Shigetaro Murata で Internet Search をしてみたら、1983年ごろのLA Timesに、記者があさひ学園パサデナ校を訪問した記事があり、わたしの名前で Mathematic Instructor Shigetaro Murata がこう言ったとして、わたしの意見が紹介されていましたが、それは、家庭内での日本語使用に関するコメントでした。そのときから、すでに海外での日本語指導問題がわたしの関心事項であったことがわかります。
ともかく、当初は私は数学の先生として頑張っていたわけです。
以下の文章はそのころの、数学の勉強の仕方についての私見です。
村田茂太郎
2012年3月21日
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数学の学習について
私の数学指導が、かならずしも私の考え・希望するようには、いっていない時もあるが、ここに、私の数学教育の方法並びに学習法について簡単に述べたい。
数学は国語と同様、基本の積み重ねの上に成立している学問であり、基本を一つ一つマスターしていけば、少しも難しいことは無いが、基本をおろそかにしていると、ますますわからなくなっていくという性格を持っている。
人間は考えることが好きで、昔から謎を解いたり、難問に挑戦して、その中に喜びを見出してきた。数学は昔から、あらゆる学問の王者として扱われ、誰もが数学と取り組んできた。数学は誰でも基本的に好きになれるだけの多様さを持ってきた・・・すなわち、計算力だけでなく、直観力、思考力、想像力を働かせる事によって、内容豊かな数学の世界をつくってきた。
従って、本来、まじめに授業を受け、熱心に数学に取り組む人は誰でも数学を面白く感じ、大好きであるはずなのに、必ず、数学が苦手で嫌いな人がいるのはどうしてだろう。それは、何らかの理由で、基本を完全に理解できないまま、ズルズルとそのまま過ごすようになったからである。それまでよくわかり、従って、面白かった数学が、何らかの理由でよくわからなくなったまま、授業を受ける事になったからである。
基本を積み重ねていく数学の、ある部分がわからなくなり、そのままになっているとしたら、そのあとの数学が良くわかるはずがないのである。わからなくなると、それまで面白かった数学が、つまらなく、退屈で大嫌いなものになってしまう。そういう場合、まず大切なことは、基本的な問題を解いてもらい、どの辺から曖昧になり、わからなくなっているかを確かめることである。そして、その理解できていないところから、コツコツと勉強しなおせば、やがてはよくわかるようになり、自分で興味も出てくるはずである。
ところで、学習において大切なことは、学習意欲、つまり自主的に取り組むということである。人間は、面白く興味のあるものには、自主的に取り組むものであるから、数学も、よくわかり、しかも次々と未知の領域が開けているとき、誰もが数学への好奇心を強く持つはずである。その時、大切なことは、一つ一つ基本をマスターしながら、積極的に次々と新しい数学の領域に取り組んでいくと同時に、常に、反復・復習を怠らないことである。
そして、能力のある人は、ドシドシ新しい問題、新しい領域に取り組んでいくように心がけるべきで、特に、数学のように伸びる時期を持った学問においては大切である。京都大学の数学の森毅教授は、いつも一年か二年先の内容を勉強していたと、去年(1982年)新聞紙上で述べておられた。
人間の精神は、いつも進歩・向上を目指しており、わかりきったことばかりやっていると、興味をなくすという傾向がある。そして、学問・学習において最も大切なことは、興味を持って自主的・意欲的に取り組むということなので、森教授が実践しておられたように、教科書の枠にとらわれず、能力と余裕があれば、自分から進んで、自分にとって未知な領域へつきすすもうとすることが大切である。学問においては、常に、満足を知らず、あくまでも貪欲であるべきである。世界史を見ても、冒険心が現実を動かしてきたといえるのであるが、知識・学問の世界においても、冒険心・探求心・好奇心は、最も大切な役割を占めている。
では、こういうことを踏まえた上で、補習校での数学教育はどうあるべきかについて、私の考えを述べる事にしよう。
まず、大切なことは、どんな教科でも大好きになることである。嫌いな科目はつくらないこと。そして、数学が好きな場合は、教科書の理解で満足していないで、自分で教材を捜し求めて、取り組むべきである。その教材は、一つ上の学年のもであってよいし、入試問題や難問集というようなものであってもよい。要は、能力の発展に応じて前進すべきだということである。才能というものは、伸びるときに伸ばしておかないと、成長がとまってしまう可能性はいくらでもある。
それ故、私は、自分の数学の授業の時には、かならず、沢山のプリントの問題を用意しておくことにした。基本的な問題から、上級の入試問題まで、これはよいと思った問題を、練習問題として用意した。
数学は基本の要点さえ把握すれば、あとは例題・類題・練習問題という具合に、解く訓練を重ねて、問題になれる事によって、考え方や解法を身に付けていくしかない。私は、基本問題をまず与え、解ければスグに提出して、次の類似または上級や入試問題にうつる。そうすることによって、数学の得意な人は、授業時間を退屈して過ごさなくてすむし、様々な型の良問にふれて、理解や応用度が深まり、更に入試問題に接する事によって、時には自信をつけたり、こういう程度かと納得したり出来るわけである。
こうして、数学の好きな人は、ドシドシ自分のペースで進んでいける。
それでは、あまり好きでないひと、苦手な人はどうか。私の意識の中には、数学の出来る人をもっともっと伸ばしてやりたいという考えと同時に、きらいな人やよく分かっていない人をなんとかして、わかるようにしてやりたいという気持ちがある。そして、私には、嫌いな人というのは、結局、いつかどこかで数学がわからなくなったため、現在、悪い成績をとっているだけで、わからない場所まで戻ってやり直せば、どんなに悪い成績をとっている子供でも、必ず、よくわかるようになり、最終的には、数学の面白さに目覚めて、好きになる筈だという考え方が根底にある。
基本は特に大切なので、基本問題は全員に解いてもらい、これがわかれば、教科書の内容は一応、理解したといえることになっている。更に、大抵、たとえば、二年の数学が悪い人というの、一年の数学が良く分かっていないから、いつも私は、まず最初に、計算力のテストをして、生徒諸君の理解度を調べると同時に、一年の復習の練習問題を解いてもらう。私の考えでは、それによって、本人が、自分がどこがよく理解していないかを知ってもらい、積極的に勉強してもらうつもりであった。
中学一年の計算の基本をよく理解していないと、二年の内容を理解しても、計算の段階で間違うし、結局、二年のことが充分に理解されないままになるということは、何度も指摘し、特に、一年の復習を必要とする生徒には、特別のプリントを用意して、宿題用に手渡したりしたが、私が出来ることはそこまでであった。補習校という限られた時間で、放課後学習も出来ない状態で、私に出来ることはそこまでであった。
日本であれば、あらゆる手段を尽くして、数学を好きにならせるようつとめるが、ロサンジェルスにあっては、それははじめから無理である。従って、やる気のない人に対しては、私はどうすることもできない。ヤル気はあり、努力はするが、わからなくて、どうしていいのか困っているという生徒に対しては、私の方法で、理解をすすめることは可能である。
今までの経験では、私のこの方法によって、随分成績の伸びた人、数学に興味を持ち始めた人が沢山いた。もちろん、全然、効果の無かった人もいた。そういう人は、はじめから真剣さに欠け、遊びに来ているような人達であった。そういう人達に対しては、日本でなら、家にまでおしかけていって、本人と対決し、あらゆる手段で勉強をヤル気おこさせることによって、解決する道はあるだろう。ロサンジェルスにおいては、時間の許す限りのプリントや宿題や授業中の個別指導に対しても、反応しなければ、どうしようもない。馬のたとえをだすまでもなく、ヤル気のない人をロサンジェルスにおいて扱う道はない、と私はハッキリ言う。
私は、自分のこの方法的教育法に対して自信をもっている。五年の時、二に近い三といわれていた子供が、私の方法によって、五に近い四の成績まで上昇するのを、私は自分の目で見てきた。要するに、教育において大切なことは、ヤル気をおこさせること、材料を提供すること、弱点を指摘し、その克服法を繰り返し励行させることである。
そして、私は今まで、何度も、学習の基本としの、集中・反復・持続の大切さを指摘してきた。補習校という週一度の限られた教育環境で、日本のレベルに負けないでやりこなすには、それ相応の工夫が必要である。その最も大切なのが、反復練習であり、新しい知識を確実に自分のものとするために、数多くの類似問題に取り組み、理解と記憶を深めることが必要である。そして、完全に理解したとしても、それで二度と省みないというのではなく、継続的に接して、常に、記憶と理解をあたらにし続けることが大切である。そうすることによって、学習した知識が、本当に自分のものとなり、いったんそこまで理解すれば、あとあとまで忘れることが無いし、その上のレベルに容易に入っていけるのである。
中学生の頃に、数学ばかりに没頭していたというプリンストンのフリーマン・ダイスンのような学者もいるが、ふつうは、様々な学習課題を抱えきれないほど持っているのが現状であるため、時間を有効に使う工夫をしなければならない。その時、ダラダラと時間をかけ、そして反復・継続がないため、中途半端に終わりかねない学習方法を改め、短時間の集中・反復・持続を徹底すれば、すばらしい学習効果を発揮する筈である。
従って、ふつう、数学の学習法は、教師の黒板での基本説明をしっかり聞くか、いい参考書で、基本テーマを集中して、しっかり理解した後、例題を解き、解法を良く調べて、基本の問題への適応の仕方を理解し、そのあと、例題に似た簡単な類題を解いて理解度を確かめ、次に練習問題を解く。ある程度の練習問題をやりこなせば、基本理解は充分な段階に達するので、余裕のある人は、難問集とか入試問題集などにあたって、基本理解がどの程度まで数学的応用や深みに対処できるかを調べてみる。数学の面白さが分かるのは、この時点である。
私は、中三の時、姉が高一で使っていた問題集と取り組み、東大入試問題というのと真剣に対決して、その問題を七十%程まで解いた記憶がある。当時から、三十年経つが、大学入試問題を見ていて、同じ問題がやはり東大入試とかかれているのを確認し、あつ、あのときの問題だとスグに分かったほどで、人間、真剣に取り組めば、一生忘れないという自己証明になっている。
(記 1983年)
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