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3/06/2012

“ヘルマン・ヘッセの童話”

わたしはどうしたことかヘッセの「ペーター・カーメンチント」が大好きで、これだけは何度も読み返しています。一応、子供たちにヘッセ案内をかねて、特に”メルヘン”のすばらしさを伝えたいと思いました。旧い文章です。アメリカでは1960年代いわゆるベトナム反戦の世代が「荒野の狼」などを愛読したようです。童話というものについて少しだけ考えたものです。

村田茂太郎 2012年3月6日
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 ヘッセは、トーマス・マンとともに、二十世紀前半のドイツ文学を代表する優れた作家であり、日本では高橋建二氏らが、早くから、ほとんど完璧な日本語訳を刊行していたのに対し、アメリカでは一般に親しまれだし、翻訳され始めたのは1960年代後半になってからであった。

 日本では、青少年の間では、甘美で若々しく、繊細な作品を書いた人として知られていたが、もちろん、その程度の理解なら、ヘッセの半分もわかっていないとハッキリ言える。人によって好き好きであるが、私が択ぶヘッセの代表的五大作は“ペーター・カーメンチント”(郷愁 または 青春彷徨 と訳されている)、“デミアン”、“ナルチスとゴルトムント”(“知と愛”と訳されている)、“荒野の狼”、“ガラス玉演戯”である“ペーター・カーメンチント”を除くと、どれも社会的・時代的・方法的・内面的に問題作であり、ヘッセは“ガラス玉演戯”によって、ノーベル文学賞を受けた。まさに、ヘッセの最も円熟し、完成した最高傑作であり、また、それだけに淡々とした難解さを含んでいる。“ゲルトルート”(春の嵐)とか、“ロスハルデ”(湖畔のアトリエ)などは、ヘッセ研究には役立つが、以上の五冊にくらべると、どうでもいいようなものである。人によっては、“ペーター・カーメンチント”のかわりに、“シッダルタ”をとるかもしれないが、私にとっては、“ペーター・カーメンチント”こそ、最も大切な作品であり、大好きな作品である。この作品だけは、既に2-3回、読み返している。出世作であり、自然児ペーターを主人公とした、みずみずしく、生気溌剌とした作品で、消耗した精神を癒し、元気付けてくれるものをもっている。単純な美しさで輝いている。

 そのヘッセに、“メルヒェン”と題する短編集がある。メルヒェン とは、ドイツ語で“童話”のことであり、その名のとおり、この“メルヒェン”には、“大人のための童話”が何篇か集められている。優れた作品を数多く発表したヘッセの作品の中でも、最も美しい作品の一つであり、サン・テグジュペリの“星の王子さま”と同じように、一度読むと、いつまでも心に残り続ける名作集である。中でも、“アウグスツス”と“アヤメ”は傑作である。単なる童話に終わらないで、愛とは何か、生とは何か、死とは何かを深く考えさせる重みをもった作品となっている。

 小さなアウグスツスは、夫をなくした、若く貧しい母親に祝福されて生まれてきた。母親は名付け親のおじいさんの忠告に従って、一つの願いをささやいた。“みんなが、お前を愛さずにはいられないように!”と。アウグスツスは美しく育っていき、誰からも愛され可愛がられた。悪い事、間違った事、ひどいいたずらをしても、誰もが気にしないで、やさしく許してくれた。時々、母親として厳しくしかると、アウグスツスは、みんなは自分にやさしくしてくれるのにと不満を言うのであった。それで、母親は、みんなが彼を好くのは、自分の責任だ、あんな願いをしないほうが良かったかもしれないと、悲しみながら、ほとんど恐怖の念にかられるのであった。アウグスツスはだんだん悪くなっていった。誰からも愛され、甘やかされ、人気があるので、ほとんどあらゆる種類の犯罪や悪徳に耽るばかりであった。そのうちに、すべてに厭きてしまったアウグスツスは、何に対しても喜びを感じなくなった。彼の汚れた人生は、醜く、生活は無価値で、生き甲斐もなにも感じなかった。とうとう、或る時、アウグスツスは一つの決意をした。友人達をパーティに招き、自分の死体を見せてやろうと。

 いよいよ自殺の決意をして、毒杯を飲もうとしたとき、どこからともなく、名付け親の老人が現れて、彼の代わりに飲んでしまった。あらゆる悪行をしてきたアウグスツスだが、この老人に対してだけは、懐かしい気持ちをいだいていたので、驚いて叫んだ。老人は、全てを理解している風をして、“君の不幸の一端は自分にある。なぜなら、お母さんが君の洗礼のときにかけた一つの願いを、おろかしいものであったが、かなえてやったからだ。その願いが、どのようなものであったかは、君は知る必要はない。それが、呪いになったことは、君自身感じたとおりだ。”と言い、“最後に、もう一つだけ、君の願いをかなえてあげたい。まさか、今更、きみは、カネや宝や権力や女の愛を欲しがらないだろう。堕落した君の生活を、再び、より美しく、より良くし、君を再び楽しくするような不思議な力があると思ったら、それを願いなさい。”とアウグスツスに言った。アウグスツスは、はじめは、このまま死なせてくれ、もうどうしようもないのだからと言っていたが、最後に、あの母親のくれた古い魔力を取り消して、その代わりに、“ぼくが、人々を愛する事ができるようにしてください。”と頼んだ。

 翌朝、目が覚めたアウグスツスは、パーティにやってきた人々や今まで彼の悪徳の犠牲となっていた人々に囲まれて、暴行され、告発され、有罪となって入獄した。彼は、何もかも成り行きに任せた。出獄したとき、彼は病み、衰えていた。しかし、今では、空虚や孤独は無く、さすらいの旅をしながら、どんな人を見ても喜びを感じ、心を動かされるのであった。年老いたアウグスツスは、今や、自分の持っているわずかなものを喜んで与え、ちょっとした行為や身振りにも心から感動するのであった。彼は、世の中の不幸を知り、それにもかかわらず、人々は、楽しく、明るく、やさしく生きているのを知った。彼は放浪の旅のなかで愛と忍耐を学んだ。ますます年をとり、歩みもたどたどしくなり、記憶も衰えてきたある冬、彼は名付け親の家の前に立っていた。戸をたたくと老人が迎え入れてくれた。老人は、アウグスツスの心がきれいになり、目がやさしくなっているのを見て取った。あまりにも疲れていたアウグスツスは、子供の頃、名付け親の老人がよく聞かせてくれた、美しい、天上的な音楽に耳を傾けながら、天国への深い眠りについた。

 文庫本で30頁ほどの小編であるが、読み終わったあと、何か大変な大作を読み終わったあとのような、深く、しみじみとした感慨に襲われる。愛とは、人生の幸福とは何であるのだろうと、フト考え込ませるものをもっている。愛されるということと、愛するということとの違いは何なのか。アウグスツスという子供の成長と彼の不幸な人生を辿るうちに、私達は、ヘッセの全ての作品の底を流れる、暖かい人間性と、苦悩に包まれた人間への深い洞察が行間からよみがえってくるのを感じずにはいられない。ヘッセはロマン的な資質をもった詩人であると同時に、人間への深い理解と時代や社会に対する鋭い批判力を備えた逞しい批評家であり、深い思想家であった。しかも、彼自身は、終生、純真な子供の心を持ち続けたひとであった。“ペーター・カーメンチント”や“メルヒェン”の作者であると共に、鋭い社会批判と独創的な構想力を持ち、孤立を恐れず、自分の思想に忠実に徹する勇気を持った人であった。孤高な風貌を備えたこの詩人のどこからあのエロチシズムが湧き出てくるのかと思われるような作品“ナルチスとゴルトムント”の作者であると同時に、深遠な東方思想探求の小説“シッダルタ”の著者でもあるという、深みと多様さを兼ね備えた人物であった。そして、“メルヒェン”は、それだけの深遠さと自然児のもつ単純な美しさが生み出した傑作であり、何気ない表現の中に、ヘッセの深い叡智が輝いているのを、私達は知るのである。

 もう一つの名作“アヤメ”(Iris)も、子供の頃、アヤメを愛し、夢想に耽っていたアンゼルムが、年をとるにつれて、子供の頃の夢を忘れていく話しを扱っている。成長して、有名な学者となったアンゼルムだが、心に幸福は感じなかった。そんなあるとき、イリス(アヤメ)という名の女性と出会い、なぜかわからないが心に快いものがわきあがってくるのを感じ始める。とうとう、年上の彼女に結婚を申し込むと、イリスは、自分は心のなかの音楽を大切にして生きているので、一緒にくらす男の人自身の音楽も純粋で、充分、自分の音楽と微妙に調和する人でなければならないと言い、あなたは自分の名前を口にすると、あなたにとって神聖であった何かを思い出すような気がすると言っておられた。それは、今のあなたが、大切なものを失っているからであり、その大切なものを見出したときに、喜んで結婚しましょうと言う。アンゼルムにとって、この課題はむつかしかった。とっくに忘れてしまった事を思いださねばならないのだ。彼は学者としての仕事も忘れて、自分の過去を追った。そうして、世間からは変人だと思われるようになりながらも、忘れていたいろいろなものを発見していった。あるとき、友人が来て、イリスが死の床にいると伝えた。久しぶりで出会ったイリスは、自分が与えたむつかしい課題を解こうとして、あなたが進んでいる道は、あなたのためにしているのだと言う。アンゼルムが求めたもの、名誉も幸福も知識もイリスも、すべてきれいな形に過ぎない、それらは、すべてあなたから離れてゆくといって死んでいった。アンゼルムは青いアヤメを与えられた。アヤメを見ると、彼は何かを思い出した。そして、とうとう彼は深い森の中にはいっていった。

 これらの作品は、人間の幼年期のもつ、純粋で熱狂的な幸福とその美しさを、童話的なイメージで捉えようとしたものといえるであろう。

 童話とは一体何なのであろう。童話はふつうは子供のために書かれてきたが、このヘッセのメルヒェンのように、大人を対象として書かれたと言えるものや、大人が読んでも、充分深い味わいのある名作もある。

 “星の王子さま”なども、どちらかといえば、子供時代のもつ純真さを喪失した世代に対する深い反省の書といえる面が強い。そして、この“星の王子さま”にも、いつの世にも真実である人間の世界に対する深い洞察が盛り込まれている。王子さまとキツネとの対話の中にそれがハッキリとあらわされている。

 一般に、童話のストーリーは単純であり、その中で、語られたものの形象的イメージの美しさは比類が無い。そうして、成功した童話においては、人生の真実が、その単純な美しさのなかに、ちりばめられていて、子供だけでなく、大人も、しみじみと考えさせられることになる。

 人生の深い叡智を語るのに、何も膨大なボリュームを必要とするわけではない。そして、誰もが、たやすく読める童話こそ、単純ゆえに美しい象徴のイメージをかりて、語りたい事を語る最良の手段といえるかもしれない。

 もちろん、すべての童話が、深遠な思想を秘めているわけではない。本当に、子供の間だけしか楽しめない種類の童話も多い。しかし、一方では、大人になって、ますます楽しく、しみじみと味わえる作品もある。宮澤賢治の童話もそうした、高度な文学作品である。

 最近、わたしは、“セロ弾きのゴーシュ”や“風の又三郎”、“銀河鉄道の夜”、“どんぐりと山猫”などを読み返し、とても楽しいひと時を過ごす事ができた。最近は、日本でも、この宮澤賢治の再評価が行われていて、ある人は宇宙的な規模で、その人類的全自然愛に満ちた思想を展開した比類ない日本人または唯一の日本人と評価するに至っている。賢治にとっては、童話こそ、愛とユーモアに満ちた彼の美しい思想を、みごとに、誰にでもわかりやすく表現する手段であったのかもしれない。ともかく、わたしにとっては、人間と自然との融和を暖かく心楽しくうたいあげた天性の詩人であり、天才童話作家である。日本文芸が宮澤賢治という童話作家をもっていることは、世界に誇れる出来事であり、今に賢治を日本語原典で読むために、日本語を勉強する外国人が沢山あらわれるであろう。

 ヘルマン・ヘッセの童話も、また、ヘッセの深い人生体験と清らかな詩人の資質の融合の中から生まれた美しいイメージで成り立っていて、人間や人生に対して、目を開かせてくれるだけの深みを秘めている。そして、単純なイメージが生み出す余韻は、なんともいえない感銘を与える。そうして、自分もいつか比類なく美しく哀しい童話を書いてみたいという夢をもたせるに至っている。しかし、もちろん、欲望だけではダメで、清らかな心と比類ない芸術家の資質が要求される。しかし、夢はもっていたい。
(完                     記1985年8月1-2日)

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