また、いいものをに親しむ重要さも明らかです。
わたしが補習校あさひ学園で教育的にすこし役に立つことが出来たとしたら、それはこの高校教育からまなんだ事が生かされたということで、この高校国語が無かったら、わたしの人生は完全にちがっていたでしょう。わたしは今在る人生で満足しています。わたしの様々な教育論の原点がここで生まれたとはっきりいえるのは嬉しい事です。
村田茂太郎 2012年3月22日
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私の受けた高校国語授業
中学時代の国語授業がどのようなものであったか、今の私には思い出せない。ところが、中学国語から一、二年あとの高校国語については、鮮やかに覚えている。私にとっては、高校国語こそ、国語の重要さも、面白さも、すばらしさも教えてくれたものであった。一年の時から、京大国文科出身のすぐれた教師の下で、私は黙々と基本の勉強を続けた。その授業は迫力が在り、熱中する体のもので、私は必死になって、一言も洩らさずに聞いて過ごした。
その恩師が何気なくつぶやかれた感想<リルケの“マルテの手記”はすばらしい>とかといったものまで覚えていて、成長してから、私の読書のガイドとするとともに、恩師の人間を知る一端となった。
高校国語は、私にとって、全精神の集中を要請するものであった。私はすぐれた教師の下で、国語を三年間、学習できたことを心からうれしく思った。恩師の国語の教授法は徹底していて、小林秀雄の“平家物語”という三ページの論文の読解に、何時間もかけられたし、高村光太郎の“秋の祈”という詩の鑑賞にも、何時間も費やされ、吉田精一の解説でさえ、粗雑に思われたほど徹底してよく理解することが出来た。
古文のほうも同じ恩師から、放課後の補習授業で、文法的解読の方法を徹底的に教わった。一年の頃、特に目立つ生徒ではなかった私は、ただひたすら、基本文法の学習に打ち込んでいた。蓄積された学力が、その効果を発揮し出したのは、二年の中ごろになってからであった。国語ほど難しいものは無いと思っていたその国語で学年のトップクラスに立っている自分を発見し、また、国語ほど好きなものはないと思えるほどに変わっていた。
相変わらず、父の指示に従って、工学部に行くつもりであったが、国語は私のもっとも自信のある学科になっていた。そして、受験勉強の傍ら、二日に一冊の割合で、文庫本や新書本を読み続けていた。母は、国語はもうほとんど一番なのだから、本を読むのはやめたらどうかとアドバイスをし、私は、こうして現代評論に日常親しんでいるから、国語はトップクラスでおられるんやと反論して、本を読みふけった。
私は、国語の最高の教授法を目撃し、同時に最低の方法も目撃していた。古典を文法的に基本から徹底的に、正確に読解していく方法を身に付け、小林秀雄に没頭しきっていた私にとって、こと国語に関しては、こわいものなしであった。ただ、恩師の授業に賛嘆しながら、現代国語を教える事ほど、むつかしいものはないといつも感心して聞いていた。
あるとき、恩師が座席の一番前の中央近くの生徒をよく指名し、しかも、当てられた生徒があまりよく答えないのに気がついて、私は一番前の席につきたいと考えるようになった。そして機会はうまくやってくるもので、希望通りに座ることが出来た。それからの私の学習は、メキメキと質を上げたとハッキリいえる。恩師が授業中、何について質問するかわからないので、私は日本文学史の知識も徹底的に叩き込み、古典文法に関しては、二六時中、つきあって、まちがいなく学校で一番といえる自信をもつようになった。
そして、私が大概、スラスラと返答するので、よそから見ると、あの教師は、一人の人間しか指名しないと思えたほどであった。
こうして、私は国語の教授法と学習法を身に付けながら成長することが出来た。一年の時には、その恩師は、私のクラスの担任であり、二年にも担任に当たるという幸運に恵まれた。一年のホームルームの時間のあるとき、先生は、太宰治の“お伽草紙”の中の、“カチカチ山”を朗読してくださった。私は、その新鮮な印象を二十六年経った今もあざやかに覚えている。
そして、私は、恩師が、太宰治が好きでおられることを知り、後年、そのような感受性の恩師を一層すばらしく思ったりした。恩師は、文学的に言って、太宰は志賀直哉と比肩するか、凌駕すると見ておられたように思う。そして、今の私は、内容的・表現的に太宰治の文学の方が、嫌味を持った志賀文学よりも、はるかに偉大ですばらしく、共感できるように思っている。これも、恩師の影響の表れかもしれない。
“カチカチ山”は、太宰治の五歳になる娘が、“狸さん、かわいそうね”ともらした感想が一つのショックとなって、太宰治を刺激し、生み出されたもので、この“お伽草紙”は、小説家太宰の最高傑作に属する。そして、昭和文学史においても、不滅の輝きをもって戦中文学の間に屹立している。
私にとっての国語上達の根本を省みると、古典においては、一字一句洩らさずに精密に、文法的に解読していくこと、そして何でも暗唱するくらいに読み親しむこと、この基本を抜きにしては成長はおぼつかなかった。今も、何とか、原典で古典を楽しみ味わえるのは、ひとえに恩師の教育を、私が信奉し、徹したからであると心から感謝している。
そして、自分の高校時代の学習態度・授業態度をふりかえってみて、成る程、恩師が私に大いに期待を寄せられたのも当然だ、もし、今の私の生徒に、あの頃の私と同じ程度の熱意を持って授業に接してくれる子供がいるなら、私も少しの犠牲も惜しまずに、全力を発揮しようと頑張るだろうと思った。
ロサンジェルス補習校では、どうしたことか、国語の学習に対して、切実感を抱いている人が少なく、一体どうするつもりかと、歯がゆいような、情けないような気持ちにならせられることが多い。日本人でありながら、教科書程度の国語でさえ、まともに読みこなせないような現今の生徒諸君の怠慢振りを、手遅れにならないうちに、自覚させる何かよい方法はないものかとつくづく思う。
(1985年9月3日)村田茂太郎
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