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9/22/2018

寺子屋的教育志向の中から - その38 “差別と日本人”

寺子屋的教育志向の中から - その38  “差別と日本人”



いじめと寛容                  “差別と日本人”

                                     

 私はあまり苦労をしないで育ってきた。今になって、勉強さえしていればよかった生活とは楽なものであり、どんなに恵まれていた事かと思う。当時は学校へ行き、勉強する事は当たり前のように思っていたが、なんとゼイタクな身分であったことか。今の恵まれた日本で、豊かな暮らしになれた日本の子供は、私以上に苦労などは知らないに違いない。苦労は人間を鍛えるが、豊饒はひとつまちがえば愚かな人間を量産する。


 今、私は金達寿(キム ダルス)の“わがアリランの歌”を読んでいる。(1986年2月現在)。著者は在日朝鮮人で、現在、作家・評論家として活躍している人である。多くの在日朝鮮人と同じように、子供の頃から大変な苦労を経てきた人であり、その困難を克服してきただけの強靭さと寛容とを備えた人物である。


 在日朝鮮人の人たちは、みな、偏見と傲慢に満ちた日本人の間で、耐え切れない程の苦労を嘗めて育ってきた。関東大震災の混乱に乗じて朝鮮人の虐殺がおこなわれたのをはじめとして、差別に満ちた悲惨な生活を強いられてきた。仕事は最低の職種、屑拾いや汲み取り人夫、土方といったものしかなく、かつがつの生活を送るしかなかった。


 この著者も8歳、9歳の頃から、犬の糞拾いや屑拾い、なっとう売り、風呂屋のカマ炊き、映写技師見習いなど、点々と、生きる糧を求めて働かざるを得なかった。イヤ、働くにも、そういう仕事さえ、なかなか得られないような厳しい生活を送ってきた。その間、小学校の夜学で少し勉強したりして発奮し、昼間の小学校に通うようになったが、そこすら、まともに卒業できないでおわった。狭い部屋で、二三人の土方と一緒に寝起きしながら、通学するしかなかったため、予習・復習どころではなかった。


 “それだったので、当時の私は、自分なりのひつの勉強法をもっていた。といっても、別にかわった事ではなく、それは<学校はどういうことがあっても休まない事>、<時間中はわき見をしないで先生の言う事をよく聞くこと>というものだった。”


 そうした勉強意欲にもかかわらず、まともに勉強できないという苦労だけでなく、仕事がまともに得られず、最低の生活を送るしかなかったことの他に、彼を悩ましたものがあった。それは偏見と差別に満ちた日本の子供達が“チョーセンジン”と卑しんだ言葉を投げかけて、何かにつけ朝鮮の子供達をいじめたことであった。金達寿は、はじめから負けん気が強く逞しかったのか、そういう相手とはケンカをしたので“ランボウの金”と呼ばれるようになったが、傲慢な日本人生徒とのつきあいは耐え難いものであった。こうした朝鮮人に対する異常なほどの差別と迫害(いじめ)は、単に、この著者の青少年時代であった戦前だけでなく、私が大学にいた頃もよく聞いたし、今もやはり続いているに違いない。この方のいじめが、今の“いじめ”ほど問題にされなかったし、現在もされていないのは、やはり相手が朝鮮人であることからくる蔑視のせいであろうか。


 私には、ひ弱になった日本人のいじめの問題の前に、まさに差別と偏見と傲慢に満ちた日本人の体質のほうが問題に思われる。朝鮮人迫害にあらわれた同じ意識が、今度は孤立した同じ同朋に対して適応されているのに違いないのである。


 日本人はシベリア流刑やアメリカ強制収容所を体験した人たちは別として、歴史上、ほとんど常に迫害者として存在してきた。一昨年(1984年)、アメリカで開かれた全世界の女性問題の大会において、日本人代表の女性が、実は自分はアイヌ人で、日本人は純粋民族のような顔をしているが、その日本の歴史を通じて、終始、異民族であるアイヌ民族を抑圧し、虐待し、征服してきたと泣いて訴えた。そして、それは参加者に感動を与えたとニュースに出ていた。


 日本人は、いい場合においては、素晴らしい人間を無数に生んできたが、また一方では虐待・迫害に喜びを見出す傲慢な人間をも沢山生み出してきたのも事実である。そして、これは、単に個人としての日本人だけでなく、日本政府についても言えることである。いや、移民局の扱いをアメリカとくらべてみれば、そのきびしさ、ひどさは明らかである。あまり好きでないアメリカも、こうした点では、やはり随分寛容でたいしたものだと思う。教育についても同様である。日本はこうした面においては、はるかに野蛮な状態にある。物的豊饒を誇る前に、もっとなすべきことが沢山あるはずである。

さて、少し、引用させてもらおう。


 “白衣の朝鮮服を着た母とそうして歩いていると、きまっていつも同じ事があったからである。・・・どこからともなく必ず、「ヤーイ、チョーセンジン」 という声が耳に入ってきた。見ると、やはり、私と同じ年ごろの子供達で、なかにはそう言って石を投げつけてくるものもある。すると、白菜などの大きなふふろしき包みを頭にのせた母は立ち止まって、「イノムジャシクドル!」と言いながら、危なっかしい姿勢で、足元の石ころをひろって投げ返す事もあった。そうなると、私は何ともいえない気恥ずかしさとみじめさとを一緒くたにして感じないではいられなかった。どちらかといえば、子供達からそういわれて石を投げつけられる事よりも、どういうわけか、母がそうして石を投げ返す事の方が、もっと気恥ずかしく、みじめに思えてならなかったものである。「あんなことがあってもな」と、そのたびに母は私に向かって言うのだった。「おまえだけは、私を避けないで、こうして一緒に歩いておくれよ。お前の兄ときたら、道端で出会っても、あれは何処の誰だという顔をして、わたしを避けて行ってしまうんだよ。おまえからも、そうされたら、わたしはもう生きてゆけないよ」”


 わたしは父母のおかげで、偏見など持たないで成長することが出来た。私が“朝鮮”とか、“朝鮮人”といっても、そこには何ら蔑視の気持ちは含まれて居ない。それどころか、日本古代史を調べてみれば、日本は中国と朝鮮の文化のおかげで今日に至ることが出来たのは明らかである。朝鮮の最高の文化人が帰化人として移民し、朝廷の政策に貢献する中で、高度な日本文化というものが生まれてきたのである。民族的にみても、現在の日本人は、純粋民族だなどと、とても言えないであろう。アメリカ移民というものを考えてみれば、日本という国も、やはりある程度、移民国家と言えない事はない。


 姉が一流の天王寺高校に行ったのに対し、わたしは府立生野高校に入学した。今、“わがアリランの歌”を読んでいると、“いま、在日朝鮮人がもっとも集中している大阪市生野区のそれにしても、これは、もと、そこの平野川開削工事に集められた朝鮮人飯場からおこったものにほかならない。”と書かれているではないか。そのころ、私はそのようなことは知らなかったが、朝鮮人が多いということは知っていた。クラスの生徒の中にも“李”となのる男子生徒がいたし、あとで気がついたが、日本名を名のっている朝鮮人もいた。みな優秀で立派な生徒であった。私は、ほとんど、彼らの苦労も知らなかったが、まちがいなく、みんな苦労したはずである。


 私は日本人が“チョーセンジン”と呼んで、いじめるという話を恥ずかしく思っていた。そのせいもあってか、京都大学に入学した時、私はクラブ活動を、他でもない、<朝鮮を知る会>にえらんだ。この会を四五ヶ月でやめてしまったのは、そのサークルのムードが私の体質にあわなかったためである。会に居た間に、私は京都にある朝鮮人学校を訪問したりした。この会自体、あまり知られていない朝鮮という隣国を知ろうとするものであったので、それ以上のたいしたことはやっていなかったように思う。


 日本人が民族的な苦労を知るようになったのは、海外移民という直接体験を通してであった。丁度、日本に移民してきた朝鮮人には最低の職業しかみつからなかったように、アメリカに移民した日本人や中国人にも、最低賃金の労働しかなかった。そして、血のにじみ出るような苦労の末、ルーズベルトによって、強制収容所に入れられたのである。この苦労を味わってきた人には、日本に居る朝鮮人の苦労や哀しみが理解できるはずである。朝鮮という国の歴史は屈辱と隷従の歴史であった。今の“いじめ”どころではなかったのである。


 日本人は、思えば、同じ民族の中でも、穢多、非人といった部落民をつくって差別し敵対してきた。これは江戸幕府の自衛策として、農民の反抗力を抑止するという形で利用され、明治以降にも根強く残ってきた。今では、裏返しの部落差別が起きて、ある街では、何かの行事の時に、部落出身の生徒にだけ紅白饅頭を配ったりしている。わざと違いを強調しているような卑屈ないやらしさがこめられており、どちらに転んでも、まともではないという感覚をまざまざと示している。


 つまり、日本人の体質が問題なのである。江戸時代から続いてきた部落問題、そして明治以降朝鮮植民地化と関連しておきた在日朝鮮人迫害問題、そして、現在、小・中学校で頻繁に起きている“いじめ”問題。どれも、隠微で排他的な日本人の欠点が体質的に現象してきたものである。これは何もこうした特殊な対象に対して出現するだけではない。日本人社会のあるところどこでも、この種のいじめ現象は起きている。小さな職場での新入社員に対する“悪質ないじめ”など、私はロサンジェルスの社会においてもよくきく。


 人間は自己保存の本能は誰も備えている。閉鎖的な人間関係の中に異質な分子が混じってきたとき、警戒心が目覚めるのはもっともなことである。しかし、ここで、二つの態度が可能である。一つは寛容を備えたタイプで、異質であろうと、相手を認め許すというものである。他の一つは、敵対意識から生まれるもので、排他的で支配的で嗜虐的で、相手を徹底的にいじめ、自分の支配下に置くか、その小さな社会から放逐してしまうものである。単純に言えば、対人関係としての愛か憎しみかということになるかもしれない。自分の友達でなければ敵だと単純に判断するようなひとがいたら、いじめが発生するのは明らかである。


 人間には様々なタイプがある。自分の気に入らなくても、相手の存在理由を立派に認めるところに“寛容”がある。世界は多様な人々がいて、はじめて面白く味わいがある。同じ考えの人ばかりなら、どれほど退屈な世の中になる事だろう。自分を批判してくれる人が居て、はじめてヤル気もでてくるのである。人間との関係は、まず、相手のあるがままの存在を認めるところから成立する。閉鎖的な社会では、特に人間関係は大切であり、自分を認め、相手を認めるところから生活が始まる。従って、“愛”とか“友情”といった基本情念のほかに、異質なものや敵でも認め許すという“寛容”が人間関係においては、特に、大切であるといえる。


 18世紀ドイツの作家レッシングは“賢者ナータン”という優れた劇を書いた。ここで扱われたのは“宗教的寛容”であったが、ともかく、“寛容”を主題にした本といえば、すぐにこの本が思い浮かぶほど有名であり、印象的な本である。


 第三次十字軍の頃、イスラム教徒である偉大なサラディン王が支配するイエルサレムに賢者ナータンと呼ばれるユダヤ人がいた。彼は妻子をキリスト教徒に虐殺されても、宗教的寛容を捨てなかった。ある時、サラデイン王はナータンを呼び出し、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のどれが本当の宗教かと訊ねた。ナータンは“三つの指輪”のたとえをひいてサラデインに答えた。


 魔法の力を与えられたと信じられている指輪が、ある家族で何代も最愛の息子にゆずりつがれてきた。ある父親の代になった時、彼は自分が三人の息子をどれも平等に深く愛しているのに気がついた。彼は二つの複製指輪をつくらせ、各々の息子に与えたのであった。そして、どれが本物かわからなくなった。イヤ、すべてが本物になった、なぜなら、父親の愛がそれぞれの指輪に込められたのだから。


 ナータンが語る指輪の話とこの劇全体を支配する“寛容”の精神は、啓蒙主義の時代が生み出した最も美しい作品の一つとまでいわれる劇を生み出した。


 寛容(Tolerance)の精神は、社会的人間にとって特に大切である。好き嫌いは生理的本能的なものであり、気が合う人との関係は愛情や友情という形で深化する。寛容は愛人友人以外の人間にたいして、それぞれのあり方を認めるところに成立する。宗教が異なろうと、才能が異なろうと、タイプが異なろうと、誰もが苦労して精一杯生きているわけであり、自分だけの世界ではないのである。寛容の精神が欠如するところには必ずいじめが発生する。そして、もともと、人間は顕示欲が強かったり、支配欲が強かったり、残虐性を好んだりする、いわば、獣的な面を誰もがもっており、それが隠微な形で発揮されると、日本的な悪質ないじめが発生するのである。“いじめ”の発生は、人間の内部におけるモラルの喪失を前提しており、結果だけを取り上げて批判しても意味がない。ポイントは家庭や学校における愛の崩壊であり、モラルの喪失である。


在日朝鮮人に対するいじめ問題は、そういった人間的欠点が、ヘンな愛国心とからまって、露出し、差別意識が極端化したものであるといえる。優越民族や劣等民族といった意識がからんでくるため、いじめも一層本格的であり、悪質である。時には、命がけの事件になる事は、ある大学の右翼学生による暴力沙汰であきらかである。言ってみれば、“いじめ”はいつでも、どこでも存在していたのだが、朝鮮人問題等を除けば、表面にまで現れる事は少なかったのである。小・中学生のいじめ問題を契機に、日本人の体質としての“いじめ”の研究が深化されねばならず、改善の道が探られねばならない。

(完    記 1986年2月25日) 村田茂太郎

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