明治時代に教育を受けた人の学力はおそろしいほどであると思います。森鴎外や夏目漱石はいうまでもなく。
旧い文章ですが、そのままコピーしました。
日本女性史の研究に不滅の業績を残した高群逸枝(たかむれ いつえ)は、小学校長であった父親による、子供の頃からの教育をしっかりと身に付けて育ったため、古典古文や漢文に対する能力は充分すぎるほど身に付けていた。十二歳のときに、すでに漢文“十八史略”の素読を大人の弟子たちに、父親の代理として教えたりした。熊本県立師範学校女子部に入学した年には、熊本民謡を白文の漢文で発表して皆を驚嘆させたといわれているが、七歳のときから日本外史、十八史略、源氏物語を学び、十三、四歳の頃、すでに漢詩を創作していた彼女にとっては、熊本民謡を漢詩に作り変えることぐらいは、たやすいことであったろう。この漢文力が後年の彼女の本格的な研究に、決定的な役割を果たすことになった。
二十四歳のときに、考えることがあって、彼女は四国八十八箇所巡礼の旅に出たが、その紀行は、美しい古典の名文として、書き残された。自伝“火の国の女の日記”に引用された部分だけを読んでも、深い感動に襲われるほどのすぐれた文章である。
本格的な招婿婚(しょうせいこん)の研究に入って、王朝の男性による漢文日記“小右記”や“明月記”を次から次へと読みこなしていく間は、彼女自身もその漢文調の世界に没入するあまり、漢文日記を付け始めたくらいであった。たとえば、
“勘仲記”了後、有所思而、復再読中也。・・・前樹、啼尾長鳥、後野、咲蓬茨花、微風吹而、書屋清明、亦楽哉。・・・ といった調子である。
(“勘仲記”を読了後、思うところあって、また、再読中である。前の樹では、尾長鳥が啼いており、後ろの野原では、蓬と茨が咲いている。さわやかな風が吹いて、書斎はすがすがしい。なんと楽しいことだろう。・・・といった趣旨である。 ムラタ訳)
さて、一方、“朝顔や 濁りそめたる 市の空”の名句で有名な杉田久女が高女を卒業する前のテストで書いた答案が、父親の配慮により残されている。“ウェストファリア条約について知るところを記せ”といった形の問いに対して、彼女は、みごとに秩序だった、格調の高い古典文で解答を書いた。それは、試験官に特筆され、それを誇りに思った父親は、その答案を額に入れ、子孫の参考のために、永世保存と決めたほどであった。
1648年、十七世紀の中ごろ、欧州の政教戦争あり、即ち、ドイツにおける三十年戦争なり。その終局に於いて、シュワイツ、オランダ独立し、スエーデン、フランスは領地を得、ドイツは疲弊せり。すなわち、ウエストファリアの条約は、三十年戦争の終結にして、政教紛争の一段落を告げし結果の条約なり。
といった調子の文章である。
さて、文語文の持つ特徴を考える上で、ヒントを与えてくれるのが、高群逸枝の文章である。高群逸枝は天才特有の情緒的反応を示し、それぞれの時期での精神の危機に際して、それぞれの気分と情況に応じて、それが巡礼となってあらわれたり、家出となってあらわれた。そうした、心理的・精神的な動揺の過程の中にあって、彼女の書くものが擬古典文体から口語調へと変化していくのを私たちは読み取ることが出来る。これは、何を意味しているのか。ともかくも、現代人にとって、古典文を書くということは、精神力による抑制が必要とされるということである。自己コントロールが充分に効いた精神状況の中にあって、はじめて擬古典文は書かれうるということなのだ。高群の例でいくと、コントロールが効かなくなり、激情が知性を超えるにつれて、書くものが口語体へと変容していったのである。
“書き手の内面操作からいって、文語体には均衡の維持が要求される。特定の美意識とリズムがそこに伴う。”(“高群逸枝”堀場清子)ということ。
家出の決意に向かうにつれ、文章は
五月七日 「ここに妾(わらわ)を、妾(わらわ)が衝動に打ちまかせむ。・・・」
五月九日 「いざ、妾(わらわ)は隠れむ。・・・私はいきます。私は参ります。・・・」
五月十三日「自分の苦悶は自分で処理しよう。そして、兎に角、別れよう。・・・」
五月十五日「わたしは何という愚かな女だろう。・・・」
五月二十四日「昨夜はひどくうなされた。私は考える。・・・」
と変わっていく。“妾”から“私”、“わたし”へ。そして文語から口語、会話体へと。堀場女史が指摘されるとおり。
さて、現代人が擬古典文を書くとき、精神のコントロールが必要なのは当然である。古典文法と古典仮名遣いに沿った文章を組み立てねばならないのであるし、古典文のスタイルをどのようなものに決めるかという点でも、また別な集中力や構想力を働かさねばならない。そして、それが成功したときは、口語文では味わえない、魅力ある、芸術的なとも呼べる文章が現れることは、たとえば、会津八一の“南京新唱”自序と彼の友人山口剛による序とが明白に示している。
「友あり、秋草道人といふ。われ彼と交ること多年、淡きもの愈々(いよいよ)淡きを加へて、しかも憎悪の念しきりに至る。何によりてしかく彼を憎む。瞑目多時、事由三を得たり。
彼、質 不羈(ふき)にして、気随気儘(きずいきまま)を以って性を養ふ。故に、意 一度動けば、百の用務を擲って(なげうって)、飄然(ひょうぜん)去って遠きに遊ぶ。興尽き財尽く、すなわち帰って肱(ひじ)を曲げて睡る。境涯真に羨むべし。・・・」
山口剛
「もし、歌は約束をもて詠むべしとならば、われ歌を詠むべからず。もし、流行に順(したが)ひて詠むべしとならば、われまた歌を詠むべからず。
吾は世に歌あることを知らず、世の人また吾に歌あるを知らず。吾またわが歌の果たしてよき歌なりや否やを知らず。・・・
採訪散策の時、いつとなく思ひうかびしを、いく度もくりかへし口ずさみて、おのづから詠み据ゑたるもの、これ吾が歌なり。さればにや、一人にて遠き路を歩きながら、声低くこれを唱ふるとき、わが歌の、ことに吾に妙味あるを覚ゆ。・・」会津八一 大正十三年
現代人である私たちは、もちろん現代口語文さえ書ければ、それで充分用を足すのであるが、私は古典古文の読解力や表現力を堅実に身に付ける一方法として、自分で古代人や近世文人・学者のように、擬古典文を書いてみるとよいのではないかと考えた。
私たちの少し前の時代・世代の人達は、高群逸枝や杉田久女あるいは会津八一の文章が示すように、立派な古典文を書く技術を身に付けていた。古典に関して書く技術をみにつけているということは、そのまま、読む技術を身につけていたといえるのである。
外国語の学習において、翻訳だけでなく、ギリシャ語やラテン語、ドイツ語といった各言語での作文が重要であることを考えるとき、古典古文を確実にものにする手段として、自分で擬古典文を書いてみることの重要さは明白である。去年(1983年)、はじめて漢詩を試みたように、今年は、私は俳句や短歌の詞書を擬古典文で書く練習をすることにした。そして、なかなか楽しいということも発見した。そのうちに、漢文日記も試みたいと思っている。
バスを待つ 乙女に銭を換えやりしも 名刺に興醒む 南無妙法蓮華経 1984年7月13日
朝、バスを待つ。一アメリカ女性、一ドルのチェンジを求めり。サイフを探りてダイムを集め、チェンジせしところ、彼女もバッグより何やらのカードを取り出して我に与ふ。何やらむと見しところ、カードには、アルファベットでNAM MYOHO REN
GEKYO とありき。創価学会の一員なりけり。我にCHANTの効を説かむとす。時にバス至り、我はエキスプレスなりし故、そそくさと別れぬ。
裸形にて 倒れ臥すあり 帰り路 ふと袴垂(はかまだれ)思ひ出づわれ 1984年7月17日
残業の疲れを肩に、夜十時過ぎて、オフイスを出で、フィゲロアを歩めば、小暗き道の端つ方に、上半身、裸体の男、倒れ臥すあり。ロサンジェルスの治安の悪きを思ひ、ハッとせしが、気を沈め、よく見むとす。身体を動かせしにより生命あるを知る。フト、今昔物語の逸話を思ひ出せり。例の、大盗賊とて名高かりき袴誰のヤススケと云ひし男、裸で倒れ臥し、死人のマネをせりといふ物語なり。
置忘れし 本を見つけし ドライバー 高らかに笑ひて 我を待ちたり 1984年7月13日
文月十一日 我は石川淳の“森鴎外”を読み居たり。余りの面白きに、我が心奪はれて、バス・ストップで降りし時、他の本を持ちし事を全く忘れおりぬ。オフイスに着きて思ひ出しぬ。大学時代からのギリシャ語の本なりしが故に、大切な宝を失せし思ひなりき。ドライバーの気付きて保持せしやと思ひきも、古く汚くなりし本ゆえ、ほとんどあきらめおりしが、翌々日のバスに乗らむとせしとき、女のバス・ドライバーは、高らかに笑ひて、我に本を示せり。その時の、われのうれしさ限りなし。
落日に 自転の速さ きはまれり
ハリウッド・フリーウエイで、真紅の太陽、まさに沈まんとせり。ほんの瞬間の差で没する姿を眺め、地球自転の速さに感銘せり。(赤道上、自転速度・時速1680km、秒速470mなり。)
(記 1984年10月17日)村田茂太郎
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