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4/07/2012

ある年の“国語文集” (はじめに・あとがき 集)

ある年の“国語文集” (はじめに・あとがき 集)

わたしが様々な教育論やエッセイを書くことになるバネ、きっかけを与えてくれたクラスの国語文集に書いた”はじめに”と”あとがき”をまとめたものです。

これを読むと29年前の感動が激しく湧き起こってきます。最高の瞬間、という言葉はゲーテのファウストの最後を思い出させますが、本当にわたしの人生の最高の瞬間となった一年でした。

村田茂太郎 2012年4月7日

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ある年の“国語文集” (はじめに・あとがき 集)

はじめに (国語文集 第一号 1983年5月 )

 私は、このクラスの国語の担任になって、とてもうれしい。

 私は、この一年間で、自分がどれだけ国語の指導をやれるかという事に、自分でも大いに関心を持っている。そして、今回の、はじめての日記・作文・感想文の宿題に対しても、早速このように沢山の人が、スグに提出してくれるのを見たとき、私は、“よし、これはやれる。オレはがんばるぞ”と自分に言い聞かせた。

 自分が何かを試みて、それに対してスグに生き生きとした反応があるのを知った時、私はすばらしい充実感に襲われる。そして、そうだ、みんなの期待を裏切らないように全力を尽くさねばと、心から思う。

 私にとって、これは一つの実験である。責任の重大な実験。しかし、私は自分の能力に対して自信を持っている。猛烈に勉強した体験を持つ人間、勉強の仕方を知っている人間、すばらしい教師の教え方を見てきた人間というものは、それだけの強みと自信をもっている。私は、今、この機会に、このクラスにおいて、通俗的な方法からは離れて、私が正しいし、効果的だと思った方法で、やっていくつもりである。

 五十人中一人でも本当に反応してくれる人がいれば、教師にとって本望である。ましてや、このクラスのように、わずか二十人足らずの中で、一人どころか、何人も積極的に反応してくれるのを見れば、全力投球して、出来る限りのことはしたいと思うのも当然である。

 今、私は、毎土曜日が心から待ち遠しい。そして、土曜日の国語の時間がたった二時間しかないのが、残念でたまらない。文法指導だけでなく、文学への案内から、歴史や自然科学まで、国語という領域においては、すべてが学問の対象になるので、私は自分の知っていることを、出来る限り教えたいし、その姿勢次第で、君達もどこまでやれるものかを学び知りたいと思っている。

 よく言うではないか、“馬を川岸まで連れて行くことは出来るが、水を飲むかどうかは本人次第だ。飲む気のない馬は、いくら無理に飲ませようとしても、絶対に飲まない。”と。全くその通りである。本人がヤル気を出さなければ、どれだけ周りの人が騒いで努力しても、効果は無い。努力する人に対して、その援助・指導を出来るのが、教師の存在意味だといえる。

 この異国の地で送っている、かけがえのない青春の一時期を、無駄に過ごさないためにも、大いに頑張ってほしい。困難に耐えて始めて、人間は立派に成長していく。ある時期を意味あるもの、価値あるものにするかどうかは、君たち自身の決意と努力にかかっている。

あとがき

 今回、ここに諸君の書いてくれたものを紹介した。

 全作品を載せたのは、もちろん、いろいろの意味をこめたからである。

 まず、諸君の仲間が、今、中学一年生になったばかりの段階で、それぞれ、どれだけのものを書けるか、書いているかを知ってもらいたかったこと、そして、そのことによって、自分を励ましてもらいたかったこと、またそれと関連して、まだ幼い書き方をしている人は、文章に対しても、文字に対しても、自分をしっかりと反省して、今後一層の努力をしてもらいたいこと、そして何よりも、上手下手にかかわらず、ともかく、書く事によって文章力も国語力も上達してくるのだから、大いに書いてもらい、その作品の一つ一つを、あとまで残るようなものにしておきたかったこと、などなど。

 クラス・メートの、それぞれの文章をよく読んで、様々なものを学び取ってほしい。

先日も、“恥を知る”という文章を紹介したが、文章力に自信が無く、いつも密かに書いてきた人も、これを機会に、誰に見てもらっても恥ずかしくなく、堂々と自分を主張できるような文章を書けるように、大いに発奮し、努力してもらいたい。

みんな、それぞれに何かすばらしいものを持っている。立派な大人の文章を書いている人もあれば、すばらしい成長力を秘めた文章を書いている人、すばらしい感性を持っている人、自己批判力を持ち、反省の上手な人、文章の展開の上手な人、素直に自分を表現できる人・・・

 今回、少数の人の作品提出が遅れて、全員の文章を載せられなかったことが残念である。この一年、みんなにドシドシ書いてもらうつもりでいるから、諸君も覚悟を決めて、今後、しっかりと頑張ってほしい。

 みんなが、それぞれ内に秘めている能力は、努力して鍛え伸ばしていかなければ、完全に開花しない。自分で努力するしか道は無い。

あせらず、あわてず、コツコツと書き続けよう。



はじめに (国語文集第二号 1983年6月)

待望の国語文集第二号をここに発行する事になった。

今回は、多分個人的な理由で提出が遅れている三人を除いて、計十六人の作品を集めることが出来た。いつの日に、全員の作品集を出せるか、今のところ未定である。既に、第三週も近々発刊できる程、作品が集まっており、私はうれしくてたまらない。何人かの人はドシドシ書いてきてくれる。

何の苦労も無くというか、ほとんど書くのが楽しみになるというようになってくれるのが、私の理想である。最初のプリントでも書いたように、いったん、書く習慣がつくと、上手下手など気にせずに、サラッと書けるようになるものだ。今回、ここに集まった作品を読んでも、驚くほど上手な文章を書いている人が何人もいるし、すばらしい感性でもって、みごとにまとまった文章を書いている人もおり、全く、これからの成長と発展がますます楽しみになっている。

今回は、私の感想は書かないつもりであったが、少し何か書いたほうがよいと思う文章もあったので、何かを書くように努力したが、書いていないのもある。今後は、私の意見は入れないで、国語の時間に、諸君にそれぞれの読後感を言い合ってもらうようにしたほうがよいのではないかと思っている。

いずれにしても、全員が、同じクラスの仲間が、どういう文章を書いているのか、よく読み味わい、大いに刺激を得てほしい。何度も言うようだが、誰も一挙に上手にはならない。上手な文章を書いている人は、過去にそれぞれ苦労して、書く努力をしてきたからである。大切なことは、今なら、まだ幼い文章を書いても、それ程恥にならないということである。逆に、今から充分書く訓練をしておかないと、あとで後悔しても遅いということになる。

また、上手に書くには、よく読むことが大切である。まず沢山読書して、自分の好きな作家や作品、スタイルを見つけ出し、それを模倣することが大切である。このことは、清水幾太郎氏も、“論文の書き方”で指摘されている。よく読み、よく書く、これ以外に国語に強くなる道は無い。しっかりがんばろう。

はじめに (国語文集第三号 1983年7月)

今回は十五人の作品を集めることが出来た。。その中には、今まで一度も提出したことの無い三人も含まれている。うれしい限りだ。

 この文集がどのように利用されているのか、私は知らない。しかし、私としては、各人が少なくとも一度は全部目をとおし、クラス・メートがどのような作品を、どのように作っているかを知り、自分を一層磨き上げるバネとしてもらいたい。上手な作品もあれば、少し幼い作品もある。自分を励ますのに大いに利用できるはずである。

 このクラスの諸君は、みな非常に勤勉で、活発であり、私は本当にうれしく思っている。これからも、大いに努力してもらいたい。

 今回も、沢山の、内容豊かな作品を、諸君に読んでもらえるということで、私は自分でもこの編集の仕事を楽しんでやったし、諸君の積極的な姿勢を心から感謝している。ふつうは、一年に一回か二回作文集を出せればよいといえる程度であるのに、今、このクラスでは、ほとんど毎月といえるくらい、沢山の文集の刊行が可能となっている。これは、まさに、私にとって歴史的ともいえる程、輝かしい仕事である。いくら、私がヤル気があっても、クラス全体の意欲や協力がなくては、何も完成させることが出来ない。

 ここに、こうして、すばらしい諸君の努力の一端を提示できるということは、私自身への一層の励ましとなる。今後とも、諸君の真摯な努力と協力を期待している。一年間、まじめに努力して書き続けた人は、きっと作文力が向上しているだけでなく、総合的な国語力も充分身について、国語が大好きということになっているであろう。それを目指して、私は一層努力しなければならない。

 これからは、諸君に、それぞれの作品の批判・検討・鑑賞を試みてもらいたいと思う。何度も言うようだが、“恥を知る”ということは、非常に大切なことである。恐れていては、作文力といえども上達は覚束ない。苦手であれば、それだけ一層、努力が必要だ。

この作文集が、少なくとも十号以上は出せるよう、諸君とともに頑張りたい。



はじめに (国語文集 第四号 1983年7月)

 先日、私は、サンタモニカ校の夏期集中授業の代行として、三日間、高校三年生の現代国語を受け持った。私が期待していたのは、あさひ学園の高校三年生の反応を知ることが出来るということであった。教材の中に、“オデュッセイア”の中の有名な神話(?)-セイレーン(サイレン)の魔女の歌をめぐっての伊藤整の文章があり、表現内容の探究ということで、生徒に必ず、感想文を書かせることという形になっていたので、私は例の原稿用紙を三枚ずつ、十五名に手渡し、三日以内に書いてくること、そうすれば、私がまとめて、文集のようにして、必ず、諸君に届けるからと伝えた。

 しかし、どう受け取ったのか、結局、一人も書いてこなかった。私は高校生の文章力、或いは表現力を知ることが出来ると大いに楽しみにしていたので、何の反応もなかったとき、がっかりであった。そして、それと同時に、今、私が受け持っている中学一年二組の諸君のことを考え、このクラスの担任(国語)であったことを、本当にうれしく思った。私が、ヤル気を出しても、生徒諸君がそれ相応の反応を示してくれなければ、私はヤル気をなくしてしまう。

与えられた課題に対して、敏速に反応してくれればこそ、次から次へと何でもヤル気が出てくるのであり、今、現在、このように、国語文集を既に一年分を超えるほどまとめることが出来ているのも、積極的に諸君が協力してくれているからである。今のこのクラスの諸君は、全く理想に近いといえるほど、活発で、すばらしい反応を示してくれるので、私はつい無理をしてでも、ともかく、やれるだけはやってみようと自分を励ます。

この文集を読むと、様々な個性を持った人が集まっていて、内容がとても豊富であり、面白く、楽しい。三月までのこの一年、これからも生徒諸君が自ら進んで、文章をドシドシ提出してくれ、十号以上の国語文集が作り出せるようになることを心から願い、諸君も頑張ってくれることを希望する。

表現力というのは、苦労を重ね、努力することによってのみ、身に付き、上達する。私はかつて、ある大学受験生を教えていて、その国語力の無さに驚いたが、そのときになって、あわてても手遅れであった。諸君が宮本武蔵の“我事において後悔せず”の言葉通り、後になって後悔することのないよう、今から、まじめに、地道に努力してくれることを願っている。

はじめに (国語文集 第五号 1983年8月)

一年二組の国語文集は、私の期待通り、八月までの五ヶ月足らずの間に、第五号までまとめることができた。この集に載った国語文集に関する感想文を読むと、この文集が、それなりの大きな意義を持っており、楽しみにしてくれている人が何人かいることがわかる。私はこれらの感想が、他の人をも代表するものであってほしい。私自身、まとめ、添削や評注をしていても、随分楽しんで読まさせてもらっている位だから、同級生の作文として接する諸君のそれぞれが、これらの国語文集から、自分なりに何かを汲み取ることが出来ている筈だと信じて疑わない。もし、読まないで積んでおくだけの人がいれば、私はぜひ心を改めて、目を通してもらいたいと思う。こうしたものを一つまとめあげていくのに、どれだけの協力と努力が必要かを察してもらいたい。

今回から、私も何かを載せる事にした。何らかの参考になってくれればと思ってのことであって、大人の名文の一例としてではない。

ここに載せた文章だけを読んでも、いろいろと異なった個性を持った人が集まっているのがわかり、楽しい。“文は人なり。”と昔から言われていれ、どのような文章を書いても、その人の個性や性格があらわれる。そして、深沢君も書いているように、私たちはそうした文章をとおして、その人個人の美質や特質があらわに描き出されているのを知ることが出来る。

今回は、T君とM君が創作を発表してくれた。この文集がそうしたものの発表の場となることも意義のあることだと思う。どのような表現の形であれ、ともかく、自分で生み出し、発表するということが大切なのだ。これからも、ドシドシ様々な形の文章や詩・俳句・短歌・創作を書くようにしてほしい。

何度も言うように、自分で書き、発表していく事によって、はじめて自信もつき、表現にもなれてきて、自由に文章化できるようになるのだ。ともかく、がんばろう。努力しただけが、確実に身についていく。



はじめに (国語文集 第六号 1983年9月)

今回も、いつもと同じボリュームにすることが出来たけれども、約半数の人の文章が載っているだけである。私は、この国語文集が有志だけの習作文集になるのは好まない。次回からは、また全員に提出してもらいたい。五号までをふりかえってみると、よくここまでやってこれたと自分でも感心する。諸君が、私の要望に率直に答え、努力して文章を書き、提出してくれたから、ここまで来たわけである。これを、私の当初の希望通り、十号まで発刊できずに途中でやめざるを得なくなれば、私はもちろん残念に思うに違いないし、諸君もきっと心残りがし、あとで後悔する事になるだろう。

今まで、苦労して書いてきた文章は、こうして五号まで、確実に産み出されたものとして、消え去ることなく残っているのだ。これからも、頑張って書いてもらいたい。国語力というものは、一人で考えているだけでは身に付かず、苦労して書き、批判を受け、反省する事によって、少しずつ、確実に、身に付き、上達していくのだ。今、苦労しておけば、一生楽できる可能性だってあるのだ。何の苦労も感じないで、まともな文章が書けるようになるには、常日頃から練習する以外に道は無い。がんばろう。

この号には、“私”特集として、何人かの自己観察の文章が載っている。“私”を語るということは、とてもむつかしいことであり、特に、自分の欠点、短所を述べるということは、非常な勇気のいることである。ここであっさりと実行しておられる人がいることを知って、私は感動を覚える。

他にもいろいろと味のある文章がおおく、こうして学友の文章に親しむ事によって、諸君は必ず、鞭撻(!)(べんたつ)を受け、得るところが多いであろう事を信じて疑わない。自分が日常体験し、感じたすべてを文章化するようにふだんから努力しよう。

今回も、私は自分の日記からの抜粋や小文を終わりに添えた。いろいろな意味で参考になり、役に立ってくれることを願っている。



はじめに (国語文集 第七号 1983年10月)

やっと七号まで達した。三日坊主という言葉があるが、私たちはここまで来たのだから、あと残る月日も、今まで以上に協調してやっていけるに違いないと思う。

四月の初め、私は諸君に、宮沢賢治の詩“生徒諸君に寄せる”を紹介した。その詩は次のような序文ではじまっていた。“この四ヵ年が、わたくしにどんなに楽しかったか わたくしは毎日を 鳥のように教室でうたってくらした 誓って云うが わたくしはこの仕事で 疲れをおぼえたことはない”と。

今、私は宮沢賢治がこの詩を書いた心情が本当によくわかる。賢治は教育に非常に熱心で、彼は自分の独創的な才能の全力をあげて、その四ヵ年の教育に向かっていたのだった。私はこの半年以上、諸君と接し、諸君の柔軟な姿勢、ひたむきで旺盛な好奇心、生き生きとした反応、自由闊達な精神、あふれるような才能を目の当たりに見てきた。私は心から感動し、今ほど教育の喜びを感じたことは無い。そして、宮沢賢治があの詩を書いたとき、やはり全力を投球して、生徒の成長と反応振りを目の当たりに見てきた喜びが、ああいう形で表現されたに違いないと了解した。

私の今の気持ちも彼と変わらない。私はいつも、どの科目を教え、指導するときでも、自分なりの工夫をして、最大限の努力をしてきた。生徒諸君がそうしたわたしの努力と期待に充分応えてくれたとは限らないが、私としては限られた時間で、自分がやりたいと思い、やれると思ったことは、すべてやってきたという自信はいつも持っていた。

今も、私は、国語文集の最後に載せる私の文章の内容を何にすべきかと四六時中考えている。いろいろと書きたいテーマは沢山あるが、やはり、いざまとめるとなると大変である。特に、私のように、週日はオフイスで働き、土曜日はあさひ学園で、そしてあさひ学園関係の様々な準備で、週八~十時間は使い、週一回UCLAの夜学で勉強して、その準備と宿題に追い掛け回されながら、自分の興味ある課題の本を何冊も読みこなし、同時に、数学や国語に関係のある文献に目を通すという生活を送っていると、ゆっくり休めるときがない。それでも、バスの中や昼のランチ・タイムに想を練って、何かを纏め上げると、何かを仕上げたという満足感に浸ることが出来る。

いずれ書き上げたいと思っているテーマに、“私の国語教育―補習校における中学国語教育”、“探偵小説の読み方”、“なぜ漢詩か”、“ローレンス・ル・シャンと癌患者と人生”、“天才と教師”(ガロアとシャンポリオン)などがある。なにぶんにも忙しくて、どれだけまとまるかわからないが、努力はするつもりである。諸君も努力して、残った歳月を有効に過ごしてもらいたい。自分を知り、恥を知って、自分の限界を乗り越える努力をしてほしい。

この号は、内容が非常に豊富で、すばらしい。よく味わい、かならず、全部読んでほしい。私は、諸君があとで後悔することのないよう、ふだんから全力を出して、勉強に、遊びに、向かってくれることを心から願う。何度も書いてきている人は、それ相応に立派な文章を書くようになっている。みんな、それぞれ自分の能力に挑戦し、努力しよう。



はじめに (国語文集 第八号 1983年11月)

ここに、無事、第八号を発刊できることは、私にとって大きな喜びである。

この国語文集も回を数えるにしたがって、内容も豊富になってきたといえる。今回は担任の米山勝彦先生が感銘深い文章を寄稿してくださった、生徒十六人、そして、私の文章をいれて、今まで最大のボリュームとなった。

私の“癌と人生”という文章は、諸君の将来の選択や人生への夢・希望に対して、基本的な姿勢を諸君とご両親の双方にもっていただきたい、その参考になればと願って書いたものである。必ず読んでいただきたい。私自身の苦い体験を交えて、とても大切なことが書いてある筈である。

米山先生の"私と先生“というのは、感動を誘う文章である。その人の生まれ出た環境というものは、選択の余地がなく、変えられないが、その人のその後の人生は努力と幸運で、どのようにも切り拓いていくことができる。米山先生の成長期を形作る壮烈な努力のあとは、人をして恥じ入らせるだけのものをもっている。(少なくとも、そういう体験を必要としなかった私個人においては)。いい文章である。諸君が、よく味わい、担任の米山先生に接する中から、先生の持っているすばらしいものを発見し、自分の身に付けるようにしてもらいたいと思う。

十六人の諸君の文章は、多様で豊かである。創作あり、感想文あり、日記あり、紀行文あり、随筆あり、・・・と読んでいて、その精神の多様さに驚かされる。実に楽しくなってくる。すばらしいものだ。八号にまで達した諸君との共同の、これらの作品を、私は率直に心から喜び、楽しみ、味わう。

さて、ソロソロ、私も疲れてきた。一つ一つの文章をまとめ、注釈をつけ、製本するというのは大変な作業である。そして、それは何度もいうように、諸君の努力とわたしの意欲との合作によって出来てきたものである。私は、あと、二号出し、十号で終わりとしたい。(出来れば、十二号までと思ったが、ちょっと、シンドイと思うようになった。)したがって、残す二号には、諸君も全力を尽くして書いて最良の物を残し、悔いを残さないようにしてほしい。幼い文章を書いても悔いにはならないが、何もしなかれば、将来、必ず、後悔するであろう。今、持っているベストを尽くそう。時及当勉励、歳月不待人 である。 ガンバレ!



はじめに (国語文集 第九号 1983年12月)

この国語文集も、第九号に達した。もっともっと出し続けようという声を諸君の中から発せられたのを聞いて、私はうれしかった。私にとって、この国語文集は、諸君とともに過ごした、楽しかった国語の時間を象徴するものとして、私の生きている限り、永遠に私の記憶に残るだろう。私は最初から、そのつもりで、全力を集中してきたし、諸君がよく私の期待に応えてくれたことを、いつも心から感謝してきた。

私は、ふつうの国語の授業とは、少しかけはなれた私の授業方式をよく理解してくれた私の友人に、今までの成果のすべてを送り届けてきた。そして、その友人も、諸君の豊かな才能の発現に驚異し、賛嘆の言葉を送ってきてくれた。(UCLA Ph.D. 田中敬史博士)。

既に、膨大な量となって現れているこの国語文集こそ、諸君とともに、私が誇りうる最大の成果である。国語の学習は、様々な領域にまたがっているが、いうまでも無く、“作文”こそが、国語力を確実につける最高の方法である。そひて、号を追うにしたがって、確実に、目に見えて向上している諸君の文章力の展開を見て、私は自分の試みがかなり成功したのを知った。

補習校という特殊な状況下にある学校においては、それ相応の独自な方式と考え方が採用されねばならないし、また、ある意味では、日本ででも、実施されがたい国語教育を行うチャンスであると思い、私はそれなりに、大変な努力をしてきた。

私は、すべてが、うまくいったとは思っていないが、もともと、私の根本の考え方が、諸君に、単なる知識を与えることではなく、(辞書で漢字・語句を調べることは、当然、本人が自分でしなければならない)、好奇心、探求心を養成し、才能を発見し、自分で考え、創造していく能力、分析能力の開発ということを、つまり、自分で自主的にヤル気を起こさせることを最大の目標としていたので、その限りにおいて、諸君の反応から想像すると、かなり成功したと思うし、それだけの自信はある。

私は、諸君に、国語の勉強を通して、国語の“魅力”というものを体験してほしかった。そして、私の授業を体験した生徒は、必ず、国語が"大好き“になってくれるだろうと心から期待していた。今、まいた種が発芽し、無事成長するかどうかは、しばらく待たねばわからない。私の試みが無駄であったかどうかは、諸君自身の成長の中で証明してくれるだろう。たとえ、諸君との国語の時間が週一回で、ただの一年限りのものであったとしても、私自身は、確実に何かを蒔いた筈だと信じている。

「何だか、“訣別の辞”のようになっているのに驚いた。少なくとも、あと一号は出す予定だから、お互いに、もう少し頑張ろう。“我事において後悔せず”(宮本武蔵)。」



はじめに (国語文集 第十号 1984年2月)

中学一年二組 国語文集も予定通り十号に達した。諸君の努力のおかげである。

今回は全員の文章を載せたいと願っていて、刊行も少し遅らしたが、それは無理な希望であったようだ。しかし、ここに集められた文章を読むだけでも、この国語文集がそれ相応の意義を発揮してきたことは明白である。そのことを、私はわが意を得たりと心から喜ぶ。今回もまた、文章の内容は多様である。ここに文章を載せた人も、乗せなかった人も、全員がそれぞれの文章をよく読み、味わってほしいと思う。

ここにこうして一年二組のクラス・メートとして集まっているのも、一生に一度の体験であるかも知れず、来学年ともなれば、バラバラに分かれてしまう可能性も強く、日本に返っていく人もいる。そうした特殊な状況、特別の社会にいる諸君にとって、これら十号の文集は、この一年のそれぞれの時期の諸君の姿を映し出す鏡として、貴重な宝となるに違いないし、そのようなものとして、いつまでも大切に扱ってほしいと思う。

何度も書いてきたように、自分を表現するということが、最も重要で、最も難しい仕事である。誰も苦労しないで上達しない。努力した人だけが、確実に何ものかを身に付け、成長していく。

この国語文集の刊行は、私が最大の情熱を傾けた労作である。最初の文章でも言ったことだが、作文力の中に、その人の国語力があらわれてくる。漢字の使用、適切な表現、あやまりのない文章といった漢字・語句・文法的な面から、その人の感性や個性、表現力、把握力といったものまでが、鮮やかに表出されるのが作文の特徴である。恥を恐れることなく、これからもドシドシと自分を主張し、自由な表現を行っていってほしい。

十一号を“付録”として刊行予定であるが、正式にはこれで完結のつもりなので、最後にここに、私の感想を述べておきたい。正直言って、私自身がこんなに没頭し、熱中し、生き甲斐を感じ続けたことは、はじめてである。いろいろな制限もあって、私自身、全面的に気に入るような授業が行えたわけではないが、少なくとも、私は努力し、自分としては精一杯の事をやったという自信と充実感を味わっている。

もちろん、全員を満足させえることはむつかしく、これは補習校に限らず、日本の正規の学校についても言えることである。ともかく、今回、十号にまで達した国語文集が可能であったこと、百人一首や漢詩・文法教育がかなり深く行いえたことは、みな諸君の賛同のたまものであり、本当に楽しい授業を生み出せた事に対し、諸君に心からお礼を述べたい。



国語文集 第十一号 最終号 1984年3月)

目次前書きーとうとう、この最終号に、全員の作品を載せることができるようになった。こんなにうれしいことはない。ともかく、全員の作品を一挙に載せられたのは、この五年間ではじめてである。(わたしが、あさひ学園で教え始めてから五年目)。

みな、それぞれ、立派な文章を書いている。自分の作品を読むだけでなく、クラス・メートの作品を熟読し、それぞれの作品とそれにつけた私の評注とから、何らかの教訓をつかみとってほしい。

このクラスは、最初の時間から反応があって、私を興奮させ、そしてそれが最後までつづいて、一度も私の期待を裏切らなかった。私はいろいろな意味で、この一年、このクラスの国語指導を行うことが出来た事を、心から感謝している。これが最後になろうとも、私は君達の成長を見守っていくつもりである。

“この一年を振り返って”―国語担当  村田茂太郎

昨年の四月、はじめて諸君の国語担任になって以来、期待と興奮のうちに、瞬く間に月日は流れ去り、いまや私にとって充実していたこの一年も終わろうとしている。この一年、私は微力ながらも全力を発揮し、それに対する諸君の反応もすばらしく、私は一度も失意を経験しなかった。

教育とは、一方通行ではなく、生徒と教官との相互的な交流の上にはじめて有効に展開されるものであるから、私は、この一年、私たちが体験してきたような国語の時間が持てたということで、心から諸君にお礼をいいたい。何度か諸君にも紹介した事のある宮沢賢治の、生徒諸君に与えた別れの詩にあらわれていた彼の喜びと同じ喜びを、私も終始感じていた。

私が一番最初のプリントで予定していたすべてが実行できたとは思わないが、思わない方向に発展したりして、私自身の勉強にもなった。様々な形の文章を書き、植村直己やファーブル伝など、さまざまな本を読み、最後には、はじめて漢詩を二篇つくるに至った。諸君との共同の学習と試作の仲から生まれてきたわけで、私自身もおかげで随分成長できたように思う。

諸君の活発な反応の中から、私は、国語教育における私の信念の正しさをある程度確認することが出来たし、また、まだ実験的な段階にすぎぬ私の国語教育案を更に鍛え上げていかねばならぬと感じた。(来学年、そういうチャンスがくるかどうかは、私にもわからないが。)

諸君の一人ひとりを振り返ってみても、随分成長してくれた人がおり、私も誇り高い。国語の学習とは、教科書だけに限られるものではないということ、あらゆる課題、すべてのものが、国語の学習につながっていることを私との接触の中から、つかみとってくれれば、それだけでも意義はあったといえる。様々な領域への好奇心を私が喚起することが出来たとすれば、それは望外の幸せである。

すべて、学習とは、自主的に、自分が行うものであることをよくわきまえて、これからも、一層がんばっていってもらいたい。諸君がヤル気を見せたとき、難問は霧消して、心地よいチャレンジだけが残っているに違いない。(終わりに、本当に楽しく、充実した一年を送れた事に対して、心から諸君に感謝する。)

終わりの言葉

今、私の目の前に十冊の完成した国語文集とこれから完成する事になる最終号がある。膨大ともいえるこれらの国語文集を目の前にして、私は深い感慨に襲われる。何ものかをやったというなんともいえない喜びと、これを可能にしてくれた中学一年二組のすばらしく生き生きとしたメンバーの顔が浮かび上がってくる。たった一年の、しかも週に一度の会合の中から、これだけのものを生み出せたという喜びは、筆舌に尽くしがたいものである。そしてこれは、何度もいうように、諸君の努力と熱烈な期待とが生み出したものなのである。

はじめに述べたように、私は馬を河に連れて行くことが出来るが、飲む気が無ければそれまでだったのである。諸君が、よく私の期待に応えてくれた結果が、今、現に目の前にある十一巻の国語文集として結実しているわけであり、誰も否定することが出来ない確実な重みをもったものとして、存在しているわけである。

そして、私が最も喜びとするのは、既に、幾人かの人が、表明してくれたように、そして、この号でも表明してくれているように、文章を書くという作業を苦にしなくなっただけでなく、喜んで、楽しく書けるようになったといってくれる人が沢山出てきたということである。直接表明してない人でも、文章力の向上を見れば、この文集の持ってきた意味が明らかである。私がはじめに期待していたことが、大体、実現してきたことを知ったこの喜びは何ものにもかえがたい。

このようにして、実に充実した一年は終わろうとしている。

諸君の国語指導を行うチャンスは、二度と来ないかもしれない。だが、私は、諸君が、もはや確実に身に付けた筈の文章力・筆力で以って、今後は、自信満々、機会があっても無くても、積極的に文章を書き、ますます努力向上していってほしい。まだまだ、諸君は向上していく筈であり、刻苦勉励する事が、自分自身の成長発展のために、何よりも大切である。

私の国語教育に対する考え方はいろいろの文章で明らかにしてきた。補習校という特殊な環境で学ぶ諸君が、より充実した内容を目指す補習校授業の一つの実験として位置づけられ、それなりの貴重な教訓と成果を生み出すに至った。

私は、全員を満足させたいと努力したつもりであったが、中には私の方法がうまくマッチしなかった人がいるかもしれない。その人達に対しては、私は素直にあやまりたいと思う。私の限界であると共に、私が補習校の限界を超えられなかったということなのだ。そして、この教訓は、私が今後、国語教育にタッチする・しないにかかわりなく、生かしたいと思う。

最後に、一年二組の諸君と諸君をうまくまとめて、すばらしいクラスを作り上げられた米山先生に、心からお礼を述べたい。

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