつくりだしたりした。他の誰が誉めてくれなくても、私は、自分で評注を書きながら、確かな成果を感じ、それで満足であった。私は、自分が中一に向いているのをハッキリと知った。高校課程まで、どの教科も易しく、教えるのにどうってことはないが、いくらこちらが情熱と意欲をもってぶつかっても、反応のない相手に向かうことほどつまらないものはない。私としては、内容的には易しすぎて、少し物足りなさを感じるにしても、こちらの言うことを真剣に受け止めてくれる生徒を相手にするほうが、はるかにやり甲斐があり、充実して楽しい。そして、中一で、しっかりと学習法と態度・姿勢を身に付けておけば、あとは楽にまともに行くはずなので、教育的な重要さからも、私は中一を受け持つのが自分に最もふさわしいと思い、次年度希望調査でも、その主旨を述べた。

やむおえない情況で、高等部担当となったとき、私は何とか頑張りたいと思った。高等部は古文・漢文を本格的に学習する初めての機会であると同時に、最後の機会でもあり、古典語教育の重要さは、私には明白なものであったので、基本からみっちり指導してやりたいと思った。しかし、不幸にして、私の夢は破れたといえる。

高等部に存在した、まちがったシステムのために、全然、切実感を持たない、ヤル気のない人が沢山やってきているようだ。意欲も情熱も無い人が、高等部に来ることが異常である。学問はもっと真剣なものであり、本当にヤル気のある人だけが志すべきものである。私は、たまたま、私が担当している国語のクラスで、私自身の意欲や情熱がだんだん退化していくのを感じ始めた。

私はあさひ学園高等部は、今の半分以下のサイズに縮小すべきであると思う。日本の高等部の国語力に匹敵する力をつけたいと本当に願う、強烈な意欲を持った人だけ受け入れて、真剣に教育すべきである。もし、それが出来ないのなら、高等部はつぶしてしまってもかまわないと思う。つぶれた中から、本当に切実に高等教育(特に古典)を願う生徒とその親が、新たに高等部を作れば、そのときこそ、教師も生徒も、真剣に取り組める、すばらしい高等教育が生まれるに違いない。

今のあさひの実態は異常である。全く、なさけないことである。私は、はじめて、登校拒否に似た、どうでもいいという感じをもちはじめた。

今、私の意欲を支えているのは、“倫理社会”である。この一年、私は、私にしか出来ない“倫理社会”の授業を生み出そうと。日夜、真剣に努力している。膨大な文献に目を通し、自分の頭で考え直し、何とかして内容と個性を持った、充実した授業を生み出そうと本当に苦労している。しかし、この苦労は喜びでもある。おかげで、今、新たに構造主義や現象学への関心が蘇ってきた。この“倫理”がなければ、とっくに私は高等部をやめていたであろう。

古典が好きで、古典教育の重要さを感じる私は、その時、本当にヤル気のある人だけ、少数厳選して、寺子屋式の古典学校を開けばどうだろう、などと思ったりする。

(記                     1987年6月11日)

2010年現在、あさひ学園高等部は、規模も小さくなり(その理由は、バブル崩壊後の日本の経済的退化、日本進出企業の撤退、ロサンジェルスでの進学塾の繁栄などによるようだ)、高等部は二年生まで扱っている。態度の悪い生徒は、辞めさせることも可能になっている様子で、したがって、目だって悪い授業妨害者はいない。ひところの昔にくらべれば、扱いやすくなっている。しかし、学力低下も顕著で、高校生の教科書を扱いながら、中学漢字・語句の説明で、大事な時間が消えていき、本来の高校教育が実現されていないように思われた。

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