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3/28/2012

倫理社会を担当して


これは、今から思うと、恥ずかしくなるような話です。
全然能力も無いのに、教科書をつかわないで倫理哲学を高校生に指導しようとした話で、まったく、恥知らずもいいところです。ただ、わたしは日本の大学の一般教養の哲学入門で、こういうプログラムでやってもらえれば、もっと楽しかったと、過去の自分の不満をふりかえりながら、希望を披露したといえます。

ともかく、わたしは知識だけの歴史教育、哲学史教育などに対する嫌悪感を持ち続けたようです。

村田茂太郎 2012年3月28日

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倫理社会を担当して

 日本での高校倫理社会の授業がどのようなものであるか、私は知らない。しかし、もちろん、大学受験を意識していれば、教師は当然、ギリシャに始まる哲学の歴史を説いていくしか道はないといえる。幸いにも、ここ、あさひ学園は補習校である。ただの知識をつめこむ形の指導などやりたくないと思っていた私は、たまたま、私の専門といえる哲学を生かせる仕事が与えられたことを知り、限りない喜びを感じている。

たまたま、教科書が手にはいらなかったことも手伝って、私はこの倫理社会の時間を、私の考える方法で、私のやりたいようにやっていく事にした。内容の伴わない知識、実体の無い精神をいくらふくらましても意味が無いので、私は単純に歴史的発展を追う方法ではなく、私が出会ってきた問題や現実の中で出会う問題をとりあげ、それを少し哲学的・心理学的・科学的に突っ込むという形でやって行きたいと考えた。現実の中から問題を取り上げ、それを分析し、何らかの結論に導くのが方法的にも正しく、個人にとっても興味を持って取り組んでいけるものである。

そして、この三、四年の間に、私が教えていた中・高生を対象に書いた文章の多くが、どれもその時点で、真剣に書いたものなので、内容的にもそのまま倫理教材として使えることが分かり、それらを使うことから、私の倫理学講義を始める事にした。中学生用に書いた文章といえども、わかりやすく書く努力はしたが、ヘンに子供っぽい表現を使っていないので、そのまま高校生にも大学生にも仕えるわけである。

私自身の特異な体験を反省し、考察した文章が多く、少なくとも私にとっては真実であったという経験的な強みが、これらの文章を支えているといえる。今、それらを読み返しても、やはり、単なる知識だけを展開した文章は、私にとってはつまらなく思えるのに対し、自分の体験を内省した文章は、少なくとも私にとって、読むに耐えるように思える。

単純に、指導書に頼って、教科書を順番にたどっていく授業と違い、次の週に何を展開しようかと考え、様々な書物を読み返す仕事は、実は私にとって大変な負担となっている。しかし、それなりに、私の野心の実現をめざして、生き甲斐を感じるほどになっているのも事実である。私の野心とは、この倫理講義で、生徒諸君に、倫理学や哲学への関心を高め、現実に真剣に対決し、同時に、冷静に分析し、対処していく姿勢を目覚めさせること、つまり、私の授業から、単なる知識の集積ではなくて、哲学する態度を身に付けてもらいたく、私がある意味では失敗した人生の教訓を、生徒諸君に間違いなく生かしてもらいたいことである。

今のところは、私は既に身に付けていた事柄を要約したりしているので、どう展開するかに頭を悩ますことはあっても、素材を探す苦労はしなくてもよかったが、この機会は、ある意味では、私自身を刺激する最善の機会でもあり、私は、今また、新たな意欲に燃えて、哲学をはじめとする諸領域への関心を目ざまされ、いろいろな書物を読み始める事にした。

したがって、いくら時間があっても足りないくらいに、私は忙しい。しかし、この一年、何とか頑張って、生徒諸君の心に、この一年の授業が、一生鮮やかに残るほどにしたいと思う。来年も高等部にいるかどうかわからないので、私にとっては唯一のチャンスと考え、いいものを生み残したいと思う。

私にとって、この倫理社会は、非常な喜びであり、楽しみである。これは、たまたま、選択なので、本当に興味のある人だけにとってもらいたいと思う。本当に集中して、聞いてくれる人が二、三人でもいれば、それで私は満足である。興味が無い人は、無理をして聞くことも無いわけで、今かでもよいから、本当に自分の関心のある科目を選択するようにしてほしい。

一番最初の授業は、私の苦い体験をも反省した“癌と人生”という文章から始めた。以下、一応、今までやってきたこと、ならびに、今後のこの一年の予定を書いておく。

私の文章                      授業で展開しようとしたこと。

1.癌と人生                  自分の人生を自分で責任をもって生きるということ

2.絶望と人生              絶望が生まれる情況。主体性、コミットメント、宮本武蔵 独行道、 小林秀雄

  人との出会い         魂のふれあい、真剣さ、ガンジーの場合、プラトンの場合

3.学習と意欲              ソクラテスの“無知の知”「汝自身を知れ」、自覚の根本原理、徳と知

                                                            好奇心、アリストテレス、ヘーゲル、内的必然性、ラッセルの三つの情熱(知、愛、社会改革)

4.探偵小説の読み方               あらゆる学問の基礎としての哲学。土台、倫理的基盤、方法と自覚。マルクスの人間主義、“人間にとって根本のもの、それは人間そのもの”探偵小説と方法の問題、エドガー・ポーの方法意識、武谷三段階論とニュートン力学の形成について。

5.授業の在り方         “知識”ではなく、“哲学する態度、姿勢、方法”を学ぶこと。私の倫理学講義への姿勢。現実と自分とのかかわりの中から重要な課題を掴む。

  ファインマンの回想録 リチャード・ファインマンについて。“ホンモノ”ということ。真剣さ、誠実さ。

6.ユングの自伝         人間と意識、無意識。フロイトとユング。アドラー。

7.夢の意味                  自己実現と個性化、人間の全体像、ハートで考えるインディアン。コンプレックス、始原型。夢とシンボル、危機のメッセンジャー。レムの発見。

8.交友                           マルチン・ブーバーの”我と汝“。人間的存在の全体化を生む”我と汝“の関係。友情、愛、教育、管鮑の交わり、ユング自伝の毒殺者、自我と無償の愛、山本周五郎

9.ビルマの竪琴         絶対認識者の孤独、アルベール・カミュ“ペスト”とランベール。意識化。無知と罪悪。

10.遊びと人間         ホイジンガー、カイヨワ。人間の根源的な衝動としての遊び。遊びの分類、動機。文化と遊び、偶然性。

   ロタリー

   凧                           生活の中の遊び



以下にあげるのは、今後の予定である。もう一度、しっかりと読み返したり、考え直したりしないといけないものも沢山あるので、どのような順になるかは未定である。また、これらは皆、予定であって、この一年でカバーできるかどうかも確かでない。まじめに取り上げれば、どれ一つとっても、一年に値する内容なのだから。

方法の問題(弁証法、プラトン、ヘーゲル、マルクス)

自殺論

スターリン主義とトロツキー(政治と人間)、現代をよく理解するために。

起原論(宇宙の生成から人類社会へ)

パラサイコロジー(心霊現象の科学)の現段階

現存在分析

英才教育論(ミルの方法)

禅と宗教

現象学

ハイデッガーの存在論

サルトルの実存主義

レヴィ・ストロースと構造主義

ウエーバーとエートスの理論

メルロー・ポンティの身体論

マルクスの人間論

神話学

暗殺の哲学

アブラハム・マスローと欲求・動機論

歴史の意味

文学と人間

言語と思考

その他、性、暴力論、ルッソー、小林秀雄なども、時間があれば取り上げたいと思う。

いずれにしても、このような形の展開を行う予定だから、この一年が終わった後でも、生徒諸君の倫理の歴史に関する知識は、たいして増えてはいないであろう。受験勉強でもするつもりの人は、適当な本を探して、自分で勉強してもらいたい。私がやろうとすることは、知識を与えることでもなく、自分でよくわかりもしないのに名前だけは何でも知っているという、へんな知識人を育てることでもない。

今後の人生を、“自分の”人生を生きるうえで、確かに何か役に立ち、参考になることを学んだと諸君が言ってくれるような、授業を、たとえ一年でも、私は真剣に努力して生み出したいということ、それだけが私の切なる望みである。

正直言って、どのような結果になるか、自分でも見当がつかない。いつも私は、自分の信念に忠実に、自分がやりたいと思うようにやってきた。したがって、この何年かのあさひ学園での教育生活をふりかえってみても、私は自分でも、よくやったと自信をもって振り返ることが出来る。

今回も幸いにして、私一人が、倫理社会の担当であり、私自身の解釈で、補習校の独自性を生かし、本当に内容のある倫理学講義にしたいと思い、その通りにやっていけるようなので、あとは、いかに私が真剣に努力し、勉強して、私自身の内容理解を高めるかにかかっている。

既に、何人かの諸君は、この私の授業を楽しみにし、真剣に受け止めてくれているので、私は自分でも心強く思い、とてもうれしく、いよいよしっかりとやらねばと決心をかためるばかりである。そして、もし、来年も高等部にいるようなことになれば、今度は、倫理IIを作って、少し、デカルトやプラトンやニーチェやマルクスを深く講読するような授業を持ちたいと思う。

Iで現実から入門し、IIで歴史的に検討するという形をとれば、高校倫理としてはかなり理想的なものになる。たとえば、デカルトの“方法序説”は、何も知らない人が聞けば、むずかしそうであるが、これはすぐれた自伝ともいえ、いろいろ学ぶことが出来る。私としては、ともかく、聞く耳を持った人だけを相手にしたいと願う。その対象が何であれ。

(記   1987年6月1日)

今、2010年12月、読むと、気恥ずかしく感じる予定表である。わたしが実際として、どれだけのものが出来たのか、今では、記憶もハッキリせず、何かやったという自信もない。弁証法などをとりあげたのは覚えているが。これは、わたしが、こういうものをやれればよいなという、自分の希望を述べただけだったのかもしれない。私には勉強不足で扱いかねた予定表となっている。教え子が、のちになって、この倫理だけを楽しみに、1時間以上のドライブをして、あさひ学園にきたといってくれたが、そのわりには頼りない話で、多分、大学での一般教養での哲学は、こういう具合に展開してほしかったという私の希望を、自分のスケジュールとして並べたものであったのだろう。いくつかは、即、展開できるものであったが、多くは、必死に準備勉強をしなければならなかったはずで、まあ、能力不足を露呈したような授業であったに違いないと思う。しかし、やはり、わたしはただ、歴史上の人名を整理しながら、知識として教える方法は、今もとりたくないと思う。わたしは、たとえば、プラトンの洞窟の比喩、とかデカルトの夢、とかそういったものから、哲学に入るアプローチをとりたいと思う。

(おわり)2010年12月13日   村田茂太郎

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