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9/08/2018

寺子屋的教育志向の中から - その25 絶望と人生” (卒業生に贈る) 

寺子屋的教育志向の中から - その25絶望と人生” (卒業生に贈る) 


“絶望と人生” (卒業生に贈る)                     

                  

 亀井勝一郎の“愛の無常について”という本の中に、たしか次のような意味の文章があった。高校のときに読んで以来なので、正確には覚えていないが、こういう感じの文章である。“私は、会社の入社試験の面接の試験管であれば、受験生に、必ず、一つだけ問いただしたいことがある。それはーーーあなたは、人生に絶望したことがありますか?―――という質問である。そして、言うまでもなく、絶望したことのない人は、失格である。”


 私はどうしたことか、亀井勝一郎の文章が苦手で、二度と読む気がしないため、手元には一冊もなく、うろ覚えの引用なのだが、正直に言って、この箇所だけは、私も“すばらしい”と感じ、一生懸命、考えさせてもらった。たぶん、私は絶望したことはなかったし、絶望を誰もが体験しなければならないとは思っていなかったため、なぜ、人生に絶望したことのない人は、亀井試験管の手にかかると不合格になるのか、単純にはわからなかったからだろう。


 絶望とは何か。哲学者キルケゴールは“死に至る病”と呼んだ。たしかに、絶望から自殺へは道が通じている。亀井勝一郎はむつかしいことを要求している。絶望は死につながっており、しかも、絶望の体験をして生きている人を求めるという困難さ。


 私はわたしなりに、彼のこの文章の真意を次のように解釈した。亀井はきっと、コミットメント=“主体性”について言っているのに違いない。絶望を体験するには、それが成立する関係が真剣なものでなければならない。たとえば、いいかげんな恋愛関係の中にいれば、それが解消されても、どちらも傷つくことはないであろう。恋愛関係とといえども、真剣に命がけでかかわっているときには、情況次第では自殺に至ることは、過去の歴史的事実としても、世界文学の名作の中でも頻繁にでくわすことである。つまり、人間はある対象に向かって、真剣に対決しているとき、苦労も挫折も絶望も体験する。そして、青春期においては、さまざまな障壁がたちはだかっているため、真剣であればそれだけ挫折を体験し、絶望状態に陥ることが多いのである。


 “人生に絶望したことのない人は失格”という意味は、従って、本当の自分というものを充分発揮して、ある対象に真剣にぶつかっていったことがあるかどうかを訊いているのである。そして、人間は艱難を経れば、経るだけ、もしそれに耐えることが出来れば、逞しく、豊かに成長してゆくものであり、その意味で絶望を体験するぐらいに、真剣に生き、考え、悩むことが大切なのである。そして、これこそ本当の意味の人間的成長であり、絶望を体験して、生ききってきた人は、知識だけを詰め込んで、現実の苦労を何一つ知らず、理解できない人間よりも、はるかに充実した人生を生きているといえるのである。


 不幸にして、絶望からストレートに自殺に至るケースが多い。絶望からの自殺は、必ず、ある種の現実との対決があったことを示しており、少なくとも、その現実への誠実な対決を抜きにしては、絶望などありえぬのである。その意味では、自殺者は普通の人間よりも、より鮮明に、より明確に、ある瞬間を生き切ったという実感を持つに違いない。ショーロホフの“静かなるドン”の終わり近くで、ダーリャという女性が自殺の決意をしたとき、すべてが、今までと異なった風に見える情景がたくみに描かれていたが、ともかく、絶望が生まれるのは、かならず、対象を含んだ情況の中で、本人が、主体的に、命がけでコミットした場合である。そして、亀井が要求しているのは、そのような、主体性と同時に、絶望を克服して生き続ける強靭な精神力の必要である。ここで、亀井が問題にしている絶望は、従って、なんとなく自分の思うとおりにならなくて、世の中に絶望しているといった、軟弱な精神状態ではなく、現実の難問との対決において、破れ、傷つき、困惑し、悲惨な精神状況に陥って、しかも、自分を維持している状況をさしているのである。


 トーマス・マンの“非政治的人間の考察”という力作を読んでいるとき、次の文章に出会った。“私は「信仰」よりも、むしろ絶望を信じる。なぜなら、救済への道を開くのは絶望のほうだから。わたしは、謙虚と練磨―おのれ自身の練磨―を信仰する。そして、芸術こそは、おのれ自身の練磨の最高の、最も倫理的な、最も厳格な、最も晴れやかな形式であると考える。”トーマス・マンも、やはり、救済に至る絶望と言う形で、“絶望”の重要さを、亀井勝一郎よりも40年も前に述べていた。


 絶望を体験した人は、事物の価値を正当に評価する視点を獲得する。そして、過ぎ行く瞬間の刻刻を大切にし、充実して生きるコツをつかむ。ただ、生きて還ってこねばならない。死はある情況においては、苦痛ではなく、救いとなる。アンデス山中で遭難したギヨメの場合もそうであった。(サン・テクジュぺリ“人間の土地”)。生きるほうが困難な場合は人生に数多くある。ギヨメは妻を思い、責任を思った。そして、彼の生還は、今も私たちを勇気付け、感激させている。絶望するくらいに激しく真剣に対象り組むことの重要さは明らかである。生き残っている人が、簡単に自殺者を否定できないのは、その自殺者の真剣さに、どの程度、自分の真剣さが匹敵するものか見当がつかないからである。人生に誠実に対決し、真剣にかかわっていないものが、単純に、自殺者を非難する権利がないのは明らかである。


 トーマス・マンは名作“魔の山”の“雪”の場面で、印象的で重要な意味を持った文章を展開している。主人公ハンス・カストルプが吹雪に襲われて、凍死しそうになり、その幻覚の中で見た夢の話である。海沿いの、地中海的でギリシャ的な、平和で幸福そうな世界。そこで、人々はしあわせそうに戯れているが、時々、その中の若者が違う方向に目をやる。ハンスがその方を見ると、神殿があり、さらに中を見て驚いたことには、魔女のような女たちが、子供を引き裂いて、カマドで煮ているのだった。夢の中だと意識しながら、カストルプは決定的な認識に達したのだった。


天上的ともいえる幸福そうな世界の背後に控える恐ろしく残忍な暗黒の世界。これらの人たちがしあわせそうに生きているのは、背後にある絶望的な現実をわきまえているからであった。そして、カストルプは、死にうちかつ愛というものを見出し、人間は愛のために、自分の存在を死にゆだねるようなことがあってはならないという結論に達する。


 中・高生といういわば人生に対する夢や希望に満ちているはずの生徒に“絶望と人生”という題の文章を書くというのも、ヘンな感じであるが、どうやら、最近の情況は、子供とか大人とかと関係なしに苛酷なものとなっており、 “死”や“自殺”が、小・中・高生の間でも、日常茶飯事になってしまった現在、まさに“絶望”を踏まえた“生き方”という認識が大切になってきていると私は思った。


 自殺に至るほどの“絶望”は、もし、それに耐ええて、力強く生きる道を見出す力を得た場合、すばらしいものが生まれてくるに違いない。どのような困難にめぐりあおうとも、“死に急ぐこと”は慎むべきである。いろいろな文章の中で書いてきたように、自殺は解決にならず、関係者を苦しめるだけである。


 この人生には困難が満ちており、それがまた人生を面白く、生きるに値するものとしている。まだ若い生徒諸君には将来があり、どのようなことでも自分の意志と努力次第で可能であるように見える。それを一時の苦労や困難で、耐え切れずに抹殺するようなことがあっていいものであろうか。偉大なものを目指す人間には巨大な困難が、普通の生き方を望むものにもそれぞれの困難が待ち構えている。それぞれに対して、堂々と対決し、力強く、逞しく生きて欲しい。愛と寛容と、自信と責任と、意欲と忍耐と、誠実と努力で、未来を勝ち取ろう。


(完) 1986年3月4日 執筆 村田茂太郎

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