Translate 翻訳

3/19/2012

“出会い”

 旧い文章です。1985年。

 ラッセルの自伝はある意味でユングの自伝と対照的で、面白いと思いました。ユングは世界の著名な人と沢山会っているけれど、フロイト以外はほとんど印象に残らないというか、ユングの心に影響をあたえなかったということがわかりますが、ラッセルの場合本当に世界を動かしていた著名な人物たち全部と会ったようで、レーニンやトロツキーに関するラッセルの直接の意見が書かれていて、面白いと思いました。あるいは90歳を過ぎて、飛行機事故に遭い、何人かは海で死ぬのに、ラッセルは2時間ほど海に浮かんでいて救われたとか、まあ、運の強い人でした。スキャンダルの多い人ですが、いつも自分の力を発揮したひとで、それだけの優秀な頭脳と行動力に恵まれていたことがわかります。この自伝で一番感動的なのは、最初のミセスがラッセルからの強制離婚後、ラッセルがアメリカに講演に来ると、ひそかに拝聴にでかけたり、彼がSirにあたるEarlの称号を受けたとき、あるいはノーベル賞を受けたときなど、やはりラッセルのことを思って、賞賛の手紙をしたためたりと、なんとなく感動します。ラッセルというひとは、女性との性愛がすきなひとで、最初のミセスに対して、自分はもうあなたを愛していないとはっきり言って、一方的に離婚していくという身勝手な人ですが、これは名門貴族出身の男のエゴかもしれません。親父かおじいさんのラッセル卿というのは、Prime Ministerにもなった人なのです。

村田茂太郎 2012年3月19日

-------------------------------------------------------------
“出会い”
 人は、その限られた人生で、様々なものを求めて生きる。そして、その求めるものは、個人によって異なるだけでなく、時代によっても異なる。一般的には、人間は幸福を求めて生きているといえるのだが、何を幸福と感じるかは人によって異なる。過去に生きた人々の伝記を読んでも、愛を、名誉を、財宝を、知識を、美を、真理探究を、権力を、信仰をと、人それぞれの数に応じた差異があり、一般的にはどの生き方が一番良いなどということは誰も出来ない。心理学者アブラハム・マスロウや精神分析学者カール・ユングの考え方を借りれば、“自己実現”を果たした人が、一番、しあわせに生きたということであろうか。いずれにしろ、そうした“自己”の“内面的欲求”を生涯の終りまで、追い続けるのが人間なのであろう。そして、ある種の領域の徹底した追求が、崇高な美しさを見せるに至る事は、私達が優れた人物の伝記を読んで、つとに感じるところである。

 ノーベル文学賞を受けた哲学者・平和運動家バートランド・ラッセルは晩年に執筆した自叙伝の序文の冒頭で次のように書いている。98歳まで波乱に富んだ人生を生きたラッセルの晩年の反省であるだけに、心の深層からの発想という重みを持っている。

 “単純であって、しかも、圧倒的に強烈な三つの情熱が、私の一生を支配していた。愛への憧れと知識の探求と虐げられた人類に対する耐え難いほどの憐憫とである。これらの情熱は、偉大な風のように、苦悩という深い海の上を、その気まぐれなコースで、私をあちらへ、こちらへと吹きやり、まさに絶望のふちにまで運んだのであった。”
 私はラッセルと思想を異にするが、彼の心情をよく理解でき、やはりエライ人だと思う。男女の愛も真理の探求も人類同胞への友愛も、いずれも真剣に一生かけるだけの価値があり、それら三つに徹底して自己をうちこめたラッセルを、私はしあわせな人間だと心から思う。イギリスの名門貴族の子供として生まれた秀才ラッセルなればこそといえる面がないわけではないが、それぞれの領域に完全にコミットしていくためには、それだけの能力と勇気とが必要であったのは、まちがいないことである。

 ラッセルと違って、何もきわだった能力をもっていない私は、何もしないうちに中年を迎えてしまった。平均寿命70-80歳といわれる今でこそ、40代といえば、まだ人生の半ばにすぎないが、つい最近までは、人生は50年であり、江戸時代でも、40を過ぎれば翁と呼ばれ、隠居する人も多かったし、紫式部などは、40前になくなったに違いないと推定されている。源平の時代でも、藤原俊成のように、90歳まで長生きする人は、たまにはいたが、ふつうは40以上で老年といわれていたのだから、何かをやろうとした人はすべて、それまでにやりとげていた。


 “論語”の中に、私がきいて耳が痛く感じる次のような言葉がある。(巻五、シカン、第九、二十三)
子の曰く、後世、畏るべし。いずくんぞ、来者の今に如かざるを知らんや。四十、五十にして聞こゆることなくんば、これまたおそるるに足らざるのみ。

 先生が言われた。“青年は恐れるべきだ。これからの人が、今の自分に及ばないとどうしてわかるものか。ただし、四十歳、五十歳になっても、評判がたたなければ、それはもう畏れるにたらない。”と。

 これは、いわば、春秋戦国の下克上の時代に生きていた孔子のことばであり、その時代背景の中で語られた言葉であるから、まともに受け取る必要も無いはずなのであるが、やはり、なんとなく気にかかる。一方、マスロウの“自己実現”の言葉が示しているように、その人の能力に応じたところで、全力をだしきり、充実感を味わう事ができれば、それでいい筈だとも思う。
 私もラッセルのように、いろいろと異なった領域・対象に心を魅かれて生きてきた。不幸な情況におかれた人間への憐憫もその一つであり、これに関しては、その瞬間瞬間にいろいろな人と出会い、永別していったが、不思議にいつまでも心に残って消えない。

 去年〔1984年〕の2月の事であった。会社の指示で、IBMへパーソナル・コンピューターのソフト・ウエアー ロータス・123の講習を受けに行った帰り、私は疲れた身体をひきずって、フラワーと六番街の交差点を渡りかけていた。その時、ひとりの男が絶望的な声をふりあげて“助けてくれ!”と叫んでいるのに出会った。交差点を歩行者達が忙しく往来していたが、誰も立ち止まって耳を貸そうともしない。私はロサンジェルスとはいえ、2月の夜、ボロ靴に素足をつっこんだ男が、必死で、助けてくれと叫んでいるのを見ては、立ち留まらざるを得なかった。若い男は、私が聞く姿勢を示すと、早口でしゃべりだした。“自分はアリゾナのナバホ・インディアンで、海軍でロサンジェルスに滞在しているはずの兄を探してやってきた。おやじの具合が悪くて、アリゾナに帰ってもらおうと伝言を言いにきたのだが、兄は二日前に発ってしまって逢えなかった。アリゾナからロサンジェルスへは、クリスチャンの牧師がチケットを買ってくれてやってきたが、ロサンジェルスについてからは、もう丸二日何も食べていない。空腹でどうにもならない。なんとかしてくれ。”というのが、彼のしゃべった内容であった。私は彼の立ち居振る舞いや、その話の切実さから、彼が本当の事を言っているに違いないと悟った。と、同時に、自分は今日はあまり現金を持っていない事を痛切に感じていた。

 道の端につれてゆき、私は財布を出して数えてみた。12ドルとコインしかなかった。話しによると、次の日にサンタモニカで知っている人が働かせてくれるという。私は自分のバス代50セントをとり、もっているあまりのお金12ドルと彼のサンタモニカへのバス代とをすべて彼に与えた。私は、その前の年、サンタバーバラで、これも切羽詰った一人の若い妊婦から“お腹がすいている、誰も助けてくれない、カネをくれ”と頼まれて、2ドルだけだして与えた。この時は、まわりに人がいて、私は女房から文句を言われるのではないかと気にしたため、それだけしか与えなかった。逆に、そのために、私は、自分の思うとおりにやらなかった、かわいそうな事をしたという気持ちで、あとあとまで後悔が残った。それで、このインデイアンの男に対しては、持っていた金が不幸にしてわずかであったけれども、ほとんど全額を与えた。それで私は満足であった。

 その若者は、かわいい表情をして、本当に、おどりあがって喜んでくれた。それだけでも充分価値があったといえる。彼は私が日本人だと知って、白人の事をインデイアン風に非難した。彼の英語にたどたどしさが残っていた事からしても、アリゾナで充分な教育を受けていない事はうかがわれた。彼は自分の名前はアカ・ライトニングシールというと紹介してくれた。アカとは木の下という意味で、自分の母親は、木の下で自分を生んだのだ、ライトニングはカミナリの稲光であり、シールはアザラシのシールだと説明してくれた。私はオフイスに帰らねばならないため、ダウンタウンのレストランは高いから、他を探すようにといい、グッド・ラックを祈って別れた。彼は自分もそれを知っているといい、何度も私に礼を言って去っていった。ロスは自分の住む場所ではないと言いながら。
 今年の3月ごろであったか、朝、出勤して、オフイスのあるビルの前でバスを降り、フィゲロアの交差点を渡ったとき、そこに若い女の子が発っていた。この時も、一緒にバスを降り、交差点を渡ったのは5-6人であった。今度も、その女の子は、カネをくれと叫んでいた。例によって、私は足を留め、朝っぱらから何をしているのかといぶかりながら、女の子の話しを聞いた。彼女はどうやら、よくあるケース、家が面白くないので、都会をめざしてとび出してきたというケースのようであった。私は彼女の愚かさにあきれながら、まだ学生じゃないのかと訊いたところ、自分は子供に見えるけれども、20歳なのだと答えた。彼女は実はカリフォルニアの北部にある両親の家に帰りたいのだが、グレイハウンド・バスのチケットを買うのにお金が少し足りないのだと話した。あまりゆっくりと話し合っている時間も無いので、彼女が3ドルいくら欲しいといったのに対して、5ドル紙幣を出して与え、また、グッド・ラックと言って別れた。

 私は素直に彼女の話を信じ、心からグッド・ラックを祈った。今、アメリカでは、毎年、50-60万人の若者が家出をするといわれ、そのうち10%は本当に行方不明になってしまうといわれている。犯罪都市である大都会ロサンジェルスで、目的もハッキリせずに、ウロチョロしていたら、すぐに凶悪な犯罪者の餌食になるのは見え透いている。私は、愚かな彼女が、自分の愚かさに気づき、ロサンジェルスの現実に失望して、故郷に帰る気になったことを喜び、たった5ドルといえども、そのヘルプをする事ができたことを喜ぶ。
 私はロサンジェルスのダウンタウンでよく見かける、うすぎたないアルコホーリックのスケッドロー(Skid Row)に対しては、何の同情も持っていない。彼らは通行人にダイムやクオーターをせびり、不快感を撒き散らす。彼らのほとんどは何らかの意味で、人生の敗残者であり、私達に危害を加える危険性は無い。それにも拘わらず、不快感を催させるのは、単に彼らが薄汚いだけでなく、彼らの生活に将来への期待も展望も生活設計もないからだ。酒に苦悩をまぎらわして、ますます落ち込んでゆくだけなのである。彼らにコインを与えても、無意味なのは、ただ浪費されるほかないからである。必要なのは何かの職業を与えることであり、自分で何らかの希望を持って働く意欲を起こさせる事である。

 私が持っているわずかの金を与えた三人は、いわば、彼らとは種類を異にする。人はふつう、よほどのことがない限り、通りがかりの人間をつかまえて、カネをくれとはいわない。1セントといえども、自分で働いて、苦労して得たものであり、1セントなくても、バスに乗れなくなるのである。私が出会った三人の叫びは、スケッドローの“ギブ ミー ア ダイム”の声とは異なり、誰もどうもしてくれないという現実認識とその情況の中から生み出された絶望的な救いを呼ぶ声であった。サンタ・バーバラでの妊婦については、私は日記に書きとめ、それをそのまま、旧中学1年2組の国語文集の最後に付け足した。私は、私の人生行路に、ほんの瞬間、まぎれこんできたこれらの人たちが、今、どうしているだろう、無事に、それぞれの目的地に着いたであろうかと、時々、フト、考えてみる。

 人はどのような人生でも自分で選べ、自分で生きたいように生きることが出来る筈である。ただ、どのような人生を択ぶにしても、人は精一杯、自分の努力をつくさなければならない。どのような安易そうな道でも、苦労なしで、達成することはできない。安易な道ばかり択んでいると、人は自然と堕落していく。人間とは、常に、何ものかをめざして努力を続ける存在なのである。道を踏み外した人は、すべて自分の選択でしたわけであり、種を蒔くのも刈るのも、みな自分自身なのである。

 日本の中世に生きた宗教的天才“道元”は、努力と苦労の末に到着した中国本土で、いきなり、ただの配膳係の老僧から、自分の仏教理解を根底からゆるがすような反応を得て、それを生涯の出来事と捉える事ができた。

 人との“出会い”を生かすには、自分の内部に、それだけのものを持っていなければならない。どのような人物との出会いも、自分の在り方次第で、意味のあるものにすることも出来るし、無意味なままで終わらせることも出来る。要するに、自分次第ということであろう。私は、ほんの瞬間にすれ違った、これらの人々との出会いから、ほんの少しの会話をもつ事によって、アメリカ社会の実態の一部を覗き見れたように思う。それは、私の記憶の一部を占めるに至っている。

 さて、アル中のスケッドローと、つい最近、とうとう話しをする機会がもてた。7時過ぎにオフイスを出て、女房がピックアップしてくれるはずの時刻に、バンク・オブ・アメリカの噴水前でクルマを待っていたが、いつまで待ってもクルマがこない。その時、そこをウロチョロしていたスケッドローが話しかけてきた。他の通行人には、ダイムをとかタバコをとかとせびっているのに、私に対してはそんな要求はしないで、親しそうに話しかけてきた。まず自分の名前はジョーと紹介した。私の名前を聞いたが、私は黙っていた。彼は私を日本人と判断し、自分は日本に行ったことがあると喋りだした。私はほとんど相槌をうつだけで、一方的に彼は話した。朝鮮戦争の頃のことであったこと、家内は死んでしまって、現在、このありさまであること、娘達はメキシコ・シティにいることなど。彼は時々、背中のズボンのところに隠したアルコールをがぶ飲みしながら、そして小さな携帯ラジオで音楽を流しながら、喋った。喋りながら、人が通りかかると、ダイムヤタバコを求めに駆け寄った。サンタ・アナにも娘がいるというので、私はメキシコ・シティはどうなっているのだろうと思いながら、聞いていた。そして、彼が充分言い終わってから、職を探すこと、そしてそのためには、少し、身奇麗にすること、今の生活を続けていけば、落ちていくばかりであること、もし、本当にサンタ・アナに結婚した娘がいるのなら、助けを求めるべきであり、娘といえども、父親がアル中の放浪者になっているのを見るのは喜ばないに違いないから、自分で意欲をだして、何かをはじめようとしなければならないこと。そんなことを私はしゃべった。

 彼は非常な美男子であり、身奇麗にすれば、そんなに厭らしい感じも与えないので、何か仕事にありつけそうな感じであった。私と話している間に、彼は泣き出した。そして、自分でも、このままの生活を続けていけば、どんどん転落していくしかない事をジェスチャーをまじえながら、私に示した。私は“あなたは、よくわかっているのだから、どうして、娘を頼って、身奇麗になり、新しく人生を出発しようとしないのか”と言った。彼は、数ヶ月前にはボナベンチュアー・ホテルの上で働いていたと告げた。いわば、スケッドローになって、まだ間がないのだ。それが、彼の、まだ徹底的に汚れていない、どことなく、まともそうな様子を保証していた。

 彼はわたしにダイムをくれとも何も言わなかったけれども、私は彼との話で何かを感じ、1ドルを彼に差し出した。通りがかりのスケッドローであれば、私は素通りをして、何もやらなかったに違いない。たまたま、クルマを待つ間に、彼の話をきいてやったため、私は心ならずも、一人の浮浪者の苦悩に、ほんの少し、たちいってしまったわけである。

 私は昔からきき上手といわれてきた。話しをするのは下手だけれども、人の話をきいているのは、とても楽しい。子供の頃から、落語をラジオできくのは大好きであった。そして、誰でも、何らかの語るに足るものを持っている。私はこの世界が、いろいろ違った種類の人間で満ちている事を好もしく眺める。単純一色の人間ばかりであれば、この世は全く退屈なところに違いない。女房は、わたしがあまりにも不用心なのをきつく批判する。しかし、私は出来るだけ、誰とでもオープンでいたいと思う。
(完              記 1985年7月26日)村田茂太郎

No comments:

Post a Comment