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9/10/2018

寺子屋的教育志向の中から - その27 “遊びと人間”

寺子屋的教育志向の中から - その27  “遊びと人間”


遊び」の意義                   “遊びと人間”                      

                                               

 “遊び”は人間生活にとって欠かせないものである。そのことは人類がこれまでに多様な遊びを工夫してきたことからもわかる。もちろん遊びが必要なのは人類だけではない。犬も猫もいたちもリスもよく遊ぶ。このことは、遊びがいかに人類の生存にとって基本的なあり方であるかを示している。


 私が犬を公園に連れて行くと、サンディはリスを追いかけるのが大好きなので、クルマから降りるなり、勢いよく駆け出していく。リスは木に駆け上がる。そして、そのまま上に逃げてしまえば何でもないのに、ここに遊びの気持ちがリスにわくのであろう。安全と思われるところまで下りてきて、サンディに向かって、尻尾を激しく振りながら、ギャギャと挑発の叫びをあげるのである。あきらかにリスはこの状況を喜んで、余裕をもって、サンディをあざけっているのである。ここに”遊び“といえる態度がうかがわれる。


 さて、人間というものは、緊張の持続には耐えることが出来ないように出来ている。いつかどこかで緊張を発散させることが非常に重要である。4-5時間勉強をし続けている人よりも、適当に休憩をして勉強する人のほうが能率もよく、効率も上がることは既によくしられている。


 遊びは非常に大切である。よく遊ぶことが出来ない人は、よく勉強することもできないひとであると言っても言い過ぎではない。大切なことは、遊びと勉強のけじめをハッキリとつけ、勉強を早く、しっかりとすませてしまって、気兼ねせずに堂々と遊ぶようにすることである。そうすれば、“遊び”は最も効果を発揮して、単なる遊びではなく、学校の勉強とは違った形のひとつの優れた学習であることになる。


 人類の生存にはいろいろのものが必要である。学校の勉強は、その達成のためのもっとも大切な手段の一つに過ぎない。“遊び”は学校の勉強ではカバーしきれないものを発掘し、育成させていく働きを持っている。あるときには、人生におけるもっとも大切なものが潜んでいる場合だってある。遊びに徹することが出来ない人は、勉強はもちろん、何をさせても、徹底できない人である。遊びの中に人間は自分の才能や長所を発見し、自信を持って伸ばし、他の領域に適応していくことが可能になる。“遊び”を勉強からの逃亡と位置づけている人は、もう一度自分を反省して、堂々と遊べるように努力しなければならない。勉強を気にしながら遊ぶ人は、遊びにも徹底できず、本当に、真剣に遊べば必ず身につけることが出来る何ものかを身につけないで、いたずらに時を過ごしていることになる。もったいない話である。よく遊び、よく学ぼう。


 私は遊ぶのが大好きで子供のころから充分遊んできた。従って、私はひとに“遊び”について語る資格があると思っている。同様に、勉強のほうも、人一倍努力してやってきた。高校時代(15歳) のある時期など、日曜日には十五―十六時間、机に向かって各種の教科と取り組んできた。勉強の方法や自分の実行してきた学習法の長所や短所などすべてよくわかっており、私はものすごい努力で困難を克服してきたという自信をもっている。従って、勉強についても、私はひとに語ることが出来ると思っている。今、ここでは、“遊び”について考えているので、“勉強の方法”については、別の機会に譲るつもりである。(これは後日、“学習効果を高めるために”という文章となった。補記 2008年)


 さて、“遊び”は人間にとって本来的に必要なものであるため、“遊び”の中にいると人間は自然と本性を現すことになる。特に真剣に遊んでいるとき、その人間の長所短所が鮮やかに浮かび上がってくる。勉強において緊張していた精神が解放されると、その人特有の自然さが表面に出てくるのは当然のことである。昔、高木あきみつの“刺青殺人事件”かなにかで、名探偵が犯人らしき男と将棋を指すことで、犯罪者的性格の証拠を確認するという話しを読んだことがあるが、そういうことが出来るのも、将棋という遊びに真剣に向かったとき、その人間の本性があらわに出てくるからである。


 遊びには、いろいろの種類がある。ここでは、私の分類上の好みで、偶然性を軸にしてわけてみたい。(他の分け方としては、賭けに注目したわけ方もある。)


 マージャン、花札、トランプ、バクガモンなどは偶然性に大きく左右されるゲームである。自分で選択できず、配られたもの、与えられたもの、たまたま入ってくるものを中心にしてゲームが進行する。読解力とか判断力とかは、もちろん入ってくるし、勝因に直結しているが、偶然性が大きな位置を占めていることは否めない。


 他方、チェス、将棋、囲碁は偶然性がまったく関与しないと言ってよいゲームである。自分のミスや相手のミスを偶然ととらえることも可能だが、それも技量のうちであるのは事実である。この種のゲームは完全に自分の能力に依存したゲームであり、それだけその人の性格もハッキリとあらわれてくる。ミスして負けても、読みが浅くて負けても、いずれの場合も、自分の能力を反省するしかない。勝ちたいと思えば、勝てるように努力しなければならず、努力すれば、必ず目に見えて実力がついてくるのがわかる競技である。

こういう風に分類してみると、将棋・チェス等の好きな人とマージャンの好きな人、両方好きな人と、人それぞれ才能と性格の違いによって、いろいろな人がいることがわかる。将棋と囲碁、将棋とチェスにも大きな性格の違いがあり、逆に、それぞれのゲームの面白さを保証しているといえる。


() 完 1983年 村田茂太郎




 “遊びと人間”つづき ― チェス・将棋・囲碁のすすめ

                  

 人それぞれ、才能も性格もちがっているので、すべての人が好きになるとは限らないが、私は、マージャンや花札、トランプのように偶然性に左右されるゲームとチェス・将棋・囲碁のように、偶然性の入ってこないゲームの、両方とも、それぞれ性格が異なり、それぞれ個性を持った面白味があるので、親しむようになってほしいと思う。


 これら、特に、チェス・将棋・囲碁は上達するのに時間がかかる。私は以前、ロサンジェルスにあった日系人のセンターで老人たちが真剣に将棋と囲碁に興じているのを見たことがある。一方、チェスも将棋も囲碁も知らず、老人になって何もすることなく、ボケッと無意味に過ごしている人々を見たこともある。そして、こうしたゲームを知らないで老化していった人々を気の毒に思ったものだった。そして、また、同時に、若い人たちから、年をとって、暇が出来たら覚えたいと言う声を時折聞き、私は心の中でくすくす笑い、心から気の毒になってくる。若いころから充分に親しみ、苦労して学び、身に着けるから、年老いても、いつまでも楽しいゲームであってくれるのだ。老人になって、頭が老化してから、楽しんで身につけられるものではないし、上達するはずもない。その意味で、最近では幼稚園や小学生のころから、チェス・将棋・囲碁に親しむ人たちがたくさん生まれていることは喜ばしいことだ。


 私はここで、まず、チェス・将棋・囲碁に興じる中で養われると考えられる特性について述べてみよう。これらの特性を鍛えることが出来るということが、私が勉強と遊びのけじめをつけて、堂々と遊べと言う理由でもある。


 集中力・思考力・注意力・構想力・記憶力・忍耐力


芸術性・自信・面白さ・楽しさ・くつろぎ(気分転換)友人・ライバル・頭脳の活性化


 チェス・将棋・囲碁に興じる中で身に着けた注意力と部分と全体とのバランスをとりながら見ていくという態度などは、そのまま実生活のさまざまな場面で生きてくる。しかし、‘なんといっても、親しい友人とくつろいで、これらの知的なゲームに没頭する楽しさにまさるものはない。長い人生を楽しく生きるために知っておいたほうがよいというのが私の考えである。


 チェスと将棋は似ているけれども、かなり性格が異なる。私はそれぞれの性格の違いを認め、どちらも愛する。将棋のほうが高級だとか、むつかしいから面白い、チェスはつまらないと言う人がいるが、それは将棋はともかく、チェスについては何も知らない人である。


 私はせっかくアメリカにいるのだから、チェスを覚えようと一人で本を読み、そのうちにWorld Championたちのゲームの芸術性ともいうべき、独特の美しさに魅かれて、“だれそれのベスト ゲームズ”という本など、ほとんどすべて買い集め、自分でボードにおき並べてそのゲームのそれぞれを楽しんだ。のちに、毎土曜日にサンタモニカ ビーチにでかけ、チェスに興じている人々と、その周りにいる人々の中から適当な人をえらんで、2-3時間ゲームを楽しんだ。アメリカ チェス連盟の会員にもなり、何年か前にはヒルトンホテルでのトーナメントにも参加した。チェスはチェスで面白いし、むつかしいし、美しいと思う。


 将棋は奪った駒が使えるという点でチェスと全く異なり、ものすごく面白いし、また別なむつかしさがある。チェスはコンピューター化できるけれども、将棋は使える駒の量が一定で、奪った駒をほとんどどこにでも置ける自由度があるので、コンピューター化はほとんど不可能である。(と思っていたが、すばらしいコンピューター ソフトができているようだ。補記2008年)


 ところで、将棋とチェスはそれぞれ少し性格が異なっているけれども、それぞれの駒に価値があり、それぞれ制限された動きの中で、ゲームが進行し、戦闘はどちらかといえば、一点突破全面展開と言う形で勝負がつくのに対し、囲碁は全く性格が異なり、まさに国際的ともいえる特徴を持っている。すなわち、白と黒というただの石を盤上に並べるだけで、見事な価値とリズムを持った模様が出来上がる。将棋と異なり、全体のバランスをとりながら競技を進めないといけないし、一箇所で失敗しても、他の場所で挽回できるチャンスがあり、ともかく、部分と全体の両方を見つめながら、大きな視野からゲームをすすめることが一番大切である。そして、それぞれの一局のゲームの中に構想力の花を咲かせ、しのぎをけずる死活線を演じ、陣取りをすすめるという雄大で変化にとんだ面白味がある。


 こんなにもすばらしい、それぞれのゲームを知らないで、過ごすというのも、惜しいことである。何でも知っていれば、いつ・どこで・どんなに役に立つかわからないが、必ず知っていてよかったと思うときが来るに違いない。

1983年 執筆 村田茂太郎




 “遊びと人間”つづき   マージャン・花札・トランプのすすめ



 “マージャンのすすめ”などと書くと、けしからんと思われるご父兄の方がおられるかもしれない。しかし、よく分析してみると、ただ単にマージャンを否定するのはおかしいということは、すぐ分かるはずである。マージャンは面白いために、長時間没頭して健康を害しやすく、また“賭けマージャン”になりがちであるため、金銭の恨みを買いやすく、いろいろ問題が発生しやすいというのが、マージャンを否定する側の主な意見である。


 ところで、私見によれば、マージャンは賭けとは全く関係がない。マージャンは賭けなくて充分に面白いゲームなのだ。逆に、“賭けマージャン”にしたから面白さが増すのではなく、“賭け”ることによって、ゲームの性格が“賭け”的な方向に一変するだけなのである。“賭け”と言う点ではマージャンも丁半のサイコロ遊びも同類である。


 ところで、ゲームとしてのマージャンは、まさに万人向きのゲームであり、四人で遊べるという点で、夫婦そろっての交際上欠かせないものである。このゲームがただ一人の発明によるものであったとしたら、これはまさにノーベル平和賞に値したものであると言える。初心者もベテランも一緒になって楽しめるし、初心者と言えども一回ごとのゲームを見れば、あがるチャンスはいくらでもあるという楽しさがあじわえるし、個々のゲームは勝負が早く、みんなでくつろいで楽しめると言う点で、将棋などのように強い人が必ず勝つといった、ある意味では初心者にとって腹立たしい性格を持っていない。組み合わせの多様さと困難さは芸術性とも呼べる性格を備えているし、偶然性が半分ほど支配しているため、ツキといった面白い傾向がゲームの中に現れてくる。早くリーチをしたり、されたりすれば、スリルもあるし、相手の動きを読み取ったり、自分の組み合わせを場の動きに応じて臨機応変に変えたりしなければならないという点で、頭脳の活性化に欠かせないともいえる。偶然性を基礎としながら、長年の修練でつんだ勘と判断力を働かせることによって、勝利に導くチャンスが多いけれども、個々のゲームとしては初めての人でも勝ちをあげることが出来るという点はなんといってもすばらしい。将棋や囲碁は対戦者同士二人しか遊べないが、マージャンは四人が遊べるという点で家族的であり、社交的である。点数の数え方まで身に着ければ、計算力の訓練にもなる。


 マージャンから“賭け”性をとって、ゲームとしてのマージャンは、子供のころから親しんでよい、すばらしいゲームである。有名なムツゴロウ氏(畑正憲)は、一人娘に早くから花札・マージャン・チェス・将棋などを教えておられることは“ムツゴロウの絵本”を読むとよくわかる。私はマージャンは情操教育に欠かせない家族的な遊びだと思う。


 花札は、かなり単純な遊びだが、これまた独特の面白さを備えている。私は中学生のときに、母や姉とコイコイをした。父は賭けが嫌いだといって、時々、怖い顔をしてにらんだりしたが、機嫌のよいときは、自分も入ってゲームに興じた。コイコイは二人のゲームで、勝負も早く、単純な札とりでなく、作戦と決断力が入ってくるので、冬、掘りごたつを囲んで、よく興じた。1点1円の賭けで、誰かが30円くらい勝ったときに、その金で近くの店へ“たこ焼き”を買いに行き、勝ったひとのおごりということで、みんなで食べるのが常だった。今では楽しく懐かしい思い出となっている。これには、かなり、その人の個性が出てくる。花札のデザインもなかなか味があり、赤タンや青タンは妙に魅力があった。


トランプも4-5人で遊ぶときには欠かせないものである。小学生のときから、誕生祝のパーティには必ず全員が参加して、いろいろなトランプ・ゲームをやった。日本では“21”といい、こちら、アメリカでは“ブラック・ジャック“という賭けも、よくやったものである。高校のころにはウスノロとかナポレオンとかセブン・ブリッジを、お客を入れたみんなで何度もした。ロサンジェルスにきてからは、友人との三人で、よくセブン・ブリッジに興じた。これはマージャンの小型ともいえるゲームで、1回のゲームはマージャンよりも早く終わり、変化もあって、今ではトランプの中では一番親しみやすいゲームとなっている。



 人との交際で遊びを知らない人を相手にすることほどむつかしいものはない。遊びは、すべて、それぞれ違った性格を持っているので、どんな遊びでも知っていたほうが得である。状況に合わせ、人に合わせて、自分も楽しめれば、それにこしたことはない。私はどちらかといえば、チェス・将棋・囲碁のほうが好きだが、残念ながら、この方は好きな人があまり多くなくて、ほとんど楽しむチャンスがない。女房は性格的にマージャンが好きなので、どちらかといえばマージャンをするチャンスのほうが多い。しかし、私はケン玉も好きだし、ある程度自分のものとするまでは凝る方なので、なんにでも心から興味を持ち、従って、子供達と遊んでも、一緒に楽しく遊んでいるということの中に、本当の喜びを見出しうる。つきあいでやっているといったウソが入る余地はない。機会は出来るだけつかんで、何でも身に着けるようにすべきだと思う。


 私は哲学が専門である関係上、将棋や囲碁の“方法”に興味を持つと同時に、マージャンの“ツキ”といったシンクロ二ティ的な現象にも興味を持つ。ケン玉のような単純そうなゲームでさえ、集中力とコツ(技術)とリズムが関係しており、結局、分析的に見ると、すべてが興味深い何かを持っており、“遊び”は人生において、とても大切だと確認することになる。


(完)1983年 執筆 村田茂太郎




遊びと文化            “百人一首”       

                                                                  

 正月が近づいてくると、日本では百人一首が盛んになる。LAでは夏期集中授業になると百人一首を私はやり始める。それ以外のときでも、ほとんど例年、クリスマス時にクラスの生徒を対象に百人一首をやったものであった。私は早くから親しんだせいで、百人一首と取り組むということを当然のことのように思っているが、昨今では一度もやったことのない生徒も増えてきている。


 この、まさに、日本的な、伝統あるゲームを知らないで育つ子供が出てきているということは、いろいろな意味で残念なことである。というのは、この競技に親しむ中で、私たちは知らず知らずのうちに、日本文化のいいものを身につけるようになるからである。単に、歴史や文化に親しむだけでなく、優れた歌に表明される日本的情緒や感性のあり方を自然と身につけ、いわば、強制されずに、日本文化を形成している精髄に慣れ親しみ、骨肉化することが出来ることになるのである。


 幼少年期にいいものに親しむことはとても大切なことであり、生涯への影響を与えることになる。日本的な文化とか伝統とかといっても、それは教育と環境の中で養い育てられるものであり、その努力のないところには、日本文化はないといえる。子供のころから百人一首に親しむことは、従って、日本的な感性の優れたあり方に早くから接するわけであり、文化教育上、とても重要な意味をもつ。そして、同時に、個人的に繊細な情緒を味わえるようになる。


 好奇心旺盛な子供であった私は、小学三年の冬に隣の家ではじめて教わってから、興味を持ち、たちまち、百種全部暗記した。最近の子供が百首どころか、ほとんど知らないのは、私にとっては驚きである。今の私なら、教育的に見て、百人一首などは小学一年までに全部暗記させたいと思う。幼少年期の記憶力はすばらしく、印象も鮮明なので、さほど苦労せずに全部覚えられるはずであり、そのあと、いろいろな意味で、大きな恩恵を受けるのは確かなのだ。日本語の勉強と言う意味からも、すばらしい効果があるはずである。


 私自身は競技を楽しみ、記憶力に自信を持っただけでなく、歴史の勉強や古文の勉強、そして何よりも、日本的な感性の在り方に親しむという点で、絶大な影響を受け、まさに、日本が誇る国民的な文化競技であると思う。この競技に親しむ人が沢山いる限り、日本人は世界のどこに散らばっていっても、日本文化の最良のものは滅びないと思う。つまり、言語と感性のエッセンスが、このゲームに親しむ中で養われていくはずである。


 最近(補記:1980年ごろのこと)、林直道氏が“百人一首の秘密”と言う本を書いて、百人一首が“ことば遊び”で成り立っている“歌織物”だという説を発表し、私たちを驚嘆させた。この本は面白く、とても説得力があり、いわれてみれば、なるほどと感心する点が多い。“百人一首”に関しては、いろいろな学者が研究しており、別な見方も成り立っているようであるが、林氏は、これまで、ほとんど親しむだけで、当然のように受け取っていた“百人一首”が、深いなぞを秘めた、面白い対象であることを、はじめて私に明らかにしてくれた。


 さて、ゲームとしての“百人一首”の面白さはどこにあるのだろう。これは、同じほどの実力を持ったもの同士が、一対一で、源平に分かれて競技するときに、明らかとなる。小学校のころよく親しみ、その後、ほとんどわかりきったようになってしまって、長らく百人一首の競技としての面白さを忘れていた私は、百人一首の好きな人と久しぶりに興じたとき、どの競技についても言える、“好敵手と戦う”という、いわば、真剣勝負の世界に似た面白さを感じた。そのとき、私は、この“百人一首”という単純なカルタ遊びの持つ性向を分析し、やはり“イロハかるた”にはない、高度な内容を納得していた。そして、私は百人一首に親しんでいる人を相手に、遠慮なく自分を発揮するには、何が必要かを分析的にとりだした。


記憶力―百種、全部記憶しておくことは大前提と言える。

暗記力―目前の百枚の札の所在を、いかに敏速、正確に暗記するかが決定的意味を持つ。

想起力―記憶してあるものと読み札の上の句、下の句がいかに素早く想起され、繋がるか。

運動神経―剣道と同様、同じ技術を持っていれば、手の早いほうが勝つ。スピードは大切。



 アイデア・独自性―源平の場合、自分の側の札をどう並べるかはとても重要である。昔、私は下の句の“あいうえお”順に同一のものをまとめてならべるという単純な並べ方をしていた。これは自分にとっても容易である代わりに、相手にとっても容易である。別な並べ方、つまり、上の句の“あいうえお”順にならべるやり方もあるということを知った。もちろん、バラバラもまた一つの方法である。


 この他にも、この競技の中に何か独自の性格があるかもしれない。しかし、これだけの内容を持つ競技と言うのは、かなり高度に知的な遊びであることは確かである。ダラダラとやっていれば、ただのカルタとりに堕しかねないが、お互いが励みあい、工夫しあいさえすれば、面白い、真剣勝負の世界が生まれるのは明らかである。私は“百人一首”を教室で実際に執り行うなかで、今まで知らなかった生徒に、面白さを知ってもらい、“百人一首”というものに、興味をもってもらえるよう努力してきた。今後とも続けたいと思う。


(完)1985年11月28日 執筆 村田茂太郎

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