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3/07/2013

ある年の国語文集―1989年度 サンタモニカ校 中学2年1組 その2-2

ある年の国語文集―1989年度 サンタモニカ校 中学2年1組 その2-2

 サンタモニカ校中学2年生 国語文集 その2 の残りの作文集です。

 わたしはサンタモニカ校に主事補としてやってきたので、この1989年度のクラスは3科目4時間も担当しながら、クラス担任ではなかったので、保護者との個人面談のチャンスがありませんでした。

 パサデナ校にいたときは、担任であったため、空き時間を使って、年1回の授業参観、保護者個人面談を待たないで、有志の保護者と空き時間にアポを取って、面談を行ったときもありました。わたしは生徒指導も大事だが、保護者の理解も何よりも大事と考えて、私の書く文章も保護者の方に読んでいただいて、わかっていただくつもりで生徒と親を対象に書いていたのでした。

 サンタモニカ校にいた5年ほどは従って、クラス担任でなかったのが残念でした。

 パサデナ校の子供たちも皆すばらしかったけれど、サンタモニカ校の子供たちも本当にかわいいものでした。その間、授業が終わって、クラスが解散になってから、職員会議がはじまるまでの25分ほどをつかって、わたしはパサデナ校ではじめていた放課後の古典講座と称して、漢文と百人一首を、有志を対象にやりはじめました。主に中学生全体の中の有志ということでしたが、小学4年生の子供もまじったりして、時には保護者の方も参加・見学にきておられました。子供たちは百人一首や漢詩を楽しんでくれました。わたしがエルパソに移動するため、途中でやめなければならなかったとき、漢文の中の有名な故事を何枚かの絵にえがいて、私に餞別として、くれた生徒がいました。

 わたしはありがたいことだと思いました。

 それぞれの科目を担当した思い出のほかに、この放課後の古典講座の思い出も私を楽しませてくれます。わたしは小学3年生の時に百人一首を全部暗記し、15歳の時に白居易の長恨歌を全部暗記しましたが、そういう自分の子供の頃を思い出しながら、それを海外子女教育で生かせたのはありがたいことでした。百人一首や長恨歌、たくさんの漢詩の暗記がどれほど私自身の国語教育に役立ったことか。理科系の高校生活、工学部2年半で中退、という経歴にもかかわらず、京大文学部を目指して予備校にいたあいだに、3年間のブランクにもかかわらず、時には国語で1番という成績をとれたのも、この身についた古典に対する感覚のせいであったと思います。それらの思い出が、わたしの”言語と文化”論、国語教育論などの土台となっています。そして、高校で受けたすばらしい国語教育と恩師の熱情に接したことが。

 この子供たちの立派な作文を見ていると、私は自分の子供の頃はほとんど作文など書かなったことに気が付きます。覚えているのは小学校3年の時の遠足についての作文、そして中学3年のときの修学旅行のあとの作文だけです。当時、クラスの生徒は50人ほどいたわけで、もし全員に作文を書かせ、わたしがこの補習校で実行したような添削・補注・感想をひとつひとつ施せばこれは大変な作業で、1年に1回できればいいほうでしょう。あさひ学園は多くて20名を少し超える程度で、教育指導にはほどよいクラス構成であったので、効果があがったのだと思います。

 ともかく、私自身に関しては英語と数学が得意科目で、国語は高校で素晴らしい教師に出会うまでは特に好きでもなかったのに、国語ではトップ・クラスの仲間にはいるほど好きになり、上達したのは、好きこそものの上手なれという故事成語は真実をついたものであると言え、なんでも好きになるような指導を行うことが大切だと思いました。

 DNAの発見者ワトソンの”DNA”という本の中に、ある高校の理科の教師の指導した生徒の中からノーベル賞受賞者が3人も出たという話が書かれていました。これは偶然ではありません。その女の教師が科学指導で優秀であったのはまちがいありません。ノーベル賞を受賞したI.I Rabiというアメリカの科学者の指導した弟子の中からノーベル賞科学者が十数名でました。これも偶然ではありません。みなその人の指導力のたまものです。教師の役目は子供たちに好奇心・探求心・関心を目覚めさせ、その育成を手伝うーソクラテスの言う産婆役をすることであると私は思います。わたしが寺子屋的教育指導が大切だと思うわけです。

村田茂太郎 2013年3月6日


















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