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4/25/2013

Cynthia Koestler (アーサー・ケストラーの妻)の自殺をめぐって 並びに テオドール・アドルノーの妻グレーテル・カルプルスについて


Cynthia Koestler (アーサー・ケストラーの妻)の自殺をめぐって  並びに テオドール・アドルノーの妻グレーテル・カルプルスについて




 2012年4月30日、私はこのブログで「自殺論その後」と題して、アーサー・ケストラーとその妻シンシアが一緒に睡眠薬自殺した話を述べた。最後に、つづく と書いてある。あの時は、まだ Stranger on the Square を読み終わっていなかった。そのあとすぐに読み終わったが、それについては、何も追記をしなかった。これが、その続きである。
 

 Arthur Koestlerが77歳で自殺した時、いろいろな病気を抱えて、時には意識さえはっきりしなくなりかけていたケストラーが、自殺を選んだのは間違いではなかった。丁度、ゴッホが狂気に襲われる前に自殺したのと同様で、正しいことであった。

 ケストラーの臨時ヘルパーTypistからワイフになって、トータル25年以上ケストラーとともに生きた Cynthia Koestlerが55歳で、ケストラーと共に、その健康な肉体を自分の意志で葬ったとき、はたしてそれでよかったのだろうかという疑問が湧いて当然である。

 普通、有名文化人が亡くなった後、その妻または夫が生き延びて回想録を書いたり、原稿を整理したりするのが常である。

 今、わたしはドイツの20世紀を代表する哲学者の一人 Theodor Adornoテオドール・アドルノー とその妻について考えている。アドルノーは私の好きな哲学者で天才的な文化人である。音楽家 Alban Bergの弟子で、Schoenbergに詳しく、Thomas Mannが「ファウスト博士」を書き上げたとき、アメリカで12音階に関するシェーンベルクの音楽を Mannに指導・教示したのはアドルノーであった。作曲も行い、ベートーヴェンのピアノ・ソナタも自分で演奏し、重要な音楽論や Beethoven, Mahler, Wagnerなどに関する研究書、著書(遺稿)を表し、文学や美術や社会学やジャズにまで言及し、鋭い知性のきらめきをあらゆる分野で発揮することができたBrilliantな哲学者であった。その精髄は主著「否定弁証法」に結実する哲学的思弁性、ヘーゲル、マルクスなどから学び、とりだした弁証法の精神であった。最近、私がアマゾンから購入した Dr. Susan Buck-Morssの“The Origin of Negative Dialectics”を読み始めているが、これは彼女の博士論文から発展したもので、アドルノーの精神の成長の跡を膨大な文献で追跡した興味深い哲学書である。アメリカでこのアドルノーを含む批判哲学について史的な研究を発表したのはカリフォルニア大学バークレー校のMartin Jayであるが、日本では大阪大学に居た徳永恂(とくなが まこと)であった。わたしがはじめてアドルノーに興味をいだいたのも、徳永の「社会哲学の復権」という書物に触れたからである。Critical Theory 批判理論 はまさに名前が示すように教条主義のマルクス主義から離れて原理的な批判精神を武器にヨーロッパ・アメリカの文化現象・社会現象を鋭く切り裂いてきた。ナチスの出現後はアメリカに基地を移し、そしてまた、アメリカがマッカーシー旋風で右傾化すると、ドイツにもどって戦後思想界をリードしてきた。サルトルの実存主義とフランクフルト学派の批判理論が戦後のある知的世界のリーダーであった。

 そして、ホルクハイマーとともに、批判哲学を世界的なものにし、その中心メンバーとして、輝かしい数々の知的労作をものにしたのがアドルノーであった。かれの関心は、いわゆる純粋哲学の領域にとどまらず、あらゆる文化現象に関心を抱き、哲学的な考察を投げかけたのであった。

 わたしはアドルノーの哲学について論じるだけの素養も能力もないのが残念である。大学時代、もう少し熱心に勉強しておくべきであったと今更のごとく残念に思われる。卒業後は Accounting経理の仕事でほそぼそと飯を食い、ロサンジェルス補習校あさひ学園の教育で私の人生で最大の生き甲斐を感じながら、あとは趣味的な読書と音楽鑑賞、そしてエルパソ、テキサスに移ってからは自然探訪で過ごしたわけで、いまさら後悔しても始まらない。ここで、アドルノーを取り上げたのは、彼の死後の妻のありかたを、ケストラーの妻の場合と比べて、参考にしようと思ったからである。

 その天才的なアドルノーがまだ20歳の時に出会った女性がグレーテル・カルプルス(正式の名前はマルガレーテ・カルプルス)という金持ちの娘であったが、彼女は23歳で化学でPh.D.をとるほどの人物であった。このとき、グレーテルは21歳であったが、最初の出会いで彼女は「運命の人は彼しかいない。」と感じたそうである。婚約してから正式の結婚まで14年かかるという異常な関係であったが、それはアドルノーが66歳で亡くなるまで、40年前後続いた関係であった。アドルノー自身はほかの女性と愛人関係に入ったりと自由にくらしていたが、グレーテルはそれを認めるだけの余裕があった。つまり、彼と彼女は共生的な関係でむすばれ、それは一生続いたのであった。そして、66歳でアドルノーが亡くなったあと、彼女はアドルノーの草稿を整理して(もちろん、ヘルプもあって)、重要な論考「美の理論」を出版し、そのほかの草稿も出版、全集も企画し、天才的な哲学者・文化人、夫アドルノーのために全力をささげつくし、みな、うまくいくのを見届けて、睡眠薬自殺を図った。うまく死ねなくて、そのあと、人の世話になりながら23年間生き延びて、91歳で亡くなったという。(資料、アドルノ伝、作品社 シュテファン・ミュラー・ドーム 生誕百年記念決定版伝記)。生前も善き伴侶、相談役であった。化学でPh.D.を持つ女性が、哲学者アドルノーの Brilliant輝かしい才能の魅力にとりつかれ、最後までその熱情を全うしたということである。

 私にはアドルノーはむつかしく、ほとんどわからないのだが、彼を読むと、ものすごい刺激を受けるというのが私の常で、今も、「三つのヘーゲル研究」というむつかしく、また素晴らしい論文を読みながら、カントやヘーゲル、キルケゴールその他をもっと勉強しておくべきであったという気持ちが湧きおこる。私は批判理論のほかのメンバー(有名な人がいっぱいいるのだが)にはほとんど興味が湧かない。まさにアドルノーであればこそ、という気がする。

 1966年のアドルノーの死後、そのようにして妻グレーテルは、夫の未完の“美学”に関する草稿を完成させ、出版することに成功した。ほかにも、ともかく、亡き夫アドルノーの創出した数多くの才能を後世に伝えることに努力し、これで満足ということで、自殺を決意した。そのときに成功して死んだかどうかは問題ではない。 21歳の時に出会って、「運命の男」と認めた夫と40年共生し、夫を助けながら、夫が20世紀を代表する哲学者の一人、文化人の一人として世界史に残る助けをし、満足して、死ぬ決意をしたということである。彼女は“Soul Mate”を会ったすぐに認めたということであり、彼が亡くなれば、生きる意味がなく、ただ、彼の残した仕事を世に出す作業に生きがいを見出し、それが無事終わったのを見届けて死のうとしたということである。

 さて、ケストラーも何人かの愛人関係を持ったりして、その妻として、あるいは妻になるまでの関係も大変であったに違いないが、ケストラーの場合、彼の数多くの著作の産出に直接関係していた Cynthiaにとっては、自分の生み出した作品世界ではないが、ケストラーの頭の中の世界と密接に関係する生活を続けていたわけで、ただ著名作家・思想家の妻という関係ではなかったわけであった。「Stranger on the Square」というアーサー・ケストラーとシンシアの共著といえる、ケストラーの自伝的な作品、そして部分的にはシンシアの自伝を読むと、なぜ、55歳の健康な女性が夫と一緒に死ぬ決意にいたったのか、なんとなくわかるようになる。

彼女にとっては、アーサー・ケストラーが生み出してきた世界と彼女自身は一体であったのであり、夫ケストラー亡きあとの世界など想像もできなかったに違いない。それは、ワイフとして家庭を守り育てるというような生活ではなく、ケストラーが生きた世界をまさに一緒に生きるという生活であったに違いない。ケストラーはヨーロッパのさまざまな知識人と対等に交流したが、その世界に巻き込まれてしまった南アフリカ出身のシンプルな女性には、もうあともどりすることなどできなくなっていたに違いない。わたしはケストラーの科学的な、興味深い本をいくつか持っていて、楽しく読んだが、それらは、実はケストラーの口述を秘書としてあるいは妻として、筆記、タイプしながら、そして編集しながら、そのケストラーの生み出す世界を一緒に生きていた女性が本として生み出したものであった。ケストラーは自分でタイプしたり書き留めたりする代わりに、いつも口述していた。そのために、秘書をやとっていたわけである。そういう次第で、ワイフ・シンシアは自然とケストラーの知的世界に巻き込まれ、抜け出せなくなり、ケストラーの死とともに、自分の世界も崩壊すると感じたに違いない。

Stranger on the Square を読むと、シンシアはまだケストラーと結婚していない時でも、彼の世界に没頭しすぎて、彼に限りなく近いという印象が絶えたある時期、自殺の考えをいだきはじめ、それで安心したという記録がある。(P.159-160)。

ケストラーは非常に幅の広い活躍をしたひとで、その付き合う人も作家だけでなく、科学者、哲学者、思想家とほとんどあらゆる領域に及んでいた。そして、ただ考えるだけでなく、それを本に表わしてきた。そのすべてにシンシアのTypingとEditingがかんでいたら、ケストラーの生きた世界がなくなれば、そのときのVoid空虚感は限りないものとなるであろう。世界の知識人たちと交流する非常に刺激的で楽しい世界、それがアーサー・ケストラーの世界であったのであり、そのサポーターの役目を果たすようになったのが、シンシア・ケストラーであった。彼女はケストラーをささえることで、自分を楽しみ、生き続けることができたのであった。ケストラーが亡くなれば、もう空虚しか残らないと感じたのであろう。

私は、なるほどこういう生き方・死に方もあるのだという深い感慨におそわれる。

ケストラーの場合は直接シンシアが助けていたので、未完の作品などほとんど残らなかったであろう。この最後の作品を除けば。

アドルノーの場合は大学講義草稿や音楽、哲学、文学、その他あらゆる部門にわたる草稿が残されていたわけで、「運命の人」が亡くなったとき、未亡人グレーテ・カルプルスは天才アドルノーの作品を世に知らせることを自分の務めと感じ、それが達成されて、安心して死ぬ決意をしたのであろう。

10代、20代等の自殺は問題だが、こうして50歳を過ぎた人間が自分の役目を果たしたと感じたときには安心して死ねるということがわかる。自殺の問題は、私の大学時代に、クラスメートが実行して以来、いつも気になる問題であったし、心霊現象の科学について考えているときも、自殺者はどうなるのかということは、大きな問題であった。まだ若い人間が自らの苦悩を免れるために死ぬのは、やはり問題であると思う。その対象が何であれ、すべてを達成したと思う人間が自分の意志で死ぬとき、それは一つの完成であるということかもしれない。

村田茂太郎 2013年4月24日、25日

私のブログ公開777件目を記念して。

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