これもそのひとつで、漢文教育の重要性を中学1年生に理解してもらおうと努力し、その成果はあがりました。
このクラスの生徒の一人が日本に帰って、高校に入ったとき、学校全体で漢文は一番になったという子が居て、アメリカに居て英語がよく出来るのはわかるが、漢文が一番とは、おまえアメリカでなにやっていたと訊かれたとか。
村田茂太郎 2012年3月16日
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なぜ漢詩か?
私は最近、友人に、中村宏著“漱石 漢詩の世界”を送ってくれるように依頼した。本を手にとって見たわけではないので、確かなことはいえないが、新聞広告によると、夏目漱石が中学生の頃につくった漢詩から、最晩年の漢詩まで二百七篇を収録してらうとのことであり、私はとても楽しみにしている。
東京帝国大学で英文学を専攻し、“方丈記”を英訳して英人教授を驚かせ、秀才の誉れ高く、ロンドンに二年半海外留学までして英文学の研究にうちこんだ漱石であったが、その彼が、中学の頃から五十歳で亡くなるまで、こつこつと漢詩を書いていたという事実は、日本人にとって“漢詩”のもつ意味の大きさを象徴させるだけのものを持っている。
森鴎外にしても、漱石にしても和漢洋の学問を身に付けていた。単なる知識としてでなく、自由自在につかいこなせるまでに自分の身につけていたから、こそ、書くものがすべて独特の名文となった。日本語の持つやわらかさと漢語の持つ独特の力強いリズム感が渾然一体となって、豊かな表現力を生み出すというのが、それぞれ体質は違ったが、漢文に造詣の深かった二人の文体であった。
漢語は、重厚な響きを持ち、わずかな言葉で、彫りの深く豊かな味わいをもち、ひきしまった表現を可能にする。言葉の節約による簡潔さと、しかもポイントをつかんだ、キリッとした漢語表現は、文章を精彩あるものに仕立て上げる。日本語の日常表現も、中国の故事・ことわざを豊富に吸収し使いこなすことによって成立しているといえる。
本来、文字を持たなかった日本民族が、中国の漢字を吸収し、日本風に手直ししていくなかで、漢文を日本風に読むというくわだてに成功したのが、日本の文化のその後の成長にどれだけ効果があったか、はかりしれない。もともと、外国語である中国語を、まるで日本文を読むように読解できるようになった日本古代の文化人たちは、その能力を最大限に活用し、中国の最良のものを日本に移植しただけでなく、日本独自の文化を育てる準備をした。そんな中で、漢詩は誰にでも親しみやすく覚えやすいものとして、女性の中にまで浸透していった。
皇后定子の“少納言よ、香炉峰の雪はいかに?”という質問に対して、清少納言が即座にすだれを巻き上げたという話は有名だが、この逸話からでもわかることは、彼らが日常の会話にはさんでもすぐにピンとくるほど、漢詩に親しみ、暗唱していたということである。子供の頃から漢文の勉強では兄をまかしていたという紫式部が代表的な漢詩ははやくから暗唱していたことはいうまでもない。何気ない日本語表現が漢語の持つ独特のニュアンスによって、日本語としての美しさを一層発揮している事を理解するならば、日本語の教育において、漢文の学習がどれほど大切であるかは、いまさら指摘するまでもないことである。
“平家物語”のすばらしく感動的な文章をつくりあげているのは、いうまでもなく漢文・漢語の働きである。芭蕉の力強く、簡潔で深い味わいをもった日記・紀行文“奥の細道”を成り立たせているのは漢語であり、漢文表現力である。
日本人が漢文を日本文のように扱うことに成功した秘訣は、送り仮名と返り点の発明にあった。中国の文章をくずさないで、そのまま日本文として読むことによって、日本文は、ひらがなやカタカナのやわらかな表現と同時に、荘重で厳しく、奥行きのある、余韻を持った表現を獲得し、世界でも独特な魅力を持った国語を作り出すことに成功した。
戦前までは、漢文教育は重要な課題であったが、戦後は高校ではじめて習うケースが多かった。私個人の場合についても、正式にはじめて接触したのは、高校一年の漢文の授業においてであった。十五歳のときで、四月に始まるや、私はそのすばらしさに魅せられて、教科書に載っていた漢詩は全部暗記し、さらに自分で漢詩集を買いに行き、楊貴妃と玄宗皇帝の恋愛をテーマにした白居易の“長恨歌”を全部暗唱した。十五歳の六月ごろで、授業では、漢文はまだはじまったばかりというところであった。私の居た高校の全高生一年から三年まで千五百人いたなかで、“長恨歌”を暗唱したのは、私だけであったに違いないと、今思う。
最近読んだ、高群逸枝の自伝を見ると、漢詩を自由に創作できるほど漢文を身に付けていた父親から、彼女は漢文を習ったわけであるが、それは彼女がまだ小学生の頃からであった。吉田松陰が、十二歳の時に、長州藩主の前で、中国の歴史書の講義を行ったという信じられないような話があるくらいなので、結局、学問というものは、本人さえヤル気を出せば、どんなに若かろうが、いつはじめてもよいといえるであろう。
最近、漢詩は中学二年の国語の教科書に、ほんの少しでてくる。私の頃から思えば、かなりよくなったといえるかもしれない。私は、一昨年、小学六年生の国語の補助教材として、漢詩をプリントして手渡し、暗唱するようにすすめたところ、一人は杜甫の“春望”を、残りのほとんどの生徒は、一番短い王維の“鹿柴”(ろくさい)を暗唱してくれた。私はともかくキッカケを与えよう、興味をひかそうとしただけで、小学六年生には、それ以上の事は期待していなかった。それでも、一度でも漢詩を覚えるほど読み親しんでいると、次に漢文・漢詩に出会った時、すでに下準備が出来ているので、その吸収度・理解度には見違えるものがあるはずである。
僧月性(げっしょう)の“題壁”(かべに だいす)という漢詩の持つ効果は、漢文のすばらしさを明白に示している。この詩を読んで、学問への、勉学への意欲をかきたてられない人がいるだろうか。十五歳の少年が、これだけのものを作ったということ、しかも、その時、彼自身は、まだ勉強を充分やったとは思っていず、これから、命がけで勉学に向かうぞという意気込みで壁に書き付けたものであることを知る時、人はますます激しい向学心に駆られるであろう。だらだらと書き付けるよりも、はるかに効果を持った表現となっている。
漢文の入門は漢詩がベストである。独特のリズム感をもって、覚えやすい漢詩は、漢文の持つ魅力を率直に示している。古来から、日本人は漢詩に親しみ、朗誦し、自作してきた。平安時代には調子の良い部分を暗唱用にあつめて“和漢朗詠集”などというアンソロジーまで出版されたほどである。
漢詩の持つ美しさは、それに親しんだものは誰でもすぐに認めることである。だが、本当に漢詩のすばらしさがわかるようになるには、長い年月を必要とするに違いない。たとえば、杜甫の“登高”の見事さを本当に理解するには、杜甫に劣らぬ体験と労苦と歳月を要すると思われるが、今から、何度も親しめば、それだけよりよく理解することもできるはずである。暗唱し、朗誦し、解釈することをつづけていれば、ひとりでに漢詩は自分の骨肉と化していくであろう。漢詩・漢文に親しむことは、日本語にも親しむことである。漢文に親しみ、身に付けておくことは、今後の、日本語と日本文化を担う若者に課せられた任務であるといえる。
漢文・漢語を生かした文章の例を引用しておこう。
“昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は、西海の波の上にともづなをといて七千余人、雲海沈沈として青天すでに暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて、月海上に浮かべり。極浦の波を分け、潮に引かれて行く船は、半天の雲にさかのぼる。”(平家物語巻七 福原落の事)
“月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅をすみかと素す。故人も多く旅に死せるあり。予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて・・・”(芭蕉 ”奥の細道“)
“ろうせいの李徴(りちょう)は博学才頴(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎ボウに連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、ケン介、自ら恃む所頗る厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、カクリャクに帰臥し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽った。”(中島敦 “山月記”)
“その過半が全く孤独な放浪に送られたランボオの生涯は、彼のみの秘密である幾多の暗面を残している。又、彼がその脳漿をしゃく断しつつ建築した眩暈定着の秘教は、少なくとも、私には晦渋なものである。”(小林秀雄 “ランボオ-1”)
(記 1983年)村田茂太郎
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