「人との出会いー道元の場合」の文章で、中国にわたった若い道元がお寺の炊事係の老人と出会って、親しく話し合い、意気投合して、2-3年後、再度あったときに、道元の質問に対してこの炊事係の僧がこたえた言葉として伝わっていることを紹介しました。
「弁道とは何か」という質問に対して、“偏界嘗不蔵”。真理は、仏教の本質は、隠れたところに在るわけではない、あるがままの世界に在る、というような返事。これを聞いて、もちろん、そのころの道元は、すぐに理解したわけでした。
わたしはこの言葉が大好きです。
誰か字の上手な人に、揮毫してもらって自分の部屋にかけておきたいといつも思います。
わたしも、人に頼まれたら、この文言をえらびたいと思いますが、わたしは字が下手だし、まず、その前に、有名人でも大家でもないので、そんなことは起りえません。それほど、この言葉が好きです。
漢字によって書き方はちがうことがありますが、Henkai はこの自然界、森羅万象、世の中のすべて、Katsute Kakusazu はあるがまま、何かの秘密、真理がどこか隠れたところに在るというものではないということ。すべて、見えるものには見える、ということ?
わたしはこの意味を、自己流にこう解釈しています。
たとえば、音楽を聴く、美術品を見る、骨董を味わう、本を読む、すべてにおいて、自分を鍛え上げれば何でもわかることは可能。普通の人は普通の能力でわかるところまでしかわからない。奥が深く、限度が無い。ものを見る目、音を聞く耳、あるいはWine Tasting,料理の味のみわけ、哲学書や文学書の読解。すべて、自分を鍛え上げ、磨き上げる事によって、奥が深まり、どんどん成長していける世界です。
鉄斎や雪舟・良寛をホンモノと見極める力、ピアノ曲や交響曲を聴いても、わかるひとには誰の演奏とかわかります。大江健三郎氏の小説を読むと、ちょっときいただけで、誰の作曲によるなんと言う作品で、演奏は誰とすぐに答えることができる才能をもったひとが登場します。
今、ふと考えていて、サイキック・超能力者というひとも、その特殊な才能を普通のひと以上に育て上げた人に違いないと思いました。それがうまれつきであったにしても、才能は努力して伸ばさないと枯渇する可能性は強いわけですから。
わたしにとっては、この言葉は、自分を刻苦勉励、励ますことばとして、まさに簡潔に人間界の真理を表しているように思えます。すべて、わからないのは、自分の勉強不足のせい。わかるひとにはわかる。なんという厳しい世界でしょう。果てしなく努力を続けるほか無いということ。
ともかく、たったの五文字で、深遠な世界の秘密を明らかにしているように思えます。
村田茂太郎
2012年3月2日
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