内村鑑三の人格の魅力は、河上徹太郎が説くように、明治のある種の人間が備えていた、儒教と武士道の素養で形成されたのは確かだと思います。それは河上肇の自叙伝を読んでも感じられ、岡倉天心にも通じるものです。
「世は如何にして・・・」の魅力は、内村がアメリカの教会主義に飲み込まれず、まさに日本人として誠実に信仰と対決しようとしたところに在ると思います。まさに大和魂を発揮した、すばらしい日本人の半自叙伝です。外国に先に知られて、日本には遅れて輸入されたといえるところが、いかにも日本的です。鈴木氏の訳文は格調の高い名訳だと思います。
旧い文章ですが、そのままコピーしました。
村田茂太郎 2012年3月8日
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小林秀雄の遺作とも絶作とも言うべき未完の傑作“正宗白鳥の作品について”は、いわば、自在の境地に達した達人が、何人かの伝記を通して、“人格”への交渉を確認しようとした作品で、論理が要求するに従って、話しは、正宗白鳥から内村鑑三、河上徹太郎、リットン・ストレイチーに及び、やがて深層心理への言及という形でフロイトとユングに触れられ、ユングの自伝に関する文章の途中で絶筆となった。なかなか味わいのある文章で、とても楽しみながら読めるものであったが、それまで断片的にしか知らなかった、内村鑑三への興味を呼び起こされたのも、この本を通してであった。
正宗白鳥が敬愛した内村鑑三という事で、内村鑑三に関する文章が続くのだが、それがまた、なんともいえない感動的な紹介で、もともと魅力を感じていた内村鑑三に対して、ますます興味をいだかされ、私は日本の友人に、何冊かの本を頼んだのであった。
“代表的日本人”を読み、中公新書の“内村鑑三”を読み、しばらくそのままになっていたが、最近、ようやく、代表作であり、世界的名著といわれる“余は如何にして基督信徒となりし乎”を読み終わった。
実は、この本は、私が高校生の頃、一度、読もうと思って買ったことがあった。当時、岡倉天心の"茶の本“を愛読していた私は、河上徹太郎の”日本のアウトサイダー“などを通じて、内村鑑三にも興味を覚え、文庫本を買ってはみたが、いざ、読もうとすると、文語体の難しい文章で書かれていたことと、キリスト教そのものに興味がなかったせいで、読み始める前に挫折してしまった。
かわって、父が読み終わり、内村鑑三がキリスト教国であるアメリカで、スリがいるのに、ビックリした話などを聞かせてくれた。あの時から、既に二十年以上経ち、文語の文章に対しては、逆に、現代口語文よりも好きになり、抵抗もなく読めるようになったことと、内村鑑三への興味が小林秀雄によって新たに喚起されたため、キリスト教徒の作品という点では、少し、抵抗を感じたが、思い切って取り組む気になった。そして、私自身は、どのような宗教とも関係はないが、この本はすばらしい名著だと思った。どうして、もっと早く読んでおかなかったのだろうと、今更に残念に思った程、感動的で偉大な本であった。
“余は如何にして基督信徒となりし乎”<How I
became a Christian: Out of my Diary> は、1893年、鑑三32歳の時に執筆され、2年後、出版された。原書は英文で書かれ、はじめアメリカで売れなかったため、著者を失望させたが、ドイツ語版が出版されてからは、たちまち有名になり、各国語に訳されるに至った。日本語訳が最も遅く、1935年にはじめて鈴木俊郎によって完訳された。私が読んだのも、この鈴木訳による岩波文庫版である。
内村鑑三は1861年に生まれ、1930年に亡くなった。日本が生んだクリスチャンの中では、最も独創的で大胆な思想家であり、日本土着のキリスト教信仰を志向して、無教会主義を唱えた。明治の生んだスケールの大きな、型破りの偉人の一人であり、明治という時代のもつ土壌の豊饒さを象徴するような人格であった。
この本は、英文副題にもあるように、彼の日記を土台として、自己の精神の成長過程をふりかえってみた半生の記録であり、自伝である。それは、また、信仰の確立を宣言した宗教的闘争の書でもあった。表題日本語は内村自身によって決定せられ、訳者鈴木俊郎は、鑑三の他の日本語の著書に見られる文語調の風格を生かした日本文に移しており、内村鑑三自身が日本語で書いたと思えるほど、格調高く、味わいのある日本文となっている。
この本は、著者によって、人生という海を航海する“航海日記”とも名づけられている。それは、武士の家に生まれ、育ち、儒教に早くから親しんで育った著者が、札幌農学校でキリスト教に接してから、とうとう、ニューイングランドに留学までし、真のクリスチャンとして回心すると同時に、日本的道徳や愛国心に目覚めて帰国するまでの波瀾に富んだ半生の記録である。
私にとっては、あまり好きでない宗教的内容について書かれたものであるにもかかわらず、私を感激させ、名著だと確信させた原因を探ってみたが、それは、結局、キリスト教とは関係なくあらわれてくるところの内村鑑三その人の人間的・人格的魅力のせいであったといえる。札幌農学校時代の朋友との明るく愉快な体験記録から、ニューイングランド、アマースト・カレッジでの、貧しく厳しい環境の中での感動的な体験に至るまで、一貫してあらわれてくるのは、内村自身の雄大な人格的魅力である。
“ヨナタン”と自分でニックネームをつけた内村鑑三(“余は友情の徳の強い主張者であり、ヨナタンのダビデに対する愛が、余の気に入ったからである”)は、自分自身について、“突進的思想”の持ち主とか、“若く理想的にして衝動的である”という風に的確に自覚しており、その同じ、余裕、大胆、ユーモアが文章にあふれている。あくまでも冷静な、批判的精神を失わず、どのような熱狂の中にいても、クールに自分や周囲を観察すると共に、大胆な行動家であり、信念を貫徹する忍耐の人でもある。鋭敏で率直であり、純粋で楽天家でもある。まさに、この人格は、武士と儒教との血統の産物であり、それだからこそ、アメリカで学びながら、逞しく批判していく事も出来たのであった。
河上徹太郎は晩年の名著“吉田松陰”の副題を“武と儒による人間像”と名付けたが、たしかに、明治期にうまれた幾多の優秀な人物達は、本物の教養ともいうべき武士の精神と儒学の道徳・教養を身につけていて、それが、新しい西洋の知識や教養の土台となる事によって、すぐれた日本的成果が生み出されるに至ったのであった。岡倉天心がそうであり、河上肇もそうである。それぞれの個性は伝統的な武と儒の教養を土台として築かれていったわけであり、そこに彼らの自信も強さも、そして、アウトサイダー性も基づいていたといえる。従って、キリスト教への信仰の書であるにも拘わらず、あまり宗教性を意識しないで、個人の成長の記録として、面白く、楽しく読むことが可能なのであり、著者の魅力の中に没入できるのである。
内村鑑三にとって、三年半のアメリカ生活は、彼が本物のキリスト教徒になるうえで必須のものであったのであり、同時に、日本人という武士道と儒教道徳で成り立っている国民への愛国心をめざめさせるものであった。それは、後年、教会に依存しないキリスト教徒の集合としての無教会主義のアイデアを生み育てるものでもあった。
鑑三は、異国で生活する中で、孤独と国民と郷愁についての認識を深めたのであった“逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身について、より多く学ばんがために世界に入っていくのである。自己はいかなる場合にでも、他の国民と他の国に接触する場合ほど明らかに我々に示される事はない。内省は、もう一つの世界が我々の眼に示される時に始まるのである。”
ペンシルヴァニア人医師との接触を通して、キリスト教の教義などよりも偉大な何かを学ぶ事ができた。“真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信を持ちながら、すべての正直な信仰はこれを許容し、寛容することである。余は、ある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。”
1887年11月3日、“余ハ<ネバナラヌ>ヨリ、ヨリ高キ道徳ヲ求メツツアリ。余ハ神ノ恩恵ヨリ来ル道徳ヲ渇望シツツアリ。然シ、カカル道徳ハ人類ノ大多数ニヨリテ拒否セラルルノミナラズ、神学校ノ学生ト教授ニヨリテ信ゼラルルコト甚ダ少キガ如シ。余ハ此ノ神聖ナル壁ノ中ニテハ、外側ニテ聴ク所ノモノヨリ何等新シキモノ、異ナルモノヲ聞カズ。孔子ト仏陀トハ、是等ノ神学者ガ僭越ニモ異教徒ニ教ヘントシツツアル所ノ最大部分ヲ余ニ教ヘ得ルナリ。”キリスト教に回心していても、儒教や仏教の優れたところは、はっきりと見て取っていたわけであり、批判的態度は常に失わなかった。
内村鑑三の醒めた意識は、アメリカの文明の中に耽溺してしまうことはなかった。“余は全く基督教国に心を奪われたのではない。三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最善の厚遇と、余がそこで結んだ最も親密な友情をもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった。そして余はけっしてそうでなくなろうと努力した事はなかった。”
内村鑑三は、日本的武士道と儒教道徳の上にキリスト教が教化されるなら、それは、世界のどのキリスト教国にも例を見ないほどの、ヨリ高く、ヨリ完全な人類の発展段階に達すると考えていたようであり、そのための教育に心を燃やしたらしい。此の書の各所に教会や教団の腐敗や堕落に対する非難の言葉がばらまかれており、西欧文化がかなりまちがったその種の上部建築で毒されている事をハッキリと指摘する。
しかし、鑑三自身のキリストそのものへの信仰はより深まっていく。はじめて、アメリカに着いた時に、同行の一人が貴重な大金をスリとられて、キリスト教国でこんなことがあるのかとビックリした鑑三も、僅かの間に成長し、次のようにまで言うに至る。“最大の光にともなう最大の暗黒というこの光学現象を観察せよ。影はその投ずる光が明るければあかるいだけ濃いのである。真理のひとつの特性は、悪をより悪とし、善をより善とすることである。・・・もし、基督教がすべての人に対する光であるならば、それが、悪を善と同様に発展させる事は不思議とは思われない。それゆえ、我々は当然に、基督教国において最悪の悪を予期してさしつかえない。”
1888年5月16日“夜半。午後九時三十分。家ニ到着ス。神ニ感謝ス。余ハ約二万哩ノ旅ヲ了ヘ遂ニ此処ニ在ルヲ。全家族ノ歓喜際限ナシ。恐ラク余ノ貧シキ両親ノ嘗テ経験セシ最モ幸福ナル時ナリシナルベシ。弟ト妹ハ大キクナレリ。前者ハ元気ナル若者、後者ハ美シキ娘トナレリ。父ト終夜語リ合ヘリ。母ハ世界ノコトハ知ラント欲セズ。タダ己ガ子ノ無事ニ家ニ帰リシヲ喜ブノミ。余ハ神ニ感謝ス。余ノ不在ノ此ノ歳月ノ間中、余ノ家族ヲ守リ給ヒシコトヲ。”
“余は、夜遅く我が家に着いた。丘の上に、杉垣に囲まれて、余の父親の小家屋が立っていた。<お母さん>余は門を開けながら叫んだ、<あなたの息子が帰ってきました。> 苦労の影を増した彼女の痩せた姿の、いかに美しき!デラウエアの友人の選んだ美女に認め得なかった理想的美を、余は再び余の母の神聖な姿において見出した。そして、余の父、この広漠たる地球上に、一エーカーの十二分の一の部分の所有者、-彼もまた立派な英雄、正しい、そして忍耐の人である。・・・ここは余のホームにして、また余の戦場でもある。・・・余の帰宅の翌日、余は異教徒によって発起されたという一基督教カレッジの校長の地位への招請を受けた。奇妙な組織なるかな。これは、世界の歴史に独一である。・・・此処で、此の書は閉じなければならない。余は諸君に如何にして余は基督信徒となりしかを語ってきた。・・・”
孔子のいう“述べて語らず”の方法をとらざるを得ないほど、叡智と感動に満ちた本であり、充実した本であった。伝記文学としても傑作である。人格への感銘がいつまでも残る名著である。
(完 記 1985年12月31日)
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