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4/03/2012

補習校における理科教育(中学部)


補習校での理科教育について、私の考えを展開しました。
ご参考になれば幸いです。
24年前の文章です。

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S. Murata
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補習校における理科教育(中学部)             

 私は今までに、小学六年生から高校三年生までを対象に、様々な科目の指導を担当してきたが、理科を担当するのははじめてである。補習校における授業の困難性は、すべての科目についていえることであるが、理科と社会において、それが著しい。


 私は主に、国語・数学を担当してきたし、これらが最も重要な科目であることは、言うまでもないが、教え子たちの帰国後の感想を聞くと、ほとんどの生徒が、国語と数学は問題なく、理科と社会が、特に公立を狙う生徒の悩みのタネだという。そして、私は、それももっともだ、私が教えても、やはり社会と理科の扱いに最も苦労するに違いないと思っていた。


 しかし、中学理科はよくわからないという声を、パサデナ校で耳にするたびに、私は、一度自分で理科を扱ってみたいと思うようになっていった。かつて、私は数学や国語や社会に関して、授業の仕方(補習校での)や勉強の仕方に関する私見を文章で展開したが、理科は一度も担当したことがなかったため、いろいろと考えることがあったにもかかわらず、展開できないで居た。


 去年の夏(1987年)、パサデナ校の集中授業で、中三の理科の指導を頼まれたとき、私は良いチャンスだとばかり、喜んで引き受けた。そして、どこを扱うのかわからなかったため、力学や電磁気学そして化学的領域と次々と復習していったが、結局、最も扱いやすい、生物の光合成のところだとわかり、私としては徹底的な解説をくりかえし行った。どの程度、わかってくれたか、確かでないが、真剣に耳を傾けてくれた生徒は、この領域に関するどのような受験問題でも解きうる力がついた筈だと、今も私は信じている。


 では、なぜ、私は理科教育にも関心を示すのか。それは、私の専門が哲学であることによる。哲学とは、論理的に意味を探究し、根拠を尋ね、方法的に展開していく学問である。自然科学や数学は昔から哲学者の関心をそそり、ほとんどの偉大な哲学者は、同時に偉大な数学者であったり、自然科学者であった。わたしもまた、すべての対象、すべての学問に関心を持ち、それらを論理的・方法的に理解し、統合しようとしてきた。アリストテレスは“二コマコス倫理学”の冒頭で、人間は好奇心の強い生き物で、それがすべての学問を生み育ててきたというような意味のことを書いたが、本当である。人間は生来的に“好奇心”が強く、もし、誰もがそれに徹底できれば、誰でも自然科学者であり、哲学者でありうるのである。


 さて、ではなぜ、補習校での理科指導が困難なのか。時間が日本に比べて半分などというのは、他の科目でも似たようなものであり、時間など、やり方次第で、ある程度カバーできるのである。言うまでもなく、最大の弱点は、借用校であるために、理科実験の施設がなく、理科授業において最も大切な実験・観察がほとんど不可能という事実にある。しかし、これは事実であって、どうしようもない制限としてあるので、いまさら文句を言ってもはじまらない。そのため、それをカバーするつもりで、ビデオ教材が用意されているわけである。


 ところが、これに関しては、今のところ、私は何も見ていないので、何ともいえない。多分、自分で実験できない代わりに、ビデオ・スクリーン上に様々な実験が演じられるのであろう。体験の重みという意味では、自分で実際にやってみる実験に劣るが、観察という意味では、人がやっているのを見てもよいわけで、本を読んで想像しているだけというものよりは、遥かに優れているはずなので、大いに活用されねばならないであろう。時間的制約等のため、教師も事前に見るチャンスがないのだから、全く、かなしいことである。


さて、中学理科は、高校理科のように、完全に四分化(生物・化学・物理・地理)されているわけでないが、大きく分けて二つの分野にわけられている。そして、それぞれの分野が、教科書としては上下に分けられており、結局、中学三年間で四冊分を終わらせることになる。


一分野は物理・化学的領域であり、二分野は生物・地学の領域である。これは、もともと、人類にとって大切な自然現象の解明を様々な角度から行うにあたって、生物・無生物という領域的区別を行うときに、生物学と地学という大きな学問領域が成立し、変化という角度から方法的分類を行うときに物理・化学という大きな学問領域が成立することによる。


もともと、理科教育は、人類の発展・幸福のためには、自然と人間との交流に関する体系的・総合的な知識が不可欠であるという観点に支えられて存在している。自然現象の研究・解明が、直接人類の生存の問題とつながっていることは、今では、誰の眼にも明らかである。


中学における理科教育は、この自然現象の解明の基礎的視野(対象・方法)を提供することにある。現象の観察から始まり、仮説設定・実験・考察をとおして論理的な探究の方法に親しみ、問題の発見から解決に至る過程をある程度追体験的に確認し、科学的方法の有効さや、面白さを自覚することが狙いである。だから、観察・実験は大切なのであるが、この四分野はそれぞれ異なった性格をもっていて、補習校で指導する際には、特に、その差異を認識することが大切である。また、ロサンジェルスという風土的特殊性や補修校という教育環境の特殊性も考慮にいれねばならない。


私は何をいおうとしているのか。教室で全部をカバーする必要はないということである。全部をカバーしようとして、スピーデイにすすめて、教えた側だけ、すべてを指導したつもりになっていて、教えられた側は何もわかっていなかったというケースが過去によく起きた。学習には、集中・反復・持続が不可欠なのに、時間的制約や指導者の誤解のために、大切な内容に充分な時間をかけられなかったとき、これが発生する。


もちろん、すべての内容を、時間をかけて充分説明できれば問題はないが、はじめからそれは無理なことがわかっているのだから、指導者は、対象を厳選しなければならない。以前は、補習校における理科指導の指針を示した書物も何もなく、ほとんど担当者の考え方にまかされていた。担当者としては、大変な負担であったが、担当者に明確な方法的意識が欠如していたとき、迷惑を被ったのは生徒のほうであった。


きのう、私は“中学校理科<指導の重点>”という小冊子をもらった。限られた時間で扱うべき領域をわかりやすく指示したもので、これなら、理科教育に対する明確な方法論を持たない人でも、なんとなくこなせるわけで、補習校教育における大きな進歩である。これで、一応、形式的な統一は得られたわけであり、今まで、特に代行者にとって困難であった重点内容が鮮明化され、いろいろな意味で理科指導が容易になったといえる。


さて、このことを踏まえたうえで、私は、補習校における中学理科指導は、力学や電磁気学や化学変化といった領域を、特に重点強化しなければならないと考える。どちらかといえば、知識の整理・暗記が主といえる中学の生物学的領域と違い、力と運動といった力学的領域や電磁気学的領域は、暗記よりも理解と応用が主であり、私自身の体験から言っても、多くの時間を要する領域である。本当に徹底的に理解しなければ、あまり意味がないわけで、どちらかというと、自分で教科書を読むだけで、ほとんど理解できる生物学的領域と異なり、これらの領域こそ、本当に教師の手助けを必要としがちな対象であるので、私は、自分では生物学的領域は大好きなのであるが、この方は、重要箇所のまとめを用意して、生徒諸君の自学自習の援助とし、教室においては、物理・化学的領域の指導・解明に力をさきたいと考える。


もちろん、試験勉強こそ、学習した内容を本当に定着させるために不可欠なもので、生物学的領域もテストしなければならない。もともと、学問とは、自分で行うものであり、教師はあくまでも産婆役なので、生徒は自分のほうから、すべての対象を理解しようとする姿勢を示し、努力しなければならない。従って、どのような領域であれ、積極的に取り組み、努力した上で、意味不明の箇所があれば、指導者の援助を求めるべきである。


国語・数学と異なり、理科は高校に入ってから学習しても、ちゃんと理解しうる学問ではあるが、ふつうの公立高校入試対策という意味では、中学理科の完全な理解は必須であり、また、自然と人間に対する広い視野や方法的視覚を身に付けるためにも、大切な学習課題であるので、補修校で学習することはすばらしいことであり、それだけに、一層、学習したことを確実に理解させる指導法が徹底されねばならないのである。


(記                     198843日)


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