そのまま、コピーしました。
村田茂太郎 2012年3月14日
--------------------------------------------------------------------------------
“太陽の子”(灰谷健次郎)を読んで
灰谷健次郎の“太陽の子”は、前作“兎の眼”とは全くスタイルを異にした名作である。“兎の眼”は、丁度、名作“二十四の瞳”(坪井栄著)のように、新任の小学教師とその生徒をめぐっておきる様々な出来事を通して、愛情ややさしさの意味を問い、感銘深い作品となっていた。“太陽の子”には、二十四歳の梶山という教師が一人登場して、作品の展開のうえで大事な役割を果たしているが、学校は直接あらわれず、ストーリーは主に神戸の大衆食堂“てだのふぁ おきなわ亭”をめぐって展開する。
“おきなわ亭”を経営する大峯親子とそこにつどう人達との交流を通して、神戸党であった太陽の子 ふうちゃん こと大峯芙由子十二歳が、自分のルートである、かなしい沖縄を発見していく。従って、主人公は“てだのふぁ”(沖縄語で「太陽の子」)と呼ばれる“ふうちゃん”で、この十二歳の子の持つ逞しさ、健気さ、やさしさ、思いやりとその成長が全巻を占めていて、一読後、この小説空間が、まるで神戸に実在するような思いにとらわれ、“てだのふぁ おきなわ亭”と、そこに集まった人々に会いたいという気を起こさせる。それほど、この作品は一つの世界を見事に創出していて、文学的にもすぐれた名作となっている。よくこなれた関西弁を生かして、生き生きとした会話が繰り広げられ、その中から登場人物達が、それぞれの個性を備えてあらわれてくる。
この作品の舞台は神戸であるが、この作品のバック・グラウンドでは、いつも沖縄が鳴り響いている。ふうちゃん と オキナワ の発見、これがこの本のテーマである。
オキナワ! 沖縄について、人はどれほどのことを知っているのだろうか。私自身、何も知らなかったことを知った。反戦デモで“沖縄返還!”などと叫んでいたが、沖縄人がどれほどの苦労を体験してきたか、何もわかっていなかった。“太陽の子”に触発され、私はつい最近“いくさ世を生きて(沖縄戦の女たち)”真尾悦子(ましお えつこ)著を読んで驚いた。それは、実に、日本本土の人間を恥じ入らせるような内容に満ちていた。
連合軍による上陸作戦が展開されたため、あの狭いオキナワのほとんど全土が戦場化し、艦砲射撃と爆撃と機銃掃射、火炎放射で、戦争に関係のない島民の三分の一以上、十六万人が殺された。そして、沖縄人は、友軍である日本軍兵士によっても、いろいろな理由で殺され、また自分の子供を殺させられた。路上に散らばった無数の死体はアメリカ軍戦車で取り払われないで、ペシャンコにされていったという。
沖縄の苦労はそれだけで終わらなかった。日本敗戦のあと、日本政府はアメリカ軍に沖縄を提供し、沖縄は自主権を持たない、奴隷のような地位におとしめられた。貧乏と屈辱の、悲惨な日々が、戦後のオキナワに展開されたのである。精神病患者と失業率が日本一。高校就学率が最低というみじめな沖縄が、戦前のゆたかな農民ととってかわった。そして、この恐ろしい戦争体験を命からがら生き延びた人は、いまだに夜な夜な、悪夢にうなされ、三十年前の戦争から解放されることはない。彼らにとっては、死ぬまで続く悲惨な、恐ろしい体験であった。
本当に、私は沖縄について、何も知らなかった。振り返ってみると、私は何人かの沖縄出身の人と会っているのだ。でも、一度も彼らの心のルート、“かなしい沖縄”に触れることはなかったのだ。全く無知ほどこわいものはない。今になって、私は恥ずかしく思う。
“太陽の子”の中で、ふうちゃんのおかあさんが“沖縄はかなしいナ”と言う。今こうして、沖縄戦とその戦後の片鱗を垣間見た後、やっと私はナゼ沖縄はかなしいのかわかった。そして、この本のテーマ、“ルート発見”を導く“心の病気”にかかったふうちゃんのお父さんの存在が、今も戦争の傷跡から逃げられない沖縄人の暗い人生を象徴している。
それまで、神戸人として、あかるく、元気に育ってきたふうちゃんが、心の病気になったお父さんを看病し、その快癒を願って原因を探っていくうちに、子供には知らせたくないと隠し秘めていた大人たちから、この“おきなわ亭”につどう人達やおとうさんが、悲惨な体験をし、いまだにそれから抜け出せないという事実を知るようになる。そして、これらの人達が、みな人間として立派なのは、かなしい沖縄を背負って生きているからだと悟る。“生きている人の中に、死んだ人も一緒に生きているから、人間は優しい気持ちをもつことができる。” “ひとの不幸を踏み台にして、幸福になったって、しょうがない。”
この“太陽の子”には、主人公ふうちゃんをはじめ、キヨシ少年、ギッチョンチョン、ギンちゃん、梶山先生、ろくさん、ゴロちゃん、昭吉くん、といった人々が登場し、いきいきとした会話が展開される。暗いテーマであるにもかかわらず、読後感にさわやかさと重み・深みが伴うのは、作者がつくりだした“ふうちゃん”という女の子の魅力と、そのまわりの人々の人間性によるに違いない。
(記 1993年7月20日)村田茂太郎
No comments:
Post a Comment