Translate 翻訳

9/07/2018

寺子屋的教育志向の中から - その23 “授業の在り方” (回想のモデル講義)

寺子屋的教育志向の中から - その23 
“授業の在り方”          (回想のモデル講義)   



第四章 「授業・教育・学習」をめぐる考察



 “授業の在り方”          (回想のモデル講義)   



 大学での授業(講義)の在り方が、中学校や高等学校において、そのまま適応するものでないことは明らかである。しかし、大学での一つ一つの講義の在り方から、何らかの教育的教訓をつかみとることは可能であり、その成果を中高教育に実践することも可能である。そのような例として、私は、私が二つの大学でとった、一般教養の”美術“の講義を思い浮かべることが出来る。


 京都大学の一回生のとき、私は某教授の美術講義に出席した。教授はインド美術の研究で有名な美学者であり、私は何らかの期待をもって出席したのであった。ところが、失望したことには、教授の朗読をノートにとらされただけで、今では、私は、その内容が日本美術史であったのか、何であったのかさえ、ハッキリしない。覚えていることは、教授の京大での同級生が有名な作家になり、バリバリと活躍しているという“余談”だけである。のちに、文化勲章を受けた小説家井上靖のことである。結局、このような講義は、とる価値のないものであった。


 では、なぜ、私は何も知らなかったとはいえ、“美術”の講義をとる気になったのか。それは、私が静岡大学でとった一般教養の“美術”があまりにもすばらしかったからである。その美術の時間は、私にとって、ハイゼンベルグの不確定性原理やパウリの排他律をはじめて教わった無機化学の講義とともに、最も心に残るものであった。


 光益助教授の“美術”が面白いという評判は、先輩からきいて知っていた。そして、楽しみにしていたが、その講義は、私の期待を裏切らなかっただけでなく、何十人かの聴講者の中でも、私ほど熱心に聴いたものは、いなかったのではないかと思うほどに、熱中させるものであった。


 彼は立派なスライドを沢山、持っていて、第一時限目から、私達は、いきなりグルーズの“壊れた瓶”という、フランス、ロココ朝の画家の絵をみせてもらった。彼は美術は出来るだけ本物を鑑賞するに如かず、それが出来ない場合は、せめて、カラー・スライドの見事な複製で、本物のよさを感じてもらうに如かないと考えていたに違いない。グルーズから始まって、次から次へと私達はすばらしい絵画や彫刻のスライドを見せてもらった。そして、もっとも大切なことは、専門の美術家の目から、どこに注意をしてみるべきか、どこがすばらしいかを、いちいち詳しく解説してくださったことであった。この、グルーズの微妙な絵の特徴から始まって、カンジンスキーの“赤の恐怖”やモジリアニに至るまで、それはなんと興味深く、楽しい、美の饗宴であったことだろう。


 たとえば、光益氏は、バーの女給を描いた誰かの〔多分、モジリアニ〕絵を説明されるとき、その女給の目に二つの星があることを指摘し、いかに画家が正確に対象を読み取っているかということ、不幸な女の目の象徴としての二つの星というようなことを説明された。私は、その後、、目の二つの星というものについて真剣に考えたものであった。そして、三流バーで、叱られないか、失敗しないかといつもオドオドして、アチコチ警戒の目を光らせながら、わびしく生きている女達は、いつか、焦点が合わない、落ち着きがなく、不安に満ちた瞳を持つに至るのであろうという結論に達して、やっと、安心したのを覚えている。一つの絵の中に、物語が隠されているという“赤の恐怖”の話。色は面や位置をもっていて、それを生かした使い方をしなければならないこと、などなど。思い出そうとすれば、いくらでも思い浮かんでくる、印象深い講義であった。


 そして、西洋美術だけでなく、日本の仏像や建築にまで、及んだのだから、今から考えると、本当に、感心するくらいである。唐招提寺の金堂の屋根のスライドを見せて、どちらのシビがすぐれているかと質問されたこともあった。言われなければ、気がつかないところだが、成るほど、シビの角度が左と右では少し異なる。どちらも原型(奈良時代)ではないが、一つは鎌倉、一つは江戸に修復されたと言われた(記憶違いがあるかもしれない)。そして、もちろん、古いほうがすばらしいといわれて、私は成るほどと感心した。大阪に帰省したとき、早速、私は父母に写真を見せて、どちらをどう思うかとたずねてみた。父はわからないといったが、母は、あっ、こちらがいいとハッキリとすばらしいほうを指した。(前々から、私は母の眼力は確かだと思っていたが、ここでも、確認することが出来た。)


 このようにして、さまざまな美の在り方から始まって、その素直な鑑賞の仕方に至るまで、私は、この、たった週一回、一年の美術講義から学ぶことが出来た。それだけではない。私は静岡大学を退学して、京大文学部を受験する決意をかためたとき、フランス文学かギリシャ文学を専攻したいと考え、特に、ギリシャであれば京大に入るしかないと考えていた。そのギリシャの魅力への導入の役割を果たしたのが、光益助教授が講義の間に何気なく話された、“私は、毎晩、寝る前に、ホメーロスを一章ずつ読んでいる”という言葉であった。


 日本の古代文芸である古事記は、約紀元七百年頃の産物であるが、そして、それなりに面白くはあるが、近代・現代の小説と違って、構成は単純で、特に研究者でなければ、没頭して読めるという面白さではない。古代ユダヤの旧約聖書にしても、古代的単調さは如何ともしがたい。それぞれ、興味深い書物であるが、スタンダールやドストエフスキーに没頭するようなわけにはいかない。


 ホメーロスは今から約二千六百年ほど前に出来たものであり、古事記よりも千三百年前の書物なので、きっと、単純な物語に違いないと考えて読まなかった私は、光益氏の言葉に刺激されて、“よし、それでは、オレも毎日、読んでやろう”と決心したのが、運のつきというべきか、私の工学部退学へとつながろうとは知るはずも無かった。ホメーロスの“オデュッセイア”を読み始めた私は、こんな古代に、これほど複雑な構成を持った叙事詩が書かれていたことに驚嘆すると共に、そのストーリーの面白さにとりつかれてしまった。毎日、一章などというのんきなことは言っておれない。私はたしか二、三日で全部読み終わったと思う。それが、ホメーロスの世界への、そして古代ギリシャ世界への魅力にとりつかれた最初であった。続いて、プラトンに入り、その豊饒な美と叡智の世界に圧倒されてしまった。私は日本語で手に入るギリシャ文献はほとんど手に入れようとした。そうして、工学部退学への決意につながる、文学の世界へと没入していくことになったのであった。私は、“ホメーロスの英雄たちに捧げる”という詩まで作った。これも、元はといえば、光益助教授の美術講義に私が魅せられたせいであった。


 こうして、私は、美術の講義とはいいながら、全く異なる二つの授業に接することが出来た。静大での美術がどんなに私に深い影響を与えたか、また、それほどにすばらしかったということは明白である。美術を一般学生に講義しようとした場合、いろいろな方法が考えられるに違いない。。光益助教授の取った方法は、私たちをいきなり美の饗宴のなかに招待し、美を見る目を養うことであったと思う。美術史として、一つの知識として提供しようとしたのが某教授のやり方であった。しかし、美を味わえない美術史の知識とは、そもそもなんであろうか。私が内容まで忘れてしまっても、無理はないのだ。光益流は、私の心の感動にまで達したのに対し、某教授の講義はただの知識としてとまっているようなものだったのである。


 中学校や高等学校の授業は、大学ほどに自由奔放な展開をすることが出来ないのは当然である。しかし、学問をする姿勢の基本ともいえる好奇心や探求心を呼び覚ますような授業をすることは可能であり、どちらかといえば、自分でやれることを生徒に代わってやるよりも、そうした、普通のやり方では学べないことを生徒に紹介し、新しい学問への意欲を生み育てるほうが大切であり、個性と創意のいる仕事であると私は考える。子供はいつでも、新しい領域に向けて飛躍していけるだけの能力と余裕を持っている。きっかけを与えることが大切なのである。私は光益助教授の講義を思い浮かべるとき、つくづく、そのことを感じる。そして、私は、良い師に出会えたことを心からうれしく思う。

(完)


1986年1月6日 執筆 村田茂太郎

No comments:

Post a Comment