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9/16/2018

寺子屋的教育志向の中から - その32 “昆虫学・生態学・思い出―雑感”

寺子屋的教育志向の中から - その32  “昆虫学・生態学・思い出―雑感” 



健康な好奇心・探求心                  “昆虫学・生態学・思い出―雑感” 

                                               

 私は最近(1985年)、中公新書、岩田久仁雄の“昆虫学五十年”という本を読んだ。昆虫が好きで、学校を二回も落第したという著者らしく、あまり華やかではない領域の探求を地道に続けてきた、その生活態度がそのまま文章にあらわれている。それは地味で堅実な内容を持っている。自叙伝であるとともに、、さまざまな種類の蜂の生活史であり、とても魅力があり、遠い昔への回想を迫る本であった。


 私は小学生の頃に、いろいろな伝記を読み、“ファーブル伝”も読んだことは覚えているが、そのときには格別な興味を感じなかった。従って、“昆虫記”も特に読みたい本ではなかった。二年前、中一国語の教科書に、ファーブルの“フシダカ蜂の秘密”という文章が載っていて、訳文とはいえ、その内容の面白さ、ファーブルの方法、そしてその文章の魅力に初めて気がついた。そのあと、友人にルグロの“ファーブル伝”を送ってもらい、毎日、楽しみながら読了した。今では、“昆虫記”は何とかして、全部手に入れたいと思うに至っている。


 この“昆虫学五十年”の著者も、蜂の研究家であり、この本の中に、卵を寄主に産み付ける蜂の話しが沢山でてきて、天敵とか農薬とかといった問題へとイメージが拡がって行くのであるが、この寄生蜂の話しから、私はフト、小学1.2年の頃の愛読書を思い出した。“子ぐもの冒険”という題名であったと思う。マンガまたは絵で初歩的な小動物の生態が面白く描かれていて、家族みんなで不思議な生物の生態について賛嘆しあったことを覚えている。今、あの本はどこにいったのだろう、どこかで手に入らないものかと懐かしく思う。


 小一の頃、大阪郊外の玉手山の林の中で、頭の取れたクマ蜂とまともなクマ蜂との二匹が格闘しているのを見て、みんなで驚いたものであった。その頃から、毎年、夏休み中に一回、池田の箕面に行くことになり、山は低いが、深山幽谷の趣をもった箕面渓谷は、私にとって、最も印象的ですばらしい場所となった。箕面山は昆虫の宝庫であり、昆虫博物館もその山中に建てられていた。私はトンボやセミをつかまえるのがうまかったので、今から考えると、随分かわいそうなことをしたと思う。毎年、夏休みが終わると昆虫採集の標本を学校に提出した。良い指導者がいなかったための愚かな行為であった。ただ、トンボ、蝶、セミと無差別にとらえるのが能ではない。今の私なら、昆虫採集などすすめないし、もし本当に生物に興味を持っている子供なら、蚊とかハエとか蜂とか蟻とか、ただ一種類だけを集めることをすすめるか、それぞれを工夫して飼って、生態を観察することだけをすすめるであろう。


 小六の頃、箕面で見事なギンヤンマを捕らえた私は、阪急デパートの食堂に向かって歩いているとき、誇らしげに籠から出して、手に挟んでいた。それは、あまり立派であったので、家に帰ったら庭に離してやるつもりでいた。人ごみとすれ違ったとき、私はあっと思った。トンボの頭がかすめとられてしまったのだ。私の愚かな行為が生んだこの失策で、私はトンボにすまなく思うと同時に、自分のしていることに対して、砂をかむような後味の悪さを味わった。それが昆虫を捕らえるという行為の最後となった。私は自分が上手に捕らえることが出来ることを得意になっていた当時、きっと、そんな私を見つめて厭な思いをしていた人がいたに違いないと思う。今では、私はメキシカンがパークでリスに石を投げているのを見ると、つたない英語で、やめるように言い、自然のままの生態観察のすばらしさを説く。


 小五のときに、はじめて記録映画“青い大陸”を見に行った。それから、中三までの間に、“砂漠は生きている”・“緑の魔境”・“滅び行く大草原”・“生命の神秘”・“動物たちはどこへ行く”・“白い山脈”といった記録映画を見ることが出来た。当時は、まだ、テレビも普及していず、今、KCETPBS28チャンネルが放映しているような優れた記録映画は映画館で見るほかなかった。28チャンネルの“Living Planet”・”Living Wild”・“Nature”・“Survival”といった優れた記録映画を見ることは、今の私の大きな喜びの一つだ。鯨や象やペンギンの生態を鮮やかに、美しく伝えてくれるこれらの映画は、何よりも貴重な記録である。”Osprey”という鳥(みさご)が水中の魚を目指してバシャ-ンと突っ込む姿など、生命の在り方を示したものとして、感動せずにはいられない。


 私は小学生の頃、漠然と大人になったら、こういう職業の人になりたいというものをいくつかもっていた。歴史学者・考古学者、天文学者、地球物理学者、生物学者というのがそれで、どれも私が深く愛していたものであった。もし、父が好きなようにやればよいと言ってくれていれば、きっと私は違ったものになっていたであろうと思う。しかし、あまりにも父母になつき、父と同じように工学部を専攻しなければならないと信じていた私は、小学卒業時の校長面接のときにも、よく自分で意味も分からないままに、そのような趣旨のことを告げた。


 “昆虫学五十年”を読みながら、好きなことには深く没頭すべきであったと今更の如く感じた。私には子供はいないが、どのような子供でも、自分の好きなことに深く執着していれば、それを暖かく見守ってやりたいと思う。私は、後に、工学部を退学し、文学部に入学し、最終的に哲学を自分の究極的に求めていたものとして、発見したわけだが、私はその哲学において、自分が子供の頃から興味をもっていた、天文学、地球科学、生物学、歴史学が、すべて、みごとに統一されていくのを発見し、子供の頃の好悪は単なる気まぐれではないと心から感じた。私が、ある程度、子供の学習面や才能の発現という領域において、教育的に自信を持っているのは、すべてそうした自分自身の過去の在り方にたいする、苦い反省に基づく。“癌と人生”という文章を書かざるを得なかったわけである。


 小学三年で出来たばかりの今川小学校に移ったとき、学校は畑の、ど真ん中にあり、野井戸がアチコチにあって、時々、落ち込む子供がいた。すぐ近くをふたつの川が流れ、トンボやフナが豊富であった。私と姉は川でヤゴをとってきて、観察し、ある朝、立派なトンボになっているのを発見したりした。私の成長とともに、川が農薬等で汚染されて、だんだんダメになっていった。家の庭で網を張るクモに対しては、ハエやゴキブリを与えて、生態観察をしようとした。“昆虫学五十年”で、ゴキブリを専門に捕食する蜂がいるのを知って、このことを思い出した。毎日、半殺しにしたゴキブリを与えていると、クモはとうとう怠惰になったのか、巣を気にせず、網は破れ放題になっってしまった。


 不幸にして、家には私の探究心を満足させてくれる本は何もなく、適当な指導者もいなかった。それぞれの出来事はそれぞれ孤立して、それだけで終わってしまった。今なら、私は自信を持って、英才教育をやれると思う。ただし、誰でもというのではなく、能力があり、自主性を持っている子供に対してだけである。一時、私が教育すれば、誰も学者になってしまうのではないかと思ったこともある。今では、学者になりたい人には、そのように努力することをすすめ、興味のない人には、ほかの興味のあることに没頭するようにすすめる。


 “堤中納言物語”の中に、“虫めづる姫君”という文章がある。毛虫などを愛する女性について書いた、どちらかといえば、グロテスクと取られがちな短編であり、研究書や解説書でも、ホルモン異常か何かの病気のせいのように書かれているのがあったが、今、考え直してみると、どう見ても、真実の探求を目指す生物学者、特に昆虫学者の態度であり、貴族的な社会の中にも、そういう人物がいたという貴重な証拠のようにも思える。


 最近では、この種の生態学者もノーベル賞を受けるようになり、コンラート・ローレンツやティンバーゲンといったすぐれた学者が大活躍をしている。京大の吉井教授が書いた“洞穴学ことはじめ”(岩波新書)という本を読んだとき、洞穴トビムシというどうでもいいような小動物の徹底的追求が遺伝学や進化学に直接つながっているだけでなく、地質学や地球史学あるいは日本列島の変動の証明にまで繋がっていくのを知って大いに感心した。


 私は生態学が好きである。解剖したり、殺したりというのは嫌いだが、気長に生態を観察する学問は本当に面白いと思う。ファーブルだけでなく、ローレンツやティンバーゲンのやったことを見たり、聞いたり、読んだりすると、生きた対象を根気よく研究する面白さが伝わってくる。ここでは、鋭い頭脳の働きが要求されている。独創的なアイデアで接近するしか道はなく、自然を本当に愛する人にだけ可能な学問といえる。その中には、今西錦司のように、鮎の生態研究から独創的な棲み分け理論を展開し、ダーウインの進化論をしのぐかもしれないと思われる進化論が展開されたりした。(生物の世界)。


 私が京都大学の学生であったときに、地元の大文字山には十回ほど登った。春夏秋冬と登り、夜下駄で登ったりした。京都を訪れた父と二人で、秋の夜、下駄で登ったとき、私は上り口でクツワムシのガチャガチャという声をいやというほど聞き、大文字の頂上では、京都の夜景を見ながら、マツムシの声を初めて聞いた。その年は、虫の豊富な年であったのか、吉田山のふもとの下宿の窓際で、鈴虫のほれぼれするような声も聞いた。“昆虫学五十年”につづいて、“昆虫の生活史と進化(コオロギはなぜ秋になくか)”を読んでいると、こうした思い出も浮かんでくる。


 “昆虫学五十年”は、こうして、私の半生の思い出を導き出せる内容を持っていた。そして、天敵について書かれたところ、戦後、誘蛾灯や農薬が害虫だけでなく、益虫まで殺していたことを知ったとき、私はシマッタと思わず叫んだ。ぺぺ、サンディの排泄処理はちゃんとやっているつもりでも、いわば、ハエを自家生産しているような状態であるため、最近、電気製Bug Killerを購入することに決め、在庫がないときいて、Rain Checkをもらったばかりであった。効果を訊ねたところ、自分の家でも使っていて、ハエでも蚊でも何でもとれると説明してくれたので、気をよくしていたが、“昆虫学五十年”を読み終わって、もし、Bug Killer が本当に効けば、必ず、害虫だけでなく、天敵である益虫まで捕獲してしまうに違いないと悟った。最近、私は、、生命体は何でも尊重するようになっていて、まして、益虫を殺すことはたまらないことに思われた。女房にはすまないが、この道具があまり効かないように願うか、出来るだけ使わないようにするしかないと思うに至っている。


 自然は深く調査すればするほど、自然とバランスをとれるように動いているのが分かり、出来るだけ人為的なものは避けるようにしたいと考えるようになる。今では、私は無知は罪悪であり、人間は生命体に関することは何でも知るようにつとめるべきであり、全自然の頂点に立つ存在として、人間以外の生物にも、最大の注意を払うべきであるという考えに至っている。


 アメリカでは毎年、五十万人もの子供が家出し、その中で、傷つきながらでも帰ってくるのが約九割、あとの四、五万人は行方不明のままだという。恐ろしい話しである。子供の健康な好奇心・探究心を学校でも家庭でも伸ばしてやる方向を徹底してとれば、子供たちはもっと満足した、楽しい青少年期を送れるに違いない。


(完) 1985年7月18日 執筆 村田茂太郎

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