何もルネサンスだけでなく、18世紀、19世紀にも沢山の天才がさまざまな分野で活躍しました。もちろん、二十世紀もそうです。
今は教材が恵まれているから、ファインマン型の自力型天才がいっぱい現れる恵まれた時代になったと思います。アメリカや日本その他の文明国ではいくらでも才能をのばせそうですが、貧しい国々ではそうはいきません。しかし、彼らのなかにも条件さえそろえば、いくらでも天才は出てくるはずだと思います。世界が平和になり、子供たちが自分の才能を伸ばせる世の中になってほしいものです。政治の貧困にはまいります。
村田茂太郎 2012年3月24日
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“虐殺されたモーツアルト”(環境と教育)
サン・テグジュぺリの“人間の土地”の一番最後のところで、“虐殺されたモーツアルト”という言葉が出てくる。貧しい国々で子供達が簡単に死んでいくニュースに接するたびに、私はこの“虐殺されたモーツアルト”という言葉を思い起こす。
ふつう、私達は、歴史上の天才といえば、直ちに、レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツアルトを思い浮かべる。特に、モーツアルトの場合は、単なる神童から天才モーツアルトへの成長は、天才にのみ可能なといえる猛烈な不断の努力によってであったし、なによりも先に父親による天才の発見があった。天才も環境と教育の中で、生まれてきたのであった。
一昨年であったか(1984年?)、インドにあるアメリカのケミカル工場が事故を起こし、漏れた毒ガスで、無防備で貧しい人たちが何千人と命を失った。また、去年(1985年)の11月には、コロンビアのネバド・デル・ルイス火山が大爆発を起こし、付近の村で2万人の人が命をなくすという出来事があった。私はまさに“虐殺されたモーツアルト”だなとわびしく思った。天災や人災が起きた場合、僅かな犠牲は仕方が無いかもしれない。しかし、それが、貧しい国で起きた場合、人命の喪失は、信じられないほど膨大なものとなる。貧しさは、不幸と悲惨に直接つながっている。一昨年かのヴァングラデッシュの台風と洪水による死者も何万人であったし、2-3年前の中近東での地震によっても、土の家が簡単に壊れて何万人と亡くなった。貧しい生活環境と不衛生、栄養失調、救護施設の不足、すべてが被害を大きくする要因となる。
貧困の中で失われていく若い生命のことを考えると、つくづく“虐殺されたモーツアルト”だなと思う。貧しさのために失われていく何万人という生命、それは環境と教育次第では、それこそ、無限の可能性をもつものなのだ。天才の可能性を秘めた若い生命は、どの歴史にも、どの場所にでもいっぱい存在していたのだ。なにも古代ギリシャとルネサンスの時代にだけ、天才たちが雨後の筍の如く発生したわけではない。古代ギリシャとルネサンスの時代とは、天才たちがその才能を発揮できる環境が育成されたときなのであり、その中で、存分に天才を発揮できる人がいたということなのである。それ以外にも、どこにでも天才たちは居たに違いないが、その環境が天才の発現に適していなかったり、厳しい環境の中で、才能の発現以前に滅びざるを得なかったのである。
天才の発現とは、環境と教育の産物である。どのような形の天才であれ、それが発現するためには、豊かな社会と恵まれた教育が必要である。よほど強烈な意志をもった天才は別として、ふつう天才は自然発生しない。史上あざやかな才能を発揮した天才達は、いずれも天才教育の賜物である。そこで、サン・テグジュぺリの“虐殺されたモーツアルト”という絶叫になるわけである。エチオピアの貧困と飢餓の中で死滅していった若い生命の中には、可能性としてはどのような才能でも備えていたはずである。ただ幸運にも、豊かな環境に恵まれ、豊かな教育にめぐまれた子供達にだけ、才能を見つけ、発現させるチャンスがある。
サン・テグジュぺリは三党列車の中で、貧しく、生活に打ちのめされた労働者の群れを見かけた。悲惨な姿に心を打たれたとき、サン・テグジュぺリの目に入ったのは、夫婦の間に眠る子供の姿であった。それは、彼にはまさに天才少年モーツアルトのように思われ、サン・テグジュペリは将来への一つの希望を見出したように思った。しかし、やがて、悲惨な思いが襲った。“これこそ、モーツアルトだ。これこそ生命の見事な約束だと。・・保護され、いつくしまれ、教育されたなら、この少年になり得ないものはなにひとつないはずだ。花園に新しいバラの新種が出来ると、庭師達は大騒ぎする。・・・ただ、人間のための庭師はない。・・・僕を悩ますものは醜さではない。言って見れば、それは、これらの人々の各自の中にある虐殺されたモーツアルトなのだ。”
現代もまた天才の時代に違いない。世界のかなりの部分で、まだ圧制と貧困が支配しているとはいえ、日本や欧米では、生活が豊かになり、教育施設はととのい、才能さえあれば、いくらでも伸ばせるチャンスに恵まれている。ただ、ゲーテも言ったように、明らかに、“天才とは努力しうる才”である。モーツアルトの天才とは、まさに、モーツアルトの超人的な努力の才であった。そして、現代の豊かで甘い環境は、安易さを生む結果となり、天才の発現に何よりも大切な努力が忘れられてしまう。貧困の中で、虐殺されていくモーツアルトを思うとき、そして、一方での豊饒の中での怠惰を思うとき、私は哀しい思いに襲われる。
(完 記 1986年2月7日) 村田茂太郎
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