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9/19/2018

寺子屋的教育志向の中から - その35 “自殺論(ある記憶)”― 残されたものの痛み

寺子屋的教育志向の中から - その35 “自殺論(ある記憶)”― 残されたものの痛み     

 この文章もすでにこのブログで紹介したはずであるが、この本の一部なので再度掲載することにする。

 執筆は1985年となっているから。今から33年前。この執筆時に19年前の思い出となっているから、今から数えると50年以上前の出来事である。1966年。

 これは今に至る私の生涯で一番ショッキングな出来事であった。だから”自殺”は私にとって解明つくせない問題であり続けた。

 心霊現象の科学に対する私の理解が進み、Near Death Experience 臨死体験や Afterlife あるいは Reincarnation や Possession に対する理解も進んで、私なりに納得のゆく心境に至ることができた。彼女の自殺の理由はまだ正直なところよくわからないが、あるとき Medium のひとりと話していたとき、ある動作を示したので、私は一気に ”そうだ、その可能性もあったのだ” と目からうろこがとれたように感じたものであった。そして今では、私が死ねばエネルギー状態になって、意識も記憶も個性もすべて保持しているそうだから、私は彼女の Spirit に ”おかげで、というか、(あるいは)、 きみが突然、異次元にうつったせいで、私は半年ほどずいぶん苦しんだよ”と笑いながら話し合えるのかもしれないと思う。

 私はカナダの学者が書いた”You cannot die”という本(Ian Currie,Ph.D.)を1970年代末 または1980年代初めにお父様に送ってあげた。反応はなかったが、この本は自殺者に関しては、いわば成仏できないで灰色の世界をうろついているというような、あまり感心しないことが書いてあったので、かえって悪いことをしたと思った。本自体はYou cannot die の理由を様々な心霊現象の領域から上手にまとめてあり、それが私の贈呈の理由であったが。

 今なら、私は Erik Medhus という20歳で自殺した若者がMedium経由、母親 Elisa Medhus, MD にコンタクトして執筆したという 「My life after Death」(A Memoir from Heaven) という本を、断然、薦めるところである。(2015年 ISBN:978-1-58270-560-6。)  この本では、自殺者ー本人 Erik も Limbo 宙ぶらりんの状態にいるわけでなく、次の次元でRescue Missionのような仕事をしているとか、つまり急に事件・事故に巻き込まれて心の準備もなく次の次元に移行した魂を優しく迎え、つぎの状態に移れる準備をする役目を果たしているとかで、これならまあ自殺者を近親・友人に持つ関係者が読んでも、まあ心安らぐ話だと思う。
 
 この本の著者には、その前に息子の自殺とその後のMedium経由の息子とのコンタクトについて書いた本「My son and the Afterlife」By Elisa Medhus, MD があり、すでに私はこのブログの「心霊現象の科学 - その105」で紹介した。この息子が霊界からMedium経由、直接かれのSoulの今いる次元について語っているこの本も紹介しようかなと思っている。2015年12月を最後に、この「心霊現象の科学」に関するエッセイは一応完成したと感じ、それ以後はストップした状態だが、まだいくつか紹介したい本もあり、また書き始めねばと思う昨今である。

 何度も例示しているが、Dr. Carl Wicklandの「Thirty years among the Dead]」にも自殺者の話が当然出てくるが、この本によると、たとえば、首つり自殺をした人間は、その人の本来の寿命になるまでは、次の次元に移れず、自分の、ぶら下がって死んでいる遺体を傍でずっとみながら時を過ごしている、つまり自殺は問題の解決にならないという例が書かれていた。


村田茂太郎 2018年9月19日

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第五章   生と死・人間をめぐる哲学的考察

“自殺論(ある記憶)”― 残されたものの痛み              

                  

 自殺論は人間にとって重要な課題であり、それを論じる角度も様々でありうる。そして、そのどれもが重要である。つまり、哲学的・社会学的・心理学的・生理学的といった学的立場と歴史的・文学的といった見方をすべて総合した形の研究が必要である。そして、既に、自殺の研究として、さまざまな業績がつまれてきている。私がここで、述べようとするのは、ある人間の“自殺”をめぐる個人的な印象記であり、十九年目の回想である。

 1966年11月5日。土曜日。私は一時限目の教育学の講義を受けていた。隣に座ったクラス・メートの男性が、私がまるで当然、知っているかのごとく、“朝日新聞はずるいな、記事を載せていやがらん”とささやいた。私には何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかなかった。誰か自殺したんだってと、頭のどこかで、ことばを聞き取ったようだった。だが、まだ何のことだかわからなかった。講義が終わってから、はじめて、私たちのクラス・メートの一人が自殺したということを知った。そして、その人が、実は私が内心、好意を持っていた女性だと知ったとき、はじめて私は、どうすることも出来ないようなショックが全身を走るのを感じた。私は自分の手も足も、いや、全身がこきざみにブルブルとふるえはじめるのを感じた。クラス・メートたちは三々五々と教養部A館地下室に集まりだした。私は自分の身体のふるえを誰にも感づかれないようにしながら、みなの動作をうかがい、頭の中では、一体どうなったのだろうと、何度も反芻していた。どうやら、わかったことは、三日の夜中に、ガスと睡眠薬により自殺した彼女を、家族は翌日、密葬したらしいということであった。クラス・メートは既にすべてが終わってしまっても、線香をあげに行きたいと考え、みんなで、ゾロゾロと歩いて家に向かった。

 その日の夕方、私は静大工学部を卒業して、既に社会人になっている友人を迎えに出かけた。朝からのショックで、虚脱状態のようになっていたが、表面は平静を装い、仕事の途次、わざわざ立ち寄ってくれた親友との再会を心から喜んだ。その日の晩、友人は汚いアパートの狭い部屋に泊まってくれた。普通なら、飛び跳ねるほどうれしいことであったが、その朝の哀しいショックで、ともすれば精神が虚ろになるのを懸命に抑制して、その日を終え、翌、日曜日、私は友人と連れ立って、京都案内に出かけた。土曜日も日曜日も、食欲は全く無かったが、友人の手前もあって、私は無理をして一緒に食べた。そして、その夕方、再会を約して、友人と別れた私は、部屋に帰って一人きりになったとき、はじめて精一杯、彼女のことを思い出し、考え、そして泣いた。そのとき、私が一番仲良くしていた友人が、部屋にどなりこんできた。その前の日、友人が来なければ、もちろん、私は彼のところへ、スグに知らせに行って、二人で話し合っただろう。彼は私が知っていたのに、スグ知らせなかった、殴ってやると息巻いてきたのであった。私は事情を話し、あやまった。その晩から、私は下痢をした。その時、頭脳は興奮し、高ぶっていたが、また、一面では非常に冷静な部分があって、私自身の下痢反応を分析し、なるほど、心が動転して、食欲も何もない状態になっているとき、無理をして食べても、結局、消化・吸収細胞も働かず、何もならないのだなあと感心していた。

 そのときから始まった私の心の苦悩は、収まるまでに六ヶ月要し、本当の意味では未だに終わっていないといえる。私はクラス・メートがケロッとした様子でいるのを不思議そうに眺めていた。校庭のイチョウの木が黄葉し、まっ黄色にかわっていくのを眺め、爛熟というのはこのような光景をさすのに違いない、やるせない物悲しさに満ちてと思ったりした。完全に、この世から、一人、突然消え去ってしまったという空虚感を、私は全面的に感じていた。十月中ごろから書き出していた日記は、この出来事を境にして、ほとんど毎日、つけるようになった。

 私は、それまで、新聞で受験生が悲観的になって自殺したというニュースを見るたびに、かわいそうにと思いながらも、バカな奴だなあという他人事的な気持ちを抱くのが常であった。いわば、それまで、私にとっては、死は外在的なものであり、他人の死に過ぎなかった。この時、生まれて初めて、本当のショックを感じていた。既に、父の反対を押し切って、工学部を退学し、受験勉強をしなおして、京大文学部に入学したわけで、少しのことでは驚かないはずであった。そして、他のクラス・メートを見ても、二~三人を除いて、普通と同じように見えた。

 私が当面した問題は、“一体、なぜ”ということであった。秀才として現役で入学してきた彼女には、将来がばら色に輝いていた筈であった。受験に失敗して自殺というのとは、少し、はなしが違うのである。私に残された仕事は、自分で十九歳になりたてで死なねばならなかった彼女の当時の思想に出来るだけ接近することであった。そして、それをしながら、私は自分の思想を彼女のものと比較し、練り直していかねばならなかった。そして、自分なりに納得するのに、少なくとも半年はかかったのであった。

 そして、私は、単に、思想の問題だけでなく、もしかしたら、もう少し、私が敏感でありさえすれば、彼女の自殺の決意をとめることが出来たのではなかったかという点で、いつまでも悩み続けた。そこに、運命の気ままな戯れとも呼ぶべきものを認めたく思う。

それまで、無関心だった私は、秋になって、急に、彼女をすばらしいと思い始め、彼女のアパートに遊びに行きたいと考え、機会を捉えて、彼女に“好きだ”と言おうと思っていた。時は、ベトナム反戦運動が高まっていく時点であり、私達はクラスでベトナム戦争について論じ合い、十月十四日と二十一日には、反戦デモ行進に参加した。私は彼女と手を取り合って、デモの中に居て、単純に喜んでいた。

 そのあと、大学から、講義が終わって、帰り始めるとき、今日こそは、彼女に告白しようと思って、吉田山のほうに行こうとしたとき、彼女はいつものアパートの方角ではなく、自分の家のある方向に去って行き、私はうちあけるチャンスを失った。そのあと、しばらくして、友人と二人で彼女の下宿へ行って、少し、おしゃべりしたが、その時は、既に、何も言えなかった。彼女はあるとき、他のクラス・メートと私の下宿を訪れたが、十二時ごろなのに、もう、電気も消えて、寝ているみたいだったので、起こさなかったというようなことを告げたので、私は模範生振りをひやかされて、なんとなく恥ずかしく感じた。彼女はきのうも、朝の六時ごろまで寝ないで考えていたというようなことを言ったので、私は驚いた。私には徹夜して考えるような習慣も無かったし、深刻な問題もなかったのだ。

 そうして、そんな日々を送っていた頃、私達はガリ版刷りのクラス文集をだした。このときも、大学寮でガリ版刷りを行うのを彼女は手伝ってくれるはずであったが、来なかった。この文集に彼女は、小説を発表した。私が下手な字でガリ版きりをやった。題が何であったのか、何でもよく覚えているはずの私だが、忘れてしまって、思い出せない。彼女が死んでしまってからは、読み返しもしていない。今だと、どう思うだろうか。読み出せば、きっと、涙がポロポロでてくるに違いない。私の鈍感さが、もっとも悔やまれたのは、この時である。

 何もかも、手遅れになってしまってから、わかったのでは、もう遅い。しかし、運命のいたずらとは、このようなものなのであろうか。その短編小説こそ、彼女の遺書であったのであり、自殺予告に他ならなかったのだ。文学的に内容を吟味する前に、精神分析的に吟味していれば、疑いもなく、自殺の予告として、何らかの手段がとりえたはずであった。もっとも、自殺は、いったん、決意してしまえば、もう取り返しがつかないといわれたりする。結局、何がどうあっても、どうすることも出来なかったのかもしれない。人はどうでも思えるし、自分の好きなように考えればよい。私にとっては、好きだと告白しようとまで思った女性が、ヒントをほのめかしているのに、気がつかないで、とうとうこの結末を招いたという苦い苦い体験だけが残った。

 彼女の死の意味を追体験することだけが、私に残されていた。私にはあのとき、恋の告白が出来ていれば、或いは、あの小説をもう少し、まじめに取り上げていれば、何とかなったのではないかという、どうしようもない、やりきれない気持ちがあとあとまで残った。

 ほんのわずかな付き合いの間に、私は彼女から二冊の本を借りていた。一冊はサリンジャーの“ライ麦畑でつかまえて Catcher In The Rye”で、彼女はすばらしいと言い、私もスグに読了して、すばらしかったといって返した。二冊目はジャン・ジュネの“泥棒日記”という本で、私の好みではなく、遅々として、なかなか進まなかった。そうこうしているうちに、彼女は死んでしまい、私は急いで読み終わった。そして、それを読み終わって、私は彼女へ接近する手がかりをつかめたように思った。彼女は自分の気に入ったと思われる箇所に、赤線を引いていたのだ。そして、それは、ジュネが精神の孤独や苦悩を表明しているところに引かれていた。人間の孤独、この問題が、彼女の関心の主要な部分を占めていたのだ。

 彼女の死で、ショックを受けた日から、毎日、書き始めた日記は、かなりの量になり始め、その中で、私は私のやるせない思いを告白した。二週間ほどたっても、依然として、私は苦悩から解放されず、このままでは、どうかなると思い、日記を書き写して、彼女のお母様のところへ送った。いわば、死後のぶざまな愛の告白であった。そうしておいて、ほんの少しサッパリし、今度は、読み終わった本を返しに訪問した。そのあとも、私は何度か家を訪問することになった。私は、だんだん、亡くなった彼女を理解するようになり、まだ若かった彼女のほうが、人生への思いについては先輩であったことを知った。私はどうしようもなくなってしまった彼女の死を、私にとって意味あるものとするには、彼女を本当に理解してやることだと考えて過ごし、時には、私自身、やるせない気持ちになって、自殺の考えを拒否していながら、魅かれていくのを感じるようになったりした。

 そうして、約半年たって、ようやく強く生きる勇気がわいてきた。そして、その苦悩の日々の中で、私は自分を本当に愛してくれる人、自分を理解してくれる人が居る限り、どんなことがあっても自殺はしないと決心した。死んでしまった人間に対しては、人はどうすることも出来ない。生きている限り、あやまることも、再出発することも、ほとんどなんだってできるのである。自分のことを気にかけてくれる人が居る限り、人は自殺をするべきでない。これが、私が下した最も強烈な彼女への批判であり、あとに残されたものの恨み言であった。死に比べれば、なんだってがまんできる。死は絶対の虚無であり、反応拒否である。死には美しいところは一つもない。希望の喪失であり、永劫の孤独であり、とりかえしのつかない断絶である。あれ以来、どれほど、私は彼女の早すぎた死とその決断を残念に思ったことであろう。生きている限りは、何だってできるのだ。一度、亡くなった生は、どうすることも出来ない。ただただ、私に虚無の深淵を指し示すばかりである。このようにして、私は苦い体験を通じて、生きている命の尊さをいやというほど、味わった。大阪の家に帰って、犬を抱いてやると、生きている生命の暖かさが気持ちよかった。死者をして死者を葬らしめよ、なんだかそんな文句があったけ、と私は考え、自分は生きねばと決心した。

 私は、この、はじめての、クラス・メートの自殺で、ショックを体験し、半年も苦悩し続けたせいで、そのあとは、少しのことでは驚かなくなった。京都大学は日本で学生の自殺が一番多いという不名誉な記録を持つ。苦労して、受験勉強を終えてきたはずなのに、なぜ死なねばならないのか、生きたくても死なねばならない時がやってくるのにと、それまでは、考えていたが、死にたい人は、やはり死ぬに違いないとも思うようになった。

 彼女がなくなってからも、私が直接、知っているだけでも、四人の人が自殺をし、卒業してロサンジェルスに住むようになってからも、一人のクラス・メートが自殺をし、知人の教授が自殺した。京大文学部の私が居たクラスから三人の人が自殺した。最初のショック以来、私は何を聞いても何とも思わなくなった。ただいつも、死ぬのは簡単だ、生きるのこそ難しい。八十歳、九十歳まで生きれた人というのは、それだけでも賞賛に値すると、私は考えるようになっていた。

 ある特殊な情況の中で、死にしか自由がないときは、自殺も許されよう、たとえば、狂気を前にしたゴッホの場合、避けられぬ死を前にしたときなど。それ以外は、どのような困難も引き受けて、生きねばならない。自殺を途中でした人は、その責任を放棄した人だ。それが、私の自殺否定論であった。十年や二十年、生きただけの人に、人生の重みや苦悩がわかるものか、本当に自殺したければ、八十年、九十年、充分、生ききって、その上で、自殺すればよい。私には、それ以外の自殺は全く無駄死にに思われる。

 その後、私はロサンジェルスで超心理学Parapsychologyの本を沢山読んだ。霊媒Mediumの研究もこちらでは盛んである。私は、単純には、信じられないのだが、ある種の霊媒を扱った本では、自殺者との対談が書かれている。自殺者は死後も全く同じ状況の中に居て、ただ灰色の世界で、どうすることもできないイラダチの中に居る。現世の苦悩は、現世で解決しなければならず、死後は生者に語り掛けられない、非常に腹立たしい世界に居て、時には自分が死んだことさえ知らないという話が、アチコチの本で書かれていた。もし、本当にそういう世界があるとすれば、自殺は、結局、苦悩の解決にならないわけである。

 何年経っても、私は、最初の、彼女の自殺に対しては、いつまでも鮮やかな記憶を保ち、鈍感な私の反応振りを、未だに苦痛をもって思い出す。大阪の家にあるはずの彼女の短編小説を、まだ読み直す勇気はない。あとに残されたものの痛みは今も続く。

(完)1985年9月25日 執筆   村田茂太郎


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