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3/25/2012

“英才教育に関する留意点”

 

 “英才教育論ー序説”をここに紹介しないで、その補足として書いた文章をこうしてご覧に入れるのもおかしなものですが、それには理由があります。
わたしが何かを引用するときは、サン・テクジュペリの”人間の土地”とかとちゃんと典拠を書いているのですが、この英才教育論の作品データともいえる本の題名も著者も今ではわからなく、探すと時間がかかりそうです。学術論文と違って、小中高の生徒を対象に何か書いているときは、引用文献とか参考文献などというこまごました注釈は不要というか、子供たちにはわずらわしいので、そのときに書き留めていないために、一般向けに提示しようと思うと、こういう事態になるわけです。数学者がたくさんあげられれているので、英語と日本語の数学者の伝記とかを利用したと思われます。まあ、もしかして、最後にこのブログに提示する事になるかもしれません。

 私の結論は、過去の天才の”発現”には、”天才の発見”と”教育”があったということでしたが、今から考えると、それは Richard Feynman がでるまでで、ファインマン からは、天才は自力で天才を発揮できる環境が今では出来上がっていると思われます。ファインマンの自伝”Surely, you are joking, Mr. Feynman.”を読んだ感想です。

村田茂太郎 2012年3月25日

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“英才教育に関する留意点”      

 丁度、2年前、私は生徒の一人の要望に応えて、“英才教育論ー序説”という文章を書いた。その中で、私は例をあげながら、才能の“発現”に果たす“指導者の役割”の重要さを指摘しておいた。史上のどのような天才にも、必ず、天才の“発見”があり、天才“教育”が実行されたのである。

 ここで、誤解を避けるために言っておかねばならない。英才教育とは人類誰もが受けるべき教育ということではない。人間にはそれぞれ異なった性格があり、異なった才能がある。日本ではどちらかというと、人間の価値を知能面で過大評価するという偏向がある。ところが、人間とは頭脳だけで出来ている存在ではない。人間的に偉大な人というのは、何も頭のいい人とは限らない。人はそれぞれ異なった才能と素質をもっているわけであり、大切な事は、そのような才能や素質を充分に発揮する機会をつくるということである。従って、何が何でも英才教育というのはまちがっており、子供をよく観察した結果、余裕がありすぎるほどだとか、もっと伸びそうだとか、何か特別な能力を示した限りにおいて、英才教育を試みるべきである。

 では、なぜ、英才教育が必要なのかというと、人間の才能には発芽する時期とか、成長する時期とかがある。たとえば、芸術とか数学とか歴史学とかは、青少年期で最高潮に達するといわれたりする。30歳、40歳、50歳になってからの業績というのは、10代、20代い見出した成果に肉付けを施したものにすぎなく、仕事の目途はそうした青年期についていなければならないという。従って、適当な時期に伸びるべき才能を伸ばすためには、特別の教育が必要ということになる。音楽や美術の領域では、比較的早期発見が行われやすく、いい指導者も見つけやすいが、普通の教化に関しては、そういう風にはいかない。そこに、よき指導者の存在の重要性がある。隠れた才能を引き出したり、既にあらわれている才能を発見したりすることと、それを方法的に伸ばす事が英才教育の役割であるといえる。まず、才能が発現するような指導をする事が大切であり、見つけた才能は組織的・方法的に進展させる処置をとらねばならない。

 その際、家庭教師の果たしうる役割は重大であるといえる。家庭教師が必要な場合として、通常二つのケースが考えられる。一つは何らかの理由で、子供が学校の授業を充分こなせなくて、援助を必要とする場合。これは、日本でふつう家庭教師をつける主な理由である。第二のケースとして、学校の内容は充分マスターして、時間ももてあましている、なんとか、先に進めたいという場合で、ここに、家庭教師が英才教育の指導者としてあらわれてくる。

 ここで、重要な事は、指導者は、子供の“余裕”を見つめながら、そして、他の分野や能力との“バランス”をとりながら、“方法的”に、指導しなければならないということである。

 指導者は子供の理解を確かめながら、子供の興味・関心を高めるように努力し、子供が自主的に自分の才能を発見していく指導をしなければならない。教科に関しても、広い視野、深い知識を踏まえて、総合的な関連のもとに内容を深めていく方向をとるべきであって、“ただそれだけ”といった指導はバランスを失いやすく望ましくないであろう。数学指導に限らず、漢文や古文も、出来れば小学高学年から、やれるようならやったほうがよいはずである。私達はすでに7歳や8歳でかなり漢文力をつけていた森鴎外や高群逸枝がいたという事を知っている。また、政治学や経済学や哲学のような学問でさえ、指導者次第で小中学生にも理解できるよう指導可能という事は、ジョン・スチュアート・ミルに対する父親のすばらしい教育法によって私達に示されている。

 結局、小中学生は時間をもてあまして、バカ気たマンガで貴重な時間を浪費していく傾向があるが、新しい知識はマンガ以上に面白く楽しいものであり、エネルギーをもてあましている子供達がいたら、当然、何らかの手段を施さねばならない。その時、中学とか高校とかとは関係なく、たとえ中学生であっても、段階を踏みながら、高校の内容にまで至っても構わないわけで、基礎から理解している限り、何処まで行ってもよいのである。学問とは、自分で探求していけば、まさに高級な遊びと言ってもいいもので、深まるにつれ、ますます面白くなるものだ。

 方法的とは、単に、教科書に沿ってすすめるのではなく、関連をもとに、扱っている課題を多角的に検討し、深めていくやり方で、たとえば、連立方程式の解法としての行列式的発想を中学生に指導するとか、蘇軾の“赤壁の賦”から、論語・荘子・三国志・竹林の七賢・李白・杜甫に発展的深化を求める方向を言う。

 もっとも、この行列式による連立方程式の解法は、私は実際、中学2年生の連立方程式の時間に、私が解説を書いた紙を配って、黒板で説明したが、誰も興味を示さず、誰も理解しなかったようだ。私の解説は要領よく要点をまとめていて、バカでもなければ、何も知らない子供でも理解できるようなものであったが、本人達がヤル気を出していないときは、何をしてもダメという一つの証明のような結果となった。これが、家庭教師として2―3人に説明していたら、誰もスグに理解し、行列といった考え方に興味を持ったはずであって、この辺に、すぐれた家庭教師の価値があるはずである。

 私は大学時代、家庭教師をしたり(中学生、高校生)、友人と神社の一隅を借りて、中学学習塾をやったりしたが、今から考えると、あの頃は、ただ教科書の説明を行うだけといえるようなやり方で、あまり方法的な自覚が足りなかったと思う。

 家庭教師とか教職とかは、やり甲斐のある仕事で、自分の指導次第で、どのようにでもなるのである。これは、考えれば、責任重大で恐ろしい事であるが、少なくとも、その事を自覚して取り組んでいる限りは問題が無い。

 私は、猫も杓子も大学へという考え方には賛成できない。高校卒でも中学卒でも良いと思う。それぞれ自分の才能を生かした道を歩める事が、その人にとって最高の生き方なのであり、無理して他人のマネをする必要は無い。みんな、もっと、個性と自信を持って、自覚した生き方をすべきである。勉強の好きな人、あるいは、本当に物事を深く追求し、調査するのが好きな人は、積極的に勉強して、ドクター(博士)にでも何にでもなるべきであり、好きでもない人が、まわりにせめられてというのは邪道である。

 英才教育は、誰にでも適したものではなく、本当に学問の好きな人や探求心・好奇心が旺盛で、時間的にも能力的にも余裕のある人に対して、適応されるべきものである。指導と才能がうまく結合したときには、丁度、アーベルとホルンボエ、ガロアとリシャール、ミル親子といった、天才群が構成されることも可能といえる。

 つまり、学習は、集中・反復・持続によって、構成され、意欲がそれをささえ、好奇心・探求心がその根本を占める。良き家庭教師、良き指導者とは、探求心を助長して、自主性を高め、効率的な学習指導を行うことによって潜在的な才能を発芽させ、伸長させる人であり、英才教育とはまさにそのことを指すのである。
(完                     記 1986年2月18日)村田茂太郎

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