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3/02/2012

“心頭を滅却すれば・・・” マンガ・歴史・漢詩―思い出


むかし、まんがで覚えたことばを手がかりとして、その原典にさかのぼると同時に、子供時代の読書遍歴、とくに当時のマンガについて考えた文章。
わたしはマンガ全般に対しては否定的でなく、自分もマンガで育ったという自覚はあり、よいマンガを読むのは重要と思っています。

この文章を書いた当時は一時的にパサデナ校がサンマリノに移転していて、そこが暑くて生徒が文句を言うので、こういう文言を紹介した次第。

村田茂太郎
2012年3月2日
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 天下人の資格を備えていたと思われる甲斐の武田信玄が、三方が原の戦いで徳川家康を破り、京都を目指して進撃して、京都にいた織田信長を不安に陥れたが、長年患っていた結核の進攻に勝てず、信州駒場の陣中で病没したのは天正元年〔1573年〕、信玄53歳のときであった。父親信玄が挫折した天下統一の志を継ぐ破目になった二男武田勝頼は、猪突型の武将であったため、有能な部下の助言もきかず、家康・信長の軍と、三河の長篠で決戦し、信長による鉄砲隊の活躍で、武田軍が歴史的な壊滅を迎えたのは、信玄没後わずか2年目の事であった。

 武田を徹底的に憎んだ織田信長は、1582年、勝頼を天目山で自刃させるのに成功し、その後、武田残党狩りを実施して、ほとんどすべてを掃討するのに成功した。比叡山を焼き払い、高野山を襲い、本願寺を打ち破った信長は、彼に敵対する寺院を焼き払うのに、なんのためらいも感じなかった。1582年、勝頼が滅んだとき、武田軍の敗将六角承禎を、信玄も帰依していた甲斐恵林寺の禅僧快川じょうき国師が匿ったと知った信長は、比叡山のときと同様、寺をまるごと焼き払った。その時、燃え盛る火の中で、快川国師が叫んだ最後の言葉が、“心頭を滅却すれば、火もおのずから涼し”であったと、いわれている。

 私が、この“快川”の名前と、この“心頭云々”の言葉を知ったのは、小学校のときに読み耽った歴史物マンガの中でであった。私はマンガが大好きで、小学校の頃は、随分、マンガを読み耽った。小学2年から中学3年の初めまで通っていたソロバン塾にマンガが備えてあり、それが、私の歴史への関心を最初に掻き立てたわけであった。私は伝記物マンガが大好きで、山中鹿之助とか楠木正成・正行(まさつら)とか、平賀源内、渡辺崋山などに興味を持ち始めたのもマンガのおかげであったし、近江聖人中江藤樹や熊沢蕃山、あるいは樋口一葉や高校生でさえあまり知る人のない大原幽学などを知ったのも、マンガを通してであった。

 私は、何かはじめて出会った人名があると、必ず父母に訊ねた。父と銭湯に行ったときなど、よく戦国時代の武将の話などを父に教えてもらい、湯に浸かりながら、遠い昔の歴史の動きに心をおどらせたものであった。そして、いったん、芽生えた探求心は終生かわることなく、今も私は歴史に対する興味を持ち続けている。そして、私がマンガでも何でもよいから、歴史に関係のある本を読むことの大切さを人に説くのは、自分自身の成長過程における楽しかった日々の記憶を踏まえての事である。

 私の家には、本はあまりなかったが、2歳年長の姉のために、父が高校生から一般向け(と後で知った)の参考書を買い与えていたおかげで、私は小学生の頃から、大原幽学といった名前を、それらの本の中に確認する事が出来、いわば、名前だけの暗記で終わりかねない歴史の勉強を、その人物の成長や社会背景を理解しながら、学ぶことが出来たのであった。私は、マンガを通して、まず、人物への興味を喚起され、そのあと、より詳しく知りたい私の欲望は、貸し本屋の伝記を片っ端から読んでいくという形で遂行された。

 当時も、マンガといえば、“鉄腕アトム”というすぐれたSFが連載されていたし、“少年ケニヤ”や“少年王者”といった冒険ものも新聞や“おもしろブック”に載っていた。マンガによって、ある時期を成長してきたともいえる私は、マンガを否定する気はない。現在も“マンガ 日本の歴史”や “マンガ英雄・人物伝”というのがあることを私も知っている。しかし、時代の動きを反映して、マンガの質も内容もかなり変化したのは事実である。そしてまた、私自身の体験からも、“良いマンガ”を読むことの大切さもあきらかである。

 小学1,2年の頃、“おもしろブック”に連載されていた“くろがねインデイアン”の中のある場面―葬式の場面―などはマンガながらも名文で書かれていて、姉などは“立ち上る煙は・・・”という文章を暗唱していた程で、“大酋長ポーハタン”とか、“死神ペック”とかという名前は、私は、今でも憶えているくらいである。従って、たとえマンガとはいえ、一度、見知った名前“快川国師”と“心頭を滅却すれば、火もおのずから涼し”を三十年間覚えていても不思議はなく、私は自分自身の記憶力のよさというよりも、年少期に真剣に熱中して読んだものは、たとえマンガであろうと、誰もがほとんど全部心のどこかで覚えているに違いないと確信し、良い本を読む重要性をつくづく感じ、良いマンガに親しむ事の重要性を誰もにたいして指摘したいと思うのである。そうして、その見地から、昨今の子供用のマンガは。感性に訴えるものをもったよいものもあるが、歴史上の固有名詞と結びついたものは乏しく、何らかの向学心を掻き立てるといった、質のある者ではなく、読んでそれで終りという内容のものが多いように感じ、マンガから本格的な読書へ向かう傾向を生むこともなく終わっているように感じ、これも時代の移りなのかと、淋しく思っている。

 この“心頭滅却”を快川自身の言葉と思っていたが、山本周五郎を読んでいて、実は唐の詩人杜ジュン鶴(トジュンカク)の七言絶句の結句であったという事を最近知った。ところが、角川書店の日本史辞典で“快川”を調べてみると、この言葉は“碧巌録”の評唱の言葉であるという。“碧巌録”は宋の時代の作品であり、禅宗の原典に属する重要な本であり、たしかに禅宗の“快川”国師が読んで暗記していても不思議ではない。そして、私は日本の友人から送ってもらった岩波文庫の碧巌録”(全三巻)を自分で調べてみて、中巻110頁に確かに載っているのを確認した。しかし、それは転結の二句だけであった。“碧巌録”はこの詩の原典ではなく、引用に過ぎなかったのである。角川の記述は少し、片手落ちであることは否めない。原詩は次のようなものであった。(どうしたことか、山本周五郎も違った引用をしていた。)


夏日題悟空上人院詩                                          トジュンカク 七言絶句

三伏閉門被一のう 兼無松竹蔭房廊 安禅不必須山水 滅却心頭火自涼

さんぷく 門をとじて 一のうをかぶる

かねて松竹の房廊を蔭する無し

安禅 必ずしも 山水を もちいず

心頭を滅却すれば 火もおのずから 涼し


暑さの最も激しい間、寺の門を閉じて、僧衣をまとう

しかも松や竹が寺院の部屋や廊下に陰を落とすに足りない

しかし、座禅を安らかに実行するのに、暑さをしのぐための山水が必要なわけではない。

こころを押しつぶして無心になれば、火でさえ涼しく感じるものだ

                                             ムラタ訳、但し、誤訳の恐れあり。

 詩は、暑さをがまんする方法を述べたものといえ、禅宗の公案、“寒暑到来、如何回避”(さあ、寒暑がやってきた。どうしてこれをしのぐか)のところで、引用されたのも当然と言える。(碧巌録”第43則、洞山無寒暑)。精神を集中すれば、痛みも感じないということは、私達も普段体験することである。音楽を聴きながら勉強していても、本当に考え事をしていると、ほとんど音楽が流れているのに気がつかない。まだ、歯科医などというものがなかった時代、天才パスカルは数学の難問を解くことに精神を集中して、歯痛を忘れ去ろうとしたという有名な話が残っている。


 あさひ学園パサデナ校はサン・マリノにあり、去年、ウエストLAのサンタモニカ校で比較的涼しい夏を送った私は、ここのパサデナ校の暑さに驚いている。生徒達の中にも、扇風機をあさひ学園で購入して、各教室にくばれというものがいる。そこで、私はこの名文句を思い出したわけである。たしかに暑さはひどく、勉強に身が入りにくい。しかし、そうであればこそ、一層、精神を集中して学問に励まねばならないのだ。信長に焼き殺された無数の人間の苦悩に比べれば、華氏90度や100度は、水のようなものである。私達は、あまり、自分に甘えないで、学問に励みたいし、子供達にも頑張ってもらいたいと思う。これは、精神主義であろうか。

(完                  記 1985年7月28日) 


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