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4/03/2012

国語の家庭学習 (中学生)



I have one elder sister.
I was influenced by her naturally.
She was good to talk about her school life at home.
So, I remember many names of her classmates and some of their characteristics.

This one has important impact to me.

Written about 26 years ago.

S. Murata 04/03/2012



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国語の家庭学習 (中学生)

私は、今でもそうだが、人の前で話しをするのが苦手で、たとえ父や母であっても、うまく話が出来なかった。従って、学校での日々の出来事も、ボソボソと結論だけを伝えるのが常であった。ところが、二つ年上の姉は、毎日の学校での出来事を、事細かに説明するのがとてもうまく、私は、これも一つの才能なのだなあと思いながら、いつも母と一緒に聞いていた。そのため、姉のクラスの主だった人物の名前や性格まで、私はほとんど記憶するほどであった。


私が中学二年の時、姉は大阪府立天王寺高校に入学した。入学式の時、校長は天王寺高校は大学入学のための予備校であることを力説したと母は語った。大阪の名門高校として、阪大や京大入学を競っていた学校の校長の言らしく、今、思い出しても、私は苦笑を禁じえない。加納治五郎が校長をしていた熊本の中学校では、本校は、それ自体で完成した人間教育を目指すといっていたのとは、大きな違いである。


姉は、高校のクラスの出来事もよく話した。私は、今から考えると、いろいろな面で、姉から大きな影響を受けていたようだ。姉の話も、私に影響を与えた要素の一つである。


姉が高校一年になって、まだ間もない頃、私は次のような話をしているのを聞いた。古文の時間に、ある一人の男子生徒が質問をし、それに対して、教官は、すばらしい質問だといって、誉めたのに対し、そのあと、中学の時に姉のクラスにいた某君が手を上げて、質問したところ、教師は“バカ者、そんな辞書に載っているようなことを訊くな、ちゃんと家でよく調べて、勉強して来い。”と言ったというのである。私は、未だに某君という名前まで覚えているくらいに、その話はよく印象に残り、そのことを何度となく思い返したものであった。


私は、その教師の言うことが全く最もなことだと思った。辞書の引き方もわからない小学一、二年生ならともかく、中学生・高校生ともなれば、すべて自分で勉強し、わからなければ辞書を引き、なおその上でわからないことがあれば、教師に聞くべきである。辞書を見れば、わかるような事柄を、説明するために、教師は貴重な時間を費やすべきでない。


教師は、ソクラテスが行ったように、産婆役であり、生徒がどうしてもわからないようなときに、ヒントを与え、手がかりを与えなければならない。勉強は自分でやらねば力がつかないのに、辞書を見ればわかるような事柄まで、教師が説明していれば、肝心の内容分析にまで手が回らないだけでなく、生徒はいつまでも、教師に頼りきって、自立できないに違いない。


私が、中学国語のクラスに接していて、いつも不安に感じるのは、大多数の生徒は、辞書など引いたことがないみたいだということであった。中学三年ともなると、漢字も術語も、かなりむつかしいものが沢山出てくる。漢字のテストもあまり出来ていないけれど、それよりも、そうした、はじめて接する重要な語句を自分で調べたという感じがほとんどしないのである。


教科書は何度も音読をし、意味のわからない語句や漢字はすべて自分で辞書で調べて理解を深め、毎日、語彙を増やしていくことは、小・中学生という、まだ日本語を学習している段階の生徒にとって、当然の課業である。家で、充分準備もせず、学校でもまじめに耳を貸さなければ、易しい筈の中学国語でさえ、わからなくなるであろう。そして、それが、現に起きている事である。


アメリカン・スクールという厳しい学業が、後に控えているのはわかっているが、日本人として一人前に成長するためには、有無を言わせぬ宿命として負わされている国語学習の重要さを、もう一度確認して、ダラダラと時間を浪費せずに、やるべきことはやるようにしてもらいたいと思う。


姉の国語の教師の、ある生徒への厳しい批判は、何も高校生にだけ向けられたものではない。勉強とは、基本的に自分のためにするものであり、自分でよく調べ、準備した後で、教師の説明を聞けば、その学習した内容は、確実に自分の身についていくのである。大切な国語の学習において、特に、家庭においては、音読と漢字・語句の理解は、最低、励行してもらわねば、学校での学習も充分な効果をあげないといえる。


中学三年は、学校では、文法の整理や古文・漢文の初歩という大切な課題をかかえている。限られた時間で、最大限の効果をあげるには、最も重要なポイントの説明に労力を集中せねばならず、そのときに、家庭で充分学習可能な漢字や語句の説明にかかわっていたのでは、それだけで、大切な時間が終わってしまう事になる。


また、音読の不足も、毎度、痛感させられたが、アメリカという特殊な環境で、限られた日常的な言葉だけを聞いたり話したりする中にあって、文章としての美しい日本語の表現を、自分で発声し、自分で確認しながら聞き取るということは、とても大切なことである。私は自分でも音読は好きであったし、姉が上手に読んでいるのを聞くのも好きであった。私の高等国語の教科書には載っていなかった、あのすばらしく感動的な、中島敦の“山月記”を知ったのも、姉の朗読を通してであった。


静かな家庭で、皆が耳をすませている中で、美しい日本語の響きを、自分だけでなく、家族全員が楽しめるとは、何とすばらしいことであろう。十九世紀までは、皆そのようにして、言語と物語とに親しんだのである。


(記                     19851231日)





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