Translate 翻訳

9/13/2018

寺子屋的教育志向の中から - その29 作文のすすめ1、2   私の作文指導・何を書くのか

寺子屋的教育志向の中から - その29 

作文のすすめ1、2    私の作文指導・何を書くのか



作文のすすめ - 1               私の作文指導


 誰もはじめから上手な文章を書くわけではない。ふだんから注意して書き続けることによって、書く楽しみを知り、表現の面白さや苦労を知るようになる。書く訓練をつづけるうちに文章表現のコツがわかってくる。誰が読んでもわかる文章や内容のある文章を書く力をつけるためには、それ相応の努力を続けることが大切だ。


 国語指導において、何が最も効果的かと問われれば、私は躊躇なく作文指導と答える。既に、今までの体験から、それが最も大事なものだと私は確信している。作文、つまり文章表現の中に、その時点での自分が持っているすべてが明らかとなる。漢字・語句の理解や用法は言うまでもなく、日本語としての文章表現力、その本人の感受性や判断力、性格、想像力といったすべてのものが表わされる。これはある意味では恐ろしいことである。


 この世界―文章表現の世界においては、嘘やハッタリが通用しないのだ。○×式の問題なら、ごまかしがきくことがある。作文の世界においては、自分の持っているすべてを発揮するしかない。近年、高校入試、大学入試で必ず小論文や作文の問題が出されるのは、理由があったのである。ところが、やっかいなことに、この作文力は、試験だといって、あわてて勉強しても、スグに身に付くものではない。これは隠れた教養ともいうべき、ふだんからの努力と忍耐の集積によって、絶えず日常的に訓練していくなかで、はじめてしっかり確立されていくものである。そして、残念な事に、日本に於いても、海外に於いても、作文を強制される機会は少ない。そしてまた、作文はただ書くだけでなく、誰か適切な指導者が居て、はじめて最高の効果を発揮するものなのだが、なにしろ添削・評注は膨大な時間とエネルギーと気力を要するやっかいな仕事なので、なかなか徹底できない事になる。


 従って、通常、現れるのは有志の作文集であって、添削・評注は欠けている。私は以前から、生徒諸君の全員の作品に対して評注を加え、全作品を国語文集としてまとめるという方針をとってきた。本当は、今回も、同じ方法で行きたいところだが、国語文集にまとめあげるためには、膨大なコピー機使用となるので、私一人が占領してしまう事になり、他の先生方や事務局にも迷惑がかかるので、今年は残念ながら、多分、一回ぐらいしか文集に纏め上げることは出来ないであろうと思われる。しかし、個々の評注・添削は行うつもりである。


 文章は、二つの面から判断することが出来る。内容上と表現上とである。くだらない内容について書いてあっても、文章表現としては、すばらしく見るべきものがある文章もある。また逆に、表現上は少し、舌足らずだが、その表現を通して表わされた内容は傾聴に値するというものもある。従って、諸君は、どのような文章であろうと、恥ずかしがらず、堂々と書き表して欲しい。訂正箇所が多ければ多いほど、成長する機会も多いわけであり、大人になってから意味の通らない文章を書いて、恥をかくよりも、今のうちに練習を積み重ね、学び続けるようにしよう。1993



作文のすすめ -2                  “何を書くのか”


 生徒諸君の中には、作文を書けといわれたとき、何について書くのかテーマを与えられないと書けないひとが多いらしい。あまりにもくだらない本が沢山氾濫している現代では、“なぜ書くのか”を自問することも大切だが、小・中・高生といういわば作文力・表現力を磨き上げている時期においては、何でもよいから書くことがまず大切であり、その際、自分で書くテーマを見つけるのが望ましい。


 私は今まで積極的に文章を書き、生徒諸君への参考に供してきたが、その意図の一つは、題材が何であれひとつの手がかりを中心にしていろいろなことが展開できるという事を示すことにあった。私の題材は読書の感想からであったり、テレビの感想であったり、終業式での教頭の発言であったり、自分の過去の思い出であったりといろいろ多様である。


 単に生徒諸君を刺激しようとして知識を整理しただけの文章もある。私は自分の書いたものを読み返してみて、知識を整理しただけのような文章は自分でもつまらないと思う。やはり、どのような小編であろうと、自分が主体的にコミットしたようなもの、いわば、自己にとって必然性を持っていたようなもののみが、いつ読み直しても、何かが書いてあると思えるものである。従って、やはり、文章を書く上で大切なものは、自分とのかかわりにおいて掴み取られたものであると思う。それが哀しみであれ、怒りであれ、喜びであれ、何らかの心からの感動をバネとして表出されるものには、ホンモノの血が通うということが出来る。


 大切なことは、そのような体験をいかに生み出すかであり、それにはいくつかの方法があると考えられる。いわば、自分が居る日常性をどう破るかであり、1 新しい体験(旅行、ショッピング、映画、ビデオ等)、2 ニュース(テレビ、ラジオ、新聞 等)、3 会話(友人、親、教師 等)、4 読書 、5 状況と思い出 といったものが、それらの契機として考えられる。


 ニュースや旅行が大切なのは、ふだん埋没してしまいがちな日常性から精神を高揚させ、刺激してくれるからであり、そのことによって、発展を求めている精神は怠惰から覚めて、より高度な段階へと自分を高めようとするからである。そして、どちらかというと、テレビや映画は映像を一方的に提供してくれるのに対し、読書は自分で自由なイメージを築くことができ、想像力を鍛え上げることが出来るのである。何でもそうだが、無限の能力を持っている人類も、自分で鍛え上げ、伸ばしていくことによって、一層、すぐれた能力を発揮するわけであって、努力なくしては何ものもある基準以上には伸びない。史上の天才たちはそれぞれの領域で死にものぐるいの努力を行ったのであり、そのようにしていわば自分に打ち克った人だけが、それぞれの仕事をなしとげてきたわけである。諸君もすべてに真剣にコミットすれば、自分の意見を持てるようになり、そうすれば何を書くのかを悩まなくても、書きたいことがいっぱいあるようになっているだろう。読書はそういう体験をふやす貴重な機会である。

(記 1986年4月)村田茂太郎

No comments:

Post a Comment