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9/14/2018

寺子屋的教育志向の中から - その30 “塾の思い出”

寺子屋的教育志向の中から - その30 塾の思い出     


反復・継続の大切さ                      “塾の思い出”    

                                                                  

 昨今、日本では学習塾は大流行である。流行にはいい面もあれば悪い面もあり、一概には否定できない。十年ほど前、高校の恩師とお会いした時、恩師は自分は学習塾はきらいで、息子達(当時、小・中学生、後二人とも 京都大学卒業)は、どこにもやっていないと言っておられた。私は自分の塾の体験を思い出しながら、まじめな学習塾であるなら、きっと、つまらないに違いないと思い、いかにも恩師らしいと思った。


 姉が中学に入った時、英語の塾が、ある家で開かれたばかりであった。姉はそこに行き、学校では学べない知識を吸収しているようであった。二年後、私もそこに行くようになった。三年間、断続的に通ったが(塾の教師が病気で何度か長期間休まれたため)、学習面においては、学校の内容を少し予習するような形で、どうと思えるほどの意味はなかった。ところが、この塾の思い出が私にとって楽しいものとなっている。それは、私にとって、この塾が、学習の場ではなく、遊びの場であり、ある種のエネルギーの発散の場となっていたからであると思う。


 その塾の教師は、大阪の天王寺高校から神戸商科大学に入った人で、様々な友人をもっているらしく、その一人に高校の教師をしながら、刑事裁判に興味を持っている人がいた。姉の話では、そのひとが興味深い殺人事件の話しをしてくれたとのことで、私もいつ聞けるのかと楽しみにしていた。そして、ある日、とうとう、それが実現した。“八海事件(やかいじけん)として名高い殺人事件であった。殺人とか屍体とか死とかは、まだ寒気を感じさせるほどのイヤなイメージを生み出させる頃であった。(今でも好きではないが。)


 塾の教師からは、その頃、まだ生々しかった“小松川高女殺人事件”の話しを聞いた。犯人が犯行前に書いていた犯罪小説とか手記の朗読までされた。私にはとても興味深く、塾に行く価値はまさに、このようなところにあると感じた。学校の勉強などどうにでもなるのである。子供に探求心を引き起こしたり、ある種の出来事を見る視野を広めたり、別な角度から眺める事を教える事の方が、塾で予習する事よりもはるかに大切な事なのである。他の生徒はどのように感じていたのか知らなかったが、時々、やめる子がいても、ある程度人数が維持されていたところを見ると、みんなも楽しんでいたに違いない。


 もう一つ、私が楽しんでいたことがあった。それは、塾の中で、勉強が始まるまでの間、外を走り回ったりして、大いに遊んだ事、そして、教師がきてからも、しばらくの間、みんなで、サイコロ・ポーカーをやったりして、“しっぺ返し”のスリルを味わった事であった。今も時に思い出すのは、勉強の事よりも、そうした遊びである。


 八海事件“や”小松川高女事件“は、殺人事件の深刻さやむつかしさを教えてくれた。私がミステリーや探偵小説に興味を持つようになったのも、こうした話しが影響していたのかもしれない。ともかく、私は塾では特に勉強したという記憶はない。


 一方、私は小学二年から中学三年のはじめまで、ソロバン塾に通っていた。今から、考えると、この方は、自分でも信じられないくらい、自己形成に影響を与えてきたと思われる。よく、あんなにも長い間、続けられたものだと、自分でも感心する。特に、クラブ活動らしきものを体験した事のない私にとって、このソロバン塾の体験は、貴重な思い出となっている。


 小学二年といえば、当時、まだ掛け算の九九の表も知らない頃で、私は姉に作ってもらった表を見ながら、まじめに取り組んでいった。二歳年上の姉の方が上達は早く、私は亀の歩みをつづけていった。はじめ、ソロバン塾では、二階の畳に坐って少数の生徒を相手にやっていたが、だんだん生徒数も増え、長い机と椅子がつくられ、クラスもいくつかに分かれだした。実質、三十―四十分くらいの練習時間とはいえ、ほとんど毎日通う事は、今から思えば大変に見えるのだが、当時は、当然のことのように思え、遠足で疲れていても、まじめに通っていたのを覚えている。年末には、勝ち抜き競技が催され、ある時、私は七人も勝ち抜いて、鉛筆一ダースを景品としてもらった。挑戦者が自分の得意な種目で競っていくのである。


 正月には、私たち古い生徒を家に招待してくださり、みんなで楽しく遊んだ。私と同じ学年の生徒も、この西今川教場に加入し、速算会で三級位をとってやめていくひとが多かった。私は特にブリリアントな生徒ではなかったが、最も古い一人であり、同じ学年の中では、最もよく出来たため、小学校でも教師から珍重され、珠算指導や得点計算に活躍した。


 特に、何がよくできるという自覚もなかったけれど、姉が三級免状取得後、暗算がこれ以上無理だからとソロバン塾をやめてしまってから、私はおぼろげながら、自分が何に強いかわかりはじめた。そして、それは、小学六年の時にはじめて、区の珠算大会に参加して明らかとなった。私は四桁の読み上げ暗算で優勝したのであった。それ以降、私は種々の珠算大会に参加するようになった。大きな大会は、大阪商工会議所の半円形階段教室で催された。ビルの前に立っている五代友厚の像をよく眺めたものであった。


 中学一年の時に、やっと二級に合格したが、そのあと、何度一級の試験を受けても合格しなかった。中学のクラスメートで、よその珠算塾の生徒が、私より先に一級に合格していくのを、私は不思議な気持ちで眺めていた。中学三年に入り、高校受験が問題になってきたということで、私はとうとう一級免状をとれないで、やめてしまった。私は競技大会に出ると、実力を発揮できるのか、一級の人たちを押しのけて、各種の競技に入賞し、特に、読み上げ暗算では、ほとんどいつも優勝した。従って、級位はともかく、私は自分の実力というものに対して、それなりに自信をもつようになっていった。


 担任でもない先生が、私のソロバンの能力を知って、成績計算にかりだされたりした。算数や数学の計算では、この暗算力のおかげで大いに得をした。中学三年のほとんど学年の終りの頃、となりのクラスの先生が、私の家まで私を探しにやってこられ、私は、自転車で学校に参上して、その先生の成績表の計算を助けてあげた。仕事が終わって、夕食に、ドンブリをごちそうになったことを覚えている。


 ソロバン塾に通っていた間に、私はスランプも体験した。調子がよくなく、どうしても伸びない時は、通う事さえイヤになるが、あまり苦にしないで、黙々と通うほかなかった。この珠算塾の最年長者は一級をとおりこして、有段者となっていった。私は、その次の世代に属し、まだ草分け期であったせいで、二級でも免状を教室に飾ってもらえた。


 教場で待つ人のために、みんなで少しずつ出し合って図書を購入してあったが、小・中学生ばかりのせいもあり、置いてあるのはマンガばかりであった。実は、私の歴史教育は、このマンガの中から始まった。


 最近のマンガは、明らかに昔とは傾向が異なる。当時は、日本の歴史上の人物をマンガ化したものが多く、私はこのソロバン教室のマンガを通して、様々な歴史上の人物とはじめて知り合いになった。今も私は伝記類が好きだが、当時、マンガで知った福沢諭吉や中江藤樹などは、いつまでも印象に残ったし、平賀源内などは面白くてたまらなかった。


 徹底的に調べるのが好きな私は、中学教科書のような味気ないものよりは、高校参考書や事典類で歴史上の人物を調査するのが好きであった。たとえば、私の好きな由井正雪が中学程度では全く教科書に出てこず、学校での社会はつまらなかった。私はマンガを通して興味を覚えた人物の伝記は、更に詳しい伝記を貸し本屋で借りて調べ、自分を納得させることができた。ソロバン教室の中には、当時盛んであった鉄腕アトムやイガグリ君、赤銅鈴之助などもあったが、アトム以外はつまらなく、私にとっては歴史ものマンガが一番楽しかった。今も、マンガ日本史や偉人伝は出版されているようだ、学校の図書に備えて、低学年の児童によく活用してもらいたいと思う。きっかけを作るということは、教育のなかでも、最も大切な事の一つなのである。


 このようにして、私は小・中学校という、人間教育にとって最も大切な時期を、ソロバン塾で過ごした。あわてず、恐れず、まじめに、コツコツと取り組むという私の基本性格がしっかりと形成されたのは、このソロバン塾生活を通してであったと思う。それまで、自分では気がつかないでいた暗記力や記憶力を発見し、自信を持って対象に向かえるようになったのも、この珠算塾での体験を通してであった。私は、このソロバン塾の恩師である戸羽武夫先生に、その後、全然、手紙も差し上げていない。今、ご健在であるのかどうかもわからない。しかし、魯迅の“藤野先生”ではないけれど、私が最も尊敬し、慕っている数少ない先生の一人である。


 1973年8月のロサンジェルス二世祭りの珠算大会に私は参加してみた。“昔とった杵柄”が果たして有効かどうか試してみたかったのである。あとで話し合ってわかったことだが、そこには、昔、初段までとったひとも参加していた。ところが、幸運なことに、競技参加者は多くはなかったが、ともかく、私は全種目で優勝した。読み上げ暗算は五桁であった。私は中学生の頃は六桁の計算まではできるようになっていたし、たいていの人は四桁でまちがうとわかっていたので、もともと、相手が何段何級であろうと、ある程度の自信はあったが、やはり、結果が予想通りになっても、うれしかった。羅府新報は早速、詳しいニュースを報道し、加州毎日は翌日、写真を撮りたいと、アパートまでやってきた。


 こういう体験を通して、私は二級というものの大切さをつくづく感じた。三級、四級では、もちろん、知らないよりは良いに決まっているが、ある程度、実力は低下していくようだ。何年も地道な訓練を経て辿りついた私の二級は、それなりの意味をもっているのであった。特に、暗算は普段の買い物でも生かされ、反復練習している事にもなるので、ソロバンをさわらなくても、実力が維持できるようだ。アメリカ人は計算力が弱いので、ある古本屋で、私が消費者税まで入れた金を差し出したところ、相手は計算機を使って同じ結果になったの見て驚き、あなたは数学の教授なのかと私に訊いた事があった。


 大切な事は、身につけた事を活用することである。活用する事によって、不断に記憶力や諸能力は練磨され、いつもある一定の水準を保つ事が可能になるのである。これは、何もソロバンに限らない。すべての学問についていえる。私はソロバンとソロバン塾を通して、学習における最も大切な事を学んだのであった。反復・継続の大切さは、実際に体験した人はよく知っている筈である。私は学習における基本として、集中・反復・持続を何度も説いてきた。本物として身につくまでに、これが最も大切な態度である事を、私は知らず知らずの間に、ソロバン塾生活を通して、理解したのに違いない。吸収した知識は、スグ忘却されることがある。しかし、長い時間をかけて、基本から身につけたものは、その人の血肉と化してしまい、どのようなことがあろうと、終生、その人と共に生きつづける。これが、私のソロバン体験であった。


 私の塾の思い出は、このようにして、どれも心地よく楽しい思い出となっている。どれも直接には学校の正課に影響を与えるものではなかったが、私の半生を裏面から支え、ある場合には指導的な役割を果たしてきた。私は母の決断に感謝し、また、よい教師に恵まれた事を心から感謝している。思い出す価値がある思い出を持っているということは、すばらしい。


〔完                記 1986年1月1日〕  村田茂太郎 

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