”出会い”という文章とも関係しているので、お恥ずかしいものですが、公開します。
1982-1983とありますから、約30年前の話です。
村田茂太郎 2012年3月19日
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“私の日記から”(抜粋)
1982年11月21日ブロードウエー・デパートで女房が、見て廻っている間、私は“見せられたる魂(1)”(ロマン・ロラン)を読んでいた。小さな女の子が声をかけた。自分の弟の手を握ってやれといっており、私の名前は何だときいたので、シゲとこたえ、彼女の名前をきいたところ、自分はデビー、弟はダニエルだという。弟は手押し車に乗っていて、割と大きいが、まだ1歳に満たない様子。彼女のほうは4つ位に違いないと思い、きいたところ、4歳だとのこと。そのうちに、彼女は、あんたは日本人に見えるけれども“You speak our language.”と、いって不思議に思っている様子。きっと、あまり英語をしゃべらない日本人が、彼女の家の近くにいるに違いない。彼女は、スッキリした顔をした、かわいい子で、とても Friendlyである、別れしなには、早口で、彼女の電話番号を言って、電話してくれ、遊びに来てくれと言った。しばらく行ってから、バイバイをやっていたが、また戻ってきて、サイン Language のつもりか、これが ハローのサインだと示してから、今度は本当に立ち去った。ハキハキしていて、かわいい子であった。子供が家の中にいると、全く家の中の様子も、自分の生き方も違ってくるだろう。余裕があればAdoptしたい位だが。この子は、どういう風に育てられてきたのだろう。はじめて会う人に、とても親しく話しかけるというのは、ある意味では、特に Child Molester(児童・性犯罪者)の多いこの国では危険であるが、家であまりかまってもらえないから(特にこの場合、弟が生まれているわけだし)なのだろうか。母親は私と娘を見てニコッとしていたが。
1982年11月25日 サンタ・バーバラ
スタンドで7UPなど飲んで、クルマに帰ってきたとき、一人の若い妊婦が私に寄ってきて、お金をくれないか、お腹がすいているのだと言ってきたので、私は少しとまどい、彼女を見つめて、“Don’t
you have anyone to help you?” と訊ねたところ、自分はヒッチしてここまで来て、誰もいないのだと言った。私はその要求があまりにも直截的なものであったので、彼女は本当にお金を持っていず、お腹をすかしているのだと判断し、2ドルだけ財布からとりだして与えた。それだけでは、どうなるものでもないが、少なくとも2ドルあれば、何かを食べる事はできる。彼女は感謝し、私は”Good Luck!”と言って別れた。パーク場を出るとき、私達が飲んだスタンドの方に向かって道路を横切ろうとしているのが見えた。なんだか、わびしい状況であった。どうしたことだろう。理由も何もわからず、飢えて妊娠した女が一人、ヒッチしながらどこかへ行こうとしていたわけだ。今、アメリカは失業も多く、(10%以上)、どのようなことでも起こりうるようだ。女が一人で妊娠していること自体ふつうの出来事であり、とりあげて言う事はないが、金も持たず、仕事も無く、頼れる人も居ず、妊娠しているということは、あわれである。金だけやって解決する問題ではなく、私はまさに瞬間の飢えを防いだにすぎない。 (記 1982年)
日記・書簡について
前に掲げたのは、去年〔1982年〕の11月の私の日記の一部である。づロードウエーで出会った女の子の事を書いた文章を見ていて、それ以来すっかり忘れていた、あのときの記憶が鮮やかに蘇ってきた。サンタ・バーバラで出会った妊婦に関しては、その後も私はいろいろと考え、悩み、反省した。それは、ともかく、私はこの日記によって、自分の過去の一部をあざやかによみがえらせる方法を手に入れているわけだ。日記をつけるメリットについては、いろいろの人が書いている。私は、前にも書いたように、大学時代には、時には3時間ほどかけて、大学ノートに5-6枚書き続けたこともある。いろいろ考えた事を書いていくと、いつのまにかそれだけのボリュームになってしまったのだ。最近では、毎日書く日もあれば、一ヶ月くらい書かない日もある。本当は書きたいし、書いておかないといけない様々の出来事が起きているのだが、毎日疲れて、落ち着いて書く余裕の無いことが多い。しかし、やはり、一日に一回、ゆっくりとその日の出来事を想い起こし、記録をとるだけの余裕はもちたいものだ。私は、今、様々な人の書き記した日記や書簡に興味を持ち、日本語でも英語でも、見つけ次第、買い集めている。最近、私は25ドルだして、英訳の“トーマス・マンの日記(1918-1939)”というものを買った。トーマス・マンは、今世紀で、私が尊敬し愛読している最大の作家である。以前、やはり、英訳でマンの書簡集が出たとき、私は20ドル程を思いきって買えなくて、そのままになってしまい、今では、どこに行っても見つからない。今回は本屋で見つけるなり、とびつくようにして買い求めた。そして、やはり、買って良かったと思った。小説や評論を読んだだけでは味わえないトーマス・マンという人間の意外な繊細さや精神の緊張を、日記の行間に発見する事ができた。たとえば、ある朝〔1918年10月4日〕、朝食のテーブルの上に、兄ハインリッヒの筆跡の手紙を見つけ、マンは思わず緊張で胸が高鳴り、不安が横切った。しかし、それは誰かへの支払いのためのサインを要求したものにすぎなかった、という記録があるのを見て、私はこの偉大なトーマス・マン(ノーベル文学賞受賞)が、兄をものすごく意識していたという事を知って、思わず、大発見をしたような微笑をうかべてしまう。“魔の山”を読むと、余裕たっぷりで、とてもそんな一面を見出せないからである。
以上は一例に過ぎないが、日記や書簡は、それ自体、優れた文学でありうるわけで、日本でもヨーロッパでも、昔から、一つの文学の領域として尊敬されてきたし、傑作も書かれ、発表されてきた。日本でも、優れた日記文学の伝統があり、西洋でも同様である。手紙の場合、よほど信頼して心が許せる相手でないと、思った事を率直に書けないし、どうしても返事をくれる相手が必要である。その点、日記は自分との対話であり、率直に、自由に、感情を吐露できる場である。従って、いい加減に書き流すのではなく、その日その時の自分のすべてを投げ込んだような日記を書き続けたい。そうなれば、それが、私自身の生み出した最高のものとなるだろう。
(記 1983年〕村田茂太郎
(記 1983年〕村田茂太郎
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